誰にも言えない秘密ができてしまった。それも死んでも言えない、知られたくない秘密。実際は自分が手をかけたわけでも無かったが、まるで共犯のように思えた。
ただの肉の塊となって土の中にいた彼女は、学生時代の私の幼なじみだった。
「いい事でもあったの?」
配達から帰ってきた慶子さんは、レジ番をする私を見るなり微笑んだ。
「晴れたような顔、してたから」
首を傾げる私に「恋かしら」と続ける慶子さんは、一生この私の秘密を知る事は無い。知ってはいけない。
しかしそれ程までに、彼女が世を去った事により安堵していた自身に驚く。確かに胸のしこりは無くなった気がしたが、それを上回るほどに、いつか誰かに知られてしまうのでは無いかという不安がよぎる。
それに昨夜での古町の[お願い]について、慶子さんや克洋さんに話しておいた方がいいのかと頭を悩ませた。もちろん死体の事を話すわけにはいかない。しかしあの古町とひとつ屋根の下に住むことになった事を知られると、どんな目で見られるか。昨日の男子中学生の悪戯を思い出す。町の人の反応だって、きっと良いわけが無い。
あの家に一歩入ってしまえば、きっと今度こそ、死ぬまで、あの男と一緒に居ることになるのだろうか。
昨夜見た光は、幻だったのだろうか。
「お、おかえりなさい……」
仕事を終えると、古町の家の前で家主が座り込んでいた。
私を見るなり駆け寄り、へらりと笑う。こんなに幼い印象だっただろうか。古町の足元にいた猫は昨日見かけた子だろうか。猫用の缶詰をいくつか手にしていた古町は、地面に置いてあった空の缶詰を手に、竹林へと帰って行く猫を目で追った。
「猫、懐いてますね」
「は、い。僕……動物は好きなんです」
何か意味ありげな言い草だったが、動物虐待の傾向は無さそうで安心する。そうじゃないだけマシだと感じてしまう自分もかなり可笑しいのだろうか。
「あの、私…」
「お風呂、湧いてます」
「え」
「先に、ご飯が…良かったですか…?」
古町清次郎はやはりおかしな男だった。オドオドとしているようで頑固にも感じる。そもそも両親の悲劇があったこの場所に住み続けているわけなのだから、頑固だという私の考察もあながち間違ってない気がする。
出会って僅か、まともに会話をして一日と少し。そんな男の家に今から泊まろうとしているだなんて、私の優しい家族には知られたくないなと恥じた。
昨夜も古町の強引な行動でこの家に来たわけなのだが、今日はやけに部屋が明るく感じる。曾祖父の残した田舎の家を思い起こさせるその作りは、少し心地いい。
数ある部屋の中で通されたのは、台所に隣接されてある十畳程の和室。人さまの家、しかも古町と言えど異性の家で風呂に入るのは気が引け、とりあえずご飯をと答えたのだが、そもそも古町は料理をするのだろうか。台所へと入って行った古町の線の細い背中を見送り、慶子さんに頂いた御惣菜に気が付いた私は、その後を追った。
「あ、っどうかしました、か」
台所に入ると覚えのある食欲を大いにそそる匂いがした。
「肉じゃがですか」
「はい…!…えっと、好きだと、思って……」
その通りだ。数日前に母から連絡があった際に丁度その話をしていたのを思い出す。私は「すきです」と答え、慶子さんに頂いた惣菜を古町に見せた。
「よかったら、これ貰ったんで温めて食べませんか」
「………じゃ、じゃあ僕の、これは要らないですか?」
的外れな古町の応答に「なんでそうなるんですか」と思わず冷たく言い放ってしまった。すぐに気づいて謝罪するも、古町の表情は暗い。
「ごめんなさい」
謝る古町の様子はまるで子供のようだ。今にも泣きそうな古町を慰める気にもならなくて「レンジ借りますね」と流した。
どうも彼の強引で自己中心的な態度に苛立ってしまう。古町という存在の恐怖心が徐々に薄れていっている証拠なのだろうか。
慶子さんに頂いた惣菜はちくわの磯部揚げ。温まったおかげで、海苔のいい香りに空腹を感じる。
「古町さん、お米は…?」
机に並ぶ食材に米が無い事を不思議に思うと古町は驚いた表情で「君は、いつも食べないから」と口にした。
「なんで私がいつも食べていない事、古町さんが知っているんですか?」
肉じゃがが鍋の中で沸騰する音が響く。お箸を手に持って来た古町はその場で固まると、その手が小さく震えだした。
「ご、め…なさい。ごめんなさい、ごめんなさい。…ごめんなさ、い」
バラバラと畳に箸が落ちていく。青い顔をした古町の目からは涙が溢れ、何度も謝罪の言葉を繰り返した。
背筋が凍りつく。この間戸締りを忘れていたと思っていたのも、きっと目の前の男のせいだと確信する。町の人の言葉は間違いなんかでは無かった。「この男は異常だ」「頭がおかしい」「化け物だ」「気持ちが悪い」。
今度こそ、私はこの場を去ろうとした。できるだけ、早く。逃げなければと。
「や、だ…待って。、ごめんなさい。行かないでください。許してください。罰してください。お願いだ……!」
足元に這うようにして絡みついてくる男が気持ち悪くて仕方ない。やはり私はこの男を恐れるべきだったのだ。
私は咄嗟に絡みつく古町を思い切り蹴った。鈍い音が響き、畳に蹲る古町は苦しそうに腹を抑える。それでも彼は「ごめんなさい。ごめんなさい」と繰り返す。片方の長い腕で私の足首を掴む古町から必死に逃げようとするも、その力は強い。再度その手を踏みつけたが、びくりともしない。
赤くなる手の甲が折れてしまうのでは、と他人事の様に眺めてはっとする。逃げる事をやめた私を見上げた古町が不思議そうに私を見やる。顔を上げた途端ぼたぼたと古町は畳を鼻血で汚した。無我夢中で振り上げていた脚が古町の顔に当たったのだろう。
「ま、待って…っ」
「……箱ティッシュ取るだけです」
台所に向かおうとした私を、まだ逃さないとする古町にそう言うとその手はすぐに緩む。
古町に言った通りに台所に向かい箱テッシュを手にした私は、古町の目の前に座った。そんな私に土下座するよう、畳に額をつけティッシュを持った私の両手を握る。
「店で……ぼ、僕に優しい君に興味が湧いた。……どうしてこの娘は僕にも皆と同じように優しいんだろうって…、それから君を知りたくて、仕方なくて…知れば知るほど君が、…っ神様に見えたんだ……」
四十年以上も生きている男が、こんな小娘に神を感じるとは、なんて馬鹿げているのだろうか。古町が話すたびに、鼻血は汚くその顔を汚し、垂れ続ける。私にはこの男の神というものがよく分からない。
私の青き春は死んでいる。自分の中の正しさに首を締められた結末だ。私は、彼のように頑固で自己中心的。人を傷つければ、そのツケはすぐに返ってきた。よくいる人間の、よくある話。
−−−男の言っている私とは誰だ。
「勝手な幻想押し付けんな」
そう言って、ティッシュで乱暴に古町の鼻を拭う。しかし意に反して、私の手を包み、彼は微笑んだ。
「君は、…とても優しい」
「……優しい人間は、人を傷つけない。身勝手に高圧的にならない。優しい人間は人を愛して、たくさんの人に、愛される。……私は違う!」
男は何を思ったのか、私の背中に腕を回すと、トン、トン、と規則正しく撫でた。
「そんな君は、僕の神様です」
古町は、雨に濡れた土の匂いがした。
「古町さんがした事、私許してません」
「………ど、どうしたら許してくれますか…」
表情は見えないが、その声が私の耳元で震えた。
「私を全てから救ってください」
二十年と数年の間で初めて他人に口にした本音だった。
どうすべきだったのか。この蛇のような瞳の男に手を差し伸べるべきでは無かったのか。
だけど私には、この男を目の前にして選択肢が消えてしまったのだ。
「喜んで」
まるで、どこか御伽の国のお姫様になったようだった。醜い騎士は私の手の甲に唇を落とした。