天の女

※ほんのちょっとだけグロい描写があります。


少し前のことだった。
『天女』と呼ばれる人を学園が保護した。濡羽色の貴人だと、見た人は言う。思慮深い人だとも。
けれど怪我が酷く与えられた庵から出られない。
それを聞いた伊作は、保健委員という仕事柄居ても立ってもいられず、救急箱を手に走り庵の戸を叩いた。

「ええと……どちら様で?」

伊作よりも高い位置から降ってきた声は、困惑しきっていた。
声の主である女は話通りあちこちに包帯を巻かれ満身創痍だった。が、それと同じくらい怪我だらけの伊作が救急箱を持って離れた庵の戸を叩いたのだ。誰だって驚きもする。
しかしそんな小さな来訪者に、彼女は一拍置いてから裾を払いしゃがんで視線を合わせた。
穏やかな深い色の瞳に見つめられ、伊作は声を上擦らせた。

「は、はじめまして!天女さん!」
「あー……えっと、初めまして?」

迷子かな?と優しく訊ねる天女という女性の言葉に、伊作は首を激しく横に振る。そして両手に持っていた救急箱を高く掲げた。

「あの、ケガの手当てをしにきました!ぼく、保健委員なので!」
「へ……?」


※※※


天女は押し掛け保健委員を帰らせようと促すが、丁度彼女の手当てをしに来た養護教諭の新野の口添えもあり、伊作が行うことになった。
濡れ縁に腰を掛け、天女の手に巻かれた包帯を解く。全体に擦り傷や火傷。更に五指全ての指先に爪は無く柔らかな薄桃色の肉を見せている。そこは何かの弾みで擦れたのか、薄っすら血が滲んでいる。
あまりの痛々しさに伊作は顔を歪めた。

「ひどい……」

これではモノを持つにも何にしても痛むだろう。
包帯を巻かれていたのは両手。恐らく両の手とも同じ状態だ。見るだけでこちらの爪の根元がムズムズしてくる。
ところが当人の天女は顔を顰めるわけでもなく、ただ申し訳なさそうに頬を掻いた。

「あーえっとうっかり……そう!うっかり箪笥の角でやらかしちゃってね!」
「箪笥で……!?」
「ウンソウダヨー」

白々しい嘘だと一目で分かるくらい天女の目は泳いでいた。言葉も無駄にカタコトだ。
上を見て、右を見て、左を見て、それから伊作の顔を見る。それに伴って天女は表情を変える。難しい顔、虚無の顔、焦った顔、そして最後に無理矢理張り付けた笑顔。その横では、様子を見ていた新野が笑っている。
随分表情が豊かな人だと伊作は思った。想像していたよりもずっと人間味があって、何処かの町娘みたいだと。けれど、手は傷があっても柔らかいし色だって白い。所々不揃いな黒髪も艶があり、少し頭を動かすたびにサラリと揺れる。町娘と言うには些か綺麗すぎるだろう。伊作の頭に『貴人』という話が過る。
しかし天女はお歯黒をしていない。それに仕草だってそうだ。

新野の指示に従いながら包帯を巻きつつ、伊作は簡単な会話を交わす。日々のこと。同室のこと。授業のこと。新野も時折会話に交じりながら、彼にとっての当たり前のことを話せば、ゆっくり頷きながら天女は耳を傾ける。途中から伊作を探しに来た留三郎もすぐに馴染んだ。

貴人のような身形に、庶民のような空気。天女のそのチグハグさが存在自体をフワフワしたものにさせる。手当てするために取った手は、こんなにもシッカリとした形があるのに、ここに居ないような生き物にも思えて伊作には不思議だった。

「はい、もうできましたよ!しばらく重いものは持たないでくださいね!」

巻き終わるとぱちりと天女が瞬いた。しげしげと手を眺め、おぉ、と感嘆の声を上げる。

「全然痛くない……!すごいね、君……じゃなくて、ええと」

言い淀んだ天女に伊作は「あ」と思い出す。そう言えば、名前すら言っていなかったと。

「僕は善法寺伊作です!一年は組の保健委員です!」
「……そっかぁ。じゃあ、ありがとうね伊作くん。手当してくれて」
「いえ!僕は保健委員として当然のことをしたまでですから!」

お礼の言葉も、留三郎の「良かったな」という言葉も、新野のニコニコの顔もどれも少し照れくさくて、伊作は後ろ手を組んで立ち上がる。ところがその拍子に、濡れ縁に落ちていた葉を踏んでツルリと滑り地面に落ちた。ゴツンと音がするくらい勢い良く。

「い、いてて……」

ぶつけた場所を擦りながら顔を上げると、目の前に伊作と同じくらいの手と真新しい包帯の巻かれた手が差し伸ばされる。
片方は良く知っている。けれどもう片方の怪我をした手は、この場で一人しか居ない。

「だ、大丈夫?」

両膝を土に着け、伊作に手を差し出す天女は初めて痛そうな顔をした。手当ての時はそんな素振りを一度も見せなかったのに。
無意識に伊作はその手を取った。ゴワついた包帯の感触が指を擽る。

「天女さん」
「うん……?」
「今、手当てしたばかりなので、手を余り使わないでくださいね」
「いや君、今それ言うことか」

そう天女は困った様に笑った。夏の終わりの木漏れ日のような、笑みだった。笑った顔は存外少し幼くて、寂しそうだった。