01



 淡い色の触手が人魚の頬を撫でた。
 波に合わせて揺れる触手は、どうにも上手く躱すことができない。
 オレンジ色の人魚は仕方がなさそうに受け入れ、中に潜った。

 その触手には幾つもの棘がある。
 人魚の皮膚は、それに刺されることに慣れていた。

 人魚の皮膚だけではない。人魚の父と母も、キョウダイもそうだった。
 粘膜によって体を守られているお陰で、触手の毒に触れても問題がないのだ。

 巨大なイソギンチャクは人魚の住処だった。
 触手をかき分けると、人魚のためのベッドや鏡、その台の上にカミスキが置いてある。

 人魚は鮮やかな鰭を靡かせながら鏡の前に座った。
 鏡に映るは、中性的な顔立ちをした自分自身の顔。
 少女のような、少年のような顔。
 人魚は、この顔はいつまで続くのだろう、と考えた。

 人魚はキョウダイの中で特別大きな体を持っているわけではない。
 生まれたときは結構な数のキョウダイがいたが、それも死んでしまえば数は減る。
 今残っているのは人魚を合わせて十人ほどだった。
 人魚は、その十人の中で六番目の体の大きさだった。

「ナマエ、来たよォ」
「あ、ちょっと。勝手に入らない方が──」
「え? ──イ……デデデデッ!」

 ナマエを呼んだ青緑色の人魚は、ナマエの返事を聞く前にイソギンチャクをかき分けようとした。クマノミの人魚のようなイソギンチャクの毒から身を守る粘液を持たない青緑色の人魚は悲鳴を上げて逃げて行った。ナマエは「もう」と仕方なさそうに外へ出て行く。

「あのさ、フロイド。普通に考えてみてよ。イソギンチャクに毒があることくらいエレメンタリー・スクールで習ったでしょ?」
「先に言って……」
「だって、わかってるもんだと思ってたからさ」

 フロイドは海底の砂の上で力なく横たわっている。ナマエは彼の体調が悪化しないよう、一度部屋に引っ込んで塗り薬を持ってくる。

 塗り薬の蓋を明けて指で掬い、フロイドの皮膚に当てると「いてっ」と腕が引っ込んだ。ナマエは「我慢して」と腕を掴む。フロイドは痛みを堪えながらナマエの顔を見つめた。

「……なんでナマエは刺されても平気なの?」
「イソギンチャクと僕らはウィンウィンな関係なの。他の人魚と違って、僕らクマノミの皮膚は特別なんだ」
「……ウィンウィンって何?」
「……利害の一致?」
「ふぅん……契約関係なんだ」
「まあ、言い方を変えればそうね。僕らは守ってもらってるわけだし」
「イソギンチャク側のメリットは?」
「……よく知らないけど、なんかあるんだよ」
「なんだそれ。てきとーな契約」

 ナマエは「はい、お終い」と言って薬瓶の蓋を閉めた。フロイドは体に異変がないか尾鰭を揺らしたり、くるくる泳いだりしながら確認する。

「ん。大丈夫そぉ」
「もう突っ込んで来ないでよ。薬が勿体ないから」
「……わぁーったよ」

 フロイドはナマエの冷たい言葉に頬を膨らませた。
 ナマエは塗り薬を仕舞ってくると、改めてフロイドの前まで泳いでいった。オレンジ色の鮮やかな尾鰭が揺れる。フロイドはその光景が好きだった。

「相変わらず目立ちそうな色」
「熱帯の人魚なんて、大体そんなもんだよ」
「目立つってことは狙われるってことだよォ? 食われても知んねーからな」
「否定は出来ないね〜。実際キョウダイばくばく食われたし。でもウツボもそうでしょ? 今何人生き残ってる?」
「さァ? オレ、ジェイド以外のキョウダイのことあんま知らないし」
「ああ、パートナーなんだっけ?」
「うげ、気色悪い言い方すんなよ。ジェイドは……相棒みたいなモン」
「何が違うんだか」

 ナマエはフロイドの噛みつきを躱して優雅に泳いでいる。ナマエは辺りを見渡して、話題に上がった彼のキョウダイ人魚が居ないことに首を傾げる。

「そのジェイドは? 今日はどうしたの?」
「……今日はいーの。置いてきた。ってかオレ、ジェイドに着いてきてほしくないのに、アイツいつも面白がって……」
「……あー、成程ね」
「……んだよ、ニヤニヤすんな」
「元々こういう顔なんだけどな。はいはい、悪かったよ」

(道理で今日は一緒に居ないわけだ。いつもならジェイドとタコの人魚のところに遊びに行ってるのに、ジェイドと喧嘩をしたから僕のところに来たのか。都合よく使われてるなぁ〜)

 ナマエは合点がいく。ちらり、とフロイドを横目で見ると、フグのような顔でナマエの後を泳いでいた。ナマエは笑いがこみ上げてくるが、フロイドにばれてしまえば機嫌を損ねることがわかっていたから、押し殺した。

「仲直りの手伝いでもしよっか?」
「喧嘩なんてしてねーし。してたとしても要らねー」
「そうでしょーね。いつも気が付いたら仲直りしてんだもん、君ら」
「んなこたねーよ。ほとんどオレが折れてやってるし」
「うっそだぁ。ジェイドが折れてるんでしょ」
「……あのさぁ、お前が思ってるよりジェイドって面倒臭いんだからね」
「はいはい、そういうことにしておいてあげる」
「聞いちゃいねーし……」

 フロイドとナマエが出会ったのはミドル・スクールでのことだ。同じクラスで、偶々近くの席だったことがきっかけ。ナマエはフロイドを通じてジェイドともある程度は親しくなったが、ある日を境にナマエは二人から距離を置くことになってしまった。

 ナマエが避けている・喧嘩別れをした、というわけではない。二人の興味が、あのタコの人魚に移ってしまっただけの話。あの二人の気まぐれさに振り回されていたナマエは二人を追いかけることはせず、自分のキョウダイや友達と遊ぶようになった。

 稀に、今日のような出来事があると、フロイドはひょっこりナマエの元に顔を出す。
 ナマエはその度に、気ままなフロイドに付き合って話を聞いたり、ただただ泳いだりしていた。
 大体ジェイドが着いてきて時折会話に参加するのだが、今日は彼の姿はない。

「あのさ」
「ん〜?」

 岩場に腰を下ろし、ナマエが苔を毟って遊んでいると、フロイドが小さく言い出す。

「……ナマエのとこに、なんか、手紙来た?」
「……手紙? いや、特に来てないと思うけど」
「ほんと? 真っ黒なヤツ。来なかったの?」

 身を乗り出して何度も尋ねてくるフロイドに、ナマエは戸惑いながら頷いた。フロイドはぎゅっと顔を顰めて、はぁ、と吐き出した。泡が浮上していく。

「真っ黒な手紙って、もしかして、ナイトレイブンカレッジ? 超有名な魔法学校じゃん。え、行くの?」
「……うん」
「すごいじゃん。じゃあ、ジェイドも?」
「…………うん。あと、アズールも」
「あずーる? ……ああ、タコの」

 偶にジェイドとフロイドの会話に出てくる、二人が仲良くしているらしいタコの人魚の名前を、ナマエは知らなかった。彼がいじめられていたという過去も知らない。

「じゃ、あれだ。あそこ行かないとじゃん。陸の勉強しに行くんだよね?」
「……ん」
「いつから?」
「…………明日」
「え、明日っ? ……そりゃまた、急だ」

 ナマエは人魚が陸に上がり、人間の生活に慣れるための学校が海の麓にある知識くらいは持っていた。自分は一生陸に上がることはなく、海で一生を過ごすことになるだろう、と考えていた。

「あ、あのさ」
「……ん?」
「……オレは、陸に行くけど、ナマエも、いつか来なよ」

 フロイドにしては珍しく、ちまちまと喋った。
 ナマエはぽかんと口を開ける。

「……え、僕が陸に? あんま気が進まないんだけど」
「なッ、なんでだよ!」

 ナマエは陸に対する憧れが全くないわけではないが、無難に人魚としての生を終えることを望んでいた。波の立たない、穏やかな人魚生。
 ナマエはオレンジ色の尾鰭を揺らしながら言う。

「別に、これから一生陸に居るわけじゃないだろ? だったらフロイドが戻ってきなよ」
「それはっ……そうかもしれないけど……」
「……なんか問題でもあるの?」
「……だって、カレッジって四年制だよ?」
「そうだね」
「……四年、会えないんだよ?」
「え、バケーションも戻ってこないつもり?」
「や、そこは流石に戻ってくると思うけど……」

 フロイドはまだぽそぽそと話し続けている。
 はっきりしない彼の様子に、ナマエは眉を顰めた。それからピーンと閃く。

「ははーん。寂しいんだ」
「ちげーし」
「ジェイドもアズールくんも居るのに、贅沢なこった」
「だからちげーし」
「照れない照れない」
「照れてねーし」
「そういうことにしておいてあげる」

 ナマエは岩場から浮き上がってスイ、と泳ぎ始めた。振り返るとフロイドはまだ岩場にいる。ナマエが「フロイド?」と言うと、フロイドは静かにゆっくり、ナマエの元に泳いでいった。

「君に元気がないと調子狂うな。一生の別れじゃあないんだから、気にしないで良いよ。また会えるって」
「……そんな保障、どこにもないじゃん」
「え?」

 ナマエが聞き返すと、フロイドはぎゅっと拳を握っていた。鋭い爪が、フロイド自身の手のひらを傷つけてしまわないかナマエは心配になった。

「……海は危険」
「……陸の方が安全?」
「絶対」
「陸にだって危険はあるよ。良い人間ばかりじゃない」
「……知ってるみたいに言うじゃん」
「知らないけど、たぶんそうだろ。こっちと大差ない」
「……それでも、陸の方が安全だよ。ね、ほんとに一緒に来ないの?」
「……一緒に行っても、僕の居場所はないだろ?」

 フロイドはナイトレイブンカレッジに、ジェイドとアズールと共に行く。
 ナマエは、陸に上がったらどうする。

「それは、」
「帰ろう、フロイド。ジェイドが待ってる」

 ナマエはフロイドの手首を優しく握った。フロイドは力を緩めて、ナマエに引かれるまま泳いだ。

 海底の砂に埋もれている瓶を見つけたナマエは、フロイドの手を握っていない方の手で指をさした。

「みて。あれ、よく集めたよね」

 仲良くなって暫くしたとき、フロイドはナマエを誘って宝探しをしたことがあった。砂を掘ってみると、人間が捨てたらしいものがゴロゴロと出てきて、物珍しさに目を輝かせたものだった。

 ナマエが気を遣って話しかけてもフロイドは黙ったままだった。

「じゃあ、気をつけてね。まあ、フロイドなら大丈夫だろうけど」
「……ねえ、ナマエ」
「やっと喋った。なに?」

 フロイドはイソギンチャクに戻ろうとしたナマエを引き留める。ナマエはイソギンチャクからひょっこり顔を出して会話する。

「……陸、嫌い?」
「……嫌いかなぁ、わかんない。……嫌いかも」
「なんで?」
「……フロイドにとってのジェイドみたいな子がさ、僕にも居たんだ」

 深く聴くまでもない、とフロイドはその時点で察した。
 『居た』という台詞が物語っている。

「いや、ごめん嘘ついた」
「は? 嘘?」

 ナマエはすぐに切り返した。フロイドは突然の『嘘』に戸惑う。
 ナマエは両手を振って『違う違う』と言って続ける。

「ごめん。んーと、言い過ぎたなって思って。訂正。片思いみたいなもん。一方的に、相棒にするならこの子が良いなって子が居たの。でも、まあ、続きはわかるだろ? 人間にさ──」
「……そっか」
「だから、若干苦手意識があるかもってだけ」
「……そっか」

 ナマエが陸に上がりたがらない理由。フロイドはそれを知ることになった。
 フロイドはそれならば、と大人しく引き下がった。

「じゃ、オレが帰ってくるまで精々生き残っててよ」
「うわ、切り替え早。さっきまでしょんもりしてたのに」
「うっせ。帰る」
「あいよ。気をつけて。……あー、あと、頑張ってね」
「うん」





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