その目に侵される

 彼の名前は古町清次郎。[月海蛍]という名前で推理作家をしている、今年で四十になる男だ。
 丸く分厚い黒縁の眼鏡に、顔が隠れてしまいそうなほど癖っ毛のある真っ黒な髪。細く長い手足に曲がった背骨を連想させるのは深夜に夜な夜な徘徊するという、この町で有名な古い寓話の一つである「動くカカシ」だ。そんな男に道行く人間は思わず距離を取りたがった。
 こんな小さな海沿いの田舎町なので彼は有名人だった。しかし有名なのは彼の書いた小説の方では無いのがまた彼らしい。
 広大な土地にある隙間風の多い日本家屋に彼は住んでいるのだが、一人ひっそりと物書きに没頭しているかと思えば、突然中から『うわあ』と言う奇妙な声が極稀に近所に響き渡るとか。
 家族ぐるみの付き合いが当たり前の、この小さな田舎では彼は異物化としている。
 きっと友人は居ないだろうし、都会からやって来る出版社関係のスーツを着た男でさえ、たまに見かけるが、殆ど険しい顔をして彼の家から出て来る。
 しかし町の皆は彼を腫れ物扱いしていたが、余所からこの町にやって来た私としては少し気にはなる存在ではあった。
 興味本位、只それだけだと言われるとそうなのだが、あの家の前を通る度に思わず立ち止まってしまう。

 しかしそんな男との接点は思わぬとこにあった。
 町に一つしか無い酒屋の店主、克洋さんは閉店間際にやって来た客にぎょっと目を見開くと私に目配せをし、急くようにバックヤードに履けて行く。
 私としては幸運だったなと、店内を猫背で控え目に歩く彼、古町をレジカウンターから目で追う。
 買い物カゴに日本酒のカップをゆったりとした手つきで入れていき、6本目を入れようとしたところでピタリと動作を止め手元の酒を見つめると、元あった棚へとその6本目を戻し、またあの特徴的な歩き方でレジカウンターの方へとやって来た。
「いらっしゃいませ」
 店員としての挨拶を済ませカウンターに乗った買い物カゴからひとつひとつ会計を済ませていく。
 古町の接客をしたのはこれで3度目になる。はじめて彼を接客した時は、思いの外高かった背に少し驚いたものだ。
「焼き鳥は……その、まだ、ありますか…」
 その背の割に古町は猫背で控え目で臆病な話し方をする。それも、この店内に他の客がいればきっと聞こえない程声が小さい。
「はい。ありますよ。2つ残ってますけどどうされますか?」
「あ…じ、じゃあ2つ、ください……」
 店主である克浩さんの趣味で売り出した地鶏の焼き鳥は、この酒屋の常連客が必ずつまみとして買って行くのが恒例となり、まるで異世界から来たかのような古町という人間でさえ、知る限り3度と必ず買っている。
「少し時間を置いて食べるんでしたら、1度レンジで温めると美味しく食べれますよ」
 そう言ったところで頭上からの視線に気づく。
 あの分厚い丸い眼鏡越しに一重の瞳がこちらを見ている。
「…850円になります」
 接客なら視線はごく普通で、当たり前のものだったがやけにその視線が息苦しい。
 古町はくたびれたスウェットのポケットから拳ほどの黒いレザーのコインケースを取り出しつり銭の受け皿へ小銭を一枚一枚と置いていく。
「丁度お預かり致しますね。ありがとうございました」
 少し重さのありそうなビニール袋をカウンターから軽々と持ち上げた古町は小さく頭を下げると、またあの歩き方で酒屋を後にした。

「行きやがったか」
 古町が帰った事を確認し、克洋さんはバックヤードから姿を見せた。
「気持ち悪くて仕方ねえ」と苛立った口調で店のシャッターを下ろす克洋に、ふと先ほどの視線を思い出す。
 爬虫類…まるで蛇のような目だったと、少し背筋がひんやりとしする。
「あいつはガキの頃から知ってるが、ずっとあんな感じでな。親父さん達が死んでからはあの家に引きこもってんだ」
 それは初耳だ、とレジの小銭を取り出していた手を止め鶏の仕込みをはじめた克洋さんの近くにあった丸いパイプ椅子に腰を下ろす。
「事故か何かですか?」
「いんや。自殺だよ。…元々嫁さんの方が心の病でな。親父さんの方が一向に治らねえ嫁さんを不憫に思って出刃包丁で一刺し。んでその後自分の首切って…あいつだけあの家に残ったわけよ」
 嫌な記憶を掘り出してしまったようで憂鬱そうな表情でまた口を開く。
「普通残るか?あんな事があった家によ。町の人間も心配して引っ越しの話を持ちだしたんだが頑なに嫌がってな。そっからすぐあいつが本書くようになって…しかもまぁその内容が気色悪くてな」
 古町の小説は数冊読んだ事があった。タイトルなどから見て普通の推理小説にしか見えないのだが、その中で取り扱う事件が残酷であまりにも救いようがなかったのを覚えている。
「いつあいつが人を殺すか俺は心配だよ」
 肉を裂く音が小さな厨房に響き、二階から克洋さんの妻、慶子さんの声に時計の針が22時を回ろうとしていた事に気づき私は慌ててレジに戻り今日の分の売上を封筒に詰め二階から降りて来た慶子さんへと渡した。
「ごめんねぇ。変な話に付きあわせちゃって。でも…あのひとの事あんまり鵜呑みにしちゃいけないよ?古町君だって苦労してるはずなんだから」
 封筒を受け取った慶子さんは克洋さんに聞かれないように小さな声でそう言うと、あの出来事できっと胸を痛めたんだと思わせるような悲しげな表情で笑った。
 しかしそうは思っていても慶子さんが古町と会話している所を見た事は無かった。

 それではまた明日。と酒屋を出ると鈴虫の鳴く竹林に囲まれた道に入る。夜も遅く人気が無いのはこの町では当たり前の事なのだが、この家にも大きな原因があった。
 やはりここで立ち止まってしまう。居間だろうか。それとも書斎か。大きな家の一階の窓からオレンジ色の光が暗い道を微かに照らしてくれている。酒屋から五分もしないこの家は、古町の住む家だ。噂の奇声は未だに聞いた事が無かったが少し期待してしまう。
 一、二、三、四、
 「五」
 今夜も変わった事はなし。
 子供の頃見たホラー映画を思い出す。はじめは階段から降りてくる怖い特殊メイクをした女に怯えタオルケットで視界を遮っていたのに、少しだけ、タオルケットの隙間から彼女を覗いてしまうのだ。そして酷く恐ろしく感じて、すぐに後悔をする。奇妙だけど気になってしまう、見世物にしている様で彼には悪いが私にとって古町はそれと一緒だ。
 ふと慶子さんが持たせてくれた晩御飯のおかずを思い出し、歩みを始めた。すると古町の家の明かりが消え、鈴虫の声がやけに大きく聞こえた。

 我が家となる二階建てのアパートの101号室には大家さんである小林さんという二十八歳の男性が住んでいる。亡くなったお祖父さんから貰ったアパートらしいが維持費の方が大変だと言っていた。
 このアパートの一階は誰も住んでいない。土地を持っている人々が殆どなので必要が無いのだ。
 なのでこの町でアパートを借りようとする人間は私のような余所者か、両親と仲が悪く町からも出ないような人間だろう。
 現に201号室に住む女性は噂で聞いたところ、相手も分からないような妊娠をし、中絶。それが両親にバレて家を追い出されたとか。
 どおりで不特定多数の男の出入りが多いわけだ。
 建付けも悪く壁が薄いので喘ぎ声は聞こえるは、揺れるはで、引っ越したいのは山々なのだが、如何せんこの町にはこんなアパートはここ一件しか無い。
 早く特定の男でも作って隣人に出てってもらいたいのだが、中々物事はそう上手くはいかない。
 地元である街にはゴミのように人が溢れかえり、この時間帯でさえ静まる事を知らない。
 あんな街に戻るくらいなら隣の女性の声も我慢できる。

 きっとまだ温かい貰ったおかずを横目に、ずるずると台所に背を向けるように座り込む。
 躊躇なく、そこに伸びた手は焦らす事なく下着の中にある陰核へと伸ばす。
 気持ちのいいことが好きだ。覚えてから何度も経験しているオーガズムに、期待したそこは簡単に愛液が溢れる。下着が湿るのは嫌で、着ていた黒のスキニーパンツと下着を一緒に下ろした。痛みに怖気づいて一本の指しか入らないそこに中指を挿入し、もう片方の手で陰核を刺激した。びくびくと腰が揺れ全身に力が入り震える。
 大きな雄が自分の腰を掴み乱暴に突いてくる想像をするが、いつも相手はいない。顔さえ無い。誰でもいい。この時間だけでも中を擦ってイかせてほしい。
 中に突き立てた指を激しく動かし、声を出さないようにと吐息だけを漏らす。尻の方に愛液が伝っていくのを感じ、それが余計に興奮して唇を噛み締めた。大きく体は跳ね、床に上半身を転がした。
 絶頂の名残に体は震えた。
 慶子さんに貰ったおかずを温めようと、下半身をむき出しにしたままレンジを開けた。
 一人暮らしで誰も見ていないと、そんな秩序が薄れてしまうのだ。
 何事も無かったように、そのままシャワーを浴びた。ぬるりとした愛液はシャワーで流しても中々流れないのが気持ち悪い。
 カラスの行水の様な風呂から上がると、隙間風が通る。温まった煮物のいい香りに機嫌を良くしながら、玄関側の小さな小窓が少し開いていたので鍵をかけた。
 数軒隣の酒屋によく来てくれるおばあちゃんの家は、夜も鍵をかけないらしい。
 流石に用心に越した事は無いと、どこの鍵も確認するのだけれど今朝は慌てて出たから忘れていたのだろう。
 冷凍していたご飯粒を解凍し、テレビをつける。バラエティ番組には興味無くて録画していたアニメを付けた。
 正に家庭の味といった煮物に幸せを感じる。この味を食べる度に実家の母のご飯が恋しくなり帰りたくなるのだが心の療養中の為とはいえ、今母に甘える事はできない。