「ただいま戻りました」
他隊に書類の配達に出ていたニコちゃんが局に戻ってきた。眼鏡がトレードマークの数少ない女性局員で、こう見えても意外と古株だ。後輩である私がニコちゃん、なんて気軽に呼んでいい立場では本来ないのだけれど、フランクな関係でいたいという本人からの申し出に私も砕けた口調で話させてもらっている。
「なんかどこかの隊の人たちが一斉に走って行ったの見ましたけど……虚でも出たんですか?」
「あ?出てねえな」
「あ、あれじゃないですか?最近下級貴族が揉めてて〜ってやつ」
ニコちゃんの問いに順々に答えていく鵯州さんにリンくん。リンくんの放った下級貴族というワードに少し反応してしまって、小さく首を振って目線を目の前の画面に戻した。先程までと同じようにひたすらキーを叩く作業をしつつも、耳は勝手にそちらのやり取りを拾ってしまう。
「貴族間の勢力争いが最近目立つらしいですよ」
「貴族っつっても下級だろ?鎮圧に死神何人も導入するたァどんだけ暇なんだよ」
「まあ貴族は貴族ですからね」
仕事に集中したいのに、三人の会話がどうしても聞こえてきてしまって意識が散漫になる。こうして仕事と私情を割り切れないから、経験を積んでもいまだに下っぱなんだなあと思ってみたり。一度落ち着こうと目をぎゅっと瞑ってみると、そのすぐ後に私の頭に大きな手のひらが置かれた。驚いて顔を上げてみれば、そこにあったのは私の大好きな人の姿で。
目線でついてくるよう促され、先に歩き出した阿近さんに続いて私も席を立つ。一応仕事中ではあるため周りに気付かれないようこっそりと抜け出し、先導する阿近さんの広い背中を追った。
ついていった先にあったのは、阿近さんの研究室だった。阿近さんはいつもの椅子に腰掛け煙草に火をつけると、私が普段お手伝いの時に座らせてもらっている椅子を顎で指す。小さく頷きそこに座って、体だけ阿近さんに向き直った。失礼とは思ったけれど、目線は下に下げたまま上げられなかった。
「……九条家は今んとこ参加してねえそうだ」
「え」
「勢力争い」
パッと顔を上げ阿近さんを見る。阿近さんはいつものように落ち着いた、とても冷静な目をしていた。その言葉に、その目に、波が立っていた私の心も少しずつ落ち着きを取り戻す。
「貴族も大変だな」
ふう、と紫煙を吐きながら溢す阿近さんは、純粋に私を心配してくれているようだった。
私の生まれた九条家は、下級貴族に分類される身分だった。貴族なんて大層な名前がついているとはいえ下級は下級。大して高い身分なわけでもなく、昔から何かと大変だったのを今でも覚えている。
私の生家のことを知っているのは、局内でも隊長と阿近さんだけだ。あまり身分を明かしたくない私を気遣って、貴族絡みの話題になると阿近さんはいつもこうして助けてくれる。今日も人通りの少ない自分の研究室に通してくれたり、九条家の状況を調べてくれたり。
「落ち着くまでここにいろ。鵯州たちには適当に言っとくから」
ぽん、と私の頭を撫で、阿近さんは席を立った。私のなんかより一回りも二回りも大きなその手は、いつも私の心を落ち着かせてくれる。ゆらゆら揺れて空気中に溶けていく煙草の煙を見つめながら、なんだかこれ阿近さんみたいだなと思った。心地のよい微睡みを持ったそれはすんなりと私の心に侵入し、私の心を満たすようにふわりと溶ける。気付いたら胸の中はその香りでいっぱいになる。目に見えなくても私を覆い、そして包んでくれるのだ。
阿近さんの優しさにちょっと泣きそうになりながら、深呼吸して心を落ち着けた。
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