隣り合わせの脈動

カチ、カチ、と一定のリズムで、教卓にポテンと置かれたままの壁掛け時計が音を立てていた。時間がずれてると散々苦情を受け続けて、担任がようやく合わせる気になったらしい。まあ、未だにアイツは本来の時間より五分先を示したままなわけだが。
「なあ、まだ終わらないのか?」
机に頬杖をつきながら、僕はさらさらと小気味良い音を立てて紙の上を滑るシャープペンシルの先端を見つめて言った。シャープペンシルを握る当の本人は、片時も手を止めることなく、また僕を見るでもなく、いつもの平坦な声で返す。
「待ってなくていいって言ったでしょ。きみ、別に日直でもないんだし」
「でも、一緒に帰るんだろ?」
「それだってきみが決めたことでしょう」
放課後、まだ日がぐんと長く、空が夕焼け色に染まることはない時間帯。日直である彼女が日誌を書いているのを、僕は隣の席でぼんやりと眺めていた。彼女の真面目そうな瞳を見ているのも、細くてしなやかな指先を見ているのも、陶器のように綺麗な肌を見ているのも、正直言って俺は好きだ。でもやっぱり、面白くない。ぜんぶ、俺の方を見ないから。
「なあ」
「ん?」
短く答える。彼女は言葉数が少ない。でも冷たいわけじゃないし、愛想がないわけでもない。ただまあ、僕に対して好意的かと聞かれれば、自信を持ってどちらと答えられはしない。
「なあ」
「なに?」
「よーもーぎ」
「なによ」
しつこく呼んでも、彼女は怒らなかった。怒らないし僕のことも見ないままだ。つまらんと思いながら、夏らしい青空をバックに机に向かう彼女の姿は、なんだかえらく眩しかった。
「何か言いたいことでもあるの?」
よもぎが言った。アスファルトにじめじめと揺らぐ道奥の陽炎を眺めながら、氷菓子をガリガリと噛み砕いて口を冷やして。そうやってふたりで歩く帰り道だった。
「え、なんで?」
「なんか、今日ずっとそんな感じだなって」
言いながら、彼女は唇をぺろりと舐める。こう暑いときには、アイスで冷えた舌で唇を舐めると涼しく感じるのはよくわかる。変なため息が漏れるのを感じながら、僕は目を逸らした。
「いや、あー……」
確かに、言おうと思っていたことはあった。いや、今もある。夏休みに入ってすぐ、近所の広場で小規模な夏祭りがある。それに、よもぎを誘いたい。あわよくばふたりで、あわよくば浴衣で。でも、いざ誘うとなると、どうにも上手く言葉にならない。言おう言おうと思ったって上手くいかなくて呑み込んで、ただいつものようにおどけてみせて誤魔化して、彼女に「なにそれ」と呆れ混じりに笑われるだけだ。
これを、恋だとかいうものだと、気づかないままでいられたら。
名前がつかなければ、もしかしたらただ少し痛くて苦しいだけで、耐えるのは別に苦じゃなかったかもしれないのに。恋とかいう名前が付いてるんだと、それには真っ先に気づいてしまったから。俺は、これが彼女に伝わってほしいけど、ほしくない。
「ふーん、変な高杉」
何か返そうとして、でもやっぱり何も浮かばなくて、僕は閉口した。このまま歩き続けたって家が近づいて、彼女との今日が終わるだけだ。何かいい口実でもないかと視線をさ迷わせていると、僕より先によもぎが言った。
「高杉さあ、どう? テスト勉強」
「テストか……まあ、まずまずかな」
夏休みを境に学期が切り替わるから、近々期末テストがある。夏休みの予定に浮かれるのは、大体の人間はそのあとだ。僕は別にテストに追われてないから問題ない。今からいくら浮かれたって支障はないのだ。
「勉強してかない? 図書館、涼しいし。数学教えてよ」
「い……いけど、数学苦手だったか?」
むしろ、彼女の方が得意だったような。残念ながら僕は、計算はてんでだめだ。
「苦手ってわけじゃないけど。だめ?」
ぐっと握りしめた拳の中で、爪が皮膚に食いこんで痛かった。心臓が変なふうに音を立てる。背中をするりと滑る汗が夏のせいなのか、君のせいなのか、もういっそこの場で問い詰めてしまいたいような気分だった。
「……じゃ、行くか」
彼女と過ごしたかったのは俺の方だというのに、なんとも上から目線な返事だった。まあ、一旦それはいい。僕は地面を一歩一歩きつく踏みしめた。心のせいで宙に舞ってしまわないように。
「ねえ、これはどうやるの?」
「公式に当てはめるだけだろ、これ使うんだよ」
「ここの数が負のときは?」
「そんときはbの符号が変わる」
「ああ、なるほど。ありがとう」
図書館について、彼女の向かいの席に座ろうとしたら隣を勧められた。教わりにくいから横にいてよ、と。そういうこと、俺以外にも言うのか?
「……なあ、君さ、それ普通に解けるだろ」
「あ、バレたかぁ」
彼女は真っ黒の瞳で僕を見上げて、「嘘ついてごめんね」と笑った。少しも申し訳なくなんてなさそうに。はにかむようなその表情から逃げるように、僕は目を逸らした。
「なんでそんな嘘つくんだよ」
「んー? 授業ブッチしがちな高杉くんは、テスト大丈夫なのかなあと思ってね」
「最近はちゃんと受けてるだろ?」
「うん、大人しく座ってるよね。えらいえらい」
妙に子供扱いな物言いだったけど、それはそれで悪くなかった。僕が真面目に授業を受け始めたのは、彼女のことを見ていられない時間があることをもったいないと思ったからだ。違うクラスだったら、たぶんブッチは続けたままだった。
「偉いだろ、僕。もっと褒めてくれていいぞ」
「ふふ、なにそれ。しょうがないなあ」
僕が彼女を見るのと、彼女が僕に触れたのはほぼ同時だった。どこを触る予定だったのか、上手いこと噛み合わなかった彼女の手は僕の首の表面を掠めた。反射的に肩が跳ねる。
「ほら、動かないでよ」
彼女が椅子から腰を上げる。片方の手が僕の肩に置かれて、もう片方の手が、僕の頭に触れた。
「よしよし、高杉はえらいね」
一瞬、燃えたんじゃないかとまで思った。全身がカッと熱くなって、特に顔に熱が集まる。僕の目線では、立ち上がった彼女のスカートしか見えなかった。
「高杉?」
頭を撫でていた彼女の手が離れて、椅子が軋む音がした。彼女が座り直したのだ。僕は全力で顔を背けた。こんな、情けない顔、見られてなるものか。
「あれ、嫌だった? ごめん」
「いや、そうじゃない」
どくんどくんと馬鹿みたいにデカい心臓の音のせいで、声さえ震えているような気がしてならない。こんなのもう、絶対、バレてるだろ。
「ねえ、もしかして照れてる?」
「……………………照れてない」
「そっか」
その一言は、なぜかとてつもなく淡白に聞こえた。思わず彼女を振り向くと、よもぎは少し首を傾けたあと、「ちょっとお手洗い行ってくるね」と席を立った。
長く、長く息を吐く。ただ頭を撫でられるだけのことに、こんなにも身体中が混乱したのは初めてだった。机に突っ伏すように、折り重ねた腕に顔を埋める。ふと、机に転がったままの消しゴムが目に入った。それを見てピンと思い出す。消しゴムに好きな相手の名前を書いて使い切ると、両思いになれる、なんていうまじないのことを。今時そんなことやってる奴いるのかと思っていたが、彼女の消しゴムには、カバーからはみ出て明らかに文字が書いてあるのが見えている。
元々、行動力はある方だ。彼女の消しゴムを手に取る。少し眺めて、カバーを、ずらす。
そこには、『高杉くん♡』と書かれていた。嬉しい、の一言では到底表せない事態だ。もしこの文字が彼女の筆跡であったのなら、の話だが。これは、彼女の字ではない。
「ん? なんかあった?」
戻ってきた彼女が、消しゴムを凝視する僕を見て訊いた。
「まだこんなの流行ってるんだな」
そう言って渡すと、彼女は消しゴムの文字を見て「ははっ」と笑った。僕は彼女のその、鼻にかかったような笑い方が好きだった。
「これ、今日友達に貸してたやつだ。さてはイタズラだな」
相当仲が良いのか、まだクスクス笑っている。僕の名前が書かれていることは気にしないのだろうか。僕が本気にしたんじゃないかとか、考えないのだろうか。
「それ、使い切れば両想いになれるってまじないだろ?」
「うん、そうだね」
「どうする? 本当になったら」
よもぎが、僕を見た。僕は極力いつもの顔で笑ったつもりだったけど、上手くできてるかはわかったもんじゃない。この子の前では、僕はいつだって余裕がないのだ。
「うーん、そうだなあ」
彼女が、目を細めて笑う。頬のそばで、彼女の髪が、首を傾げた拍子に少し揺れた。
「そのときは、ファーストキスでも貰ってもらおうかな」
殴られたように、心臓が早鐘を打った。ありえない速さで拍動している。心臓から血液が送り出されて、数十秒もしないうちに全身に巡って心臓に帰っていく。その隙間に、僕はままならない呼吸をする。彼女から、赤い顔を隠すことさえ忘れたまま。
なんだよ、それ。冗談だったら泣くからな。
机に肘をついて、頭を抱えるようなしぐさで、彼女から顔を隠す。震えないように、彼女に伝わらないように、だるい速さで深呼吸をする。
「……夏祭り、行かないか? 俺と二人で」
「いいよ」
一拍の間もない、まるで用意していたかのような返事だった。微笑む彼女の長いまつ毛が、薄いピンク色の唇が、白い肌が、僕の心のあらゆる部分を刺激する。
「おめかししてくるから、当日はちゃんと褒めてね」
「あ、……ああ」
「楽しみだね」
「………………うん」
よもぎは、綺麗だった。