「でね、部屋で密会してるとこに鉢合わせたわけよ」
「お前はバカか」

 大衆居酒屋の喧騒の中、負けじと声を張りながら浮気現場に居合わせた話を目の前の男に聞かせる。こちらには目もくれずツマミのほっけをつついていた阿近は、私を一瞥し心底呆れたように吐き捨てた。

「何でよ!バカなのはあの男の方でしょ!」
「それは否定しねえが毎回そんな男を選ぶお前も大概だぞ」

 毎回、の言葉が胸に突き刺さり押し黙る。そう、私は彼氏が出来ても毎回浮気されるのである。その度こうして同期の阿近を呼び出しては一方的に愚痴を聞かせるのだ。毎度悪態はつくもののしっかり話を聞いてくれる阿近に感謝してはいるのだが、どうやら今日は私を正論で殴る気分の日らしい。

「お前本当に見る目ねえな。見りゃ分かるだろ、浮気するかどうかくらい」
「分かんないから毎回こうなってんじゃんー!分かるなら最初から教えてよ!」
「言っても聞かねえのはどこのどいつだよ」

 正真正銘私です。だって好きになると夢中になっちゃうんだもん。そんな若い子みたいな言い訳が通る程幼いわけではないけれど、でも恋をすると周りが見えなくなるあの感じは伝わってほしい。うすはりのグラスになみなみに注がれた日本酒を飲みながら、阿近は大きく溜め息を吐いた。

「次はもう少し周りの意見も聞くんだな」
「うう……阿近もたまには失恋しろ」
「無茶言うな」
「女には困ってないって言いたいのかこんにゃろ!」
「んなこと言ってねえだろ」

 正しく情緒不安定。話を聞いてやってるにも関わらず当たり散らされるなんて、阿近からしたら災難もいいところだ。私の横暴に呆れた様子の阿近は、テーブルの隅で残っていたエイヒレを摘み始めた。さっきから塩辛いものばっかり食べやがって、明日顔浮腫んじゃえバカ。なんて言葉にしたら暫く口をきいてもらえないのは明白なので、心の中でだけ悪態をついておく。そもそも塩辛いものばかり頼んだのは私だし、話すのに夢中になって食べきれていないのも私だ。話を聞いてくれながら残飯処理までしてくれる阿近はなんて面倒見がいいのだろう。額の角や鋭い目つきのせいで怖いイメージをもたれがちだが、この男は私の知る中でも一二を争うくらいの世話焼きである。
 私はいつも自分の恋愛話や失恋話を阿近に聞かせているが、阿近の方からそういった色恋沙汰を聞いた事は一度もなかった。こういうのでよくある「実はお前の事が好きなんだ」パターンは万に一つもないし、たまには阿近の話を聞いてみたい気持ちもある。若手の局員が阿近さんカッコイイよね、と話しているのが聞こえた事も一度や二度ではなく、少なくとも技局内で女性人気はある方なのだ、この男は。

「実際どうなの?女には困ってないの?」
「何だいきなり」
「阿近そういう話しないじゃん。彼女いないの?」
「いたら今日ここに来てねえだろ」

 当然のようにさらりと言ってのけ、紙煙草に火を点ける阿近。彼女いたら他の女とはサシで飲まないってこと、だよね。

「何あんた、いい男じゃん」
「今頃気づいたか」

 紫煙を吐き出しながら、淡々と阿近は呟いた。今まで付き合ってきた浮気男たちに阿近の爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。おい元彼共聞いてるか、彼女いたら他の女と食事したり遊んだりしないんだよ普通は。阿近も阿近でそんないい男に育つなら先に言っておいてほしい。お互いクソガキと呼ばれる歳の頃から傍にいたせいで、今更阿近相手に恋愛をする気にはなれない。こっちから願い下げだって怒られそうだけど。
 ――彼女が三席って、俺の立場がないんだよ。仕事ばっかりじゃんお前。……歴代の彼氏たちに言われてきた言葉だ。確かに三席だ、必死に仕事に打ち込んできた。けどそれの何が悪いんだ。同期の阿近と競い合っていたらここまで上り詰めていただけなのに。私だってちょっと抜けてて守りたくなる雰囲気の可愛い女の子に生まれたかった。でも私がそうじゃないことを分かった上で、あんたたちも私を選んでくれたんじゃないのか。

「……急に泣くなよ、感情の起伏どうなってんだお前は」

 阿近に指摘され、初めて自分が泣いている事に気がついた。阿近が傍にいてくれるおかげでどうにか気持ちを保てていたが、浮気が発覚したのはつい先日。平気で二股するような男に未練はないものの、傷が癒えていないのもまた事実だった。自覚した途端に溢れ出る涙は止まってくれる様子はなくて、ついついお酒を入れすぎた事を後悔する。泣き止む兆しのない私に阿近は小さく溜め息を零すと、残っていた日本酒を一息で飲み干し席を立った。すぐに戻ってきた阿近に行くぞ、と腕を引かれ、お会計を済ませてきてくれたんだと理解する。こういうスマートなところも見習え元彼共め。

 阿近に先導されるまま店を出て少し歩くと、繁華街の外れの小さな広場へと出た。桜の木の下に設置された長椅子に座らされ、阿近も並んで腰掛ける。黙って隣にいてくれるその優しさが、心に深く刻まれた傷の痛みを少しだけ和らげてくれた。もうこの際全部話してしまった方が楽かもしれない。浮気現場に遭遇した日に元彼から吐き捨てられた言葉たちを、ぽつりぽつりと阿近に話し出す。

「……彼女が席官じゃプレッシャーだって」
「そりゃ下らねえ男だな」
「頼ってもくれないし、仕事ばっかだし、お前に俺って必要?って言われた」
「必要ねえよ、そんな奴」
「浮気相手の方が可愛げがあるって」
「お前の良さに気づける器じゃなかったんだろ」

 次から次へと溢れ出る涙を必死に拭う。阿近は煙草をふかしながら、私をフォローする言葉を淡々と返してくれた。自分で言うのもなんだがいつもならもっとヒステリックに泣くのに、何故だか今日はそういう気分にはなれなくて。浮気での破局がこれで5回目を突破したからだろうか、怒りよりまたしても大切な人に蔑ろにされた悲しみの方が勝っていた。

「そんなに魅力ないのかな、私」
「んなこたねえよ」
「……優しいね、阿近は」
「それも今更だろ」

 それもそうだ。阿近がいい男なのも優しいのも、今に始まったことではない。これだけ模範的ないい男を近くで見てるのに毎回最悪の男を選ぶ私は、阿近の言う通り確かに見る目がないのかもしれない。阿近みたいに誠実な男を何故見つけられないのだろう。止まる気配のない涙は最早拭うことすら面倒だ。

「お前は仕事熱心で男以外の事に関しちゃ頭は良い。見た目も上々、性格だって負けん気は強いが悪かねえ。その男がお前に不釣り合いだっただけだ」
「……ありがとう」
「だからそんな男のために泣くな」

 阿近は煙草を吸いながら、反対の手で私の頭に手を置いた。その手つきは妙に優しくて、なんだか調子が狂ってしまう。いや、もしかしたら阿近はいつも通りなのかも。私のメンタルがあまりに弱っているせいで、阿近のことを変に意識しているだけかもしれない。普段より忙しなく動く心臓に気づいていながら、芽生え始めているその感情に見て見ぬふりをする。

「それにしてもアレだな、三席でプレッシャーならそれ以上の席次の男捕まえるしかねえな」
「ええ……隊長格は無理だよ」
「斑目や檜佐木はどうだ、フリーだぞ」
「いや面識ないし」
「ちなみに俺も副隊長だ」
「……揶揄ってる?」
「どうだろうな」

 紫煙を吐き出す阿近の横顔からは何も読み取れない。どくどくと心臓が大きな音を立てて、この鼓動が阿近に聞こえてしまうのではないかと不安になった。ねえ阿近、それって一体どういう意味なの。どういうつもりで言ったの。驚きすぎてあれだけ溢れ続けていた涙もピタリと止まってしまった。短くなった煙草を携帯灰皿に仕舞うと、阿近はゆっくりと顔を此方に向ける。優しい目をした阿近に見つめられ、絡み合った視線が逸らせない。

「いつもみてえにギャンギャン泣いてくれりゃ何とも思わなかったのによ。急にしおらしく泣き出すもんだから刺さっちまった」
「え?」
「俺が守ってやらねえと、なんて柄にもねえ事思っちまったんだよ。責任取れ」
「な、何勝手な事言ってんの」

 阿近は至って真面目な表情を浮かべていて、彼の言う滅茶苦茶理論が悪ふざけでは無い事が見て取れる。対する私は驚きのあまり思考回路が麻痺してしまい、一方的に責任を押し付けられた事に反論するのが精一杯だった。目に見えて動揺している私に気を良くした阿近は楽しげに笑みを浮かべていて、普段の私ならきっと悔しく感じる筈なのに、何故だか今日はドキドキしてしまって。恥ずかしくなって目を逸らすも、それすらも負けた気がしてしまう。まあ阿近に勝てた事なんて唯の一度も無いけれど。

「当たり前だが浮気はしねえ。長え付き合いでお互いの事は知り尽くしてる。悪い話じゃねえだろう」
「……分かってるの阿近、私たちもう百年以上一緒なんだよ。こんなに気の合う同期ってそういないよ」

 それがどうした、とでも言いたげな表情で私を見つめる阿近。どうしたもこうしたもない、この男は分かっているのだろうか。一度男女の仲になってしまえば、もう元の関係には戻れない。

「もし上手くいかなかったら、それだけ大事な相手を失う事になるんだよ」
「上手くいかねえと思ったら最初からこんな話しねえよ」

 真剣な表情でそう返した阿近は真っ直ぐに私を見据えている。お互いを大切にし合う関係を築く自信が無いのなら、そもそも付き合ったりするべきじゃない。そんな当たり前の事を当たり前だと認識出来ている阿近は、やはりいい男であるという裏付けに他ならなかった。何より先程からずっと高鳴り続けるこの胸が、私の阿近に対する気持ちの変化を如実に表している。

「……休みの日はデートしてくれなきゃ嫌だからね」
「分かった」
「好きって言葉にしてくれないのも嫌だよ」
「そんなもんいくらでも言ってやる」
「嘘ついたら怒るから」
「今までだってついた事ねえだろ」

 阿近の手が、私の頬に添えられる。今まで阿近にこんな触れられ方をしたことが無くて、彼の手がこんなにも温かいだなんて知らなかった。その温もりは私を優しく包み込み、先程まで雨模様だった私の心は今嘘のように晴れやかだ。今の今まで失恋で泣いていた癖に、見境無しの尻軽女に見えてしまうかもしれない。けれど私の心はもう、目の前の男に捕らわれてしまった。

「いいよ、責任取ってあげる」

 私の返答を聞いた阿近はニヒルな笑みを浮かべ、私に顔を近づけた。今までなら阿近に顔を寄せられた時点で笑ってしまった筈だけれど、今の私は早く阿近が欲しいと感じていて。触れた唇はどこか擽ったくて、それでいてとてつもなく甘い。もう元の関係には戻れないけれど、不思議と不安は一切無かった。阿近が優しく私の腰を抱き、私も負けじと阿近の首に腕を回す。感じた阿近の温もりはこれまでに無い程心地好くて、この人が私の最後の男であってほしいと、心の底から強く願った。