可惜夜
月がよく見える夜は、ベランダに出て一人将棋をする。
「明日一限なのに月が綺麗だよ〜」
家から徒歩十五分の位置にある大学でも、朝が早いのは嫌いだ。泣き言を言いながらカラカラと窓を開けて、わざわざ買ってきた将棋盤をベランダに出した。ほんのり濡れたままの髪の毛が夜風を浴びて微かに揺れる。『風邪を引くぞ』なんて幼馴染の声が聞こえた気がしたが、これは江戸と現代の彼、どちらの声だろうか。
胡座をかいて「よろしくお願いします」と。誰に聞かせるでもなく呟いた。
七六歩。
将棋をするときは大抵過去を追想する時だ。その過去というのは紛れもなく正真正銘の過去であり、元来記憶にないはずの過去だ。
こちらに戻ってきてからというものの、記憶の混濁に惑わされる機会に恵まれている。当たり前のことだが、江戸時代の記憶を急に頭の中に埋め込まれた人間が、現代で真っ当にやっていけるわけがない。
しばらく愛想でやりくりしていたところ、目についたのが将棋だった。現代の俺は興味がないが、江戸の俺は将棋をしていた。俺が俺とコミュニケーションを取るというのは何だか変な話だが、江戸の俺に楽しみがないのは可哀想かと。馴染みのあるサイズの将棋盤を購入に至った。
俺が俺と対話するためのツールとして、将棋を運用している。
「……性格わる!」
みんなが性格悪い指し方ばっかりするから、俺も性格悪い指し方ばっかりしてしまってるみたいだった。残りの記憶といえばるーくんを何度か付き合わせて、一度かなり嫌な負かせ方をした後はつまらなくなって、それきり指していないことくらいか。
あの時るーくんは『律が楽しかったならよかったよ』と言ってくれたけど、もう一局くらい指しておけばよかったな。
七五銀。
月明かりに照らされながら銀を一歩前進させる。天然の照明を見上げれば、柔らかい光がじっとりと目を焼く。月は変わんないからいいよな、と一人毒付いて、ありえなすぎて少し笑った。
「なんだよ月はいいよなって……」
ひとしきり笑った後、駒を片付ける。こんな訳のわからないことを考えるなんて、頭が働いていない証拠だ。俺は幸せになるために生きているのだから、幸せにならなければならない。そのためには留年は避けたほうが良く、一限でも諦めて出るのが良い。
部屋に戻って冷えた体をさする。時計を見れば二時間経っていた。通りで。
片付けも程々に暖かい部屋から月を見上げた。歳三くん、勇くん、さのくん、へーくん、しーくん、けーくん、はーくん、そーくん。……それから、るーくん。
彼も、彼らも、この月を上げただろうか。その時に少しでも……いや、滅茶苦茶俺たちを想ってくれたなら、俺たちは報われる。そのための努力は頑張ったから、絶対に俺たちは報われてるよ。