テニス部辞める話

2026 04/04

「……俺、テニス部やめたんだ」
「……は?」

 その言葉が胸の奥に落ちていくまで、しばらく時間がかかった。 落ちた瞬間、息が詰まった。

「ごめん。そういうことだから。練習、頑張れよ。日吉」

 笑っている。どうしてそんな顔ができるんだ。
俺の一年分の時間も、想いも、全部まとめて切り捨てるみたいに。呼吸の仕方すら忘れそうだった。



 新学期、二年になった日。

「俺たち、クラス違ったね」
「そうだな」

 放課後、部活へ向かう途中で偶然すれ違った幼馴染の鳳。俺はF組、鳳はC組になった。

「二年になっても、まだ佑月先輩迎えに行くの?」
「あぁ。部長からの頼まれ事だからな」
「ふぅ〜ん……それだけじゃない気がするけど」
「なんだそれ。やめろ」
「あはは、冗談だって。また部室でね」
「あぁ」

 鳳と別れ、俺は三年生の教室へ向かう。クラス発表で佑月さんと同じ2年F組になったと知ったとき、胸の奥がじんわり熱くなったのを覚えている。
 部活がある日は、毎日迎えに行っていた。思い返すには近すぎる思い出に、自然と口元が緩む。





 俺がまだ一年の時の、放課後の2年F組。

 白地に紫のラインが入ったラケットバッグを背負い、机の角にちょこんと腰掛ける佑月さん。その周りには男女数人のクラスメイト。誰にでも優しくて、笑顔が柔らかくて、気づけば人が集まってくる。佑月さんは、そんな人だ。

 俺は教室の外から、そっとその姿を眺める。
声をかける勇気なんてない。というより、ここから見るのが好きだった。

 室内では黒く見える髪が、外で光を浴びると青みがかって綺麗で、その横顔を見るたびに胸がきゅっとなる。

クラスメイトの冗談に笑う佑月さん。
その笑顔が好き。
その仕草が好き。
その全部が好き。

 センター分けの前髪が邪魔になると、無意識にかきあげる仕草をする。その度に、胸の奥がざわつく。佑月さんの隣の女も、同じように見惚れているようだ。その女が、髪を直すふりをして、佑月さんの髪へ手を伸ばす。

「ん? あ、ありがと」

 気づいた佑月さんは、その手が触れる前に自分で前髪を整えた。
「私が直そうと思ったのに」と、女は頬を膨らませ、上目遣いで見つめる。

「あと5センチ伸びないと届かないだろ」
「佑月くんのいじわる」

……触るなよ。その距離に入るなよ。
胸の奥がじりじりと焼ける。

「今の身長がちょうど良くてかわいいよ」

 その一言で、周りの男子が騒ぎ出す。だが、言われた女は浮かれもせず、ただ佑月さんだけを見ていた。まただ。本当にタラシだ。また一人、佑月さんの無自覚な甘さに落ちた。

「……佑月さん、部活行きましょう」

 嫉妬で胸がいっぱいになり、これ以上見ていられなくて声をかけた。佑月さんは周りに笑顔で別れを告げ、俺の元へ来る。

「佑月くん、部活がんばってね」

 女の声に、佑月さんは柔らかく笑う。その笑顔が、胸に刺さる。あの女は特別なんかじゃない、だってこの笑顔は俺にも見せてくれるんだから。



「日吉、いつもあり…」
「部長命令ですから」

 素直になれない。さっきの嫉妬がまだ胸に残っている俺は佑月さんの言葉を遮ってそう言った。

「俺は日吉が迎えに来てくれて嬉しいよ」
「……俺が来ないと来ないじゃないですか」
「日吉が迎えに来てくれたら行く」
「毎日ちゃんと来てください」
「そんな真面目にやってらんないの」
「部活に来ればちゃんとやるのに」
「日吉が迎えに来てくれたのに、ちゃんとやらないわけないだろ」

 その言葉に、胸が跳ねた。急に足を止めると、佑月さんが背中にぶつかる。

「お、びっくりした。どうした?」

 佑月さんの手が、「体調悪い?」と、そっと俺の頭を撫でる。

「いいえ」
「そんな顔すんなって。今日はご機嫌ななめか」
「……」

 佑月さんに撫でられた場所が熱い。離れた手が恋しい。

「日吉が来てくれるから頑張れるんだよ。ありがとう」

 今度は少し強めにガシガシ撫でてくる。

「……髪がぐちゃぐちゃになるからやめてください」

 本当はもっと触れてほしいくせに、そんなこと言ってしまう自分が嫌になる。

「ひーよしー」

 名前を呼ぶ声が甘く、覗き込む顔が近くて、心臓がうるさい。

「危ないから前見てください」
「日吉はサラサラだから大丈夫」
「答えになってない」
「景吾には怒られるけどな。セットされてるから」
「部長にもやったんですか」
「一回だけ。でもやっぱり撫でるなら日吉だな。かわいいし」

 かわいい、だって。その言葉が胸に落ちるたび、嬉しいのに、苦しくなる。

「佑月さんの“かわいい”は信用できません。俺、男ですし」
「かわいいに性別関係ないだろ。
あ、じゃあ日吉はかわいいしかっこいい」
「……もういいです。部活行きましょう」
「俺は楽しいけどな」

 ほんと、どうしようもない人だ。でも、その“どうしようもなさ”に惹かれていく俺もどうしようもなかったのかもしれない。



 思い返せば一年あっという間だった。三年生の教室へ向かう途中、ふと佑月さんのクラスを確認し忘れたことに気づいた。

「あ、テニス部の。佑月?」

 そんなことを考えていたら、タイミング良く現れた三人組に声をかけられる。

「あ、はい」
「佑月ならC組だよ。帰る支度してたから急いだ方がいいかも」
「……どうも」

 教室に着くと、確かにちょうど佑月さんが扉から出てくるところだった。

「お、日吉。お疲れ様」
「お疲れ様です」

 いつもなら「部活行きましょう」と言う。でも言えなかった。いつも背負っているラケットバッグがなかったから。

「俺、テニス部やめたんだ」
「……は?」
「ごめん。そういうことだから。練習、頑張れよ。日吉」

 笑っていた。俺の一年分の想いなんて知らない顔で。胸の奥が、静かに崩れた。なんでそんな顔ができるんだ。なんで、そんな簡単に言えるんだ。

 廊下のざわめきも誰かの笑い声も窓の外の風の音すらも。全部、聞こえなくなった。

「……なんで、ですか」

 言葉が勝手に漏れた。止められなかった。佑月さんが、少しだけ目を丸くする。

「なんでって……まぁ、色々あって。元々三年になったら辞めるっていう約束でテニス部に入ったんだ」

 色々、ってなんだよ。その曖昧な言葉が、胸の奥をざらつかせる。俺は、ずっと迎えに行っていた。あなたの笑顔を見るために、あなたの隣を歩くために。

 それなのに。

「……俺には、言ってくれなかったんですね」

 声が震えた。悔しいほどに。

「日吉?」
「俺、知らなかった。
この間まで、普通に……迎えに行って……あれが最後だった、って、」

 言葉が途切れる。喉が痛い。胸が苦しい。佑月さんは、困ったように笑った。

「ごめん。言いづらくてさ」

 その笑顔が、また胸を刺す。

言いづらい?
俺には言いづらいのに、
他の誰かには言えたのか?
クラスメイトには?
宍戸さんには?
俺には、言えなかったのか。

 胸の奥が、じわりと熱くなる。怒りとも違う、嫉妬とも違う、もっとぐちゃぐちゃした感情。

「……俺、ずっと迎えに行ってたのに」

 小さく呟いた声は、自分でも驚くほど弱かった。

「日吉」

 名前を呼ばれただけで、胸が痛いほど跳ねる。こんなときでも、こんな状況でも、あなたの声に反応してしまう自分が情けない。

「そんな顔すんなよ」

 佑月さんの、優しい声。優しい目。優しい仕草。全部、俺を甘やかして、全部、俺を苦しめる。

「……勝手ですよ」

 やっと絞り出した言葉は、涙の味がした。

「勝手に辞めて……勝手に笑って……」

 佑月さんが、息を呑んだ。俺はもう止められなかった。

「俺……一年間ずっと……あなたのためにっ、」

 声が震える。胸が痛い。でも止まらない。

「迎えに行くのが日課だったのに、」

 佑月さんが、目を見開いた。

「日吉……」
「なのに……なんで……なんで俺には言ってくれなかったんですか」

 涙が落ちた。止められなかった。

「俺は……あなたの何なんですか」

 廊下の空気が、静かに揺れた。沈黙が落ち、佑月さんは、何か言おうとして口を開きかけて、でも言葉はすぐに出てこなかった。その一瞬の間が、俺の胸を容赦なく締めつける。(……あぁ、ダメだ)あんなこと言っといて結局返事が怖い。聞いたら、今の関係にはきっと戻れなくなる。

“ただの後輩だろ”

そんな言葉が返ってきたら、俺はもう立っていられない。胸の奥が、ぎゅうっと痛む。息が浅くなる。

「……すみません」

 自分でも驚くほど小さな声だった。震えていて、弱くて、情けない声。佑月さんが、はっとしたように俺を見る。

「日吉、」

 呼ばれた瞬間、胸が跳ねて、同時に強く痛んだ。あぁ、聞きたくない。その一心で、俺は佑月さんの横をすり抜けた。

「日吉、待っ、」

 佑月さんの呼び止める声が背中に刺さる。

 でも振り返れなかった。振り返ったら、あの人の顔を見たら、きっと全部崩れてしまう。

 足が勝手に動く。逃げるみたいに、廊下を歩いて部室へ向かう。歩幅がどんどん速くなる。視界が滲む。涙なんて、絶対に見せたくなかったのに。

(なんで……なんで俺ばっかり)胸の奥がぐちゃぐちゃで、呼吸がうまくできない。

 一年間、ずっと隣にいた。ずっと迎えに行って、ずっと笑って、ずっと触れられて、ずっと、佑月さんが好きで。
 その全部が、今日、音を立てて崩れた。

「……っ」

 階段の踊り場で足が止まる。壁に手をついて、俯く。涙が落ちた。止められなかった。

(俺……何してんだ)

 情けない。苦しい。でも、戻れない。

 佑月さんの返事を聞く勇気なんて、今の俺にはなかった。

胸の奥が、ぽっかりと穴が空いたみたいに痛い。
その痛みを抱えたまま、
俺はただ、部室へまた歩き出した。

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