エマージェンシー

「凪くん、明後日大会だけどどうしたんだい?」

善一郎は、リビングのソファの上で打ち上げられた魚のように、ぐったりと横たわる凪に恐る恐る声を掛けた。

「何でもなくないけど、何でもない……」

よく分からない返答だった。

「そ、そっか……」
「うん。自分でどうにかしないといけないから」

よいしょ、と年寄りクサイ仕草で身体を起こすと、凪はソファの近くに落ちていた水泳雑誌を手に取った。今年開かれる世界大会への出場権を勝ち取った選手達へのインタビューのページをペラペラと捲る。その動作に特に意味はない。
彼女の頭の中では、電話で告げられた言葉がぐるりぐるりと絶えず回っていた。信じられるわけがないと叫ぶには裏付けが無く、信じたい気持ちばかりが逸る。日を跨いでも解決作は思い浮かばず、力無く教室の机に突っ伏した。

「はぁ」

溜め息を一つ。
うんうんと唸りながら自席に臥せっていると、それにイラついた染岡は容赦なく彼女の座る椅子の脚を蹴飛ばした。

「いってェ……何すんだよ染さん!!」
「お前うるせぇんだよ!次の次の時間の小テストの暗記してんだから黙ってろ!」
「理不尽んんん!!」

ピャーピャーと騒ぐ凪の頭に拳が一発落ちる。身長差から繰り出されるそれは、見事にキまった。ぐすん、と泣き真似をする凪にはいい加減見飽きたのか、虫でも払うように手で追い払うジェスチャーをすると、テキストから視線は反らさないものの、染岡は言った。

「何悩んでんだか知らねぇけどよ、悩むならさっさと行ってこいアホタレ」

やや投げやりな言葉だったが、覚悟を決めるには事足りていた。凪は二、三度目を瞬かせると重々しく頷き教室を飛び出した。
それを横目に見ていた染岡とクラスメイトは首を傾げた。

「で、染岡。何でか知ってるのか?」
「知るか。アイツのことだから、どうせ牛乳飲むかイチゴ牛乳飲むか悩んでたんだろ」
「あー……なるほど」

全く理解はされていなかった。
ちなみに関係ない余談だが、クラス内で凪は机に臥せりながら唸っていることはテスト前や買うもの、食べる飴の味等、わりとよくあることなので、気にされるときの方がレアだったりする。なお、彼女も扱いが雑なことは気にしてないので無問題なのだ。
閉話休題

「どもーん!!!!」
「は?」

スパンと土門の在籍する教室のドアが開く。そこには仁王立ちする凪。そして彼女に大声で名字を呼ばれた土門は目を白黒させた。

「ちょっと表出ろ!」

クッと親指を立てると凪は後ろの廊下を指す。

「はっ!?いや、え!?」
「大丈夫!休み時間はまだ余裕あるから!」

そう言って疑問符を浮かべる土門を無理矢理連れ出すと、凪は人気の無い空き教室に押し込んだ。休み時間中とはいえ、早く終わらせなければいけないことなので手早く彼女は切り出した。

「土門、お前帝国のスパイって本当か?」

眉根を寄せ、拳を握り締める。嘘だと言ってほしい、彼女はそんな気持ちだった。
すると、土門はカラカラと高らかに言った。

「あーあ、気付かれちまったか」

いつもの土門の話し方のまま、それは肯定された。頭の後ろで手を組むと明るい声色のまま、彼は言った。

「心配するなって、もう俺はいなくなるからさ」
「それは、どういう……」

肯定されたこと、そして「いなくなる」という言葉。状況が理解できず凪は片手で髪をかきむしる。

「大丈夫だ。円堂や風丸、染岡、みんな俺がどうにかするから」
「聞けよ!どういうことなんだよ!」

ジッと下から土門の目を見る。有ったのは迷いも何も無い瞳だった。彼が何を考えているのか、凪には分からない。それでも先程の言葉や、その目には覚えがあった。

「じゃあ……それじゃあ、土門はどうなるんだよ!」

あれは、自分はどうなってもいいから他のものを守ろうとしている目だ。
ちり、と耳鳴りがする。
それをかき消すように叫べば土門はただ、曖昧に笑った。

「じゃぁな、鳴海」
「土門!?」

詳しいことを知らなければ、と呼び止めれば予鈴がなる。あ、と声を上げる前に土門はそそくさと姿を消した。
仕方なく凪も重い足取りで教室に戻る。

「……ただいま、染さん」
「へいへい、おかえり。そんで、何買ってたんだ?」
「何も買ってないけど……」
「何だ?売り切れてたのか」

仕方ねぇな、と染岡は凪の机にパワーバーを一つ置いた。

「これでも食って機嫌直せ」

ぶっきらぼうで多少乱暴な所もあるが、染岡は身内にかなり優しい。
だからこそ言えない。
キュッと凪は唇を噛み締める。土門が何をしようとしているのか、まだ少しも分からない。検討もつかない。分かるのは想定するよりも遥かに問題が大きいことだ。

「ありがとう、染さん」

作り笑いでも笑い返しておかないと、と慣れたように顔を作る。だが、染岡は顔を凄ませると凪の額を人差し指で弾いた。クリティカルヒットだ。

「いっっ!!?」
「なんだァ?その無駄に辛気クセェ顔は!!」
「し、辛気クサイ……いやいや!かなりのイケメンフェイスだと思うんだけどな!!?」
「いいから先生来るまでにそれ食っとけ!腹が膨れりゃマシになンだろ」

さあ!食え!とばかりに頬にパワーバーを押し付けられる。間食は基本的に禁止。かつバランス制限やらをしているのだが、この時ばかりは良いだろう。凪はパッケージを破ると大口を開けてかぶり付いた。
食べ終わったのは教師がドアを開ける数秒前。少しでも腹が満たされたせいか、なんとなく落ち着きを取り戻していた。
まずやるべきは情報の整理、そしてそこから考えること。自分の中で順序立てを行い、分かってることを付箋に書き出す。勿論授業ノートを取りながらだが。先生の話をBGMに、凪は考える。
何故、土門はいなくなると言ったのか。何故、あんなことを言ったのか。
それはスパイなのがばれたから。けれどそれは凪にバレたことではなく、その前に別の誰かにバレたからではないのか。もしくは土門自身がバラしたのか。けれどそのわりには染岡が静かだ。つまり、サッカー部ではない?
それに引っかかるのは、土門は「帝国に帰る」ではなく、「ここからいなくなる」と言っていた。土門には居場所が無くなるようなことをしたのではないか。
授業がいつの間にか終わり、次の時間になる。小テストだが当然集中できない。幸い得意科目だったのでサラッと解けたか満点ではないだろう。けれど、テストに裂く時間よりも友人がいなくなるかもしれない不安が凪を駆り立てていた。考えろ、と全ての時間を惜しんで思考する。
なので当然ながら。

「痛い」
「そりゃ、デコ擦ったら痛いに決まってるだろ」

しょんぼりと額をティッシュで押さえる。そのティッシュにはじんわりと赤が染みていた。
放課後、アップで泳ぐ最中でターンの距離をミスし額をプールの側面で擦ったのだ。勢いがあったせいか血が滲んでいる。血が出たまま泳ぎ続けるのも衛生的によろしくないため、凪はプールサイドでティッシュを傷口に当て体育座りをしていた。
その間も思考は土門とサッカー部に傾いている。

「明日だぞ、大会……」

水分補給のために上がってきた嶋田がぼそりと告げる。

「分かってる」

たはは、と膝を抱え込み自分自身に呆れていると何処からか騒々しい気配が近付いてくる。

「何?」

雪野がフェンスの向こうへの視線を送る。それに釣られて凪と嶋田も視線を動かす。そして三人は首を傾げた。何故かサッカー部らしき集団がプールに向かってきているように見えたからだ。

「本当に何事?」
「鳴海、あの先頭に染岡がいるのが見えるが、何か身に覚えは」
「ナンニモナイデス」
「あるんだな」
「………」

ニコッと誤魔化し凪はそのままゴーグルを着けるとプールに飛び込んだ。
水に入ってしまえばこちらのものさ!とプールの底にへばりつくが、人間なので五分もすれば苦しくなる。ただの走り込みの可能性もあるし、と息継ぎのためにソッと水面に頭を出すとそこに見事なシュートが決まった。

「見付けたぜェ……」

あ、これは死んだ
ボールを決めた最早悪役顔の染岡に、思わず目を背ければ風丸と雪野が頭を抱えている。半田 と豪炎寺とマックスは呆れ、影野が嶋田の背後に立ち驚かせ、夏美が腕を組み仁王立ち。
どう考えても、これは河俣との繋がりがバレたとしか思えなかった。
ぷかーと仰向けに浮かびながら凪はオワタと呟いた。