白く整った指先が黒碁石を弾く。力強く小気味良い音が静かな室内に響いた。
少し間を開けて、今度は少し筋張った白い指先が同じような白碁石を弾く。
互いに言葉は無い。むしろ言葉など不要。その指先で、盤上にて互いの思考を読み合う。
言ってしまえばただの娯楽。遊びの一種ではあるが、悔しいことに仙蔵は未だ天女と呼ばれる事務員に勝てなかった。
チラリ、と仙蔵は視線を上げ相手を覗き見る。
いつもの穏やかな目付きから一変し、隼の様な鋭さがある。口元には薄っすら笑みを浮かべ、纏う空気は別物だ。ここだけしか知らなければ、昨日七松小平太に跳ね飛ばされ、そのまま綾部喜八郎の落とし穴にホールインした人間と同じだとは到底思わないだろう。
また、細い指先が黒碁石を弾く。
打たれた先は仙蔵の想定内の位置だ。十九路盤上での優位にまだ彼は立っている。
碁笥から白碁石を取り、詰めの一手を打つ。
間髪入れずに相手も打つ。その手もまた仙蔵の想定通り。
黒と白、数形を変えながら盤上は目まぐるしく入れ替わる。それでも優位に居たのは仙蔵。天女は一歩遅れて追っている。
その筈だった。
ぱちんと黒碁石を打ってから、笑みを深めて天女が息を吐いた。さぁ、どう出る?と言うように。
真っ直ぐ己が描いた線の上を歩かせている筈なのに、相手の顔に滲むのは焦りではなく余裕だけ。仙蔵は違和感を覚えた。盤面に目を向け、並びを見る。
……その綻びに、気付くには既に遅すぎた。
「っ……」
有利に立っていたはずだった。自分の策通りに全てが進んでいると思っていた。
だが今盤面が示すのは、何処に進めようと逃げ場が無い白石だ。
いつ?一体どの段階で?考えてもキリがない。少なくとも、掌で踊らされていたのは仙蔵だった。
女は一言も話さない。いつもあれ程煩いのに、口を閉じ腹が立つ程綺麗な笑みを浮かべている。
仙蔵は唇を噛んだあと、ゆっくりと息を吐き出した。
「……負けました」
投了を口にすれば、天女の空気は途端に緩んだ。はへぇ、なんて溜め息を吐き出してだらしなく足を崩す。
「いやー、強くなったね〜!ヒヤヒヤしたよ!」
「一体どの口で言っているんだか……」
仙蔵が軽く悪態をついても、天女はカラカラと笑うだけだ。
「まぁ、そこは経験というものだよ仙蔵くん。私は君より長く生きていて歳上だからね。ちなみに講評的なものはいる?」
「何処を見落としたのか大方目星は付いてるのですが、一応お願いします」
「おっけー」
白く細い指が石を並べ替えてゆく。盤面の初めまで巻き戻し、一つ一つ打ち直しながらその意図を、読みを教える。途中、仙蔵が疑問を投げ掛ければニコニコした顔でその答えを口にした。支離滅裂な勘ではなく、ひとつひとつの理論と理屈で構成される話は成る程と手を打つほど上手い。
「ま、そんなところかな。でもやっぱり強くなったね」
姉のような、師のような顔で天女は仙蔵を見る。一年生の時から時折こうしているのだから、天女からすると存外そんな心持ちなのかもしれない。けれどその眼差しが少しばかりを擽ったかった。
「それ程強いならば、彼の方から金の枕を取れるのでは?」
「無茶言うなぁ……というか、それは買い被りすぎだよ」
その辺趣味でやっているだけだし、と天女は碁笥に石を戻しながら呟く。
「焦らなくてもいいよ。君ならすぐに私よりも強くなるだろうから」
「そう言いますが、未だに貴方から白星を取れたことがありませんよ」
何度対局しようとも、勝敗は揺らいだことがない。むしろこの人は負けたことがあるのかとも思う。そんな仙蔵の考えを読んだのか、天女はちらりと彼を
見て小さく笑った。
「私もいままで腹が立つくらい負けてきたよ。何回悔しくて床を転がったことか……」
天女はあまり昔のことは語らない。時折こうやって溢すくらいだ。何処から来て、何故そんな名を名乗るのかは知らない。
けれど、悔しくて床を転がる天女の姿は容易に想像できた。なんというか、ものすごく天女らしいと。
想像して仙蔵は笑った。先程との打つ姿が目の裏に鮮明に残っているので、余計に落差が笑いを誘う。
「いや……その……すみません……ッ!」
「はっはっはもうね、そういうの慣れたよ私も!ま、実際笑い話だしね!存分に笑いたまえよ……!」
追い打ちをかけるように「悔しいですっ!!!」と変な顔をするものだから、仙蔵の腹筋は限界だった。口を押さえて床を叩く。
その背を擦りながら、天女は言った。
「努力家な仙蔵くんなら、卒業する頃には私くらい負かせるくらいになるよ」
笑っていてもその声だけは確かに耳に届いた。
──ちなみにこれは、天女が還る二日前の話だ。