空気の悪さ

「もう朝練おしまいの時間なわけだが、何か言い分はあるか?」

凪の前で平身低頭するのは畠山だ。
現時刻は既に朝練の時間を過ぎ、プールサイドに残っていたのは鍵を預かる凪とたまたま支度が遅くなり残っていた三野だった。

「その、ちょっと保健室行ってましたァ!」

がばり、と頭を下げるその額には保健室に行っていた証拠の絆創膏がでかでかと貼られている。
大会間近の今日、練習を欠かすことはできないにも関わらず、彼は遅刻してきたのだ。けれど既に練習できる時間は終わり、教室に向かわなければいけない。深く溜め息を吐くと、凪は組んでいた腕をほどいた。

「焦るのは遅刻するような時間に来るからだぞ。まったく」
「それに関しては本当に悪いと思う。けど、まさか油で滑るなんて思わないだろ!」
「油?」

凪はことりと首を横に傾げる。
畠山はそうだ!と少し苛立ちながら話し出した。

「俺ん家からだと、学校の駐車場を突っ切るのが一番早いんだよ。だから、走ってたらこう、ツルッと転けたんだ」
「それは遅刻して焦ってたのが原因じゃないのか?」
「違うっての!!転けて何だって思ったら変な臭いするし、靴裏見たらベトベトしたから油みたいなもの踏んだって気付いたんだよ!」

油、と凪は呟くと顎に手を当てた。駐車場に油となると、どこかの車から漏れている可能性が考えられる。ただ、機械に射すための油をこぼしてしまったとも考えられるので、大した問題ではないだろう。
すると、隣でたまたま聞いていた三野がぼそりと言った。

「先生方の車とかの他に、遠征用のバスとかくらいだよな。あるの」

ハッとしたように凪と畠山が三野を見る。

「今度乗る車、エンジンとか漏れてたら……」
「古株さんに点検頼んどくか!」

脊髄反射で凪は答えた。何せ数日後、大会に行くのにバスを使用するのだ。途中で事故に遭ってはたまらない。
浮かんだ嫌な予感を拭い、凪は三野と畠山をプールサイドから追い出した。

「んじゃ、ここらで良しとするけど、明日は練習遅れるなよー!」
「ウィーッス」
「分かったよ……」

何度も言うが大会は数日後。コンディションは大丈夫なのか、メンタルは大丈夫なのか、と言いたくなるが畠山はリレーの面子と一緒に話し合わせる方が良いだろうと凪は判断した。
鍵を一回の職員室に返し、廊下を走ること無く歩いていると、春奈の姿が視界に入る。ぼんやりと心ここに在らず、といった様子だ。こちらには気付くこと無くその姿は一年生棟へと消えていったが、凪は不安に思った。
というのも。先日のことを受け、同じクラスの三木に訊ねたところ、この頃クラスでも様子が変だと言うのだ。話を聞くくらいなら、と思うものの何と話しかけるべきか彼女にしては珍しく悩んでもいたのだ。そんな様子であったため、当然同じようにぼんやりしている人を避けることなどできるわけがなく、同じように心ここに在らず、といった様子の土門に凪は突っ込んだ。

「が"う"……!?」
「グッ……!?」

身長差があるので頭と頭がぶつかり合う悲劇は避けられたのだが、土門の顎に凪の頭頂部が激突したのだ。お互いに痛みに呻きながらその場に座り込む。

「なんなんだ……って土門!?」
「よ、鳴海……」

イテテ、と顎を擦る土門に、痛みで涙目になりつつも凪は状況を理解し慌てた。髪を拭くために肩から下げていた湿り気味のタオルを外すと、土門の顎に押し当てる。当然のことながら、かなり凪はテンパっていた。

「わ、悪い!これで冷やしてくれ!」
「いや冷えねぇよ!?」

土門のツッコミにハッと我に返ると、ようやく落ち着いたのだろう。肩をすぼませ「ゴメン」と再度謝った。

「いや、こっちこそ悪い。ボーッとしてた」

ゆるりと首を横に振るうと、土門は一つ大きな溜め息を吐く。その様子に凪は首を傾げた。

「風邪か?もしくは円堂の練習キツイってのなら愚痴聞くぞ?」
「円堂の無茶な練習には慣れたから問題無いぜ。ただ、ちょっとな」

何かあります、と言外に含ませたような言い方だった。聞いて良いことなのか悩んだが、円堂の方が適任だろうと凪は思った。サッカー部絡みならばその方が良いだろうと。

「無理すんなよ。もうすぐ試合なんだしさ」

カラリと笑い、土門の背を叩く。ふと、何か妙な臭いが彼女の鼻を突いた。何処かで嗅いだことがあるようなその臭いに、口には出さないものの凪は少し引っ掛かりを覚えた。
すると、土門は眉を下げながら言った。

「そう、だな……」

いつもならキザに笑い返すか呆れたような反応が返ってくるはずだが、それがない。何か、思い悩んでいるような声だった。

「……土門?」

本当に大丈夫か。そう言い掛けた瞬間、彼は凪の後ろを見るなり、勢いよく立ち去っていく。引き留める前にその姿は消えてしまっていた。呆然とタオルを持ったままぼんやりしていると、彼女のよく知った声が名を呼ぶ。

「おーい!鳴海ー!」
「あ、円堂!」

手を振り駆け寄るのはお馴染みの円堂だ。基本的に、朝練のある凪と朝練をしていないサッカー部では家を出る時間帯が違うため、近所に住んでいても共に家を出ることは無い。そのため、会うとしても途中か学校に着いてからだった。
未だに座り込んだままの凪に視線を合わせるために円堂もしゃがみこんだ。

「何で座ってるんだ?」
「転けた……のか?」
「何で疑問系……」
「さぁ」

さすがに座り込んでいるわけにもいかず、凪が立ち上がろうとすると円堂が「ほら」と手を差し出した。一瞬、目を丸くするものの彼女は表情を嬉しそうに和らげるとその手を取った。そうして立ち上がると円堂と二人、横並びになるとクラスへと歩き出す。

「水泳部、確かもうすぐ大会なんだっけ?」

濡れた髪を指差し円堂が訊ねた。

「うん。ちょうどサッカー部の決勝戦前日がそうなんだ。めちゃくちゃ大事な大会だから頑張り所さ!」

ふん!と拳を握り締めると、凪はキラキラと目を輝かせた。数日後に行われるその大会は、関東大会や全国大会に出るためには必須のものであった。今のところ去年の最高記録を更新できていないが問題は無い。油断大敵だが、ヘマしなければ良いだけだ。と、考えていると、土門や先日の春奈のことが頭をよぎる。大会がお互いに近いだけに、気になるのだ。

「そういや、サッカー部大丈夫か?」

握り拳をほどくと、凪は顎に手を当てた。

「何か調子悪いやつらがいるとかさ、そういうのないか?」

円堂は目を瞬かせると同じように顎に手を当て、思い返すがあまり引っ掛かりを覚えるようなことは無い。

「無いと思うけど……何でだ?」
「うーん、何か今朝土門とぶつかったんだけど、何か変だったような気がしてさー」
「そっか……土門に声かけてみるよ!ありがとな、鳴海!」
「いーえ、友達が気になっただけだからね!礼を言われるまでもないのさ!」

ふっとキザに笑ってみせる凪に円堂は引き笑いを漏らした。それと同時に懐かしさを感じた。中学に入る少し前、まだ小学生だった頃のやり取りを思い出したのだ。それほど時間は経っていない筈なのに、それがひどく昔の事のように彼には思えた。
そんな円堂の様子には気付かないようで凪は「あ」と呟くと、ピンと人差し指を立てた。

「今の時間って秋ちゃんいるかな?」
「木野?多分いると思うけど、どうかしたのか?」
「ちょっと野暮用ー」

そう言うと円堂の後に続き教室に踏み入った。教科書を机にしまう秋の姿を見ると、凪はひらりと手を振る。

「おはよ!秋ちゃん!」
「円堂くんに凪さん、おはよう!」

にこりと笑う秋に凪は勢いよく頭を下げた。

「ごめん!」
「え……?」

突然のことに秋は目を白黒させる。円堂も同じように目を瞬かせた。
どうしよう、と手をさ迷わせると、凪はゆっくりと頭を上げた。その眉はやや下がり、申し訳なさそうな空気を出していた。

「昨日、叔父さんに聞いてみたけどダメだって……」

その言葉に先日の事を思い出したのか、秋は手を叩くとゆるゆると首を横に振った。

「ううん、無理を承知でお願いしたんだもの。聞いてくれただけでありがたいわ!」
「なぁ、昨日のことって?」

首を傾げる円堂に凪は頬を掻きながら答える。

「サッカー部に叔父さん、協力してくれないかって話」
「鳴海のおじさん、そんなにサッカー上手かったっけ?」
「あぁ、ほら!鍛えたりするのはプロだからさ、どうかなって思ったんだ!まぁ、サッカーは本職じゃないからって言われちゃったけどねー」

たはは、と苦笑を漏らす凪。それに円堂は拳を握り締めると肩を震わせる。突然の行動に今度は凪と秋は顔を見合わせ、目を白黒させた。

「円堂?」
「円堂くん?」

するとパッと円堂が顔を上げた。その顔は嬉しさが滲み出ている。

「ありがとう!鳴海!」

凪の肩を掴むとそれは嬉しそうに彼は言った。少し恥ずかしそうすると、凪はニッと笑った。

「手助けしたいのは当然だろ!だって友達なんだし!」


※※※

昼休み、焼却炉の前で凪は携帯を開いた。やっと電話機能になれてきたのか、以前より格段に素早い動きで連絡先を選ぶと躊躇い無く掛ける。2コール程すると、聞き慣れた声が返ってきた。それに少し安堵を覚えるが、すぐに頭を横に振った。

「試合近いけどどうだ?」

まずは軽く近況報告を、と思ったが返ってきたのはまったく違った。

『「土門 飛鳥」には気を付けろ』

ただ一言。しかしそれだけに切羽詰まったような声だった。
当然、凪は困惑した。帝国学園の生徒である河俣から友人の名前が出てきたのだから。

「え、何で土門……というか、何で土門知ってるんだ?」
「それは……」

淡々と告げられた河俣の言葉に凪は目を見開いた。

「……そんな、嘘だろ」

少しその声は震えていた。

『事実は変わらん』

プツリと通話が切れる。
凪の携帯を持った方の腕が力無く垂れる。彼女の目は信じられない事実に揺れていた。ゆっくりと視線がサッカー部の部室の方を向く。
ツー、という機械音だけが微かに響いていた。