きっかけ 3

血で染まった服を自室で着替えてから、バーへ戻った。結局買い出しの品は買えていないままだった。
オーナーに謝罪しようと声を掛けると、血相を変えて私の身を案じてくれた。
路地での騒ぎを見ていたお客さんから教えてもらったらしい。
なるべく大事にはしたくなかったが、あれだけ騒ぎになれば広まるのもあっという間のようだ。
怪我は?血は?と本当の両親のように気遣ってくれるオーナーに申し駅なさと嬉しさを感じた。
大丈夫と伝えてみても、それを痩せ我慢だと受け取ったらしく、今度は病院に行こうと腕を引かれる。
もう手遅れな気もするが、極力目立つようなことは避けたい。慌ててその証拠にと塞がった傷口を見せた。
銃で撃たれた胸の傷はやはり綺麗さっぱり消えていた。掠り傷さえ見当たらない。

「客の話では海賊に撃たれて出血していたと聞いたんだけれど…」
「威嚇射撃にびっくりしてみんな見間違えたんだと思います」

身元を明かさない私にも優しくしてくれるオーナーに嘘をつくのは気が引けた。
だが、それ以上に嫌われたくないというのが本音だった。
私の可笑しな状況のことを話すことで、せっかく築いた関係を壊すことが怖かった。
気を取り直して開店の準備を始めようとすれば、自宅謹慎を命じられた。
怖い思いをしたのだから、しばらくはお店に来なくていいとまで言われる。
その言葉でハッとした。怖い思いをした感覚すら薄れていた。
すぐに治ってしまう傷や、感じない痛みのせいで、撃たれたことさえ些細なことに思えてしまっている自分がいる。
ここで過ごすうちに鈍くなる感情に、人として忘れてはいけない何かが遠ざかって行く様な気がした。
それだけは嫌で、オーナーの言葉に甘えてしばらく休暇を取ることにした。
数日も経てば、この騒ぎの噂も消えてしまうはずだ。そしてまた、なんでもない日常に戻れる。
着ていたエプロンを脱いで、身支度を整えた。オーナーにお礼と謝罪を述べてから、お客さんが出入りする表口から出た。

「おい」
「うわっ…!!」

予期せぬ声にびっくりして、年甲斐にもなく派手に尻もちを着いてしまった。
ドドドッと走るような心臓の音が耳に直接響いてくる。
私を呼び止めたのは、心地いい低さの、先程ぶりな声。確認しなくても誰だか検討は着いたが、目視するために顔を上げた。

「ハートの海賊団の、船長、さん…」
「怪我は、完治してるみてぇだな」

やはりそこにいたのは、さっきあの男たちから助けくれた船長さんだった。
しかし今は、一緒にいたはずのベポくんや他の船員たちは居らず、彼だけが私を見下ろす形で立っていた。
視診するように、頭のてっぺんから足の先まで視線が動く。
最後にカチリと目が合って、舌打ちされてしまった。何故だ。
彼は肩に担いでいた身の丈以上の刀を私の首筋に添えた。
尻もちを着いたまま、身体が固まって動けない。蛇に睨まれた蛙とはよく言ったものだ。
その間も外れることのない視線が、何を見据えているのか分からなくて怖かった。
目下にくっきり付いた隈の方が、先程撃たれた私より不健康そうだと思った。

「先程は助けてくださりありがとうございました」
「お前、能力者か?」
「いえ、違います、けど…」

お礼の言葉など聞く気はないらしい。
あの非道な海賊達にも投げられた質問。
否定した私の言葉を聞いて、ただでさえ寄ってる眉間のシワがさらに深く刻まれた。

「じゃあお前は身体に穴が空いても平気で生きている''ごく普通''の人間ってわけか」

コロリ、と船長さんの手元から何かが転がり落ちた。
それはひしゃげた形の銀色の鉛玉。私があの海賊たちに撃たれた際にこぼれ落ちた銃弾だった。
嫌味を含ませて"ごく普通"を強調した彼に、今度は私が眉間にシワを寄せた。
確かに今の私は、彼の言う"ごく普通"には当てはまらない人間かもしれない。
だが、身体をゴムのように伸ばしたり、瞬時に物を移動できるような、そんな力は持ち合わせていない。
どう返答すれば納得してもらえるのか、必死に頭を巡らせる。そもそも、この人に本当のことを言ったところで、はいそうですか、と頷いてもらえるとも思えなかった。
息苦しい沈黙が続く。

「…気づいたら、こんな身体になっていた、と言ったら信じてくれますか?痛みを感じなくて、傷も治ってしまう可笑しな身体に」

肝心の”夢”の部分は伝えずに、自身の体質についてのみ話をすることにした。
嘘は言っていない。痛みを感じないことも傷が治ることも、今回の夢で初めて知ったのだ。
こちらの返答を聞いても、船長さんの表情は一切変わらなかった。
信じてもらうには見てもらう方が手っ取り早いのかもしれない。
首筋に添えられた刀に手を掛ける。
躊躇いはあった。痛覚がないとはいえ、自死行為には変わりないから。
一瞬の恐怖を飲み込んで、自身の手で刃を押し当てた。
プツリ、と肉が裂ける音が脳に響く。
良く手入れされた刀なのだろう。軽い力で押したつもりだったが、いとも簡単に首筋の皮膚を切り裂いた。
傷ついた動脈から勢いよく血が吹き出て地面を汚す。
痛みはない。だが、血の気が引いていく感覚は何度味わっても気持ちがいいものではない。
さすがの船長さんもこの行動には驚いたらしい。見開かれた目から幾分か動揺が伝わってきた。
刀身が退かれた途端、roomという言葉と共に、先程目にしたドーム上の半透明な膜が辺りを包み込んだ。
船長さんの刺すような鋭い眼光に怒りが感じられる。
どうやらやり方を間違えてしまったようだ。カンカンと警告音が頭の中に鳴り響いた。

「…てめぇ、何のつもりだ?」
「ご、ごめんなさい、悪気はなかったんです、見てもらう方が早いと思って…」

切り掛かる勢いで刀を構えた船長さんに、慌てて謝罪の言葉を述べる。
滴り落ちていた血の流れが徐々に弱くなるのを感じた。
カバンから取り出したハンカチで首元を拭うと、案の定傷口は綺麗さっぱり塞がっていた。
本当に化け物のようだ、と他人事のように思った。
無くなった切り口を見せるために、首筋を船長さんに向ける。
これで信じてもらえるだろうか。
しばらく沈黙が続いて、船長さんの深いため息が聞こえてきた。さらに、馬鹿だろお前、という貶む言葉が続く。
いつの間にか、私を囲んでいた膜も消えていた。

「馬鹿げた話、ですよね…。こんな化け物みたいな身体なんて」
「いつからだ」
「え」
「いつその身体に気づいた?」
「半月くらい前です。刃物で怪我をしたことがあって、その時に…」
「お前が覚えてねぇだけで実を食った可能性は?」
「能力者の方は海から嫌われて泳げなくなるんですよね?なら、無いと思います。まだ泳げるので」
「温度は感じるのか?」
「氷を触っても冷たいと思わないので、温度も感じてないですね」
「欠損した場合、身体はどうなる?」
「それは試したことがないので、分からないですね」

海賊をしているとはいえ、医者として好奇心だろうか。
捲し立てるように矢継ぎ早に質問が飛んでくる。
しかしどれも納得出来る返答ではなかったようで、熟考する様に口元に手を当てていた。まだ警戒の色は取れない。
手放しに信じてもらえるとは思っていない。
こんな可笑しな身体、現実ではありえないのだから。
(そもそもここは私にとって夢ではあるが)
閑古鳥も思わず鳴いてしまいそうな長い沈黙が続く。
その静けさを破ったのは、特徴的な声をした彼の可愛らしい船員だった。

「キャプテン、大変だよ!さっきの海賊が騒ぎを起こしたせいで海軍の奴らが大勢巡回してるんだ」
「あぁ分かった、一旦ほとぼりが冷めるまで船で待機するぞ。他の奴らにも伝えておけ」
「アイアイキャプテン!…ってあれ、お前!さっき撃たれてたバーの店員!」
「あ、さっきは助けてくださりありがとうございました。それと、私が騒ぎを起こしてしまったせいで迷惑を掛けてしまってすみません…」
「そんなことどうでもいいよ!あんな怪我を負ってたのに本当に平気なのか⁉︎」
「はい、おかげ様で大事にならずに済みました」
「えぇ⁉︎あんな致命傷受けて…」
「ベポ」

こちらを気遣ってくれるベポくんの言葉を遮って、睨みを効かせた船長さん。
凄味を感じる表情に、ベポくんはびくりと身体を震わせた。船長命令は絶対のようだ。
彼は慌てて別の船員たちを探しに、路地の中へと消えていってしまった。
船長さんはそれを確認すると、続くように身を翻し路地へと足を進める。
聞きたいことは済んだみたいだ。
海軍が巡回しているとなると、こんな一市民の相手をしている暇もないだろう。
張り詰めた緊張感から解放されたことにホッと一息つく。
これでようやく帰路に着ける。
彼らが入っていった路地とは反対方向につま先を向け、一歩踏み出そうとした。その途端。
お前、と船長さんから再度声が掛かる。
反射的に振り向くと、彼も歩みを止めていた。

「…オペオペの実を知っているか?」
「おぺ…?」
「…知らねえなら忘れろ」

首を傾げる私に言うだけ言うと、船長さんは路地裏へと姿を消した。
私の体質に心当たりでもあったのだろうか。探られたところで関連性は無いとは思うが、煮え切らない言い方に疑念が残る。
この世界では、”悪魔の実”というのがよほど重要な代物のようだ。
話によると、炎や電気など自然の力を操る能力で天候をも左右するほどの強大な力を持つ人をいるというのだから、無視できない存在になるのは当たり前か。
そのとんでも人間達と同じように扱われるのは不服だが、夢の中を自由に歩き回っている時点で私も大概おかしな人間に当てはまるのだろう。
今日は大変な1日だったな…。
先刻の出来事が頭を駆け巡って、嘆息を漏らした。
明日からはいつもの日常に戻ることを祈りながら、私は重い足取りで帰路についた。
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