美味いお菓子を与えれば喜んで食って、新しい靴をプレゼントすれば目をキラキラさせて家の中でも構わず履いて歩き回り、別れるときはほんの少しだけ寂しそうな顔をする。そういうふうにしてくれれば、俺はたぶん、それが豹馬じゃなくてもよかったんだ。はじめのうちは、きっと。
初めて出会ったのは、俺が十一歳の頃だった。学校の帰り、夕暮れに染まる空の端っこの紺色を追いかけながら、ぼうっと歩いていた。そこで、小さな男の子とすれ違った。細い足を引きずっていた。
「きみ、だいじょうぶ?」
尋ねると、彼は少し目を逸らして頷く。膝小僧から血が流れていて、痛々しかった。
俺は彼の膝にハンカチを巻いてやった。絆創膏、置いてこなければよかったなあ、なんて思いながら。
「歩ける? 痛い?」
「……いたい」
「うん、我慢しないで言えてえらいな」
俺が彼に背中を向けて、ほら、と言えば、彼は遠慮がちに背中に乗った。小さな身体はとても軽くて、弟のことを思い出した。
少年を家に送り届けて、俺も家に帰る。洗面所に向かい、手を洗う。廊下を挟んで向かいにあるキッチンには、父さんの背中が見えた。
「父さん、ただいま。何かすることある?」
「ああ、おかえり、心。洗濯物を取り込んで畳んでくれるか?」
「うん、わかった」
いつもごめんな、と言って、父さんは困ったように笑う。ありがとうでいいのに。家事だって別に嫌いじゃないし面倒でもない。上手くできないこともあるけど、父さんは怒らないで教えてくれる。
「……母さんは、どう?」
「…………うん、まだ、ちょっと体調がよくないみたいだ」
「そっか」
俺は母さんを起こさないように廊下をそっと歩いてベランダに出る。洗濯物を取り込んで、畳んで、父さんの服は父さんの引き出し、母さんの服は母さんの引き出しに仕舞う。自分のものは、寝巻き以外をしまって、寝巻きを持って脱衣所に行く。で、風呂に入る。
風呂を出れば、父さんが交代で入る。その間に俺は宿題をして、終わったら母さんに声をかけて、母さんは元気なら風呂に入る。父さんと二人で夕飯を食べて、シングルのベッドに一人で寝る。枕がふたつあるから、寝返りを打っても枕は逃げない。
目が覚めたら明日が来る。毎日同じ生活をする。変わらなければいいなと、思った。これ以上、悪くならなければいいなって。
数日後、俺は散歩でもしようと家を出た。とても天気のいい、たぶんその日は土曜日だった。
「あ」
公園に入ると、見覚えのある少年がいた。膝に小さな絆創膏を貼って。彼も俺を覚えていたのか、口を、あ、という形にした。彼はひとり、サッカーボールを蹴っていた。
「サッカー、好きなの?」
「うん」
少年はあどけない仕草で頷く。
「一緒にやる?」
そう訊いたときの、あの子のキラキラした瞳を、俺はたぶん、一生忘れない。
豹馬はとにかく足が速かった。ボールを奪うプレイが得意だった俺は、最初こそ追いつけなくて凹んだけど、日が暮れる頃にかろうじて奪うことができた。どうだ、とでもいうような顔で彼を振り返ってから、後悔した。大人げなかっただろうか、と。でも、豹馬は笑った。俺に、すげえって言った。
「きみ、足速いね。すごいや。名前は?」
「豹馬。千切豹馬」
「豹馬か、ピッタリだ。かっこいいな。俺はしん。優木心。よろしくな」
その日から、俺と豹馬は一緒にサッカーをするようになった。俺が小学校を卒業するまで、豹馬の通うサッカースクールが休みの日とか、とにかく時間が空けば必ず。次に遊ぶ日は確約しないのに、「明日は?」と訊いてくる彼はとても可愛かった。
俺が中学に上がってからは、あまり会えなくなった。俺が塾に通い始めたからだ。
「塾? いいけど……お前はいいのか? サッカー、したかったんだろ?」
塾に行きたい、と言えば、父さんは少しだけ困ったように眉をひそめた。
確かに、俺はサッカーがしたい。プロリーグに入って、日本代表になって活躍して、母さんに、すごいねって言われたい。
でも。
それは、夢だ。
俺に、豹馬みたいな才能はない。ボールを奪うのは得意だ。学校のチームメイトや今まで戦った相手に、奪い合いで負けたことはない。でも、それだけだ。身体が大きいわけでも、パスが上手いわけでも、センスがあるわけでも、シュートが上手いわけでもない。平凡な、ただサッカーが好きな十二歳なのだ。それなら勉強して良い高校、大学に入って、良い仕事に就いて、両親に楽をしてほしい。そっちの方が、俺は幸せだ。
「サッカー選手は、豹馬がなるんだ。世界一は豹馬なんだ」
俺は心からそう言って、いちばん綺麗に笑えた気がした。
塾に通い始めても、休みの日は豹馬とサッカーをした。勉強なんて二の次で、豹馬を優先したかった。彼は俺にとって、かわいい弟のような存在になっていた。俺が弟を求めていいのかはわからないし、誰も、教えてなんかくれなかったけれど。
豹馬が中学に入った頃から、確実に疎遠になってしまった。俺が受験生になったからだ。きっと豹馬も、彼の家族も気を遣ってくれていた。ほとんど会わなくなってしまって、やっと会ったのは、俺が東京に行く前の日だった。
「……東京か、都会だな」
「ははっ、そう変わんないさ」
「兄ちゃん、もう大学生になるんだな」
「豹馬もあっという間だぞ」
久しぶりに、豹馬とサッカーをした。ただ、直立のまま正確なパスをし合うだけの、ぬるい球蹴りだった。
静かに、豹馬が言った。
「兄ちゃんは、サッカー選手になりたいんだと思ってた」
俺は、ほんの少しだけ、息を吸うのが辛くなった。言葉というものは、ただかたちをとるだけで、心の声よりもずっと痛かった。
「なりたいよ。でも、唆る夢をみつけたんだ」
「何? 唆る夢って」
「プログラミング」
豹馬が、俺の顔を見た。しばらくして目を逸らして、ふーん、とだけ言った。
「豹馬、これやるよ」
投げて渡したのは箱だ。その大きさで、勘のいい彼なら中身がわかるだろう。
「お前の、ボロボロだったろ?」
今日は俺のボールを持ってきたけど、豹馬のマイボールは使い込まれていて剥げてきていた。だから、ボールをプレゼントしようと思った。俺の顔とボールの箱を見比べて、豹馬はぷはっと笑った。
「いつの話だよそれ。とっくに新しいの買ってもらったっつーの」
「え!? そうだったのか」
そういえば、最後に彼とサッカーをしたのはいつだったか。これならシューズを贈ればよかった、しまった、などど考えているうちに、豹馬が箱を見つめたまま笑った。
「さんきゅ、大事にする」
「……おう」
俺は、この地を離れる。急にその事実を、ずっと前に自分で決めたはずの現実を意識して、別れってやつはいつもこうだと思った。
「おかあさん、豹馬は?」
インターホンを鳴らして出てきた豹馬のお母さんに、俺は何よりもまずそう聞いた。大学三年、そろそろ就活でも、と腰を上げる時期。豹馬が脚に怪我をした。
「部屋にいるんだけど……」
「話しても大丈夫ですか?」
おかあさんは少し迷ってから眉を下げて笑って、「上がって」と言ってくれた。努めて冷静に、落ち着いて。そう意識したって、鼓動ははやるばかりだった。大学入試よりも緊張していた。俺は、豹馬がどのくらい傷ついているのか、それを知るのが怖かったんじゃない。傷ついた豹馬を前に、俺にできることが何ひとつないのではないかと、そればかりを恐れていた。
豹馬の部屋のドアを、ノックする。
「豹馬、心だよ。会いにきた」
しばらく、返事はない。俺は待った。俺は、豹馬なら、いくらだって待てる。お前のためになることなら、俺はなんだって痛くないんだ。
「……今は、会いたくない」
それは明確な拒絶だった。彼の意思は、なるべく尊重したい。でも、俺は明日にはもう帰らなくちゃならない。明日はここには立ち寄れない。きっと優しいこの青年は、俺が帰ったと知ったら少しくらいは後悔するだろう。そんな思いはさせたくない。そんなことで、彼の心の内で重く残りたくはない。
何より、俺は、豹馬と話したい。
「豹馬、そのままでいいから訊いてくれ。俺は──」
「訊きたくないって言ってるだろ!」
鋭い声だった。俺は、初めて聞いた。少し拒絶されたくらいじゃ傷つかない。そう、思っていた。でも違った。俺はしっかり傷ついて、隣におかあさんがいることを、ほんの一瞬完全に忘れた。俺はおかあさんに微笑みかけ、扉に触れた。
「ごめん。豹馬、……兄ちゃんは、いつでもお前がだいすきだ」
もっと、言葉を尽くしたかった。俺が持つ愛の全てを、少しでも近い温度で伝えたかった。でも、あいつが聞きたくないならしょうがない。しょうがないんだ。大人になれ、心。
「急にお邪魔してすみません」
玄関先で、おかあさんに言った。彼女は俯いたまま、小さく「ごめんね」と言った。さっきの豹馬のことだろう。
「いいんです。俺は、あの子の痛みを肩代わりすることはできないから。今はたくさん傷ついて、きっとそれでいいんです」
「……どうして、心くんはそんなに豹馬を気にかけてくれるの?」
やっぱり、変だろうか。血も繋がってない、年が近いわけでもない、ただのご近所さんにこんなに心を傾けるのは。
***
扉から離れていく足音が聞こえて、しばらく経った。少し冷えた頭で考える。この前メールしたときに、兄ちゃんは就活で忙しくなると話していた。じゃあ、すぐに東京に行ってしまうんじゃないか。会えるのはこれが最後なんじゃないか。そう思った途端、身体が勝手に動いていた。慣れない松葉杖を手に部屋を出る。気持ちは急くばかりなのに、足が思うように動かない。やっと玄関に近づいて息をつきかけたとき、兄ちゃんの声が聞こえた。
「俺、弟がいたんです。五歳年下の。」
それは、おれの知らない兄ちゃんの話だった。
「俺が十歳で、弟が五歳のとき、海に行きました。父さんは仕事だったから、母さんと弟と三人で。母さんは飲み物を買いに行ってくれて、俺と弟はパラソルの下で待ちました。暑い日だったんです、すごく。熱中症に、なったんです」
息が、詰まった。目の奥が痛かった。指の先が痺れて、じんじんと響いた。
「弟は亡くなりました。俺がちゃんとしてればそんなことには、……母さんはショックで具合を悪くして、家のことはほとんど父が。俺が高校に入ったときから、二人は田舎の自然が多い土地に暮らしてます」
高校生の兄ちゃんは、一人で暮らしていたのだと初めて知った。ほんとうに、弱音も、弱いところも見せないひとなんだ。弱音がないんじゃない。見せないだけなのだと、やっとわかった。
「だから俺には、豹馬が愛おしくてたまらないんです。俺は、いい人間じゃない。俺が弟としたかったこと、弟にしたかったこと、向けたかった感情とか。そういうのを、俺は、全部あの子に押し付けてる」
兄ちゃんの声は震えていた。それは、涙を流す前に似ている。
「そんなこと思ってたのかよ……」
気づけば、口に出ていた。母さんと兄ちゃんが振り返る。兄ちゃんは、困ったような顔をした。
「ごめん、訊いてた?」
「……アンタが何をどう思ってるかは知んねぇけど、おれにとっては最高の兄ちゃんだ」
声が、震えた。今まで兄ちゃんがしてくれたことを、おれは覚えている。あの全部が兄ちゃんのエゴだったとしても、おれはそんなふうに、おれの存在を、自分を痛めつけるために使ってほしくなかった。弟に代わる存在が、おれじゃなくたって良かったかもしれないことも、兄ちゃんが自分の優しさまで罪に置き換えないと生きていられないことも、全部、おれには腹立たしかった。
なにがどうなったって、優木心はおれの兄ちゃんなのに。
「ありがとう、豹馬。お前も、おれの最高の弟だ。たいせつな、弟だ」
兄ちゃんは、大きな手でおれの頭を撫でた。どんな感情なのかよくわからない涙を、彼の手は丁寧に拭い去る。
「大事なときに、そばにいられなくてごめんな」
「自分のこと優先しろよ」
「お前をいちばんにしたいよ、お兄ちゃんだからな」
「いいから、早く仕事掴まえてこい」
兄ちゃんは苦笑して、おれの髪をかき混ぜるように撫でる。暖かかった。ほらみろ、この温度が、彼のエゴに完結するはずがないのだ。
「ごめんな、豹馬。兄ちゃん、頑張るから」
「おう」
兄ちゃんは、そう言って帰って行った。お前も頑張れ、なんて言われたわけじゃない。でも、おれも、何かをしたくなった。
***
「おかあさん、お姉さんも!」
観客席で姿を見つけて駆け寄る。寒い時期だというのに、スーツで走ったからかやけに暑かった。
「心くん、久しぶり! 見て、豹馬!」
お姉さんが指をさした先には、ドリンクを飲む豹馬の姿があった。前半と後半の間のハーフタイムらしい。ちょうどこちらを見上げた豹馬と目が合った、ような気がした。
豹馬が、俺に向かって拳を突き出す。ああ、と思って、彼の拳に自分のそれをぶつけるように、俺も拳を突き出した。
なれよ、世界一。
大きくなったなあ、豹馬。目の奥がじんと熱くなって、いや泣くのは試合終わってからだと、俺は慌てて目頭を押さえた。