きっかけ 1

同じような夢を何度も見ていた。
場面は毎回違うけれど、決まって海賊が出てくる夢だ。
もちろん所詮夢なのだから、起きた直後にはきちんと覚えていたとしても、日常を過ごすにつれてその内容は曖昧になることが多い。
だから、起きる度にそのことを忘れないようにと、メモをとることが習慣になっていた。
名前の走り書きから、動物の落書きまで。気づけば、夢日記はノート7冊分まで貯まっていた。
その日記を時々読み返すのが私の密かな楽しみだった。

夢を夢だと自覚していることを"明晰夢"というらしい。
物心ついた時からそれが当たり前で、"夢"というのはそういうものだと思っていた。
(周囲とその話題で盛り上がった際に、認識の食い違いに気づいたわけだが)
自覚しているからといって内容を思い通りに出来るわけではないが、現実のように自由に動き回ることが出来た。
ここが夢だと分かっているからこそ、物怖じせず危険な場所に行ってみたり、初対面の人にも気兼ねなく声を掛けることもあった。
万が一"失敗"しても、目覚めてしまえば無かったことなるからだ。

意識が浮き上がる感覚と共に、静かに目を開いた。
燦々と降り注ぐ陽光が眩しくて、思わず顔をしかめる。
足を踏み出そうと力を入れると、纏わりつく重さで重心が傾いた。
コケまいと踏ん張ってみたが、絡まった足によって盛大に転んでしまった。痛くはない。
衣服に付いた粒を払い、改めて周囲を見渡した。
一面には真っ白な砂浜と青々とした海が広がっていた。
水面が揺れる度に、太陽の反射で爛々と輝いている。
私はこの夢で見る海が好きだった。
鼻腔をくすぐる潮風の匂いが、耳触りのいい波の音が、不安や恐怖を洗い流してくれているようで、穏やかな気持ちになれた。

遠くから、賑わう人の声が聴こえてきた。
近辺に栄えた街でもあるようだ。その活気に吊られて街の方へと足を運んだ。
ひとまず無人島でなかったことに安堵した。
人が住んでいないということは、すなわち、"人が住めない環境"の場合があるからだ。
夢の中で訪れる場所は毎回違っている。
ここのように人が溢れた島だったり、時には人や動物も住めないような気候の島だったり、B級映画さながらの巨大な生物がいる島だったり様々だ。
目覚めた場所によっては危険な場合もあるが、来る度に違う景色を見せてくれるこの夢に、毎回心が踊った。
この夢について分かってることといえば、”赤い土の大陸(レッドライン)”という巨大な大陸に海が分断されていること、海賊と呼ばれる輩が蔓延っており、場所によっては治安が良くないこと、悪魔の実の能力者という不思議な力を持った人間が存在すること、だ。
どれも現実では有り得ない点を除けば、この臨場感溢れる音や匂いや感触は、我ながら確度が高い夢を見ているなと褒めてやりたくなった。

夢での体感時間は現実世界とは少しズレていた。
例えばここで数日過ごしたとしても、実際経っているのは数時間。私が入眠してから覚醒するまでの時間しか過ぎていない。
3日ほどここでやり過ごせば、自然と目を覚ますはずだ。
人が居る島なら、観光出来る場所も多い。退屈しなくて済みそうだ。
目を覚ませば記憶が曖昧になってしまうこの夢を、今の瞬間だけでも用いる五感で堪能する。
活気づいた街は人の声に溢れていた。
お嬢ちゃん安くしとくよ、と白菜を片手に声を掛けてくる店主は、賑わう街にぴったりな穏やか笑顔だった。

異変に気づいたのは、夢を見てから2週間ほどたった頃だった。
いつもなら数日程たてば醒めるはずなのだが、この時は幾度と待っても醒めることはなかった。
いくら夢とはいえ、いつまでも宿無しでは流石に困る。非常に困る。お風呂に入りたい。
海岸沿いの小さな洞窟で夜を明かすのもそろそろ飽きてきた。
いつ目覚めるか分からない終わりの見えない夢に、途端に孤独感が押し寄せてきた。
親も兄弟も親戚も友人もこの世界にはいない。頼れるような人は誰一人として存在しないのだ。
自分で見ている夢のはずなのに、コントロール出来ないことが恐ろしかった。
まるでこの世界が夢などではなく、本当に確立したひとつの世界であるかのように思えて恐ろしかった。
空腹や喉の乾きや眠気が襲って来ないことだけは、ここが夢であるということを改めて認識できてそれが唯一の救いだった。
醒めろ醒めろと何度も目をつぶって願ってみても、目の前の景色は変わらない。
現実では味わえない新鮮な感情を教えてくれるこの世界も、頼れる人が居ないと理解した瞬間に、得体の知らない虚無感が押し寄せてくる。
胸の奥が針を打たれたかのようにずきりと傷んだ気がした。

とはいえ、このまま野垂れ死ぬわけにもいかなかった。
(夢の中で死ねるかどうかは分からないが)
私だって現代ではしっかり国に税を納めている社会人だ。大の大人が泣きわめいて助けを乞うことなど、なけなしのプライドが邪魔をして簡単には出来ない。
まずは衣食住である衣と住がほしい。食は最悪無くても問題ないが、この2つだけは早急に手に入れたい。
暇を持て余した数週間を使い散策したおかげで、島の地理はある程度頭に叩き込んだ。
目的地は求人募集の紙が貼られた掲示板。そこで、住み込みでバイトを募集しているお店に掛け合うことにした。
自分からこの世界の人たちと関わるのは久しぶりだ。
過去にも何度か得体の知れない私を親切で泊めてくれた人もいたはずなのだが、夢から醒めるのはいつも突然で、結局誰だったのは思い出せないことが多い。
日記には、名前はあれど人の顔までは書かれていないからだ。
もし、思い出せたその時には、きちんとお礼を言えたらいいと思う。
決して治安が良い世界とは言えないが、それと同時に人情深い人が居ることは書き記された日記に残っていた。

結局私が夢から目覚めることはなく、この世界に来てから半年以上が過ぎようとしていた。
最初は不安を紛らわすために朝から晩まで働き詰めの生活を送っていたが、人間どんな状況に置かれても結局適応してしまうものらしく、2ヶ月目くらいからはホームシックも収まり、独りで居る時に涙を流すこともなくなった。
今は週5のペースでアパートのオーナーが営んでいるバーで昼から働かせてもらっている。
しかしどんなに仕事で気を紛らわそうとも、ふとした時に感じる心がぽっかり空いたような感覚はいつまで経っても慣れることはなかった。
バーということもあって、店にはお酒を求めた街の人や海賊が度々やってくる。
各島の銘酒を取り揃えているこのバーは、決して安い価格で呑めるわけではないので、お客様もそれなりに常識や礼儀をわきまえた人が多い。
それでもたまにマナーがなってない輩が乱闘騒ぎを起こすので、その時には街に常駐している海軍に取り締まってもらっている。
店員として海賊の話相手になるのは悪くない。お酒を飲んで上機嫌になった彼らから聞く過去の冒険の出来事はすごくワクワクするのだ。
特に最近出会った麦わらの一味と呼ばれている海賊の面々の話は面白かった。
なんと彼らは、空に浮かんだ島に行ったことがあるらしい。
現実では存在しないような巨大な海洋生物がウヨウヨいる世界だ、空に島が浮かんでいても何ら不思議ではないのかもしれない。
そこでの戦いや黄金の話は、海賊じゃない私でもドキドキするような、ロマンに溢れた話だった。
彼らのおかげで海賊が悪い人たちばかりではないと分かり、少しだけ視野が広がった。

そんなある日、新たに店にやってきた、ハートの海賊団という名の海賊に出会った。
クルーは揃って胸にトレードマークが入った白いつなぎを着ている。そんな中で1人だけオレンジのつなぎを着たしゃべるシロクマがいた。
麦わらの一味にも喋るトナカイのチョッパーくんがいたが、流石にシロクマを目の前にすると小さなチョッパーくんとは迫力が違う。
お酒の注文が次々と入る中で、一際大きい声でオレンジジュースを1つ!と叫んだ彼に、ビクリと身体が跳ねる。
仲間の1人が店員を怖がらせてるんじゃねえよ!と笑いながらやじを飛ばした。
するとすぐさま頭を下げてすみません…と私に向かって頭を下げたシロクマくんに、こちらも慌てて謝罪する。
同じポーズで謝り合う私とシロクマくんに、似た者同士だとクルーの面々が笑っていた。
彼らはこの島のログとやらを貯める間、毎日バーに来てくれた。
初日で仲良くなったシロクマくんの名前はベポくんというらしい。
彼や気さくな船員たちは、酒のつまみにと自らの船長のこれまでの武勇伝を嬉しそうに話してくれた。
船長を慕っている気持ちがこちらまで伝わって来て、麦わらの一味とはまた違った意味でほっこりと心が暖かくなる。
当の船長さんは口数が少なくクールな印象でまだまともな会話をしたことはないが、内側には優しさと情熱を秘めている人なのかもしれない。
追加注文でお酒の名前を小さく呟いた船長さんとぱちりと目が合った。
鋭い眼孔は、深い闇色に染まっている。薄暗い店内と彼が被っている帽子の影も相まって、感情を読み取ることは出来ない。
きっと私が想像し得ないものを、たくさんその目で見てきたのだろう。
平和ボケした世界で何不自由なく生きてきた私には、その目に底知れぬ恐怖を感じて、思わず目を逸らした。
クルーが言う船長さんの優しさは、会って間もない私には分からない。
彼らはお客様で私は店員、それ以上知る必要はなかった。
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