01  Venus

「……なァに突っ立ってんのぉ?」

 登校して早々、不機嫌そうな声が三年A組の教室に響いた。
 発言した彼は扉の前に居る。入ることが出来ないのだ。扉をくぐったその先に羽風薫が立っていたから。茫然と何もせず。田舎の田畑に立つ案山子の方が余程役割を果たしているだろう。薫は無意味に立ち尽くし、これから扉をくぐる全ての同級生の邪魔をしていた。

 薫は泉の言葉が聞こえていないのか、それとも聞こえているのに態となのか微動だにしなかった。泉は眉間に深い谷のような皺を刻んでバレエで培った柔らかい体を使い、足を思いっきり振り上げて薫の背中を蹴り飛ばしてやろうとした。

「お早う! 瀬名、羽風!」
「ちょっ……」

 後ろから突撃。タックルしてきたのは暑苦しい、暑苦しさを演出している男だった。守沢千秋。流星隊のセンター・流星レッド。バレエでバランス感覚が人より優れている泉とはいえ、片足を上げている状態で千秋のタックルに耐えることは出来ない。泉はそのままバランスを崩し、前に突っ立っている薫の背中に突っ込んだ。薫は無言で床に倒れる。

「う、おおっ?」

 千秋もまさか泉がバランスを崩し、そしてそのまま薫まで押されるとは思ってもいなかったようだ。ドミノ倒しのように綺麗に一列に折り重なった。既に着席している敬人が呆れたように眼鏡を押し上げ、隣の英智が朗らかに笑った。

「ちょっと守沢! ふざんけてんのぉっ?」
「む、悪い! まさかこんな事態になるとは!」
「大事な顔に傷がついたらどうすんの。ったく……」

 圧し掛かっている千秋を押しのけて立ち上がった泉はズボンについた埃を払って未だ地面とキスをしている薫を見下ろす。

「……マジきもいんだけど。何なのさっきから」
「……瀬名くん」
「うわ。喋った」
「そりゃ羽風だって喋るだろう。生き物だ」
「カテゴライズの規模がデカすぎない? 喋らない生き物だっているでしょぉ」

 ゆらり、と立ち上がった薫の腕は力なくダラリと垂れ下がっていた。

「俺ね、今朝、すっごい、それはもう、超絶、究極的に、可愛い。いや、可愛いとか一言じゃ表せない。なんかもう、女神? すっごい綺麗な子、見つけたんだよね……」
「……はぁ」

 泉は心底興味が無さそうに、鞄を机に乗せた。薫は茫然と、しかしどこか煌めいた瞳で空を見ている。

「空って、こんなに綺麗だったかな、って感じで……これって一目惚れかな」
「あー、そうなんじゃない?」
「一目惚れか! どんな女子だ?」

 適当に返す泉だったが、千秋は案外ノリ気で薫の話に喰いついていた。泉は「無視無視」と支度を始めている。スクールバッグを机の横に掛けようとして持ち手部分が捻じれてしまった泉は、小さく舌打ちをして美しい顔を歪めながら捻じれを元に戻す。

「だから、言葉じゃ無理なんだって。あの子を表現できない……」
「どれくらい綺麗なんだ? 瀬名くらい?」
「いや、瀬名くん以上」
「は?」

 聞き捨てならない、と泉は勢いよく手のひらを机につき、目を吊り上げて薫を睨んだ。

「可愛い系統なら負けるのはわかるけど、俺より綺麗な女とか居るわけないでしょぉ」
「あはは、凄い自信」

 英智が口を挟んだ。薫は泉の鬼の形相を物ともせず平然と返す。肩を竦めるその動作は洋画に出てくるキザな男のようだ。

「だって俺、男好きじゃないもん。女の子の方が勝つに決まってんじゃん。瀬名くんの顔が綺麗なのはわかるけど。瀬名くんが人工物だとしたら、あの子は神様が作ったのかな? って感じの子だった」
「は? 俺だって神に作られてるけどぉ?」
(何を張り合っているんだか)

 三人のやり取りを横目で見ながら密に思った敬人の顔には馬鹿馬鹿しい、と書いてある。

「いや、瀬名くんは受精卵から生まれたでしょ。あの子はたぶんね、アダムとイヴに並ぶ子だと思うんだ。名前聞いて来ればよかった……仮名ヴィーナスちゃんね。つまりアダムとイヴとヴィーナス」
「人類と女神を並べるんだ」
「……」

 敬人は突っ込みを入れたくなかった。この会話の中に入りたくなかったのだ。隣の幼馴染がニコニコしながら会話に参加するのを見て眩暈がした。

「ヴィーナスちゃんさ……たぶん音楽科の子なんだよね、制服的に。アイドル科に用があるみたいで受付の人と話してたんだけどさ。俺、助けてあげようとしたのに可愛すぎて声が上ずっちゃって、うまく話せなくて……はぁ、もう、最悪。俺の馬鹿。もっとうまくやれたはずなのに」
「へぇ、音楽科の子か」

 音楽科という単語に興味を惹かれたらしい英智は呟いて、何やら考え込んでいる様子だった。また幼馴染の悪巧みが始まるのではないかと敬人は胃が痛くなった。

 此処、夢ノ咲学院には複数の学科が存在する。薫や泉たちが通うのはアイドル科。他の学科よりも特殊な立ち位置にある、男子のみの学科だ。普通科、演劇科、声楽科、音楽科とは異なり、校舎に入る為には事前の許可が必要だ。いくら高校生とはいえアイドルはアイドル。学校を出てメディアに大きく進出している生徒もいるのだ。

 アイドル科はそういった特殊な立ち位置から、見ただけでアイドル科の生徒であることが判断できるよう、他の科と制服の形態が異なっていた。薫が「ヴィーナス」と呼ぶ女子生徒を別の学科の生徒であると判断できたのはそういう理由からだった。

「もしかしたら、どこかのユニットの作曲家なのかな?」

 優秀な音楽科の生徒であれば、作曲家志望の生徒であれば、在学中からアイドル科の生徒に楽曲提供することもある。英智は薫の見つけた女子生徒を作曲家ではないかと予想した。薫は「うぅん」と唸る。

「わかんないけど、楽器持ってた。たぶんヴァイオリン」
「ふぅん。じゃあ演奏家の可能性もあるか」

 英智は薫の台詞から、楽曲内で使用する特定の楽器の演奏者である場合も否めないと頷いた。

 ヴァイオリン。よく使用される楽器と言われれば確かにそうだが、英智は椅子に深く腰をかけて考える。ヴァイオリンが必要な楽曲を使用するユニット。彼自身が所属するfineは勿論、今はリーダー不在のKnights、曲の系統によってはUNDEADも有り得なくはない。しかしfineに「演奏者が来る」という話は持ち上がっていないのに加え、Knightsの楽曲を作成する月永レオが居ない中、新曲の録音は難しい。薫の様子からUNDEADも候補から外れるだろう。そもそもUNDEADにはヴァイオリンを弾けるリーダーがいる。余所に頼む必要があるかどうか。

 英智はちらり、と窓側の席にぽつりと座っている男子生徒を見た。かつて五奇人と呼ばれ、帝王として君臨していた男。Valkyrieのリーダー、斎宮宗。此処、夢ノ咲学院の中ではValkyrieが最もヴァイオリンを使用するユニットと言っても過言ではない。拘りの強そうな宗のことだ。態々ヴァイオリニストを指定している可能性はある。

 教室の騒がしい雰囲気が気に食わないのか、宗は肘をついて空を見上げていた。眩しそうに目を細めている。鴎が飛んでいく様を凛々しく、どこか儚い横顔で見届けていた。潮風が流れ、短く切りそろえられた髪が控えめに揺れている。

 英智が横目で宗を観察していると、三年A組の教室にノックが響いた。ほとんどの生徒が何事かと扉を見つめると、入って来たのは椚章臣だった。知的な見た目を更に引き立てる銀縁の眼鏡が光り、鋭い瞳を覗かせた。章臣は教室を見渡してから、ある一人の生徒に的を絞った。

「斎宮くん」
「はい」

 瞬きをして、やや戸惑った様子で返事をした宗は椅子から立ち上がり、クラスメイトの視線を感じながら章臣の元へ行く。章臣は眼鏡を押し上げて口を開いた。

「君にお客様です」
「客……?」

 宗は訝し気に章臣を見上げる。章臣はちらりと英智を見て、それからすぐさまフッと逸らし、「案内します」と落ち着いたトーンで言って身を翻した。宗は戸惑いながらも、その背中を追いかけ教室を出ることとなった。

「……今、目が合ったな」
「だね、聞かれると不味いことなのかな。──僕に」

 敬人も章臣の視線に気づいていたらしい。英智はその瞬間、ばっちり目が合っていた。嫌でも、自分が居ると何か不都合があったのだろうか、という考えに至る。

 章臣は学院を統制している生徒会側の人間だ。どちらかと言えば、という話かもしれないが。彼は去年までの荒んだ学院に比べれば、現在の学院の方が数倍はマシだと思っているだろう。混沌よりも秩序を好む人間だということを英智と敬人もわかっていた。その彼が、英智の前で宗と話すことを避けたのだ。

 生徒のプライバシーを守った、ということだろうか。客人というのは十中八九、今朝薫が遭遇した音楽科の女子生徒。アイドル科の敷地内に入る手続きは血縁関係であろうと容易ではない。一日に何人も入ってくるのは行事のときのみなのだ。今日はイベントや参観でもない、何もない平日。恐らく女子生徒以外、アイドル科に足を踏み入れた部外者は存在しない。

「……日頃の行いが悪いんでしょ」

 二人のやり取りに聞き耳を立てていた泉が呟くように言った。

 四月。新学期だと言うのに夢ノ咲学院には晴れやかで柔らかい空気よりも淀んだ硬い空気が流れていた。つい先日、DDDにてfineが倒されたことである程度は穏やかな流れが出来たと言えるが、それは他の学年での話。昨年の因縁が強い三年生の中では未だに蟠りがあった。

***

 それからほんの十数分後のことである。
 三年A組の教室内に居た生徒の何人かが外の騒音に気づいた。誰かが走る音、何かが落ちる音。「待て!」という叫び声も聞こえる。──数分前に教室を出て行った宗のものだった。

 バン、とA組の扉が開いた。薫は飛び込んできた人物に目を見開く。否、薫以外の生徒も驚いていた。教室に迷い込んだのは、この世のものとは思えない程に精巧な見た目をした乙女だったからだ。乙女は大きな目をみるみる丸くして教室内に居るアイドル科の生徒たちを見たが、後ろから聞こえてくる足音にハッとして、窓に向かって走った。

「待てと言っている!」
「近づかないでください」

 教室に滑り込むようにして入って来た宗は乙女に向かって声を荒げる。乙女は窓に足をかけていた。此処は三階。飛び降りればただでは済まないだろう。自殺寸前の容疑者を何とか説得しようとする刑事のように、宗はじりじりと乙女に近づこうとする。

「逃げることはないだろう」
「変態」
「人聞きの悪いことを言うな。僕は君を着飾りたかっただけだ」
「ロリコン」
「君と僕はたった二歳差だぞ? 幼女好きと言われる由縁がわからないね」

 乙女はむっとして宗を見た。つやつやとした桜色の唇をほんの少しだけ、尖らせている。ふっくらとした丸い頬を膨らませているようにも見える。愛らしい天使。
 宗の全身にビリビリとした衝撃が走る。乙女の表情だけでなく存在そのものが、宗のインスピレーションを刺激しているのだ。宗は頬を染めて乙女に迫る。

「素晴らしい! 君はどんな表情でも美しいな! 何故アイドル科に入らない? 僕が最高の人形(ドール)に仕立て上げて見せよう!」
「……アイドル科は男性のみのはずですが」
「ええい、障害が多いな、この学院は……」

 宗の突拍子もない発言に、乙女は呆れたように言った。宗は大袈裟にため息を吐いて、それから乙女に向けて手を差し伸べる。

「兎も角、其処は危険だ。君の柔肌に傷でもついたら大変だろう。指を怪我すればヴァイオリンも弾けなくなる。……さあ、此方においで。君の嫌がることはしない」

 乙女は唇を噛んで宗の手を見た。葛藤しているようにも見える。

「……あのさ」
「チッ。羽風、口を挟むな」

 薫が遠慮がちに二人の世界に足を踏み入れた。他の生徒はまだ唖然としている。突如現れた乙女の美貌に目を奪われているのと、透き通る声に心を奪われているのと、まるで掴めない宗とのちぐはぐな掛け合いのせいだ。薫はこの状況はわからないが、少なくとも乙女と完全なる初対面ではなかったから動くことが出来た。

「いや、ちょっと、斎宮くん。この子怖がってるんじゃないの?」
「何を言う。僕と氷室は相思相愛だ」

 氷室、というのは乙女の名前だろう。宗は真っ直ぐに乙女を見ながら薫と会話していた。薫は宗の言葉をゆっくり飲み込む。

「……知り合いなの?」
「いや、今日初めて会った」
「それで相思相愛って怖すぎない?」

 薫は青ざめてドン引きしながら宗を見た。出会ったその日に愛し合っているなんて、夢のような話、映画のような話だ。薫であればそんな歯の浮くような台詞はつらつらと流れるように言うことはできる──とはいえ彼女を前にした薫はしどろもどろしていた──が、問題は斎宮宗という人間が言ったということだ。堅物、芸術家、曲者。心底惚れ込み、懐に入れたものに関してはかなり甘く、寛容にはなるが。そんな彼が女性に迫ろうとしている。初対面の女性に。

「気づいているか、氷室。君のヴァイオリンは先程の応接室に置かれたままだ。君がいきなり飛び出してしまったからね。まったくお転婆だ。仕方がない、一緒に取りに行こう。そして部室に案内しようじゃあないか。そこでじっくり先程の話の続きをしよう。採寸をして、君だけの衣装を創出しよう。プレゼントさせてくれ」

 宗は恍惚とした表情で乙女を見つめていた。乙女は困ったように眉を顰め、次に発する言葉を吟味する。

「……そんな話はしていません」
「おや、そうだったか?」
「斎宮くん、記憶喪失はガチで怖いよ」
「記憶喪失というか改竄してない?」

 漸く本調子を取り戻した泉が口を挟んできた。薫が辺りを見渡すと、もう殆どの生徒は落ち着いた様子だった。英智、敬人、斑は冷静に宗と乙女のやり取りを観察している。未だに間抜けな面を晒しているのは千秋くらいだった。

「事情はわからないけれど、斎宮くんの言うように、窓に足をかけているのは危険だ。氷室さん、で合っているかな? 取り敢えず、斎宮くんが嫌なら此方にいらっしゃい」
「おい、ふざけるなよ天祥院。僕と氷室の邪魔をするな」
「学院内で怪我人を出したくないだけだよ」

 宗の鋭い眼差しに英智は肩を竦める。乙女は宗と英智、二人から危険であることを伝えられ、素直に窓にかける足を下ろした。しかし、まだ警戒をしているらしい。知らない土地にやってきた猫のように、距離を保ったままだった。

 教室内の顔を一つ一つ確認した乙女は、一番近くにいる男とバチッと目が合った瞬間、ちょいちょいと手招きをする。手招きされた男──守沢千秋は「え、俺か?」と自分を指さした。氷室と呼ばれた乙女はこくこく頷いた。ドギマギしながら恐る恐る乙女に近づく千秋のの姿はアイドルではなく、まるで蟹だ。

「……守沢。誰の許可を得て僕の氷室に近づいている」
「ほ、本人の意向だが?!」

 千秋は理不尽な宗の怒りに嘆いた。宗はすっかり乙女を気に入っているらしい。『僕の』という台詞が物語っている。
 乙女は近くに来た千秋の裾を摘まんだ。千秋の心臓が跳ねる。ふんわり、と甘い香りが漂ってきた。乙女は大きな瞳で千秋を見上げている。

「付き合ってください」
「へ、え、あ、俺がか……?!」
「あの人、何してくるかわからないので」
「……あ、ぁ。そういう意味か……焦った」

 乙女が宗を指さすのを見て、漸く千秋は自分が勘違いをしていたことに気が付いた。「付き合って」と言われ、それが男女の交際のことだと一瞬でも思ってしまったのだ。正確には「これから移動する為、付き添って欲しい」という意味だった。千秋はほっと胸を撫で下ろし、浮かんだ疑問をそのまま乙女にぶつけた。

「し、しかし、何故俺なんだ?」
「……ヒーローなんで」

 千秋から目を逸らして小さく言った乙女に、千秋は彼女が流星隊を知っているという事実に面食らう。いくら科が違うとはいえ、同じ夢ノ咲学院の生徒だ。知っていても可笑しくはないが、それでもこの麗しい少女に「ヒーロー」と呼ばれたことが、千秋の心に火を点けた。

「成る程! 成る程、成る程! 任せろ! 俺はどうすればいい?!」
「……一緒に応接室に来てください」

 乙女はそこで言葉を区切って、宗を見た。千秋も一緒に応接室に来るのが気に食わないのか、宗は眉間に皺を寄せて千秋を睨んでいた。か弱い乙女に頼られたヒーローがそんな視線に屈するはずもなく、千秋はしっかり宗と彼女の間に挟まって三年A組の教室を出て行った。

 その様子を見守っているだけだった三年A組の生徒たちは、三人の姿が見えなくなり、足音が聞こえなくなるまで口を噤んでいた。

「羽風」

 一番最初に口を開いたのは意外にも泉だった。

「え、うん。何?」

 突然低いトーンで呼ばれた薫は戸惑いながら返事をする。泉は綺麗な顔でじっと薫を見ていた。

「確かに美少女だわ」

 泉は自分の美しい顔に誇りを持ちながらも、美しい顔に目がない男だった。かつて時間を共にし、兄として、先輩モデルとして世話をした遊木真を愛してやまない。
 薫は泉の手のひら返しにポカンと口を開けたが、やがて頭で処理ができると頬を紅潮させた。

「うん、そう、そうでしょ。美少女でしょ、ヴィーナスちゃん」
「あの子、下の名前何?」
「だから名前聞けなかったから知らないんだって」
「使えな」
「ちょっと」

 泉の暴言に薫が反応する横で、英智は沈黙していた。英智の記憶の中に、引っかかる単語があったからだった。

「……氷室、か」
「……どうした、英智」

 幼馴染の敬人が声を掛ける。英智の呟きは、彼には拾われなかったらしい。英智は敬人の顔をじっと見て、それから「何でもないよ」と微笑んだ。敬人はそれ以上尋ねることはせず、従順に「そうか」と頷いた。

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