人は見目よりただ心


「貧相だろ。……全部」
 目の前の俺様男にそう言われた花は心底腹が立った。何せ、頭の天辺から足のつま先まで視線を流してそう言ったのだ。
 酷いことを言う男だと、花自身も自分の身体に自身はないが、それでもあんまりだと心底憤慨したのを、今でもまるで昨日のように、否応なく脳裏に思い出させる。
そのような男と関わっていくうちに、何故だか二人はいい関係になってしまって――
気付けば、婚儀を挙げるまでの仲になってしまっていた――。



 毎日のように、花の部屋には婚儀の用意をする為に、城下から商人たちがやって来る。そして、婚礼衣装やそれにつける装飾品などの選定をしなければならなかった。
 ここでの花の第二の実家ともなった玄徳軍からもたくさんの祝いの品が届く。それを見た花は、自分がどれほどの権力を持った男の妻になるのかを嫌というほど知ったのである。
「はあ……」
 開け放した窓から空を見上げて溜め息を放つ。
 これからこの呉の君主である男、仲謀に嫁ぐ幸せな花嫁が吐き出す吐息とはまた違う溜め息だ。
 半月ほど前には仲謀の母親である呉夫人に会い、そこである問いかけをされ、悩みに悩んだ末、出した結果が認められた。その悩んでいた間にも仲謀と喧嘩をした。
 歳が近いせいか、仲謀と花の間ではちょっとした誤解による喧嘩が多く、それはいずれも解決はするのだが、一つが静まると再び違うことですれ違いが起こり喧嘩になる。
 つい先ほども、仲謀と花は喧嘩をしたばかりであった。
 仲謀は婚儀が近づくにつれてかなり浮かれ気分。それだからなのか、花の身の回りのものには金に糸目を付けないのだ。
 次々と布を肩に掛けられ、その全てがいいと仲謀は言い、そしてそれら全部の布を買い占める。この時代の価格というものを花はまだ理解できていないが、肩に掛けられた布、全てが高価なものであることくらいは分かる。
「ねえ、こんなに必要なの?」
「何がだよ?」
「えっと…… 花嫁の道具とか、衣装とか…… 私一人でこんなにたくさん要らないよ」
 花が戸惑い気味に質問をしてみると、仲謀が両目を吊り上げた。
「お、お前なあ! 誰の妻になると思っているんだ!?」
「え、誰って…… 仲謀のお嫁さんになるはずだけど、違った?」
「ち、違わねえよっ! それとも、お前は俺じゃない誰かの妻になるのかよ!?」
「え、それって誰? まさか、公瑾さんとか? それとも子敬さんとか?」
 少しからかうつもりで公瑾や子敬の名前を出してみれば、仲謀の顔が怒りで真っ赤に染まる。
「お、お前なあ! 夫になる男の前で他の男の名前を出すんじゃねえ! いくら信頼している家臣の名でも腹が立つ!」
 そう言って、最後には馬鹿とか阿呆とかなどの言葉を放ってくるものだから、花とていい気分ではない。
「な、何よっ! 先に誰の妻になるのかって聞いてきたのはそっちでしょう!? だから、初めにちゃんと言ったじゃない! 仲謀のお嫁さんになるって!」
「俺はその後に続いた語尾が気に食わねえ! なるはずだけどって、お前は言ったよな!? そうだよな!?」
「うっ…… そ、それは言ったけれど……」
「お前と話をしていると、本当にお前が俺の妻になるのかと思うほどに、お前の言葉って他人事に聞こえんだよ!」
 最初はこのような痴話喧嘩から始まった。これはこれでまだ、すぐに仲直りができる喧嘩であるからいい。しかし、この後の喧嘩の内容は花がとても傷つくようなものであったのだ。
 花の肩に掛けた布の全てを買うと決めた仲謀は、仕立て人からどのような型に仕立てるかを問われた。それに対して、仲謀は花の頭の天辺から足のつま先まで視線を流した後に、
「ああ、全身が隠れるような型にしてくれ」
 と言い放ったのだ。
 全身が隠れるような型――
 花は暫く、仲謀が仕立て人に放った言葉を反芻しながら考える。そして何故に全身を包むような型にするのかを理解した。
 花の衣装の布選びを見ながら、気に入ったものがあれば自分も、と共に見ていた尚香の全身に視線を向ける。
 胸は豊満で――
 腰は縊れていて――
 腕と太腿は、男が好みそうな、ちょうどいい肉付き――
 それなのに、膝から下は細い。
 首も長くて、顔は小さくて――
 今身に纏っている着物も、豊満な胸を強調させたような、細いですよと言わんばかりに身体の線に沿っている。
 仲謀は花の貧相な身体が目立たないように、仕立て人に全身が隠れるような型にしろと言ったのだ。
 そうだよね――
 花が小さな溜め息を吐き出す。
 花嫁衣装や道具をこのようにたくさん揃えるのには気乗りしないのだが、仲謀の気持ちはとても嬉しかった。気持ちだけで嬉しいなと思って、遠回しに断るような言葉を放った後の喧嘩の後のこの残念さは何だろう? いや、残念さではない。
 花は何故か悲しかった。というよりも、辛かった。
 別に露出した着物を着たかったわけではない。しかし、君主の妻になる女の身体が貧相だと仲謀は知られたくはないのだと考えた瞬間、花は自分に自信がなくなってしまったのだ。
「おい、お前もその方がいいだろ?」
 仲謀が花に同意を求めてくる。
 仲謀は一体、私のどこが好きになったんだろう?
 早くから告白はされていたけれど、ただ二人で平和な国を作りましょうみたいな、共同的な作業で意見が合っただけのような気がしないでもない。
「仲謀の馬鹿……」
 布を肩に掛けたままの花がボソッと呟くが、こういう文句の言葉を放つ時ほど、小さな声音でも相手には聞こえてしまうものである。
 仲謀が眉根を寄せて花を睨む。
「馬鹿とは何だ!? この俺様に向かって!」
 また始まったか――
 この二人は一日に一度は必ず喧嘩をする為、慣れてはいるのだが、やはり場の雰囲気が悪くなる為、これはこれで困るのだ。
 尚香が小さな溜め息を吐き出す。
 この溜め息の中にはここに大喬と小喬がいなくて良かったとも思う安堵も含まれている。何故ならば、あの二人が仲謀と花の喧嘩に加わると、何とも言えない大騒動になってしまうからだ。
「仲謀は女心が分かってない!」
「ど、どういう意味だよ!? じゃあ、お前はその身体を見せびらかしたいって言うのか!?」
 それって、どういう意味よ――
 貧相な身体を見せびらかしたら仲謀の恥じになるって言いたいの?
 と、心の中で呟きながら、視線はそれを表すかのようにして仲謀を見つめる。が、仲謀に花の意味不明な流しなど理解できるわけでもなく、自分の素直な気持ちも伝えられない恥ずかしさもあり、
「露出した着物を着ても、お前が惨めになるだけだろうが!」
 と、爆弾言葉を落としてしまったのであった――。


「それは仲謀さまがいけませんね。すぐにでも花殿に謝るべきです」
「何でだよっ!?」
「と、いうか…… 仕事中に私事を持ち込まれても困りかねます」
「お前にしか相談ができねえんだよ! 女経験が豊富なお前にしかな!」
「仲謀さまも、女性との経験はおありでしょう? 少しですが……」
「す、少しとは何だ! 少しとは!」
「仲謀さまと私との歳の差を考えてもみて下さい。どう見ても私の方が経験の数は多いはずです」
「ぐっ!」
 あの後、二人の喧嘩は激しさを増し、部屋の中にいた仕立て人は唖然とするし、尚香は二人の喧嘩を止めようとした。しかしそれでも二人は止まらない。
 青春真っ盛りの二人であるから、何もかも本気でぶつかり合う。よって、花は喧嘩の途中で部屋を飛び出して行ってしまい、そのまま戻って来なかった。
 花の心配をした尚香は、いかにも仲謀が悪いというような視線を向けて部屋を出て行く。誰もかれもが花の味方であり、今、相談に乗ってもらおうとしている公瑾でさえも花の肩を持とうとしているのだ。
「お前は誰の家臣なんだよ!?」
 仲謀の叫びの問いかけに、公瑾はおや? というような表情を浮かばせる。
「勿論、私の主は仲謀さまですよ」
「そうだろ? それなら……」
 俺の味方をしろと続きの言葉を言いたかったのだが、それを先読みした公瑾が仲謀のその続きを遮る。
「しかし、花殿も仲謀さまの正室となれば、仲謀さま同様、私の主となりますからね」
 だから、どちらの家臣とも言えませんね、と何とも冷たいお言葉を頂いてしまった。
「女性という生き物はとても面倒臭いんですよ。特に婚儀や身ごもった時は気持ちも不安定になると聞いております。それに花殿は華美を好まれない方でしょう? 質素倹約の見本のような花殿の目の前に贅沢品を山積みして見せびらかしても心は動かされないと思いますよ」
 しかしあの時の喧嘩の内容はそういうものではなかった。仲謀が肌の露出するような衣装ではなく、全身を覆い隠すような衣装を仕立て人に頼んだら花がいきなり怒り出したと説明をすると、公瑾は呆れた溜め息を吐き出して仲謀に問いかけた。
「仲謀さまは、全身を覆い隠すような衣装を頼む理由を花殿に説明されましたか?」
 その問いかけに仲謀がぽかんと口を開ける。
「はっ……? そんなことは説明しなくても理解できるだろ?」
 仲謀の返事を聞いた公瑾は、今度は大袈裟に溜め息を吐き出す。
「仲謀さまの妻になると決まった時、花殿を誹謗する女性たちがおりましてね。花殿はその時の会話を気になされているのかもしれません」
「誹謗……?」
 そのような話を花から聞いたことのない仲謀が怪訝な表情を浮かばせる。
 何故、お前がそのことを知っているのだとでも聞きたそうな顔だ。
「まさか、お前…… 花からその誹謗されたことの相談を受けたのかよ?」
 やはり、そうきたか――
 公瑾は三度目の溜め息を吐き出した。
「いいえ、相談を受けたのではありませんよ。仲謀さまの妻となると決まった後も暫くの間、花殿が私の下で働いていたのは記憶にあるでしょう?」
 公瑾はその時に、執務室の外で、まるで花に聞こえるかのような声音で女たちが会話をしているのを共に聞いてしまったのだと言う。
「花殿はこの時代の女性たちとは違って、見た目全てが幼いですからね。あの身体で仲謀さまが満足できるのかとか、大した美人でもないのにとか言っていたんですよ」
「誰だ! 花のことを悪く言った女は! すぐにこの城から追い出してやる!」
「ああ、それは心配には及びません。私が然るべき処罰を与えました。花殿はそのようなことをしなくてもいいとおっしゃっていたのですが、私は仲謀さまの奥方になる花殿の誹謗をする女性たちが許せなかったもので…… しかし……」
 公瑾がその時の記憶を思い出しながら不思議そうな表情を浮かべる。
「しかし、何だよ?」
「あの時の花殿は、あまり傷ついた様子でもなかったのです。ですから、あれだけが原因ではないような気がして……」
 最初は玄徳軍の使者であった花を嫌悪していた公瑾ではあったが、その感情も次第に薄れ、今では花ともいい関係にある。それに公瑾は君主である仲謀命の男だ。その仲謀の妻になる花の悪口を聞いてしまえば、家臣として怒りも起こった。
 公瑾は仲謀に害をなす者には男女関係なく容赦がない。
「ど、どんな処罰を与えたんだよ?」
 公瑾は怒っている時も笑顔を絶やさない男である。ただ、口は笑っているのに目が笑っておらず、仲謀たちでさえも恐怖を抱くくらいだ。だから、この笑みでどのような罰を与えたのかが気になったのだが、
「それは、秘密です」
 と勿論、普段の恐ろしい笑顔のままで答えられて、仲謀はその罰についての詳細を聞くことができなくなってしまった。
 その後で子敬に聞いたところ、普通に故郷へ戻されたということであり、仲謀は胸を撫で下ろした。


「公瑾の話を纏めてみると、つまりだな……」
 公瑾の部屋を出た仲謀が、先ほどの会話の内容を頭の中で纏める。
「俺は花の肌を誰にも見せたくはないと思って全身を覆うような花嫁衣装をと頼んだが、花はそれを、俺が貧相な身体を誰にも知られたくないと勘違いして怒ったと…… 怒ったっていうよりも、自分に自信がないから傷ついたってことか……」
 しかし普通なら、全身を覆い隠すような衣装を頼んだ時点で、分かるはずなんだけれどな――
 愛する者の何もかもを誰にも見せたくはないという独占欲。本当ならば顔も見せたくはないのだ。
「何でまた、あんな勘違いをしたんだ……?」
 公瑾の話を聞いていると、確かに女たちの誹謗だけが花を怒らせた理由になるだろうか?
 多少は傷ついたかもしれない。しかし花はそういうことをあまり気にしなかったように思える。それは、あまり知りもしない女たちのただの悪口の会話だからだ。
 花が傷つくのはいつだって――
 愛する者から受けた言葉だ――
「俺、あいつの身体のことで何か言ったことがあったか?」
 と呟きながら過去の記憶をぐっと掘り下げて辿っていった仲謀が、
「あ……」
 と小さな一声を上げた。
「そういえば、あの時……」
 大分前の記憶であった為に、仲謀もとっくに忘れてしまっていた。
「言ったぞ…… 確かに言った……」
 仲謀は同じ言葉を二度繰り返した後、廊下を駆け出す。
 勿論、花の部屋に向かって――


「はあ……」
 これで何度目の溜め息だろうか?
 花は自室に飛び込むと、そのまま寝台の上に全身を投げだした。
「あ、ボタンが一つ取れちゃった……」
 花のブラウスの第二ボタンの糸が擦れてしまっていたようだ。寝台に寝転がった時に擦り切れてしまっていた。
「後でつけよう……」
 そう呟いた後にボタンがなくなって肌蹴てしまった個所を見つめる。
 貧相だろ……
 あの言葉が今になってはっきりと蘇ってくる。
 この貧相な身体を使って、俺を篭絡する気かみたいなことを言っていたな――
 篭絡させたのではないが、似たようなことに今はなっているが――
 あの女たちからの誹謗も少しは傷ついたが、それでも仲謀が見目ではなく、花の中身を愛してくれているから気にも留めなかった。
そういう類の会話は、仲謀といい仲になってから嫌という程聞いてきたから。ただ、花と共に聞いていた公瑾は笑顔で怒り狂い、その女たちに処罰を与えてしまった。それを花は止めようとまでしたのだが、それは実行された。
 公瑾のその行いを知った城の女たちは皆、その直後から花に対しての誹謗や中傷をしなくなったのだ。
 女たちに言われても何とも思わない。
「ううん、少しは気にするけれど、確かにここにいる女性たちは皆、私よりも見目のいい人ばかりだもの」
 それくらいは自覚しているからいいのだ。ただ、愛する仲謀にこの身体のことを言われると気にしないではいられない。
 気にしすぎるし落ち込むし、最終的には自分が仲謀の隣にいてもいいのかと不安になる。
 共に未来に向かって隣を歩いていいのか分からなくなる。
 仲謀の妻になる資格があるのかと悩んでしまう。
 花のいた世界での愛し方では駄目なのか?
 初めて仲謀の母親に紹介された時に試練を与えられたことを思い出す。
 仲謀と仲謀が背負っているものを、きちんと受け止めることができますか?
 あなたは仲謀の為に死ぬ覚悟がありますか――?
 あの時、花は悩んで、ようやく答えを見出すことができた。
 仲謀と共に生きていくという覚悟を決めたと、仲謀の母親に告げた。
 仲謀は普通の男とは違う。軽い気持ちで付き合ってはならない男だ。だからこそ覚悟を決めた。
 仲謀に相応しい妻になる為にと――
 しかしもしも、仲謀が花のことを自分の妻として期待していなかったとしたら――
 物足りないと思っていたとするのならば、その不満が違う方向で出てしまったのでは――?
 花の中が不安でいっぱいになる。
「普通の恋をしたことがない私が、いきなり一国を背負う仲謀を好きになったことは間違っていたのかな……?」
 不安は中だけで物足りなくなり、涙に混じって頬を流れる。
 何の後ろ盾もなく、この時代の女とは違って花には色気もない。仲謀はいつかきっと、花よりも見目姿のいい女に目が向いてしまうだろう。
 そうしたら、私はどうなるの――?
 ここに残ると決めた瞬間に本は手の中から消えてしまい、花はもう、自分が住んでいた世界にも戻ることはできない。帰るとすれば玄徳のところしかないのだ。
 もう、何も考えたくない――
 もう、嫌だ――
 そう思っていた時、こちらに向かって駆けてくる足音が聞こえてきた。その音は徐々にはっきりとしたものとなり、すぐ近くで止まったかと思うと、いきなり扉が開かれた。
「仲謀……」
 開け放たれた扉のところに息を荒げた仲謀の姿。息を整えようとして暫くの間、二人の間に沈黙が流れる。そして――
 仲謀は大股で花の傍まで歩み寄り、強く抱き締めてきた。
「ちゅ、仲謀!?」
 抱きしめられている腕の強さに苦しむも、仲謀の身体に触れた部分はとても優しくて温かい。
「悪かった……」
 その温かさの居心地の好さに浸り始めようとしていた時、花の耳元で仲謀が謝罪の言葉を囁いてくる。
「え……?」
「お前と始めて会った時、貧相だと言って悪かった! でもな……」
 仲謀は花を強く抱き締めたまま口を閉じるのを止めない。
「俺が全身を包み隠すような衣装にしたいと言ったのは、お前の身体が貧相だとかそういう意味じゃねえ…… お前の肌を誰にも見せたくないからだ!」
 衣装選びの時の注文の理由を伝えた仲謀は、顔を真っ赤にさせながら、花を胸から離して顔を見つめた。
「お前の身体は確かに貧相だ」
「なっ……!」
 謝っておいてまだ言うかと、花の頬は瞬時に膨らみ、怒り再発の赤みを帯びる。
「だけどな! 俺はお前の身体目当てで選んだんじゃねえ!」
 そしていきなり激しい口付けを花に与えてきた。
 鼻で呼吸ができない程にそれはあまりにも熱烈で、深く愛されていると理解できて、先ほどまでの悩みが一気に吹き飛んでしまいそうで――
 苦しくて――
「ん! んんんんっ!」
 仲謀の胸を叩くが、まるでプラスマイナスの磁石が合わさったように、仲謀の唇が花のそれを強く吸い付く。
 舌が絡まり、粘り気のある水音は互いの熱の為か、いつの間にかその音は消えていた。
 長すぎる口付けが終わり、二人は隙間のない距離で見つめ合う。
「お前の肌を見る最初で最後の男は俺だけだ…… そして、俺の隣でずっと笑っていていいのは花、お前一人だけだ……」
 仲謀の愛の言葉――
 仲謀は生涯、花一人だけを愛してくれると言ってくれている。それでも一度きりの言葉では不安が全て取り除かれるわけではない。
「本当……?」
 花が涙声で問うと、仲謀は花の頬を流れ続けている涙を指でそっと掬い取った。
「本当だ。だから、婚儀の衣装は…… って、お前! その胸元をどうにかしろ!」
「え……? あっ……!」
 先ほどボタンが取れてしまったことをすっかり忘れていた花。仲謀はその乱れたブラウスから覗く胸を見て顔を真っ赤にさせた。
「お、俺は! 婚儀が終わるまで我慢するって決めたんだからな! お前もそれまでは少し協力しろ! 俺の我慢がきかなくなるだろ!」
「わ、分かってるよ!」
「ああ! 早く隠せっ!」
「ああっ! そんなに強く引っ張ったら!」
 仲謀が花の襟元を強く合わせた途端、布が引き裂く音が部屋中に大きく響いた。
「あ……」
「うおっ……」
 花のブラウスの肩と前後ろ身ごろを縫い合わせた箇所の糸が切れ、白い腕が露わになる。と、その時、
「花殿…… あら、扉が開いていますがいらっしゃいますか? 子敬から美味しいお菓子を頂いた、の、で……」
 しまったと、この時仲謀は思った。
 急ぐあまりに扉を閉めるのを忘れたのである。
 開いた扉のところには、部屋の中を凝視する尚香の立ち姿。
 空から鳥の鳴く声がやけに大きく聞こえてくる。
 恥ずかしくて叫びたいのは花の方なのに――
「きゃ、きゃあああっ!」
 代わりに尚香が叫んでくれた。
「尚香ちゃん、どうしたの!?」
「尚香ちゃん!」
 叫び声を聞きつけて、何でも興味があって知りたがりの大喬と小喬が駆けて来た。
「尚香さま、どうされたのです!?」
 勿論、仲謀命であれば、その妹である尚香のことも命の公瑾も駆けつける。
「尚香さま、どうされたのですかな?」
 動きは鈍いが、子敬もこれは何事かと気持ちを急かせて姿を現す。
「花ちゃんに何かあったの!? ……あ……」
「ああ! 尚香ちゃん! 花ちゃんと二人でお菓子を食べようとしてたで、しょ……」
「ここは花殿の部屋ではありません…… か……」
 大小と公瑾が部屋の中に視線を投じた瞬間、動きが止まる。その後から子敬が部屋の中を覗いて、細い目を頑張って丸くしていた。
「ふぉ、ふぉ、ふぉ! これはこれは仲謀さま。早く花殿とそういう仲になりたいというお気持ちはよく分かりますが、焦ってはなりませぬぞ」
 違う!
 仲謀はそう叫ぼうとしたが、それができない状況に陥った。
「あ、兄上! 花殿を襲おうとするなんて、何て酷いことをされるんですか!」
 尚香がつかつかと部屋の中に入って仲謀の傍まで来ると、耳元で大声で叫んだ。
 鼓膜が軋んで震えて痛い――
「ああ! 花ちゃんの大切な衣装が破れてる! 酷い、仲謀! 仲謀、おーぼー!」
「仲謀、おーぼー! 花ちゃんが泣いてるじゃん! 嫌がってるのに!」
 大小が同時に仲謀を責める。
「ち、違……!」
 泣いていたのは仲謀が来る前からで今ではないと言いたい花。しかし、
「仲謀さま…… 同じ男として抑えきれない気持ちは理解できますが、順序というものがございます。ただ己のひと時の欲だけの為に突発的な行動を起こすのはどうかと思いますが……」
 公瑾が花の傍まで歩み寄り腕と腰を優しく支えながら立ち上がらせると、自分の外套(マント)を肩から外して花の肩を隠すようにして被せてくれた。
「尚香さま、花殿を別部屋にお連れして下さい」
「分かりました、公瑾。後はよろしくお願いしますね」
「畏まりました……」
 この会話が交わされる時、この後は必ず公瑾から仲謀は説教を受けることになる。
「だ、だから、違うって言ってんだろ! 俺は花を襲おうとなんてしてねえ!」
「そ、そうです! 仲謀は何も……!」
 花も仲謀の濡れ衣を晴らしたいのだが、
「さあ、花殿。早くこちらへ参りましょう」
「花ちゃん、行こう!」
「仲謀なんて庇わなくていいよ!」
 と、尚香と大小に引きずられるようにして部屋から出されてしまって何もできない。
「おい! 俺の話を聞けっ!」
 仲謀が叫ぶ声。しかしそれはすぐに静まった。
 恐らく、公瑾のねちっこい説教が始まったのだろう。
 その日から暫くの間、仲謀は花に会うことを禁じられた為に、花も勿論仲謀に会うことができなかった。
仲直りはしたものの、会うことを禁じられた二人は悶々とした毎日を過ごしたのだという――。


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