事件

 十一月のくせに生意気だ。こんなに暑いなんて聞いていない。風が吹き、程よい涼しさを長袖で享受する……それが十一月では無いのか。八百万命はジャージを腕にかけた状態で腕を組み、暑さに悪態をついた。
 試合後の球場でバスを待つ彼女は、春甲に出場するための秋季大会、準決勝につい先程勝利したばかりである。本気を出す必要も無い格下相手だったとのことで、試合途中で交代指示を受けたため、特に消耗はしていない。しかしベンチにも忍び寄る程の暑さに心身を削られており、早いところバスに乗ってのんびりしたいと思い息をひとつつく。

「命ちゃん、今回の試合だけど……」
「特に言うこともない」
「そっか」

 おかしな指示もダメ出しをするような場面もなく、強豪校の捕手をやりきった絹川に八百万から言うことは何も無い。また八百万にも失投は無く、試合後ミーティングでも監督が問題なしと言っていたのだからそれで良いと無言で頷きを返す。
 その少し後、いつも通り少し遠目に見える部員の喧騒に、ぽつりと言葉を流した。

「ただまぁ、暑いな……」
「スポーツ飲料買ってこようか」
「あぁ……」

 いつもであれば零さないような些細な愚痴を零す八百万に、絹川が反応した。八百万は適当に返事を返し、彼女のものより大きな背中を見送る。日陰がなくなり日光に晒された彼女は大きなため息をつき、喧騒より少し遠くの、日陰になっている階段に座り込んでタオルで汗を拭い取った。
 目を閉じて、遠くに聞こえる喧噪に耳を澄ます。さして興味は無いが、絹川が飲み物を持ってくるまでの時間を持て余すのが何となく嫌だったのだ。
 今日の試合のこと、監督のこと、他愛ない雑談などが聞こえるような気がする。特別耳が良くない彼女は眉間に皺を寄せ、息を吐いて盗み聞きを諦めた。

「あぁ、煩わしい……」

 暑さを我慢して煩わしさから逃れようと、腕に引っ掛けていたジャージを着る。布量は増えたものの、布を引っ掛けていた圧は消え、快適になった腕周りに満足気に頷く。
 しかし暑いな、そう思いながらも八百万が再び腕を組んだ時、コンクリートを踏みしめる音が彼女の耳に入った。飲み物を買いに行った絹川かと、鞄に手を突っ込んで目線を上げる。

「……?」

 そこに居たのは一人の女学生だった。それだけであれば別人かと目を反らせばよかったのだが、その制服が八百万のものと同じだったために彼女の視線を縫いつける。
 今回は吹奏楽のコンクール予選と日程が被ったため応援が来ていない。さすがの八百万とはいえマネージャーの顔と名前は一致しているし、皆ジャージを着てきている。通りすがりにしては目線が八百万に向きすぎているし、今もなおガッツリ合っている。
 そのまま逸らそうかと逡巡した後、無視をする必要も無いかと結論づけ、鞄に入れた手を抜いて声をかけた。

「何か用?」

 びくりと肩を震わせた女学生が俯く。若干挙動不審な様子に怪訝な目を向けるものの、それ以上の感情を抱くことのなかった八百万は首を傾げるだけだった。
 沈黙が空間を支配する。いい加減絹川帰ってこないかな、と八百万がため息を吐き出した頃に、俯いたままだった女学生が顔を上げた。

「あんたが」
「? あぁ」
「あんたがいるからッ!!」

 あんたがいるから。その言葉を咀嚼し、何のことだと聞き返そうとした瞬間には、八百万と女学生の距離が縮まっていた。
 いつの間に取り出したのか、手元に光る銀色の細身の刃が視界の端に映る。八百万は縮まりきった距離に避けるのを諦め、咄嗟に手で庇うのを意識して抑えた。強く噛み締めた歯がガリ、と音を鳴らす。女学生の肩越しに明後日の方向を向いた彼女が目にしたのは、呆然とした表情で自分を見つめる絹川の姿だった。

「ハァッ、ハァ、……は、はは」
「何をやってるんだ!」

 道中にいる女学生を突き飛ばし、絹川が八百万に駆け寄る。ジャージを赤黒く濡らす液体の正体を誰もが知っていた。痛みに堪えように浅く息をする八百万の前で膝で立ち、彼女以上に青くした顔でナイフに手をかける。そのまま抜こうと力を込めたところで、八百万が珍しく大声を上げた。

「抜くな!救急、しゃ、ゔ、……」
「ぁ、ご、ごめん、今、いま呼ぶから」

 遠巻きにで騒いでいた部員も何か起きていると気づき、焦っている絹川を見て別の意味で騒いだ。監督が駆け寄った時には八百万の意識は途絶えており、絹川は浅い息を吐きながら見たことの無い表情で会話をしていた。
 持ち合わせのガーゼで傷を押さえつけながら、尻もちをついたまま頭を掻き毟る女学生に声をかける。

「お前がやったのか」
「ちが、違う、どうして」

 うわ言のように違うと呟く様子を見て会話にならないと判断し、一生で見るか見ないかという程度の鮮血を見て、怯えや好奇の目を向ける部員を宥め、離れるように指示した上で部長である米倉を呼びつけた。

「バスで帰れ。今日はこれで解散だ。明日はいつも通りミーティングを行う」
「分かりました、伝えておきます」
「悪いな」

 眉を下げ謝罪の言葉を述べる監督に「大丈夫ですよ」と米倉は自身の胸を叩き、いつの間にか来ていたバスへ全員を誘導した。警察に電話をしながら去っていくバスの背を眺めた。
 女学生は未だに焦った様子でうわ言を呟き、八百万より白い顔色の絹川は八百万の手を強く握りしめている。

「絹川」

 この後について話をしようと絹川に声を掛けるが、頭が別のことでいっぱいな絹川には届かない。ショッキングなことがあったのだから当たり前か、と小さくため息をつき、大きく息を吸って改めて名前を呼んだ。

「絹川ッ!」
「は、はい!」
「私は警察の応対をするからこの場に残る。付き添いはお前がやれ。できるな?」
「…………はい」
「大丈夫だ。担任に病院に向かうように言ってある。まずはその血まみれの手と服を何とかしてもらえ」

 消え入りそうな返事は、救急車の音に掻き消えた。

(了)