肌寒さが身に染みる朝に欠伸をすれば、ひんやりとした冷気が喉奥をつついた。
「やべ!誰か来たぞ、逃げろ!」
古町の家の前に差し掛かると中学生だろうか。黒い学ランに身を包んだ男子生徒が三人が私を見るなり逃げていく。
しかしその理由はすぐに分かった。
今時古めかしいイタズラをするものだ。中学生たちは古町の大きな敷地を囲む門に、わざわざ「死ね」や「化物」等の文字を赤いペンか何かで白い用紙に書いたものを大量に貼り付けていた。見ていて気分のいいものでは無い事は確かで、腕時計で出勤までの時間を確認すると、門の紙を剥がしにかかった。その数、五十近くはあり、彼らも相当暇なのだと呆れる。
「おはよう。あら、なあに?それ」
店のシャッターを開けている慶子さんが、私が両手にかかえていた紙を見て目を丸くした。
「それが…」
ここで処分してもらうしか無いと、仕方なく慶子さんに今朝の事を話す事にした。しかし、こんな事は彼にとってよくある事なのだろうか。
「そうなのね。確かに、彼がそん嫌がらせにあってるなんて話聞いた事無かったわね……」
「じゃあ、今朝の出来事は珍しい事なんですね」
よくある子どもの気まぐれで、残酷なイタズラということなのだろうか。
「とりあえず、それは私が処分しておきましょう」
「ありがとうございます」
克洋さんが、この場にいなくて良かった。知られればそのままにしておけば良かったものを、などと小言を言われそうだからだ。
開店九時を前に、馴染みの顔ぶれが揃うと克洋さんは楽しそうによく話す。昨夜の野球の結果だとか、麻雀の話で盛り上がると、その頃にはビール瓶が数本売れている。これも商売なんだと克洋さんは言うが、私と慶子さんは呆れたように、それでも返事をした。
夕方になると客層は変わり、料理酒を求めにやって来る奥様方やラムネ目当ての学校帰りの学生がどっと増える。この時間帯が私は一番苦手だ。
「なーおばさん!これタダにしてくれよ」
「俺も、俺も!」
特に男子生徒は宇宙人である。しかも群れで活動すると余計に威力が増し厄介だ。道理に反する事を他人の私に言い、ゲラゲラと大きな声で笑い面白がる。運の悪いことに克洋さんは町内会の人と店外で話し込んでいる。
子どもの戯言だと言われれば、それまでなのだろうが、私は息苦しくて仕方が無い。
「百円です」
「はー?おばさん、俺らの話聞いてた?」
絡むのはやめてくれと、男子中学生と戦えるはずも無く、情けない事に押し黙ってしまう。
「買わないならどいてくれ」
そんな時だ。私の視界に大きな影が落ちる。顔を上げると、男子中学生の後ろに古町がいた。その表情はいつものように読みづらく、珍しくとハキハキと通った古町の声が店内に響く。
店の外では、克洋さんが険しい顔でこちらを見ていたが、正直今私の救世主は「あの」古町だ。
中学生は背後の古町に顔を引き攣らせ、返す言葉も出てこないと早々に店から出ていってしまった。古町という人間は時として武器にでもなり得るらしい。
レジカウンターに置かれたカップの日本酒、二瓶を見てはっとする。
「いらっしゃいませ」
いつもの挨拶が、お礼の前に口を出たのは、やはりこの男に恐怖を感じているからか。
「あ、あのありがとうございます」
しかし、この目の前の男に怯えたくないと、声を絞り出す。視線だ。あの目。蛇のような瞳が眼鏡の奥から私を見ている。
「い、いえ」
だがその目はすぐに伏せられた。私と古町の会話はいつも通りそこで終わった。
今日も慶子さんからお惣菜を貰い、暗い夜道を歩く。昨夜と同じ道なのに、思わず立ち止まったのは大きな黒い塊が道の隅にしゃがんでいたからだ。
その得体の知れないものに、この町の都市伝説的な寓話を次々と思い出し心臓が酷くうるさい。
「みゃあ」
そんな暗闇の中、聞き覚えのある獣の声がした。闇に目を凝らすとキラリと小さな獣の瞳が光った。
「こ、こんばんは」
大きな影は言葉を話し、更に影は大きくなった。古町だ。影の正体が古町だったからといって、安心できるはずも無く、無意識に後退る。
古町の足元に擦り寄るのは猫だ。古町を無視するわけにもいかず「こんばんは」と返事をするが、どう考えてもこの距離は挨拶するには遠く、不自然な距離だ。
毎日のように古町の家の前を通り、その様子を観察していたとはいえ暗闇に古町のような人間がいれば、恐ろしくもなる。
「猫に、ご飯あげているんですか?」
一歩、また一歩と近づいてみる。暗闇に目が慣れ近づいたからか、古町の髪が濡れている事に気がつく。雨が振った様子も無く、風呂上がりなのだろうか。
「たま、に…」
「……そうなんですね」
まさか、待ち伏せなのだろうか。古町は何か言いたげに口を開けたり閉じたりしている。
「じゃ、あまた…」
「え、ま、まってください……!」
古町は帰ろうとした私を引き止めた。毎日のように古町の家を観察していたのがバレたのだろうか。
「その…、いつも、店で優しくしてくれて…それと、この時間、よく家の前に…いる、から」
ーーーバレていた。これはマズイ。後退る体はすぐに目の前の男に捉えられた。
「あいして、しまいました…」
掴まれた腕は、蛇と視線が合うとすぐに離された。古町の放った言葉に目を見開くも、なんせこういった事を言われたのは初めてで次の言葉が出てこない。
古町の額には、もうすぐ冬だというのに汗が見える。しかし私も同じだった。全身から汗が吹き出すような感覚に吐き気すら覚える。
「僕の、愛の証に…見せたいものがっ」
猫はもう一度鳴き、竹林の闇の中へと消えていく。
古町の瞳がきらきらと輝き、見たこともないようなその嬉々とした表情がより一層気味が悪く感じた。
「い、行かない」
彼の手は私を恐ろしい事件の起きた敷地の中へと導こうとしている。
興味があったじゃないか、とそう好奇心を持ったもう一人の私が言っているのに、いつもよりあの家は大きく、そして不気味に見えた。
「そんな…きっと君は、喜んでくれる」
少し震えたような泣きそうな声に、頷くには時間はかからなかった。
古町の大きく強張った手は冷たい。
毎日のように観察していた家は、敷地に入ると一層ひんやりとした空気を肌で感じ身震いする。大きな家とはいえ、田舎によくある平屋で、暗くて見えづらいが敷地に入ると右手に濁ったような小さな池と手入れのされていない木々が生えていた。
引き戸の玄関を古町ががらりと開け、引っ張られるまま中へと入る。
カビと埃のにおいがした。私の手を引いて家の奥へ進む古町の歩みは早い。
「もうすぐですよ」
機嫌の良い声の通り、古町は裏庭に繋がる縁側で足を止めた。差し出されたクロックスを履き、裏庭に出ると、大きな木が風にふかれ音を立てる。古町は裸足で庭へと躊躇なく降りた。
「君を知って、…色々と調べたんだ」
地面に置いてあったシャベルを手に古町は大きな木の真下に位置する地面にシャベルを突き刺した。
「僕は、君の学生時代の…出来事、を知って凄く悲しくなった……。そして同時に、ひどく怒りも感じた」
ざくざくと土が掘り起こされる。しかしそんな様子も学生時代という言葉に私は動揺し、現状の奇妙さに気づきはしない。
「だから僕は、君に喜んでもらいたかった」
しー、と気味の悪い笑みを作り口元に人差し指を立てた古町は私の手を握り、掘った場所まで誘導した。
一気にこみ上げた、嗅いだ事も無いような悪臭に顔を歪ませる。掘られた大きな穴の中には酸性腐敗となりガスが発生した事により水死体のように醜く膨れ上がった肉体があった。
「僕から君へのプレゼントだよ。安心してね。簡単に死ぬ事なんか許さなかったから」
背後からの体温はやけにじめじめとしている。耳元で囁かれた言葉に理解が追いつかない。
「まずは、喉を死なない程度に処置して切除したんだ。…あまりにも煩かったからね。いくら誰もいない森の中でもリスクは犯せない。彼女は恐怖に……その、漏らしてね。すごく笑えたよ。それから僕は彼女が逃げないように、アキレス腱を切った。そして君の事を話したよ。…っこんなに優しい娘が何故君のような淫売に十代という輝かしい時間を汚されなければならなかったのかって。それから時間をかけてゆっくり爪を剥がして、念の為指の皮膚を焼いた。その頃にはもう彼女は虫の息でね、…でも君のためにも死なせちゃだめだと思って僕頑張ったんだ。嘘ばかり吐く口には汚物やカッターの刃を詰め込んで、意味の無い耳には太い釘を刺した。性欲のまま使い古された子宮は取り出したし、最後のシメはここ」
饒舌に言葉を紡いだ古町は背後から私の額を手のひらで包んだ。
「煩悩の数だけ釘を刺してあげたんだ。人って、…中々死なないものでね、首を切っても致命的な場所で無かったらすぐに死ねないんだよ。…彼女も最後の最後まで苦しんだ。君のために」
暗闇に目が慣れてくると、古町の言っていた通り、その女の死体の額には皮膚が見えない程びっしりと釘が刺さっていた。久しぶりに見たその女の顔が苦しみに喘いでいて、安堵していた自分がいた。彼女はもうこの世にはいない。その事実が古町の言葉と共に現実的になっていく。
しかし事の異常さに気づき、古町の両腕を振り払う。その場から逃げようとするも、すぐに古町によって捕まった。
「だ、だめ、だよ。け、警察に言う、から。…そしたら…君が一番に疑われる…。だから、ね。僕のいうこときいて。お願い。一緒に、ここに…住もう?僕が嫌なものから、全部守ってあげるから…お願い…お願いします……」
先程とは打って変わって、いつものように言葉を詰まらせながら必死に訴える古町。自分よりもずっと年上で大きな男が地面に膝を付き懇願している姿は、やけに小さく見えた。危険だと警報が頭の中で鳴っているのに、私は古町の頭をそっと撫でる。夜風で冷たくなった濡れた髪が少し乾いていた。
これは毒だ。決して許されない罪を私の変わりに背負ったカカシの姿に毒されている。暗闇の中を彷徨った先に見えた光のように、私は彼に手を伸ばした。