桜の根元には


「お邪魔してるよ」

ひと仕事終えて二階にある自室のドアを押し開けたところでそんな声がかかり、男はぎょっと目を剥いて身構えた。
がらくたが積み上げられた埃っぽい部屋の奥。開いた窓から差し込む陽光に照らされて、女がひとり椅子に腰かけている。
まだ少女と言っても差し支えない顔つきは男の驚愕などどこ吹く風で微笑んでいた。特徴的な桜色の髪はひとつに編まれ、素っ気ない部屋の中で鮮やかに浮かび上がる。
見覚えのある――むしろ見慣れてしまったその風貌に、男はため息と共に緊張を吐き出した。

「勝手に入り込むんじゃねえと何回言やわかるんだ、立夏」
「勝手じゃないよ。届け物のついでに部下の人達にひと声かけたさ」
「なんつってた」
「社長は留守なんで今度にしてくださいだと。だから帰ってくるまで留守番してようと思って」

それを勝手と言うんだ、と繰り返すのも億劫で、困惑する社員の顔が瞼に浮かんで再びため息をつく。「お疲れだなぁ」などとどの口が言うのか。
男は大股で窓辺に歩み寄り、立夏の指が弄んでいた十字架のペンダントを取り上げた。残念そうな声が上がるのをじろりと睨めつける。

「届けたんならとっとと帰れ、用事なんてねえだろう」
「いやいや、お参りにね」

立夏が目を向けた先には、低い棚の上に写真が一枚飾ってある。そこだけは丁寧に埃が取り除かれ、置いた覚えのない小さな花束がコップに生けられていた。
写真には、ぎこちない笑顔の女性がひとり写っている。男は黙って十字架を写真立ての前に置いた。合掌をすると、隣に立った立夏も同じようにするのを呆れて見下ろす。

「いいのかよ、お前ここの人間だろ」
「浅草は別にアンチ聖陽教ってわけじゃないよ」

大災害が起こる前、かつてこの場所に存在した国の文化が未だ根強く残っている街、それが浅草だ。そこの住人は太陽神を崇めないならず者達であり、男もここの往来で大っぴらに十字架を提げて歩くつもりはない。無用な火種を呼ぶからだ。
聖陽教徒でない皇国民も決して少なくはないが、天照の恩恵をもないがしろにする浅草の住人は外の国民とも一線を画するのである。
しかし何度も不法侵入してはくつろいでいくこの娘は、昔の衣服を身に纏いながら、平然と合掌したり、花を供えたりする。

「八百万の神々の中に太陽神が含まれてるってだけの話さ。聖陽教が嫌いなんじゃない」

聖陽教徒の前で平然と笑いながら言う。彼女の考え方が浅草の一般論でないことはもちろんわかっている。
柔軟なようでいて、ただ宗教や思想に全く重きを置いていないことにもなんとなく気付いていた。そういう者に教義を説くことの無意味さも。だからこそ惜しいと思う。
お、と立夏が振り返った。開け放たれた窓から火事を報せる半鐘の音が流れ込んでくる。また人体発火現象が発生したのだ。

「最近多いなぁ、焔人」
「……すぐに鎮魂されるだろう。行かないのか? いつも火事場にすっ飛んでくお前が」
「人を火事場好きみたいに言うなよなー。行くけどさ」

不服そうに唇を尖らせると、お邪魔しましたと言い置いて立夏は窓枠に手をかけた。止める間もなくそこから飛び出した背中に桜色の尾がなびく。
二階の窓から民家の屋根へ、そこからさらに屋根伝いに跳び移る身軽さは、若いとはいえ何の訓練もなく得られるものではない。一階にいる社員が立夏を招き入れたのではなく、この窓から侵入したことはこれでよくわかった。
少し警戒を強めねばなるまい。男は眉間の皺を深めると、荒っぽく窓を閉じた。