燃え尽きた灰に似た何か


いつか身に降りかかるかもしれない炎への恐怖を忘れるため。
炎に包まれた知己の無念を悼むため。
我を失うほどに酒を浴びる者は少なくない。
そうした者を叱咤激励し、帰るべき場所へと送るなり、介抱してくれる者の元へ放り込むなり対処するのは、ただの自警団だった頃からの第七消防隊の日課だった。
それは紅丸とて例外ではない。酔い潰れた男共の尻を蹴飛ばして帰路につかせた帰り道、ふと虫が知らせて櫓に登った。

火の見櫓は浅草で一番高く造られている。半鐘の音を響き渡らせ、火の手の行く先を見極めるため、そこに登れば浅草の町並みがよく見渡せる。
とはいえ、夜の帳が降りた今は役目もなく静かなものだ。
飲食店の軒先で揺れる提灯の火がひとつ、またひとつと消される度、町全体が宵闇に沈んでいく。
果たして探し人はそこにいた。
こちらに背を向けて床にべたりと座り、投げ出した足を柵の隙間から宙に遊ばせている。白く肥えた月明かりの下、桜色の髪がほんのりと光を放つようだった。
ゆっくりと振り返り、紅丸だと気付くや女は目を細めて笑う。静謐な夜には似つかわしくない気の抜けた笑みだった。

「おー、お疲れさん、大隊長殿」
「お前もちったぁ手伝いやがれ」
「いやもう解体作業だけでくったくた」

手をひらつかせて柵にもたれかかる。壊したのが自分である手前、なんとなく決まりが悪くて押し黙った。
煙の匂いを含んだ夜風が吹き抜ける。隣に立つと、彼女の視線の先に気付いた。瓦礫が取り除けられた区画がぽっかり更地になっている。まさに今日、紅丸が弔いを行った余波で吹き飛んだ建物のあった場所だ。
自分達が守ってきた町だ。しかし守り切れなかったものも数多くある。大隊長、という肩書も、未だ上手く腹に収められないでいる。

「家がなくなった奴は詰所に泊まれって言っただろ」
「家がなくなった奴はね」

引っかかりのある物言いに片眉を上げる。女は変わらぬ笑みでただ眠りゆく町を眺めている。




辰宮立夏がこの町に現れたのは二年前のことだ。
相次いで焔人が発生し、第七消防隊が誕生するきっかけとなったあの火災。その真っ只中。
もはや誰かもわからない焔人の胸を貫き、逃げ遅れた者がいないか目を走らせた先に、桜を見た。
燃えてこそいないが、足取りはまるで焔人のごとくふらりゆらりと。燃え盛る建物の間を彷徨っていたのが彼女だった。
おい、と声を張り上げても気付いた様子がなかったので、舌打ちして編んだ髪が揺れる背中を追いかける。

「……――なさい……私じゃ、ない……」

手を伸ばした時にぶつぶつと聞こえてきたのは、ひたすら何かに謝り、弁明しようとする消え入りそうな言葉だった。
そのまま幽鬼のごとく炎に呑まれそうな後ろ姿に、はっと我に返って肩を掴む。

「――おい!」
「うわびっくりした。なに?」

あっけらかんと。
平和な町中で突然引き止められたとでもいうように、きょとんとして振り向いた女に紅丸の方が呆気にとられたものだった。
なに、ではない。この異常事態の中で平然と応える女の方が余程異質である。反射的に怒りが湧いた。
見ない顔だ。それに洋服を着ている。浅草の人間ではないだろう。こんな目立つ髪色をした女は一度見たら忘れないだろうから。

「てめえこの火事が見えねえのか! とっとと避難しやがれ!」
「……火事」

そこで初めて気付いた、とでも言うように、女は辺りを見回した。呑気な動作に苛立ちが募る。しかし彼女ひとりに時間を割いているわけにはいかない。若、と遠くで紺炉が呼んだ。
隅田川のほとりに火除地がある、そこまで走れと怒鳴りつけて背を突き飛ばした。よろけた彼女はぽかんとして、それでもうんと頷いた。

次に紅丸が彼女に会ったのは、紺炉が鬼を鎮魂して火の手が静まった頃だった。遅れて到着した皇国の第二消防隊が後始末に奔走するのを睨みつけながら火消し達の報告を聞くと、彼らは戸惑いがちにこう言った。

「それがよ、川にも焔人になっちまった奴が押し寄せてきて」
「……被害は」

男衆の中には能力者もいる。しかし主戦力である紅丸と紺炉がおらず、町民達を庇いながらでは満足に立ち回れまい。自然と重くなる問いに、男衆はかぶりを振った。

「避難できた町民はみんな無事だ。今は手当てを受けてる」
「焔人の弔いは……見たことのねえ女がやったんだ」
「女だぁ?」
「いや! 情けねえのはわかってる! でも実際ほとんどの焔人はそいつが鎮魂してくれたんだ」
「あいつがいなかったら町民達もやられるとこだった。紅も紺さんもいなかったし、俺らだけじゃどうにも……」
「誰もそいつのこと知らなくてよぉ。こう、ピンクのハイカラな髪した若い女で」
「……!」

すぐにあの女だと思い当たった。今どこにいるかと聞けば、男衆の視線が一箇所に注がれる。

――そうだ。あの時も立夏は火の見櫓に登り、細く煙の棚引く瓦礫の山々をぼんやりと眺めていたのだった。
気安く、人懐こく、目端が利く。助けられた恩もあって、立夏が町民に受け入れられるのは早かった。
親は火事で亡くし、あちこち渡り歩きながらその日暮らしで生きてきたとあってはお節介な下町気質が放っておかなかったらしい。飯屋で定食を運んでいたかと思えば小包を配達したり、壊れた家の解体や取り壊しにも文句を言いつつ参加する。付き合いがいいのでヒナタとヒカゲもよく懐いていた。最近では賭場に出入りして小遣い稼ぎを覚えたようで、紺炉に見つかっては叱られてつまみ出されているのを見かけるようになった。
荒事の心得があるのは有難かったが、正直得体の知れなさもあった。詮索しようにもへらへら笑って糠に釘を打つような手応えしかなく、いつしか誰も聞かなくなった。

お前は何者で、どこから来て、どうしたいのか。

それは二年経った今でもわからない。
しかしわからないなりに、こいつをこのまま放っておいてはいけないという責任じみた想いも生まれているので、今のところ深く追い詰める気はなかった。
仕事を手伝う代わりに宿を借りる。それがしばらく続いた飯屋はもう跡形もなく壊れてしまったので、取り合えず今晩の雨露をしのぐ場所は必要だろう。何もこんな吹きさらしの軒下じゃなくていいはずだ。

「帰んぞ」
「ええー、日の出が見たくて待ってたのに。紅丸も一緒に見る?」
「見ねえ。お前を野放しにしてると紺炉に説教されんのは俺なんだよ」
「紺炉さんのお説教、意外と嫌いじゃないんだよね」
「冗談じゃねえ」

眉間に皺を寄せて切り捨てる紅丸に立夏は困ったように眉を下げた。相変わらず笑っているくせに、目だけは死んだように虚ろなのが、ずっと気に食わないでいる。