過去編1
2026 04/04
「日吉、明日から佑月を迎えに行ってくれ」
部長にそう言われたのが、すべての始まりだった。
「……なんで俺なんですか」
「あーん?あいつ、サボり癖があるからな」
正直、気が進まなかった。先輩の迎えなんて、面倒だし、気を遣う。何より、まだ数回しか部活に参加した姿を見たとこがない佑月さんは“近づきがたい人”だと思っていた。明るくて、誰とでも仲良く、俺とは違う世界の人みたいで。だから、最初の頃はただの義務だった。
次の日。本当に迎えに行くのかと鳳に心配されながらも跡部さんから直々に任命された事を断る訳にはいかない。
三年生の教室の前で立ち尽くしていると、中から笑い声が聞こえてきた。
「佑月くん、今日は部活ないの?」
「んー、あるけど。どうしようかな」
軽い。軽すぎる。本当にサボる気なんだ、あの人。と、ため息をつきながら扉をノックした。
「……佑月さん。部活、行きましょう」
すると、佑月さんは驚いたように目を丸くした。
「え、日吉?迎えに来てくれたの?」
「部長命令で」
「そっかぁ……じゃあ行くか」
思ったよりすんなりと、ロッカーから取り出したテニスバックを持ち俺の元へ歩いてくる佑月さん。
「お待たせ」
「明日から部活ある日は迎えくることになりました」
「へぇ、そうなんだ。嬉し」
その時の笑顔が、妙に柔らかかった。なんだ、この人。思っていたよりずっと優しい声で、胸の奥が少しだけざわついた。
それから数ヶ月して、最初はただの義務だった佑月さんのお迎えも俺にとって日課になった。佑月さんは毎回、必ず笑ってくれた。
「日吉、今日もありがと」
「部長命令で」
「でも、俺は嬉しいから」
佑月さんに、そんなふうに言われると、胸の奥がじんわり熱くなる。
ある日、部活前に先生に呼ばれ、迎えに行くのが少し遅れた。頼まれた雑用を済ませてから佑月さんを迎えに行くと、佑月さんは机に突っ伏して寝ていた。放課後、佑月さんの周りには誰かしらいるから、寝てる姿を初めて見た。
「……佑月さん。お待たせしました。起きてください」
肩に触れようとした瞬間、佑月さんが目を開けて、俺の手をそっと掴んだ。
「日吉……、もう来ないかと思った。良かった」
寝起きの声が甘く、そしてその声が、ほんの少しだけ寂しそうで、胸がぎゅっとなった。
「……来ますよ。部長命令ですから」
「そうだな。あぁ日吉が来ると安心する」
佑月さんのその言葉が、胸に深く刺さった。それにもう嫌じゃなくなっていた。むしろ、こうやって佑月さんを迎えに行くのが、少し楽しみになっている。
「なんで俺なんですか」
「ん?」
「宍戸さんとか忍足さんとか、同じ学年にもテニス部の人いるでしょう。わざわざ俺じゃなくても」
「それは、俺が日吉が迎えにきてくれると部活頑張ろって思えるから。景吾にはお見通しってやつ?」
「なんですかそれ、」
「ま、そう言うこと。部活行こ、景吾に怒られる」
▼
練習後、部室の前で一人残って素振りをしていた俺に、佑月さんが声をかけてきた。
「日吉、まだやってんの?」
「……もっと上手くなりたいので」
「真面目だなぁ。そういうとこ好きだけど」
好き、その言葉に、思わず動揺してしまう。
「……っ本当に軽い」
「軽くないよ?」
佑月さんは、真っ直ぐ俺を見て言った。
「日吉、頑張ってるの知ってる。俺、そういうの……放っとけないんだよ。でも、今日は俺が鍵当番だからこれで終わり。一緒に帰ろ」
自然に隣に立ってくる佑月さんの手に引かれて部室へ向かった。
それから部室で着替えや片付けをして、職員室へ向かう途中に急に雨が降り出した。バケツをひっくり返したみたいな土砂降り。あいにく傘なんて持っていない。
「……最悪だ」
ため息をついて外を眺めていると、背後からふわりとタオルがかけられた。
「風邪ひくぞ、日吉」
振り返ると、濡れた髪を手でかきあげている佑月さん。
「……先輩こそ濡れてるじゃないですか」
「俺はいいよ。日吉が濡れる方が嫌だし」
結局、近くの倉庫の軒下で雨宿りをすることになった。
雨音がうるさいくらい響いて、二人の距離は自然と近くなる。
佑月さんが、俺の肩にかけたタオルを直してくれた。
「ほら、ちゃんと拭けよ」
「……自分でできます」
「いいから。日吉、風邪ひいたら俺が困る」
その、俺が困るが、胸に刺さる。
「なんで困るんですか」
「そりゃ……日吉がいないと、俺、部活行かなくなるし」
冗談みたいに言うのに、目は笑っていなかった。本気で言っている目だった。
雨が弱まる気配はなく、二人はしばらく黙って雨を見ていた。ふいに佑月さんが、ぽつりと呟いた。
「日吉ってさ……俺のこと嫌い?」
「……は?」
「なんか気になって」
胸がぎゅっと掴まれた。
「まぁ嫌いじゃないです」
「じゃあ……好き?」
「……っ」
心臓が跳ねて、言葉が詰まる。佑月さんは、少し寂しそうに笑った。
「俺さ……日吉が迎えに来てくれるの、すごく嬉しいんだよ」
「……」
「日吉が来ない日があったら……たぶん俺、すごく嫌だ」
その声は、いつもの軽さがなくて、弱くて、どこか必死だった。こんなの、反則だろ。胸が痛いほど熱くなる。気づけば、佑月さんが一歩近づいていた。雨音のせいで、呼吸の音まで聞こえそうな距離。
「日吉」と、名前を呼ばれただけで、身体がびくっと反応する。
「俺……日吉のこと、特別だと思ってる」
その言葉が、雨音よりも強く胸に響いた。
「……なんで、俺なんですか」
「わかんない。でも……日吉じゃないとダメなんだよ」
その瞬間、身体の奥がじんわり熱くなって、息が苦しくなる。(……俺も、そうだ)言葉にはできないけれど、確かに胸の奥で何かが動いた。
暫くして雨が弱まってきた頃、佑月さんは俺の頭にそっと手を置いた。
「帰ろ。日吉と一緒なら、雨でも悪くないな」
その笑顔が、胸に深く刻まれた。この日から佑月さんとの距離は近くなったと思う。
次の日の放課後。いつもより早く教室を出ていた。
(……別に、会いたいとかじゃない)そう言い聞かせながら、足は勝手に三年生の教室へ向かっていた。
扉の前に立つと、胸がどくどくとうるさくなる。
緊張してるのか、俺は。
深呼吸して、ノックしようとした瞬間。
「日吉?」と、扉が開いて、佑月さんが顔を出した。
濡れたような前髪。少し息が上がっている。
まるで、俺を探していたみたいな顔。
「……来てくれた」
その一言で、胸の奥がぎゅっと掴まれた。あぁ、ダメだ、決定的に崩れた。
「今日早くない?」
「別にいつも通りです」
「日吉ってほんと素直じゃないよな」
笑いながら、佑月さんは俺の前髪にそっと触れた。
「昨日濡れたから、風邪ひいてないか心配だった」
その優しさが、胸の奥にじんわり広がる。
(なんで……そんなに優しいんだよ)
触れられた場所が熱い。
心臓がうるさい。
呼吸が苦しい。
こんなの、ただの先輩に向ける感情じゃない。
胸の奥で、何かがはっきり形になった。
なんでこんなに優しくするんだ。他の一年にはしないような距離感で、俺には当たり前みたいに触れてくる。どうしようもなく惹かれていった。
そんな日々がつづき、佑月さんを迎えに行くのは“義務”じゃなくなった。佑月さんのために行きたくて、あの笑顔が見たくて、隣を歩きたくて。
気づけば、佑月さんが、俺の特別になっていた。