心臓一つ失くした音






百合子はいつもと特に変わらなかった。泣きそうな顔をしているだとか、もう関わらないでくれと言われるだとか、それなりの覚悟をして出てきたはずなのに杞憂に終わってしまった。良いと言うべきか悪いと言うべきか。いや、まあ何となく予想はできていたけれどまさか当たるとは思っていなかった。
「百合子」
「うん、おはよう」
「おはよう」
さっきもしたな。そういやしたね。百合子はふふふと笑った。何か手伝うかと聞けば、それ持って行ってと盆を示される。湯気の立つ白飯が盛られた茶碗が二つ、良い匂いのする味噌汁が入った椀が二つ。少しだけ多めの方が俺のだ。こぼさないようそっと持ち上げて、いつものテーブルに持っていく。昨日のことなんてお互いに気にしていないようですごく気にしているというのに、ずいぶんと穏やかな朝だ。…と言っても、もう九時半を回ったあたりだけれど。
百合子が台所から戻ってきて席に着き、ようやくいただきますと二人で手を合わせる。いつも彼女に言われるのだが、俺は食べ方がきれいなのだそうだ。箸の持ち方、食べ終わった後の皿の様子。うらやましいと言われたけれど、正直どこがどうきれいかは分からない。
「帝統はよく私のことをいいやつっていうけど」
「うん」
「私帝統が思ってる以上に面倒だよ」
「そんなことあるか。どんだけ一緒にいると思ってんだ」
「たった一年なのに」
「俺にしては長めの付き合いだな」
何それ。百合子が頬を緩ませる。自分でもどうかと思うが、百合子の何それは結構好きだった。何それと言ってふわりと笑う。どうしようもなくほっとするというか、とにかく理由は特にないが好きであることに変わりはない。
「俺はだいたいお前が思ってる通りで間違いねえよ」
「住所不定無職?」
「職はあるわ」
「はいはい、ギャンブラーね」
そう言って彼女は笑い、味噌汁をすすった。俺も倣って味噌汁を口に運ぶ。相変わらず百合子の作る飯は美味い。
「今日仕事は?」
「寝坊したからお休み。昨日散々声枯らしたから、風邪って嘘つけた」
「…悪い」
「何言ってんの、昨日は昨日、今日は今日でしょ。気にしたら負け」
何言ってんのはこっちのセリフである。都合のいい女がどうとか自分で言ったくせに。いつまでもそんな中途半端なところにとどまれると思うなよ。
「あの、さ…俺、お前が、」
「そういうのなしね。恥ずかしいし、分かってるから」
……は?
「たぶん夢中で、無意識のうちだったのね。昨日あなた、何回私に好きって言ったと思う?」
もう都合のいい女だとか言えなくなっちゃった。それはそれは幸せそうな顔で百合子は笑う。昨日、彼女に何回好きと言ったか。覚えがあるようなないような。けれどその顔を見ている限り、本当に何回も言ったのだろうと思う。俺の方が恥ずかしくなってきた。
「はあ……かっこわる」
「ええ?私は結構うれしかったけど」
「それでもいつか言うからな」
「今じゃないんだ」
「お?今でもいいぜ」
「やめて、恥ずかしい」
「はは、だろ?」
きっと近いうちにそのいつかはやってくる。俺たちはそれまで、二人で贖罪を続けるのだ。


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