惚れ直しちゃうからやめてほしい
お昼を食べ損ねた日の放課後。私はバスケ部の集合時間に遅れないよう、体育館へ向かって昇降口を急いでいた。
胃の奥がきゅうと縮む。購買部はとうに閉まり、空腹は誤魔化しようもない。
赤葦京治の相談のことで頭がいっぱいだったせいで、お昼の存在をすっかり忘れていた自分に苦笑する。靴を履き替えようと屈んだそのとき。
「……高坂さん」
背後から、静かで落ち着いた声が落ちてきた。その響きだけで、胸の奥がわずかに跳ねる。
振り返ると、赤葦京治が立っていた。部活前なのだろう、ジャージ姿で、髪の先が少しだけ湿っている。走ってきたのか、肩がわずかに上下していた。
「バスケ部、これからですよね」
「う、うん。行かなきゃなんだけど……」
赤葦京治は一瞬だけ視線を落とし、それから、そっと手を差し出した。
「……これ、よかったら」
差し出されたビニール袋の中には、カロリーメイトと、小さめのチョコパン、スポーツドリンク。胸の奥に、驚きと温度が同時に広がる。
「今日、お昼……食べていませんよね」
その一言が、図星を静かに突いた。返事が喉に貼りつき、声にならない。
「……高坂さん、水曜は購買部に行くんだって、木兎さんが言ってたので」
どうでもいいはずの情報を、どうしてこんなふうに丁寧に覚えているのだろう。彼の人生には何の役にも立たないはずなのに、まるで大切なメモのように扱われている気がして、胸が少し熱くなる。
「それに部活前に倒れたら困るので。木兎さんも……心配しますから」
"も”と付け足した声は静かだったが、その奥に、別の誰かの心配が隠れているように思えた。私のことを気にかけてくれているのは、木兎だけではない。 そんな予感がして、心臓が落ち着かなくなる。
「え、でも……悪いよ。お金……」
「いりません」
迷いのない即答だった。断る余地など最初から存在しなかったのだと悟る。赤葦京治は、少しだけ視線をそらした。その耳が、ほんのり赤く染まっている。
「高坂さんには……これから相談に乗っていただくので。今日、中庭で高坂さんを困らせてしまったと思って、流石に嫌われたかと」
「嫌ってないよ!」
思わず声が大きくなる。赤葦京治は驚いたように目を見開いた。胸の奥が熱くなる。嫌うなんて、そんなはずがない。
「……それならよかったです」
その言い方が、妙に丁寧で、妙に優しくて、心臓に悪い。
「それと……」
赤葦京治は少しだけ視線をそらした。
「あなたが倒れたら……俺も困ります」
その言葉は、まるで胸の真ん中にそっと触れるように落ちてきた。心臓が跳ねる。跳ねた衝撃が、指先まで痺れるほどだった。
「だから……ちゃんと食べてください」
静かで、真っ直ぐで、逃げ場のない声音。優しさが、まっすぐこちらに向けられている。言葉が出ない。胸の奥が、じんと熱くなる。
「……ありがとう。赤葦京治」
「それなんでフルネームなんですか」
「いやなんか、呼びやすくて……」
自分でも理由が分からない返しをしてしまい、赤葦はふっと小さく笑った。その笑顔が、優しくて、柔らかくて、今日いちばん綺麗だった。
「…そうですか。では、俺も部活に行きます」
そう言って歩き出した赤葦は、数歩進んだところでふと立ち止まり、振り返った。
「高坂さん」
「……なに?」
「……無理はしないでくださいね」
ビニール袋を抱きしめたまま、私はしばらくその場から動けなかった。
胸の奥で、静かに思いが広がっていく。惚れさせるつもりがないのなら、どうしてこんなに優しくするのだろう。そんな問いだけが、いつまでも消えずに残った。
(勘違いは、無駄だというのに)
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