幸せをもう少しだけ……:2


「じゃあ、僕はもう帰りますね」
 郭嘉が帰る準備を始めたが、傍で様子を窺っていた夏候惇に振り向き、
「そういえば……」
 と、郭嘉が帰る準備をする手を止めながら口を開いた。
「何だ?」
「夏候惇さん、昼間いなかったみたいですけど、どこに行っていたんですか?」
「え…… あ、いや……」
 関羽は今、曹操の部屋で眠っている。郭嘉はそれも知らずに、関羽が待っているだろう屋敷に戻ろうとしている。その屋敷に関羽がいないことに気づけば、この男はどのような行動を起こすのだろうか?
 そう思い、返事をどうするか困っていると、曹操軍の兵士の一人が郭嘉に曹操が呼んでいるという言葉を伝えてきた。
「曹操さまが、僕に? 一体何の用事だろ?」
 郭嘉が首を傾げながら夏候惇に視線を向ける。しかし、昼間の出来事を夏候惇の口から吐き出すことはできない。恐らくこの後、曹操自らが郭嘉に関羽のことを伝えるのだろうから――。
「さあ…… 何だろうな?」
 夏候惇はできるだけ自然な態度を出しながら、郭嘉を曹操の許へと送り出した――。


「曹操さま、郭嘉です」
「…… 入れ」
 郭嘉が扉を開けて部屋に足を踏み入れると、椅子にどっしりと構えながら腰を下ろしている曹操の姿が郭嘉の視界に飛び込んできた。
 曹操の部屋には幾度も足を踏み入れたことがある。それなのに今日、郭嘉の身体の感覚は異様な雰囲気を感じ取った。
 曹操はよく香を焚く。その香りが今日はやけに強い。いや、香の香りが異様なのではない。
 二人きりの部屋のはずなのに、誰かがいるような――
 郭嘉が視線をゆっくりと部屋の中に漂わせる。
 いつもと同じ曹操の部屋なのに、どこかが違う――
「どうしたのだ?」
 郭嘉のいつもとは違う姿を面白そうな表情を浮かべながら尋ねる曹操。曹操の声掛けに、郭嘉は部屋の中を彷徨わせていた視線を曹操に戻した。
「いいえ、何もないですよ―。 ところで曹操さま、何か御用ですか?」
 普段通りの軽さのある声音で答える郭嘉。しかし、心の中では言いようもない不安が湧き起こっていた。それは、目の前の曹操の意味ありげな笑みを見てからだ。
 鳥丸討伐の時に、村を殲滅させなかったから叱られるのかな?
 と、曹操に呼ばれた理由を一つ、思い出した時、郭嘉はある一点に視線が止まった。
 曹操の部屋に設置されている天蓋付きの寝台。そこに添えつけられている垂れ幕は普段から天蓋を支える柱に括り付けられてある。それなのに今、その垂れ幕は隙間ひとつなく閉め切られていて、そこに誰かがいる気配を感じたのだ。
 郭嘉の視線がそこから再び曹操に向けられる。と、郭嘉が何かに気づいたのを知った曹操が顔の中に浮かべていた笑みを濃くさせながら、椅子から立ち上がると、郭嘉が違和感を感じた寝台の方へと足を進めた。
「なあ、郭嘉……」
 閉め切っている垂れ幕の一部を手に取った曹操が郭嘉に顔を向けると、郭嘉は返事をしないまま曹操の顔を見つめ返した。家臣である郭嘉から返事はないものの、曹操は一向に気を悪くしない。寧ろ、最近の曹操はいつも不機嫌であった為に、今思うのは、異様に機嫌がいいようだ。
「お前は夏候惇や夏侯淵と同じく、十三支を嫌悪していたな」
「そうですね…… はっきりと言えば大嫌いです」
「そうか……」
 郭嘉から自分が放った質問の答えを聞いた曹操が暫く口を噤む。
 今、ここでいきなり十三支の話が出てきたことに、郭嘉の心の中は更なる不安が湧き起こった。
 あの垂れ幕の向こう側にいるのは――
 郭嘉の脳裏に、一人の女の姿が浮かび上がる。
 自分の姉に仕立て上げた、関羽――
 彼女がそこにいる――
 曹操はその垂れ幕をなかなか開けようとはせず、言葉を続けた。
「お前は言っていたな? 弱い者は生き残ってはならないと、強くない者は存在する価値などないと……」
「ええ、その通りです…… 弱い者が生き残る奇跡なんて起きちゃいけないんです」
 郭嘉の言葉を聞いた曹操の両目が細められる。
「ほう…… では、十三支の女はどうであった? 弱かったから殺したのだろう? そういえば、私は昼間、お前の家に立ち寄ったのだが、弱き者は死ななくてはならないというお前のその言葉がどうも腑に落ちない状況に出くわした」
 郭嘉の両足が震えを起こしそうになる。それを止める為に、必死で足裏を床の上に密着させた。
「十三支の女は…… 関羽は、強かったか?」
「そうですねぇ…… 拷問をした時はなかなか死にませんでしたけどね」
 香の強い香りが郭嘉の思考を混乱させようとするが、唇を強く噛み締めて耐えていると、
「少し、話をしようか……」
 と、曹操が寝台の垂れ幕に背を向けて郭嘉に向き合った。
 見るからに敵わないと感じさせる曹操の立ち姿に心が恐怖を成し、郭嘉の足が一歩後ろに下がる。
「お前はあの時から鳥丸討伐に向かったからな。こちらで何が起こっていたのか、詳しくは把握していなかっただろう。賈栩を引き連れて新野城を攻めた時、あの諸葛亮の策にかかった。まあ、城は手に入れることができたが、私が新野城に赴いた時、十三支と新野の人間たちはまだいたのだ。城の裏手の川から船に乗って逃げる途中であった。その時に、新野の人間たちはまだ十三支に対して半信半疑であった。その船乗り場で少しのいざこざがあったのだ。城にまだ子どもが残っているという内容の揉め事だったのだが、あの十三支の女が子どもを二人、無事に連れだして姿を現した。その時に人間たちにこう言った。己は人間と猫族の混血だと…… そう、猫族の瞳は金色だが、あの十三支の女は確かに違った。濡れ羽色…… と表現した方がいいか…… 人間に少しでも信じて欲しいが為に必死に声を張っていたが、表情は泣きそうであった。私もあの十三支の女のどこかに猫族との違和感を少し感じていた。共にいるのに浮いたような存在、とでもいうべきか。あの時に私は、十三支の女が猫族の中にいても違和感を感じていたのか分かったのだ。人間と猫族の間に子は生まれないはずなのに、その混血はいた。その混血は人間よりも猫族よりも強い……」
 そこまで話した曹操が郭嘉に笑みを投げかける。
「私がどうして、このような話をするのか不思議か?」
 曹操が関羽の戦力を欲していたのは郭嘉も知っていた。だから、自分の支配下に置いて手放そうとはしなかったのだ。人間たちに何を言われようとも――
 曹操は垂れ幕の握る手に力を入れると、その箇所に深い皺が影を多く作り上げる。
「私は賈栩と張遼にこう伝えた。十三支の奴らは皆殺しにしても構わない。ただし、十三支の女だけは生け捕りにして捕えろと…… この世にたった二人の混血…… 同じ血が二人を呼び合うのだ」
「ふ、二人……?」
 関羽が混血であることは理解した郭嘉ではあったが、曹操の口からは二人という言葉が紡がれ、関羽以外にもその混血がいるのだろうかと疑問に思った後、曹操が関羽を執拗に欲していたことを思い出した。
 郭嘉の足が再び後退を起こす。
「ま、まさか…… 曹操さまが…… 十三支……?」
 人間だと信じて疑わなかった郭嘉にとって、曹操が十三支であるという事実は驚愕ものであった。
 恐らく、郭嘉は普段なら滅多に見せないような表情を顔の中に浮かばせていたのだろう。郭嘉の顔を見つめていた曹操がさも面白いというような、曹操にしては珍しく声を立てて笑う。
「ふっ、ふはははっ! あはははっ! お前の今の顔は、俺の父親に関羽を見せた時と同じだ!」
「み、耳は……?」
 曹操の姿を見て、当然ながらの質問をする郭嘉。その声音は異様な震えを起こしていた。
 曹操が十三支だと知って驚いたのもある。しかし、普段の郭嘉ならば、十三支だと分かれば嫌悪感が心の中に表れ、蔑みの言葉を放っていたのに、今はそのような気持ちにもならない。何故ならば、曹操も関羽も人間と猫の混血であるのに、人間よりも猫族よりも強い力を持ち、家臣や仲間たちに慕われるという、双方も恐らく自身の中に欲しいと願うものを持ち得ているからである。
「耳は我が覇道に妨げになるからな。自ら切り落とした…… お前もそうであろう、郭嘉…… 己の姉とするにはあの耳は不必要だと思ったからこそ、切り落としたのであろう? しかし……」
 曹操は垂れ幕を握っていた手を素早く動かして開く。と、寝台の上には横たわる関羽の姿があった。瞳を閉じたままで動かない関羽の身体を凝視する郭嘉。胸の辺りに視線を止めて暫く見つめていると、その箇所に小さな上下運動が見ることができた。
 郭嘉の行動をずっと見ていたのか、
「…… 我が同胞を殺すことはせん」
 曹操は郭嘉にそう伝えた後、寝台の上に腰を下ろして、未だに意識を失っている関羽の身体を軽々と抱き上げた。
「関羽は私のものだ。郭嘉、お前の念願だった姉になったのだろうが、この娘は生まれた時からこの私と共に生きる運命にあったのだ。それに、この耳…… 私はこの娘の耳が気に入っていたのだがな……」
 今まで人や物に執着するということがなかった郭嘉ではあったが、関羽を抱いている曹操の姿を見た瞬間、郭嘉の胸の奥に鈍痛が生じる。
 弱者は強者の前で倒れなければならない。今、この部屋の中で一番の弱者は郭嘉だ。郭嘉が曹操よりも強ければ、関羽を取り返すことだってできるのに、自分の力の限度を理解している郭嘉には、関羽を取り戻すことさえもできなかった。ただ、
「姉、…… この女は音が拾いにくくなっていて、戦うことは到底無理ですよ」
 曹操が再び関羽を前線に立たせようとしていると勘違いをした郭嘉が初めて、関羽を守る言葉を放つ。こうでも言えば、役に立たない関羽に絶望した曹操が手放すかと考えたのだ。しかし、曹操は不敵な笑みを浮かべると、意識のない関羽の額に唇を触れさせた。
 郭嘉の胸の中に鋭い痛みが走る。それと同時に、ごくりと息を呑んだ。
「関羽は戦に出さぬ。この娘は私と同様、人間と猫族の混血。この大陸のどこを探しても我ら二人のような混血は存在せぬだろう。人間と猫族の間に子は成せないと言われているからな。それが、どうだ? このようにして二つの種族の混血は存在している。貴重な子の娘。我が城の奥深くで同胞であるこの私に守られながら暮らすのだ」
 曹操が郭嘉の質問に対して否定の答えを投げかけた時、曹操の腕の中で意識を失っていた関羽の瞼が小刻みに動き始めた。
 関羽の瞼がゆっくりと上がり、濁りのない濡れ羽色の瞳が曹操を捕えた瞬間、大きな見開きを起こした。
「関羽よ、目覚めたか」
「そ、曹操……!」
 関羽のその一言で、郭嘉の表情が強張る。
 関羽が記憶を取り戻している――
 いつから――?
 愛していた趙雲のことも――
 彼女の耳を切り落としたことも――
 全部、全部――
 思い出しているのか――!?
 曹操の腕の束縛から逃れようと、関羽が全身で足掻く。しかし、曹操の力に敵うわけはなく、関羽の両手が曹操の片手によって捕えられ、捻られながら後ろへと回された。
 痛みに耐える関羽の耳があった個所に、曹操が唇を近寄せる。
「この私から逃げようとするのならば、その足を切り落とす。私に歯向かうのならば、その腕も切り落とす。敵意に満ちた目で私を見るなら、その目を潰す。私を拒否する言葉を発するのならその喉を潰してやる。その時には、お前が大切な弟のように接してきた郭嘉も同様の仕置きをするつもりだ」
 関羽の両腕を捻っている片手に力を込めながら囁く。その囁きの言葉は、郭嘉の内耳にも流れ込んでいた。そして、その後の関羽の言葉も――
「わ、私があなたに逆らわなければ…… 大人しくしていれば、郭嘉に酷いことをしないのね?」
「そうだ……」
 関羽が郭嘉の方に視線を投じてきた。自分の表情がどうなっているのかは分かるわけがない。しかし、郭嘉は自分の顔の中に恐怖の色をありありと見せていたのだと理解する。そのような表情をしている者を見て、放っておける関羽ではないのだ。
「わ、分かったわ…… 私はあなたに逆らうことはしない…… 大人しくこの城に留まるわ……」
 こう言えば、関羽がどのような答えを返してくるか、曹操は既に分かっていたのだ。
 関羽は郭嘉の為に、曹操の言う事を素直に聞いている。
 何て、お人よしなんだ――
 ああ、でも、僕の姉さんも優しくて――
 鳥丸の時、関羽のどの部分も失くしたくないが為に郭嘉は残しておいた。
 そう、自分の姉になる者に欠落した部分があってはならないから。
 蔑みの対象となるものだけを、郭嘉が不必要と思ったものだけを切り捨てただけなのだ。
「ああぁ……!」
 曹操の手の力は相当強いようで、関羽の口元から辛そうな呻き声が放たれる。先ほどの曹操の言葉は脅しではない。
 曹操は本気だ――
 そして、郭嘉にも――
「郭嘉よ、お前に北方に逃げた十三支の殲滅を命じる。これは…… 私が気に入っていた関羽の耳を切り取った詫びだと思え。十三支を殲滅すれば、今までのことをなかったことにしてやろう。しかし、それができなかった場合は……」
 曹操のもう片方の手が、関羽の左胸を強く押さえた。
「ここにある鼓動は止まる。そして、お前の左胸にある鼓動も止まることになるだろう……」
 曹操は話を続ける。
 郭嘉にとって、聞きたくない言葉を紡ぎ続ける。
「関羽は全ての記憶を取り戻しているはずだ。しかし、猫族という生き物はかなりお人好しでな。お前のような非業な男にも、関羽は何かを感じたのだろう。記憶は全て取り戻しても、今日までお前の姉であることに徹していた」
 関羽の視線が郭嘉に向けられる。その濡れ羽色の瞳は涙の泉で潤い、眩しい程の輝きを放っていた。
 その瞳が郭嘉に謝っているような気がするのは気のせいか?
 謝らなければならないのは郭嘉の方なのに、どうして関羽が謝る?
 ずっと姉でいて欲しかったという願いは、郭嘉の中でいつの間にか消えていた。男女の深い仲とまではいくことが、郭嘉にはできなかった。
 耳を切り落とす前の関羽の憎しみに満ちた、自分に向けられたその言葉が脳裏から離れない。
 弱者は殲滅しなければならないという郭嘉の考え方。それが本当に正しいのか、あの時から郭嘉は分からなくなっていた。しかし、どちらの関係になったとしても、ならなかったとしても、今の郭嘉に関羽を殺すことも殺されることも許されない。
 曹操は十三支の殲滅を行わなければ、関羽の命はないと思えと伝えてきた。この言葉も先ほど関羽に投げかけられたもの同様、脅しではない。
 曹操は全てに対して本気である。
 関羽はもう、郭嘉の傍からいなくなる――
 城の奥深くに閉じ込めるということは、二度と関羽に会うことができなくなるのか?
 郭嘉の不安を読み取ったのか、曹操は不敵な笑みを向けたまま、
「まあ、虚偽ではあるが、お前たちは一応姉弟の関係なのだろう? 私も仲の良い姉弟の間を引き裂こうとは思わぬ。逃げることは叶わぬが、面会なら許してやろう」
 曹操はそう言うと、いきなり関羽の顎を掴んで唇を重ねる。その光景を郭嘉は呆然と見つめていた。暫くその光景が部屋の中で続き、曹操の唇が関羽のその箇所から離れる。
「郭嘉よ…… お前が私の命を背いた時も、関羽の身体の一部がなくなるということをよく覚えておけ……」
 つまり、郭嘉が曹操の命令に従わなければ――
 関羽の仲間である十三支を全て皆殺しにしなければ、その罰は郭嘉にではなく関羽に降りかかるということ。
 郭嘉の中では、関羽の為に十三支の者たちを見逃そうという思いが少しだけあった。しかし、その考えを少しでも起こしてはいけないことに今、気づく。
 関羽の郭嘉を見つめる瞳の中に、自分の仲間を助けて欲しいという色が宿る。しかし、郭嘉は十三支の者たちよりも、関羽の安全が優先だった。
 曹操は郭嘉の中にある感情の変化を既に読み取っていたのである。
 郭嘉は静かに頭を下げると、曹操の部屋から逃げるように出て行った――


 兵数は五万――
 十三支たちを殲滅するのには、あまりにも多すぎる兵の数。しかし、曹操の関羽の仲間たちを皆殺しにしたいという強い気持ちがその数に表れている。
 十三支が逃げたという北方へと向かった郭嘉は、その僻地でひっそりと暮らす十三支たちの命を全て奪った。
 鳥丸の時に、郭嘉は十三支たちの顔を見ていた。
 十三支たちを苦しませずに殺す方法を、北方に向かう途中の郭嘉はずっと考えていた。しかし、今まで苦しみしか与えない殺し方を考えてきた郭嘉にとって、この方法を考えるのにはかなりの困難を要した。
 少しの苦しみはあるが、血は流れない――
 郭嘉は、彼らの飲み水としている井戸らしき場所に、自分が作った即効性の毒を大量に流し込んだ。
 時間はかかったが、一人一人が確実に静かに胸の鼓動を止めていく。その毒は眠るように息を引き取っていく種のもので、以前までの郭嘉なら、面白くもなくて絶対に使用をしなかったものだ。しかし、今回はそれを迷わず手に取った。
 死を確認する為に建物の中に入った時、郭嘉は驚きのあまりに目を見開いた。
 張飛と劉備が苦しみながらも、必死に生きようとしていた。その時に建物の中に入った郭嘉の顔を見た張飛が口元を歪めて睨みつけてきたのだ。
「お、お前かよっ! …… お前が俺たちの、仲間を…… 殺したんだなっ!」
 許さない、許さない――
 張飛はそう叫びながら息を引き取った。
 他の者たちは眠るように死んでいったのに、この二人だけは郭嘉の目の前で苦しみながら息を引き取った。
 死んでいく者を見て、こんなに辛いと思ったことは初めてだ。
 既に呼吸もしていない張飛と劉備の前に膝を崩した郭嘉は、顔を俯かせた。
 涙が溢れ出る。
 亡骸を前にして泣いたのは、姉の時以来である。
 蔑んできた十三支の死に涙するなど、今まで思ってもみなかった。そして、郭嘉は十三支の死を悼んでいるのではないことに気づく。
 十三支の死を知った関羽がどれ程に悲しむかを考えて涙していたのだ。
「許して…… 許して、姉さん……」
 跪く膝の上に乗せられた拳の上に、郭嘉の目から久しぶりに溢れ出た涙の粒が落ち続けていた――。


「へえ、こんなこともあるんだね」
 郭嘉が関羽が抱いている小さな命を覗き込んで目を丸くさせる。
 十三支たちを殲滅した後、関羽は曹操の正室となった。
 郭嘉が全ての仕事を終えて帰還した時、関羽は何も聞かず、言わなかった。ただ、暫くの間はずっと、部屋に籠りっぱなしであった。
 しかし、何の変化があったのか――?
 曹操の表情にも関羽の表情にも変化が見え始めていた。その理由を郭嘉が聞いても、関羽は秘密だと言う。恐らく、人間と猫族の混血である二人の間でしか分かり得ないないようなのであろうと考えた郭嘉は、執拗に尋ねることをしなかった。
 曹操は約束通り、関羽に会うことを許してくれた。勿論、部屋の前には見張りの兵士たちがいるものの、郭嘉は幸せだった。
 家族を失ってから初めて、郭嘉の口から関羽に向けて謝罪の言葉が放たれた。その時の郭嘉の目にも涙が溢れ出た。それを関羽は拭い取り、優しく抱き締めてくれた。
 辛い思いをしてきたのね――
 私はずっと、あなたの傍にいるから――
 怪我もしないし、病気もしないわ――
 ただ、悲しい表情をすることはたまにあった。それはきっと、過去に愛した趙雲のことや仲間たちのことを思い出してのことだろう。しかし、関羽は郭嘉の前でその者たちの名を口にすることは決してしなかった。
 関羽が今、曹操と夫婦となって本当に幸せなのか? しかし、郭嘉は目の前の小さな命を見て、関羽が幸せなのだと理解した。
「耳がね……」
「小さいね……」
「ええ…… 猫族の赤ちゃんの耳って、生まれた時からもっと大きいのよ」
 曹操と関羽との間にできた子どもは男。勿論、生まれるまで、曹操の傍に仕えている者たちは皆、赤子の頭に猫耳がついているだろうと想像していた。
 猫耳は退化したような形で頭の上にある。
「髪の毛が伸びたら分からなくなるね」
「ええ……」
 生粋の猫族の血が薄れたからだろうか? しかし、これで良かったのだと関羽は言う。
「人間の中で生きていくんですもの。この耳が目だっていたら、この子は辛い思いをするだろうから……」
 まだ髪の毛はまばらであり、小さな猫耳は目立つ。関羽は赤子の頭を掛け物でそっと覆い隠した。
 曹操の命に逆らわなかった郭嘉。関羽も曹操に逆らうことをしなかった為に、郭嘉の今の地位は不動の場所にある。その上に、心の中にも変化があった郭嘉の軍師としての才能は開花し、曹操に重宝された。
「僕、叔父さんになるんだよねぇ…… 何か不思議だな」
 眠っている赤子の頬を指で軽く突いた後、郭嘉は小さな咳を数度起こす。それを聞いた関羽が心配そうに尋ねた。
「働き過ぎじゃないの? 少し休んだ方がいいわよ」
 関羽を心配させまいと、郭嘉が満面の笑みを顔の中に浮かべた。
「大丈夫だよ、姉さん……」
 これは今までの自分の非業な行いに対する罰だ――
 関羽に出会って、初めて人を殺すのが怖いと感じた。
 強者は弱者を守るものなのだということも知ることができた。
 関羽は郭嘉の捻じ曲がった感情を、少しずつ解いてくれていた。
 今、関羽は曹操に守られ、守るべき小さな命も授かった。その上に、あれだけ十三支の女といって蔑んでいた夏候惇や夏侯淵も関羽に対して親切な家臣となっている。
 関羽の周りには支えてくれるものたちが沢山いて、在るのだ。
 郭嘉が再び軽い咳を起こす。関羽は咳き込む郭嘉の背中を優しく撫でた。
「本当に、少し休んだ方がいいわ……」
 関羽に背中を見せていて良かったと郭嘉は、自分の掌を見て安堵の溜め息を放つ。
 自分の手にかかって、恐怖の中で命を落としていった者たちの顔が次々と脳裏に浮かび上がる。それを見て、自分は楽しくて笑っていたのだ。それなのに今、自分が命を終えるのだと思うと、心の中に恐怖が芽生える。

 もう少し、許してもらえるなら――
 郭嘉は瞼を強く落とす。
 もう少しだけ、
 もう少しだけ――


 この幸せを味合わせて欲しい――
 ようやく掴んだ幸せを――


 お願いします――
 生かせて下さい――

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