「す、すみません遅くなりました!」
隊舎の外で壁に背を預け立っている阿近さんに頭を下げる。退勤後食事の約束をしていたのだが、私の仕事が押してしまい阿近さんを待たせる羽目になってしまったのだ。
「初デートだって意気込んでたのは何処のどいつだ」
「私でございます……」
「そもそも飯はデートとは言わねえだろ」
「阿近さんとのお出かけは全部デートなんです!」
阿近さんとお付き合いをすることになったのが昨日。帰り道で約束を取り付け、今日のお食事を心から楽しみにしていたのに。終業間際に色々仕事を回されてしまったのもあるが、時間内に終了できない己の愚鈍さを呪うしかない。せっかくの初デートの出だしがこれなんて、阿近さんに呆れられてしまったらどうしよう。やっぱり好きじゃなかった、なんて言われてしまうかもしれない。
「怒ったり落ち込んだり忙しい奴だな」
阿近さんは小さく溜め息を吐くと、私の右手に自らの左手を絡ませた。とっとと行くぞ、と私の手を引く阿近さんの唇は緩く弧を描いていて、もしかして楽しみにしてたのは私だけじゃないのかも、と自惚れる。
「何で残業になったんだよ、途中まで順調だったろ」
「えっと……私の要領が悪くて」
「それを見越してお前に回りそうな仕事も片付けておいたんだが」
さらりととんでもない発言をする阿近さんに目を見開く。仕事が早いと言えば聞こえはいいかもしれないけれど、それって公私混同なのでは……。鋭い眼光で圧をかけられ、残業となった元凶の人物の名を挙げざるを得ない状況に追い込まれる。
「あの、鵯州さんにデータ入力を頼まれまして」
「ほう……ちょうど新薬の被検体探してたんだよな」
阿近さんが作ってたの、確か全身の内分泌機能を一気に狂わせる薬だったような。初デートとやらの邪魔した報いは受けてもらわねえとな、なんて飄々と話す阿近さんを慌てて止める。どことなく楽しそうな阿近さんの様子から冗談であることは読み取れるが、万が一ということもある。私のせいで鵯州さんがそんな危ない薬の治験をさせられることだけは避けなければ。というかちょっと仕事を頼んだだけなのにあまりに代償が大きすぎる。そもそも鵯州さんは私たちが付き合い始めたことも、食事の約束をしていたことも知らないのだ。
「仕事遅い私のせいなので……鵯州さんは何も悪くないです」
「何だ、鵯州の肩もつのか」
「そ、そういうわけではなくて」
ジト、と切れ長の目が私を軽く睨む。単純に私の要領が悪いというだけであって、鵯州さんがどうとか肩をもつとかそういう話ではないのに。別に本当に怒っているわけじゃないのは分かっているものの、悪戯心の湧いた私は口を尖らせ拗ねたような素振りで応戦してみる。すると阿近さんはすぐに観念したようで、小さく溜め息を洩らした。ふふん、私の勝ちだ。
「悪ィがお前のことに関してはそれなりに重いぞ俺は」
「……あんまり想像がつかないんですけど」
「舐めるなよ、何年好きでいると思ってやがる」
阿近さんの左手の力が強まる。勝ったと思ったのも束の間、すぐにカウンターが飛んできてしまった。頬に熱が集中し、どんどん顔が赤くなるのを自覚する。阿近さんが私を好きだなんて、やっぱり夢でも見てるんじゃないかと疑ってしまう。私だって何年も前から好きです、と小さな声で反論するも、俺はそれより前から好きだ、とあっさり返され更に頬を赤く染める羽目になった。阿近さんの足元を掬おうだなんて、私なんかにはまだまだ早かったようだ。
「う、わっ!?」
浮ついた気持ちで歩いていると繋がれた右手をぐいっと引かれ、細い路地に連れ込まれる。その勢いのまま壁に体を押し付けられ、逃げ場のない状況を作られてしまった。阿近さんは真っ直ぐに私を見つめていて、距離の近さも相俟ってなんだかとても恥ずかしくて。何か喋らなきゃ、と咄嗟に考え慌てて口を開く。
「あ、阿近さん?どうし、」
「お前もう少し空気読め」
「へ?」
阿近さんの少し冷たい右手が私の頬に添えられる。火照った顔にはちょうどいい熱冷ましのはずなのだが、状況が状況だからか私の頬はどんどん熱を帯びていった。
「こういう時はな、黙って目ェ閉じるんだよ」
阿近さんは頬に添えた指を滑らせ、私の顎をくいっと持ち上げる。これから何が起こるのかを足りない頭でやっと理解して、言われるがままに目を閉じた。唇に柔らかい熱が触れて、小さなリップ音を残し離れていく。ゆっくりと瞼を持ち上げると、至近距離で私を見つめる阿近さんと目が合った。
「……もう離してやれねえからな」
「こっちの台詞です、離れてあげませんから」
「ハッ、言うじゃねえか」
「好きです、阿近さん」
「……そういうことは俺に言わせろ」
壁に押し付けられていた背に腕を回される。阿近さんに抱きしめられ、更に近づいた距離にどくんと心臓が跳ねた。阿近さんに縋るように私も腕を回し、人気のない路地裏で抱擁を交わす。暫くお互いの体温を確かめ合っていると、阿近さんの腕の力が少し弱まった。合わせて私も力を抜き上体を軽く反らすと、阿近さんは慈しむような目で私を見つめていて。好きだ、と優しい声で呟いて、阿近さんの顔が再び近づいた。いくら出来の悪い私でも分かる、こういう時にどうすべきかは、先程阿近さんが教えてくれた。
思えば阿近さんは、最初からずっと私を大切にしてくれていたように思う。研究を近くで見せて私の成長を促してくれた。実家のことを知ったそばからたくさん気を遣ってくれた。いつも誰よりも私のことを気にかけてくれていた。阿近さんが私にくれていた愛を、これから全部返していきたい。あまりにたくさん貰いすぎて、きっと時間がかかってしまうけれど。でもきっと大丈夫、これからずっと一緒にいられるのだから。
ゆっくりと目を閉じて、阿近さんから注がれる愛を存分に甘受した。
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