「んんん……」
目の前に広がる書類の山は、昼頃から一向に減っていないように思える。隊長が研究があるからなどと言って溜めに溜めた護廷隊の通常業務を処理し始めてから一体何時間経過したことか。太陽も沈みすっかり暗くなっている窓の外には目を向けないようにしながら筆を置いて伸びをするが、目の疲れや肩の凝りは一切とれない。
「疲れたアピールしても休憩はやんねえぞ」
「そんなつもりないですよ失礼な」
正面で私と同じように書類をひたすら処理する阿近さん。手を付け始めた時は阿近さんの顔も見えないほどに積まれていたから、やっぱり少しは片付いたんだなと今になって実感する。それでも多いものは多いのだけど。
副局長であると同時に十二番隊副隊長でもある阿近さんは、こうして隊長が放置した仕事の尻拭いをさせられることがよくあるのだ。この若さで副隊長と副局長を兼任なんて、やっぱりこの人の技量は並みではないんだと改めて思い知らされる。そんな優秀な人に私みたいな下っぱが恋心なんて抱いていいものかと悩まされるところではあるけれど。
「阿近さん」
「なんだ」
「疲れました」
「だろうな」
「何時間ぶっ通しでやってると思ってんですか」
「四刻だが」
「え!?そんなにやってたんですか!?」
「気付いてなかったのかお前」
思い切り振り向いて時計を見れば短針は八を指していて。そりゃ窓の外も真っ暗になるわけだと一人納得する。二人がかりでこれだけやっても終わりの見えない書類に溜め息をひとつ落とし、今日は徹夜かなと働かない頭で考えた。寝られないという事実には頭を抱えるものの、理由をつけなくても阿近さんと居られるという点に関しては正直喜んでいる自分がいる。首をゴキゴキ鳴らしながら書類に筆を走らす阿近さんは、言うまでもなく絵になっていて。目の前に阿近さんがいるという現実や部屋に二人きりという現状が私の頭をガンガン刺激し、仕事中だというのに雑念が浮かんでしまう。
筆を握る阿近さんの指は、男だから節張ってはいるものの細く長い印象を受ける。指だけでなく全体的に細くて、そういえばこの人は食に対する関心が薄いよなあなんて思った。仕事第一な阿近さんは研究に没頭するあまり食事を一切摂らないこともよくある。このままいくと今日も、何も食べないまま徹夜しそうだよなあ……。
「阿近さん、ごはん食べに行きません?」
「あ?」
「私お腹空いちゃいました」
私の言葉に漸く食べていないことに気付いたらしい阿近さん。あまり気の進まない表情を浮かべているものの、だめ押ししたら渋々了承してくれて。まだギリギリ営業中だった食堂に駆け込み慌てて注文を済ませると、他にお客さんもいなかったからかすぐに料理は運ばれてきた。
「朝ぶりのごはん……!」
お昼も食べ損ねたから実に時計一周分ぶりのごはんである。最初こそ阿近さんに食事を摂らせようと思って出した案だったけど、やっぱり自分もかなりお腹が空いていたらしい。久しぶりに食べるごはんは、空腹も相俟っていつもよりも遥かにおいしく感じた。
「おいしいです阿近さん!」
「そりゃよかったな」
「阿近さんも食べてください」
「へいへい」
箸を手に取った阿近さんが料理を口に運ぶのを確認し、私も食事を再開した。技局に戻ればまたあの書類の山と朝まで戦うことになるけれど、ちゃんと栄養補給もしたし、何より阿近さんと一緒に居られるし、気合いを入れて頑張らなければ。黙々と食べ進めていると、なんだか正面から嫌に視線が送られていることに気付く。私たち以外人のいない食堂で私に視線を向けるなんて、相手は一人しかいないわけで。
「……なんでしょう」
「や、気ィ遣わせたなと思ってよ」
「はい?」
「俺が普段から食い忘れてばっかだから誘ったんだろ」
鋭い人ではあるとわかってたけど、こんなに簡単にバレるとは。言い訳しても意味はなさそうだし素直に頷くと、阿近さんはハァ、と小さく息を漏らした。えっと……これはもしかして、迷惑だったのでは。栄養補給のためとはいえ食に興味ゼロで出不精の阿近さんをわざわざ食堂まで連れ出して、これ私が買い出しに行って適当なお夜食を技局内で食べた方が阿近さんも楽だった、かも。
「……なんか勘違いしてんだろお前」
「え」
「迷惑じゃねえよ別に。若ェ女に心配されんのも悪くねえと思ってたとこだ」
言い終わると、ずず、と小さく音を立てお茶を啜る阿近さん。伏せられた目がかっこいいとか湯呑みを持つ手が男らしいとかそんな些細なことに胸を高鳴らせつつ、頭をぐるぐる回るのは彼の放った言葉だった。心配されんのも悪くねえ、って。
「……あ、阿近さんだって若いじゃないですか」
「お前よりはオッサンだろ」
ちゃんと女って認識してもらえてることとか、悪くねえって言ってもらえたこととか、きっと端から見たら大したことではないんだろうけど。でも私にとってはやっぱり嬉しくて、なんだか気恥ずかしくて慌てて箸を進めた。もうテンパりすぎて味なんてよくわからないけれど、阿近さん以外の何かに意識を向けなければきっと私はすぐに赤くなってしまう。噎せんぞ、と指摘を食らった次の瞬間咳き込んでしまい、結局赤くなる羽目になったのだけど。阿近さんはそんな私を、呆れたように、けれど同じくらい優しく、笑った。
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