朝練と転校生

グッと腕を伸ばすと、濡れた髪から雫が滴り落ちる。本日の天気は快晴。気温も高く、早朝から水泳部の朝練でプールに浸かり冷えていた身体にはちょうど良い。
心配していたサッカー部も無事にフットボールフロンティア、通称FFの地区大会への出場権が獲得されたことで、凪の頭を悩ませるのは水泳部のことだけとなった。完全に掛かりきりになれるかと言えば定期テストもあるのでそうは言えない。が、悩みが無くなったことは間違いなく解放感を与えていた。

「さぁて!目指すぞ全国!」

去年一度、登り詰めた頂点。その場所に立つことはあくまで彼女が目指すものの通過点でしかない。
今度こそ、絶対になってみせる。
輝く太陽に向かい、手を伸ばす。陽に透かした手が赤くなった。

「おはよう、凪」

ポンと肩を叩かれ、凪は聞き慣れた声に笑って振り向いた。

「風丸!おはよ!」

すると振り向き様に髪から水が飛んだのだろう。風丸が迷惑そうに、顔に飛んで来た水滴を拭う。

「髪、濡れたままだけど、朝練してたのか?」
「あぁ、うん。髪は乾かすのめんどくさくてさ」
「……風邪引くぞ」
「ここ数年、風邪引いてないから問題無いよ!」

ふふんと自慢げに胸を張る凪にまったく、と仕方無さげに風丸は笑う。
凪はそれを流すように笑うと「そういえば」と言った。

「FFの初戦の相手って決まったのか?」
「いやまだだ。でも多分、今日辺り円堂から発表あるんじゃないか?」

顧問である冬海が選考会に言っているので、どんな組み合わせになるかはさっぱり分からないのが現状だった。そんな不安定な状況だが、不思議と高揚感を風丸は感じていた。それを後押しするように凪は勢いよく頷いた。

「ま、どんな相手だろうときっと勝てるさ!」
「あぁ、そうだな!……っとそろそろ行かないとまずいんじゃないか」
「ホントだ!職員室に用あるし、急ごう!ゴーだ!ゴー!!」
「あ、おい!!」

風丸の腕を掴むと、突然凪は走り出す。
当然の事ながら速く走るには足を大きく振る必要がある。ともすれば、スカートが捲り上がるのだ。腕を牽かれていた風丸は思わずぎょっとした。

「おまっ!!?止まれ凪!!」
「え?」

制止の声に大人しく従うと凪はその場で急ブレーキを掛けた。

「あ、もしかして腕痛かった?ゴメンゴメン!」

悪びれる様子もなくカラカラと笑う。欠片も恥じらいが存在しないようだ。まったく、この昔馴染みは、と風丸は大きくため息を吐いた。

「お前スカートだろ……大股で走るな」

すると顎に手を当て、言われたことを不思議そうに受け止める。一拍置いた後、あぁ、と凪は手をポンと打ち、親指を立てた。

「大丈夫!下にスパッツ履いてるから!」
「そういうことじゃなくてだな……とにかく、大股で走るな」

呆れ返る意図を少しもできない凪に風丸は頭を悩ませた。理解できないようで不満げではあるものの、凪は首を縦に振った。
カッコいいだのなんだの、そうしたことに拘るが、所々で小学生だった頃の癖が抜けきらないのだ。昔馴染みの変わらないところどうにかならないものか。大人しく横に並び歩いていると、背も対して変わらないし制服が男子と女子に別れた以外に代わりが無いようにしか感じない。
と、風丸が色々頭を悩ませている間に階段の上がり口辺りに来ていた。
凪は手の中でプールの鍵を鳴らすとそれを風丸に向けた。

「じゃ、これ返してくるから先行っててー」
「分かった。でも、いいか。走るなよ」
「分かった分かった!!じゃ!」

大きく手を振り二人は別れる。風丸は教室へ、凪は職員室へと向かう。

「失礼します」

ガラリと朝の騒がしい職員室の扉を開け、顧問の元へと行く。書類を手に難しい顔をしていた顧問はその姿を見つけると、ニッと笑った。

「毎日済まないな」
「いえいえ!これも部長の務めですから!」
「朝練始まって、一年生はどうだ?」
「んー、やっぱり朝はキツいって子が多いですね」

当然の事ながら、小学生からまだ上がってきたばかりの一年生は練習が本格的になるにつれ、キツいと相談してくる者が多かった。水泳部はただ泳ぐだけではダメだ。より速くなるためにはつまらない基礎練習もしっかりこなさなければいけない。練習メニューを組み立てている凪も、できる限り楽しくできそうなものを作ることを心掛けているが、皆が皆、満足できるものを作るのは難しい。けれど今年の目標達成のためには甘えさせるだけもできない。
やはり部長は難しい。
しかし、だからこそ、やりがいは充分だ。
顧問からの心配そうな視線に、凪は明るく笑いを返した。

「ま、なるようになりますよ!それじゃあHRあるので!」
「おう!お疲れ!」

さて職員室を出るか、と凪はドアに手を掛けた独りでにそれは動いた。驚き固まる凪と戸を反対から開けた男子生徒が相対する。

「っと……ごめん!」
「いや、こっちこそ悪いな」

染岡より少し高いくらいの身長だろうか。だが見たことが無い。凪はひょろりと細く折れそうなヤツだな、と勝手な印象を持った。

「土門君、こっちに」
「あ、はい」

教師に呼ばれると男子生徒は凪に小さく手を振ると脇を通り抜けていった。反射的に小さく振り替えすと凪は職員室を出た。
そして戸を閉めた所で立ち止まり、やっぱり見たことない顔だったなぁ……と先程の男子生徒を思い出し首を傾げたのだった。

※※※

昼休み、購買から戻ってくると廊下を彷徨いている男子生徒に気付き、凪は足を止めた。
ひょろりと背が高いその人物は今朝職員室で見た男子生徒で間違いないだろう。
声でも掛けてみるか、と彼女が思ったところでばちりと視線が合った。すると男子生徒は「よ!」と馴れ馴れしく言葉を掛けてきた。

「いやー!今朝は悪かったな!」

人懐っこい笑みを浮かべる男子生徒。朝のこともそうだが、人好きな方のようだ。
好意には好意を。凪も釣られてへらりと笑った。

「あれは避けよう無いから気にするなって!」
「ありがたいぜ!オレ、土門飛鳥!今日から転校してきたんだ」
「あ、だから見たことなかったのか……」

予想はしていたが、豪炎寺といい、土門といい、珍しい時期に来たものだ。学期始めでもない今、しかも同じ学年に二人目だ。驚くのも無理のないことだった。
凪は土門の言葉に頷くと手を差し出す。

「私は鳴海凪!気軽に『凪くん』とでも呼んでくれ!」

と、凪のいつものジョークに「お、おう」と返す土門は、若干面食らったようではあるが、その手を握り返した。
持ちネタの変更を真面目に検討すべきだろうが、これ以外のジョークが無いのだ。国語が苦手な凪だったが、意外すぎるところで苦手教科の問題が出ているのであった。
誤魔化すために、こほんと一つ咳払いをする。

「ま、まぁ、クラスは違うけど、何かあれば気軽に頼ってくれよ!これでも結構色々できるからさ!」

手を胸に当て反らすと凪のゴーグルが揺れる。

「んじゃあ鳴海、いきなりで悪いんだが……ちょっと頼みがあるんだ」
「頼み?」
「そ!理科室って何処にあるか教えてくれないか?」

頼むぜ!とパチリと片目を瞑った土門に凪は白い歯を見せた。

「それくらいならお安いご用さ!土門は次、移動教室なんだ?」
「ああ。でも購買だとか色々校内で迷ってる間にクラスメイトが皆行っちまってさ……」

困ったように土門は頭を掻く。
その様子に凪はからからと笑うとぱちんと指を鳴らし、その場で一回転する。その回る最中に時間の確認も忘れない。まだ昼休みの終了までは5分程度はある。5分で行って、1分で戻れば問題ないだろう。鐘が鳴り終わる前に教室に入ればいいというのが凪の認識だ。

「……OK!じゃあさっさといこうか!」
「ああ!助かるぜ!」

と、この後、思うよりも土門との話が弾んだせいで理科室まで連れていくのに時間がかかり、結局授業に遅刻するとは少しも凪は思わなかったのである。