きっかけ 2

半年以上穏やかに過ごせていたこともあって、気が緩んでいたのかもしれない。
タチの悪い海賊に目を付けられてしまった。
普段は治安の悪い路地は歩かないようにしていたが、急ぎの買い出しがあって道を短縮しようとした結果がこれだった。
カツアゲ程度ならお金で解決出来るだけまだマシだ。
しかしその海賊達は、あろうことか夜の相手を迫ってきたのだ。自分で言うのも虚しいが突出した容姿を持っていない私に、だ。
所詮、奴らにとっては挿れる穴さえあれば、容姿なんて関係ないらしい。
穏便に済むように丁重に断ったつもりだが、それがプライドに逆撫でる結果になってしまったようで、追われる羽目になった。
剣や銃を振り回しながら、怒号を飛ばしてくる。
逃げ回るうちに島の人たちの注目を浴びたが、みんな怯えて見て見ぬふりをしている。
いつもなら気さくに話し掛けてくれる八百屋の店主も肉屋のお姉さんも、火の粉が振りかからないように必死に顔を逸らしているのがわかる。
当然だ。相手は命を容易く奪うような危険物を持っている。
そんな奴に丸腰で挑んでもどうなるかなんて、考えなくても理解出来る。
誰だって死は恐怖だ。赤の他人のために自分の身を投げ出すなんて、そうそう出来る訳が無い。
人間として当然の反応だ。

海賊相手に足の速さで勝てるはずもなく、とうとう追いつかれてしまった。
海賊の一人がもう逃げられないようにと、躊躇なく銃を構えて発砲した。
ドンッという地に響く鈍い音と脚に伝わる衝撃に顔を歪める。
丁度路地から商店街の人達が行き交う姿が見えたが、その賑わいに銃音はかき消されたのか、誰も足を止める人間はいない。

「おい、それ以上傷つけんなよ。一通り楽しんだ後にヒューマンショップに売りつけるんだからな」

懐からナイフを取り出したもう一人の海賊が、下品な笑みを浮かべながらこちらに一歩一歩近づいてきた。
誘いを断っただけでこんなことになってしまうのか。断らなかったときの自分の末路を想像して悪寒が走った。
バーで働いているからこそ、お酒が入った海賊や海軍、街の人から色々な話を聞ける。それが裏の情報であっても、だ。
一般市民として何も力のない私たちを彼らは脅威としては見ていない。
聞く耳をもたずともそういう話は耳に入ってきた。だからこそ、この世界も暖かいものばかりではないことを知れた。
闇取引や人身売買、人体実験、計り知れないありとあらゆることが、こちら世界では当たり前に行われているのだ。

「その強がりがどこまで持つのか見物だなぁ」

前髪をぐしゃりと掴まれ、喉元にナイフを宛てがわれる。躊躇など微塵も感じられない。
私の応答次第ではそのナイフで掻っ切ってしまうだろう。
声も出せずに、自然と身体が震えた。かちかちと歯がぶつかる。
平和ボケした日常を過ごしていた人間には、耐え難い恐怖だった。
これが本当に夢なら、早く醒めてほしい。
現実に戻れば、この反吐が出るほど気持ちが悪い悪意も簡単に忘れることができるのだから。
撃たれた足から血がどくどく流れていく。サァッと血の気が引いていく感覚に、吐き気がした。
“痛み”を感じないことだけが、不幸中の幸いだった。
血が流れる感覚や弾の異物感はあるが、本来当たり前に備わっているはずの痛覚がこの世界の私には無かった。
そう、これは全部”夢”だから。

初めて気づいたのは、バイトでキッチンを手伝っている最中に、不注意で足に包丁を落としてしまった時だった。
下を向いた鋭利な刃先がサクリといとも簡単に私の足を貫いた。目の前の衝撃的な光景に、声も出せずに身体が硬直した。
だが、いつまで経っても次に襲って来るはずの痛みは来なかった。
包丁を抜いた傷口から流れる血は、止まることも知らずに惜しみなく流れていく。
ここは私は作り出した夢なのだから、睡眠も食事も不要で、どんなに働きづめても疲労を感じないことは分かっていた。
ただ痛みの部分だけはどうしても自分で試す気にはなれなくて避けていたが、これをきっかけに痛覚がないことも判明した。
しばらく傷口を眺めていると、切れ目がみるみるうちに塞がっていくのを見た。
まるで最初からそんなものなかったかのように綺麗さっぱりなくなった傷口。
オーナーもこのことには気づいていない。床に流れていた血を雑巾で拭えば、完全に事故は無かったことにできた。
次にオーナーに声を掛けられた時、私は笑顔で返事をしながら持っていた血塗れの雑巾をゴミ箱へ捨てた。
私の命もその雑巾のように軽くなったように感じた。

ただ呆然と撃たれた傷口を見つめていた。
このまま拉致されてしまえば、何処かの闇市場にでも売り飛ばされてしまうのだろうか。
この特殊な身体のことを気づかれてしまえば、壊れない玩具として奴隷や人体実験に合う可能性も拭いきれない。
ギラついた目で私を見下ろしているこの男たちが、何もしないまま売りに出すとは思えなかった。抵抗すれば、動けないように四肢を奪われて監禁というのもありえる。
傷は完治するようだが、切断された場合も生えてきたりするのだろうか。
自嘲の意味も込めて、薄ら笑いを浮かべた。それこそもう化け物だ。
今までは、怖い目に遭いそうになる前に反射的に目醒めてしまうことがほとんどだった。
だからこそ巨大な生物に近づいてみたり、海に飛び込んでみたり、身体を張ることができたのだ。
いつ目醒めるかも分からない今の状況は、ただ生き地獄でしかなかった。

「こんな状況で笑えるとは、随分と余裕じゃねーか」

ぐしゃり。男が銃を撃ち込んだ方の足を容赦なく踏みつけた。
それでも悲鳴すら上げない私を不審に思ったのか、今度は頬やみぞおちを殴ってきた。ヒュッと息が止まる。
私の身体は、衝撃で壁に叩きつけられた。女だからといって容赦はないらしい。
苦しさに咳き込みながら男たちをキッと睨みつけた。
なんだこいつ、化け物か…!?と血相を変えて、銃を構えた。
どう見ても優勢は男たちだが、その顔には焦りの表情が浮かんでいた。
足首が疼くのを感じ、そこに目を向ける。
銃で空けられた穴は塞がっていた。弾がコロンと地面に転がった。
土で汚れたパンツを手で払って立ち上がる。もう異物感は消えていた。

「て、てめぇ!さては能力者だな!?」
「違いますよ」

能力者というのは悪魔の実という果実を食べた人のことを指すようだし、だとしたら私は能力者ではない。
この体質が普通とは言えないのも事実だが、その基準には当てはまらないはずだ。
私の言葉に、どちらにしても傷が治るなら都合がいいと言い放った男は、こちらに向けて再び銃を向けた。
今度こそ手足を動けなくして連れ去るつもりらしい。
逃げなくちゃ…!
完治した足で地面を蹴った。せめて路地を抜ければ人目に触れるはずだ。
流石に男たちも人通りが多い場所で無闇に銃を発砲したりはしないだろう。
海軍に見つかれば、追われるのは男たちの方だからだ。
待ちやがれ!という声と共に、銃声が響き渡った。胸部にドンッと強い衝撃が走る。
その勢いで足が縺れ、地面に倒れ込んでしまった。
足を撃たれた時以上に血の気が引いていく感覚がした。違和感の原因である胸に手を当てると、そこが真っ赤に濡れていた。
銃声の音が聞こえたらしい街の人達が路地を覗き込んだのが見えた。
撃たれて倒れる私を見て、きゃーっと一際大きい悲鳴が上がった。
この光景は無視出来なかったのか、海軍を呼べ!と住人達がザワついているのが分かる。
その言葉に、海賊二人は慌てた様子で倒れた私を乱暴に担ごうとした。
その時だった。
roomと低く落ち着いた声と共に、薄い膜のようなものが私たちを飲み込んだ。
次の瞬間、私は何故か横たわっていた。男たちから離れた距離の地面に、だ。

「キャプテン!この子、あのバーの店員だよ!胸を撃たれてる!」
「あぁ、すぐに治療する。慎重に運べ、ベポ」
「アイアイキャプテン!」

その特徴的な声には聞き覚えがあった。
細めた目でその主を確認すると、ここ最近バーの常連になってくれていた、ハートの海賊団のベポくんと、その船の船長さんが私を見下ろしていた。
これが悪魔の実の能力というものなのだろうか。魔法のような芸当をまさか自分自身が身を持って体験するとは思わなかった。
ベポくんは痛いだろうけど我慢してね、と優しい手付きで私の身体を持ち上げた。治療をしてくれるらしい。
そういえば、船員から武勇伝を聞いた時に、船長は医者だと語っていたことを思い出した。
このまま手当をされてしまうと、この人たちに身体のことを知られてしまう。
慌ててベポくんの胸を叩いて、降ろして欲しいと口にしようとした途端、先程の海賊達がこちらに向かって大声をあげた。

「おいテメェら!その化け物を返せ!」
「化け物…?何言ってるんだ、アイツら」
「あの、すみません、もう降ろしてもらって大丈夫です…!」
「わっ、安静にしてないと危ないよ!」

男たちの声に気を取られていたベポくんの腕を押し退けながら、半ば強引に降りた。
本当に心配そうに私の身を按じてくれた彼に罪悪感を覚えるが、グッと堪えて無理やり笑顔の表情を作った。苦し紛れに傷は浅かったことを伝えて、お礼を言う。
この時にはすでに胸に空いた穴も塞がっていた。
最後に頭を提げてから、急いでその場を後にした。彼らは追って来なかった。
最後にもう一度、roomという船長さんの落ち着いた声が、走る私の背後から聞こえた。

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