見間違いではないらしい
人は酷く驚いたときのことを「心臓が飛び出る」と表現することがあるけど、人生で本気でそんな経験をしたことはなかった。
とはいっても、何十年と生きているわけではないんだけども。
『…!? ……!?』
自分の誕生日に、あれ、今何歳だっけって思うようになってから数年。
心臓が飛び出るかと思ったのは生きててこれが初めてだと思う。しかもそれが平日ど真ん中の出勤前ときた。
ギリギリまで寝て眠い眠いと思いながら支度をして、自分以外に誰もいない家の鍵を閉めて、あと数分でバスが来るぞ急げっていうタイミング。
覚醒しきっていない頭と開ききっていない目には、その光景は余計に異様に映った。
「君、そこに住んでいるのか?良かったらここが何処なのか教えて欲しいのだが!」
『…はい?』
「どうやら道に迷ってしまったようでな!」
腕を組み、元気良く声を掛けて来たその人。
朝っぱらから道を尋ねてくる謎のおばあちゃんに出くわしたことならあるのでその点については気にならないが、その人の姿がこの場にあまりにも似付かないので思わず疑問形で答えてしまった。
『(コスプレ…?それにしちゃ出来すぎというか…今ここにいるのも意味わかんないんだけど……)』
「えーっと……すまない、急に話し掛けたから驚かせてしまっただろうか?」
『い、いえ!そういうわけでは……』
派手な黄色の髪をして派手な模様の入った羽織を着ている“その人”が首を傾げる。こちらが顔をガン見したまま動かないものだから不審に思ったのだろう。謝りたいとは思っているのだが、混乱してうまく言葉が出てこない。
目の前に立っていたのは、まず間違いなく「煉獄杏寿郎」という男だった。私はこの人をよく知っている。
だってスマホの待ち受け画面、この人だし。くっついてるストラップもこの人だし。なんなら家にフィギュアもある。
だから今目の前に“その人”がいて、道を尋ねられていることが最高に意味が分からなかった。理解しろと言われてもできない。
コスプレは自分も嗜んでいるので真っ先に疑ったのはその線だったが、それにしては声が似過ぎている。テレビや映画で何度も聞いた声だ。ぼそぼそ喋られているわけでもないし、聞く限り本人にしか聞こえない。
仮にレイヤーだったとして、平日のこの時間、こんな住宅街にいる意味が分からない。もしや家から着て行ってしまう迷惑なタイプの人間か?だとしたら注意したいところだけど、それはちょっと勇気がいるな…なんていう混乱の末によく分からないことを考えていたら、目の前の煉獄さん(仮)は何かを思いついたような顔をした。
「そうか、刀か!これは鬼を斬るために所持しているだけで、決して君を傷付ける気はない!安心してほしい!」
『ほ、本物……!?』
「ああ、でも君に危害は…」
『ちょっと煉獄さんすみません、一旦うちに来てください』
「え?」
彼の手首を掴んで元来た道を辿る。バスの発車時刻はとうに過ぎたと思うが気にする余裕はない。
理由も話さず突然動いた私に彼は少し驚いたようだが、抵抗する様子はなかった。
「高い建物だな、何階まであるんだ?」
『ごめんなさい、着くまで静かにしててください。誰かに見つかったら困るので』
「んん…?」
いつもならエレベーターを使っているところだが、その前を早足で通り過ぎて階段を上がる。
歩かせるのは申し訳ないけど監視カメラがあるところはダメだ。他の人の足音が聞こえないことを確認しながら、なるべく急いで自分の部屋に向かう。
幸い朝早いこともあり誰かと出くわすことはなくて、特に問題なく部屋の前まで辿り着けた。手早く鍵を開け、さっさと彼をドアの内側へと押し込む。
やってることが誘拐に近いが今回ばかりは許してほしい。急を要したし、いざとなったら私を押しのけて逃げることくらいこの人なら簡単だろうから。
玄関の電気をつけて一呼吸置いたところで、彼は静かに「どういうことだ?」と口を開いた。
『すみません、急に連れて来て……でも、ここで刀なんか持ってたら間違いなく警察に捕まるので…』
「…そうか、気を遣わせてすまなかったな。さすがにこれでは分かり易過ぎたか」
『見た目の問題じゃなくて、持ってること自体が犯罪なんです』
「ん?所持は問題ないはずだが?」
『あるんです、ここでは。煉獄さんのところではそうかもしれませんけど……』
「……ところで、俺は君に名乗っただろうか?」
人が二人居座るには狭すぎる玄関で、至近距離で会話を続ける。目を合わせる勇気はなかったのでずっと視線は床を彷徨っていたが、“彼”が投げてきた疑問で顔を上げた。
作りものとは思えない特徴的な髪の色。似ているだけでは済まない聞き慣れた声。
話している言葉の内容。身に着けている衣服。腰に差さっている刀。そして、私の言った名前を自分の名前と認めたこと。
こうなったらもう、どうしようもないじゃないか。信じる信じないの問題じゃない。
掴んだ手首は確かにそこに存在していた。体温だって感じた。幻じゃない。夢でもない。
もう一度、確かめるように背にしていたドアを触る。ひやり、無機物特有の冷たさ。
私が寝ぼけているわけでもなさそうだ。
『会う前から知ってました。貴方は…ここでは、有名な方なので』
「? 俺が?」
『はい。“煉獄杏寿郎”は…世界的に有名な本の登場人物ですから』
「……、ん?」
なるべく簡潔にまとめたつもりの私の言葉に、その人が再び首を傾げる。
視線の先で、人生で初めて見た色の瞳が揺れた。
見間違いではないらしい
(ついに頭がおかしくなったかと思った)
END.
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