「今日は猫の日だネ、宗にいさん」
「……猫の日?」
小僧が意味深に微笑んだ。ニィと目を細める様こそ猫のよう。
僕は何故今日が猫の日なのか見当がつかず、小僧に聞き返した。小僧は肩を竦めて呆れたように頭を振ってみせる。馬鹿にしているのだろうか。
「相変わらず俗物的なことに無頓着だネ。今日は二月二十二日。にゃんにゃんにゃんの日だかラ、猫の日だヨ」
「何をどうしたら二が猫の泣き声になるのかね」
「細かいことを気にしたら負けだヨ。猫を大々的に崇め奉る日ってことで愛猫家がSNSで大盛り上がりしてるんだけド、まあ宗にいさんは電子機器に弱いから知らなくて当然かナ。猫の日効果で不思議なことが起きるって噂も聞いたことあるけド」
やはりこの子は僕を老人扱いしてからかっているようだ。電子機器に疎いのは否定できないが、僕はこれでも氷室の愛らしい姿を捉えて逃さないようにカメラの扱いなら覚えてはいる。あの子と連絡できるようにとスマートフォンで電話する技術も身に着けた。
その氷室を部室に置いて来たままだ。昼時はあの子が午睡中だということは小僧も知っているだろうに、くだらないことで呼び出されてしまった。早くあの子の傍に戻らなければ、と小僧に背を向けると背後から引き留める声がする。
「まあ待ってヨ」
「さっさとしたまえ。氷室を一人にしたままなんだ、影片以外の人間が足を踏み入れないとは限らない」
「これを渡したくてサ」
小僧が背中に隠していたらしい何かを差し出してくる。
「……なんだこれは」
「猫耳カチューシャだヨ」
「それは見ればわかる。何故これを僕に?」
「猫の日だかラ」
「意味がわからないね……」
「聡明な宗にいさんならボクの意図がわかると思ったんだけどナ……これを身に着けた可愛い可愛い女の子、見てみたくないノ?」
小僧が妖しげにすり寄って、僕の手に猫耳カチューシャなるものを握らせた。『可愛い可愛い女の子』と言われれば、思い浮かぶのはあの子だけだ。
「なっ……まさか氷室にこれを⁉」
「お代はそれを着けた美雪ちゃんの写真で良いヨ」
「僕が撮影した氷室の写真は全て僕のものだ」
「えー、けちんぼ」
頬を膨らませた此奴は、そうすれば僕が言うことを聞くと思っているのだろう。魂胆が丸わかりだ。
「かわいこぶりっこしても無駄だよ。僕は零たちほど君に甘くないし、氷室のおねだりに比べれば大したものではな……」
「──宗にいさぁん、おねがイ♡」
上目遣いで強請られるのは、そう気分が悪いものではなかった。小僧は自分の顔の使い方を理解している、アイドル科の生徒として申し分ない。僕たちの自慢の末子だ。
「…………一枚だけだよ。絶対に外部に漏洩しないと誓え」
「やったァ♪」
「しかしこのカチューシャは何処で仕入れたものだ。縫い目が荒いし中のカチューシャも安物だろうね、湾曲がきつすぎる。氷室は顔も頭も小さいから問題なく装着できるだろうけど締め付けては可哀想だ。僕が作り直した方が良いね」
「そんなことしてたら猫の日終わっちゃうけド」
「布の柔らかさは及第点だけど近くで見るとやはり安物なのが顕著になるね……」
「……あーア、拘りはじめちゃったヨ」
***
カチューシャをどう改良したものかと考えながら部室に辿り着いた。小僧は最初から氷室に着けさせようとしていただけあって、色味だけはあの子に合わせることが出来ているようだ。気に喰わない点は多くあるが、拘り始めてしまうとなかなか終わりが見えなくなってしまうのが僕の悪いところだ。この一年で僕は妥協をするということを学んだ。荒さや拙さの中にも見出せるものはある。影片はそれが得意だ。
寝ている氷室を起こしてしまわないようにと、僕は静かに扉を開けた。
「──氷室?」
僕が用意した簡易ベッドの上には誰もいない。まさか僕が目を離した隙に何者かが部室に侵入し、氷室を拉致したのだろうか。恐ろしい考えが頭を過ぎる。
「な、何故……くそッ! やはり一人にするべきではなかっ」
「みぁ」
「…………ん?」
慌ててスマートフォンを取り出し電話をしようとしたところで、背後からか細い声がした。僕の後ろには氷室がいつも寝ているベッドしかない。振り返ると、デュベがもぞもぞと蠢いていた。
「にぃ」
「…………猫」
恐る恐るデュベをめくると、中から手のひらに収まってしまいそうな大きさの仔猫が。仔猫は僕に近づこうとする。ベッドから落ちそうになり、僕はすぐさま受け止めた。
「おっと。危ないよ」
「みー」
「……迷い込んでしまったのかい? ここは君の寝床ではないのだよ。さあ、親元に帰りたまえ」
「みぃ」
「こ、こら。よじ登るな」
床に下ろそうとすると仔猫は制服のズボンにしがみついてくる。お腹でも空いているのだろうか。しかし今は猫よりも氷室だ。あの子の安否を確認しなければいけない。
仕方がないため仔猫を右手に持ったまま、氷室に電話をかけることにした。すると仔猫が暴れ出して僕の手をすり抜け床に降り立ち、氷室の鞄にカリカリと爪を立て始める。
「だ、駄目だよ!」
「にゃあ」
「ああ、氷室の鞄に傷が……ん?」
鈍い音が響いている。どうやら氷室の携帯は鞄に入ったままで、僕が電話をかけたことで持ち主を呼び出そうと震えていたらしい。仔猫はそれに気づいて氷室の鞄に近づいたようだ。
「君は賢いね」
「にゃ」
「しかし、これでは氷室が何処にいるのかわからないな……」
「み、み」
「……何かね?」
仔猫は膝をついた僕に近寄って太股の上に飛び乗ると、そのまま胴体に向かってよじ登ってくる。落ちてしまいそうなくらいに力のない、覚束ない足取りだ。仔猫が落ちてしまわないよう手を添えてやると、シャツのフリルを小さな前足で触り始めた。交互に踏むこの仕草は確か、ニーディングと呼ばれるものだ。一説によると、不安に感じているときや愛情を表現するときに見られる行動らしい。
「にぃ、にぃ」
「……なんだい? 僕は君の母親でも飼い主でもないよ」
「みゃん」
「よく鳴く子だね……って、君と遊んでいる暇はないんだった。氷室を探しに行かないと」
「にゃっ」
「……? 君、氷室の居場所を知っているのかね?」
「み、みう……んにゃ」
「僕は猫ではなから君が何を言いたいのか分からないよ。理解して欲しいなら言語をだね……」
僕が立ち上がって部室の外に出ようとすると、再び僕の手を抜けた仔猫が床に降りて僕の行く手を遮った。足の間をくるくると旋回し体を擦りつけてきたかと思えば、踏まないように足を上げた僕のズボンの裾を噛んでくる。
「か、噛むな!」
「にぅっ」
「わ、分かった。分かったから……一体何だと言うのかね」
足で払うわけにもいかず、僕はしゃがんで仔猫と目線を合わせて抱き抱える。
よぉく観察してみると、僕を見上げているまん丸の瞳は何処かあの子に似ていて、毛色も小僧に貰ったカチューシャと類似していた。そんな馬鹿な、と思ってお腹に顔を寄せて吸い込んでみると、あの子と同じ香りがする。
「……まさか、君が氷室か?」
「に」
「冗談だろう?」
「みーぃ」
「……信じられん。こ、これが猫の日効果か?」
仔猫をベッドに移動させ、今一度じっくりと眺めてみる。仔猫もまた僕を見返してきて、完璧な黄金比の顔立ちに動悸がした。こんなにも麗しい猫を僕は見たことがなかった。毛むくじゃらの獣は勘弁なのだけれど、この子は良い。
「……そうだ。丁度リボンがあってね、遊んでみようか」
今度の衣装を制作している際に余った端切れがあることを思い出し、机の上の裁縫道具入れから出して持ってくると、仔猫は興味津々でリボンを見つめた。思わず笑みが零れる。無垢なものを見ると、僕の心も浄化されるようだ。
リボンを垂らしてやると仔猫が反応して前足を伸ばした。悪戯心で動かすと追いかけてくる。必死に捕まえようとしている姿を写真に収めたいものだが、手が塞がっていて出来そうもない。
「みっ、みゃう」
「ふふ。ああごめん。怒らないで。ほら、好きなだけ遊ぶと良い」
このままからかっては爪を立てられてしまうと思い、僕はリボンを手放した。仔猫の氷室はひしっとリボンを掴み、自分の体に絡まってしまうのも気にせずはぐはぐと噛みついた。いつも氷室を撮れるようにと置いてあるカメラを取り出し、今度こそ仔猫の愛くるしい様を写真に残した。
「……に」
「ん? ああ、疲れてしまったのかな?」
元気を無くしぽてん、とシーツに転がった仔猫に絡まっているリボンを抜き取ってやる。仔猫はぷわ、と小さく欠伸をした。シーツの上で丸くなる姿は氷室と同じに見えた。猫になっても変わらない。
「氷室……君は猫になっても愛らしいね。ああ、小さい。小さくて可愛い。儚くか弱い生命……ふわふわだね。うー、あー、可愛いな……氷室だと思うともっと可愛く見えてきたよ。だがどうすれば元に戻るんだ……? 可愛いけれど、人間に戻って貰わないとね……君もこのままでは作曲できないだろう? 僕は人の形をしている君と触れ合いたいよ」
生えそろっていない細い毛が上下しているのを見ると、小さな生き物も必死に呼吸をして生きているのだと感慨深くなる。指でそっと毛を撫でた。
「それにしても、世界一の美猫だね。種類は何なのかな」
「……携帯で調べてみては如何です?」
「いや、その能力はまだ僕に定着していない。後で図書館に行って調べてみよう」
「……調べるまでもなく、雑種だと思いますけど」
「雑種? こんなに美しいのに?」
「……良い具合に血が混じったのでしょうね」
「ほう──って、えッ⁉ 氷室⁉」
会話をしていることを忘れてしまうくらい自然に、静かに、穏やかに話しかけられた僕は、まさか氷室が隣にいるとは思わずに飛び退いた。氷室は首を傾げて僕を見つめている。僕は仔猫と彼女を交互に見遣り、混乱する脳で処理しようとする。
「今までどこにっ……?」
「……奥の部屋です。目が覚めてしまったので、お茶を淹れようと思って」
「そ、そもそも君、猫になったのでは……?」
「……どうして?」
「いや、だって、この仔猫は君にとても似ているし」
「……似ていますか?」
「匂いだって君と同じだった」
「…………匂い?」
氷室は怪訝そうな顔だ。
「……ときどき、この子とはお話するので。私の匂いが……移ったんでしょうか。母猫に影響していないと良いのですが」
「ではこの子と君は別個体……?」
「……なぜ貴方が、私が猫になるという非科学的な見解に至ったのか、理解に苦しみます」
「小僧から今日は猫の日だと言われて……」
「……猫の日。世界的には八月八日ですが、日本独自に定められた日ですね。……にゃんにゃんにゃんで語呂合わせしたという」
「氷室。すまないがもう一度言ってくれ」
「……?」
「これを着けて、言ってくれ」
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