ちょっとした出来心でキャットフードを口に含んでみたレオは、その味の薄さに眉毛の片方を上げてパッケージをまじまじと見つめてみた。高校時代、弓道部の敷地に潜り込んでくる猫たちと戯れ、買ってきた猫缶を与えた記憶はあったが、それらもこんなに味気ないものだったのだろうか。
動物の舌というのは人間のものよりも余程鋭いものなのだろう。そう自己完結したレオは深く考えるのを放置して、器を揺らして中の粒が踊る音を奏でながら愛猫を探した。
「おうい。ご飯だぞ〜」
「んにゃぁん」
「はは。『ご飯』って単語にゃ、すぐに反応すんだな。普段は名前呼んでもちっとも返事しない癖に」
レオの声に反応してひょっこり顔を出した二匹。路地裏で見つけて保護をした黒猫と三毛猫は動物病院で検査をされた後、レオと美雪に引き取られることになった。元野良と捨て猫だ。野良であれば生まれてこのかた名など無く、捨て猫であれば新たな名に反応することは難しいのだろう。
「ほい」
床に二つの器を置いたレオは二匹が食らいつく様をしゃがんで観察した。かりかり、という音がする。小さな口の中の小さな牙でしっかり噛み砕いている音だ。
あっという間に平らげられてしまうと量が少なかったのではないかと思うレオもいたが、与えすぎると美雪に怒られることを思い出し、キャットフードの袋に手を伸ばすのをやめた。彼女は「食べ過ぎは健康に良くない」と言いたいらしいが、食べなさすぎな彼女に言われると素直に受け取りづらい。
猫たちの食器を片付けたレオは自室に戻って椅子に座り、ブルーライトカットの眼鏡をかけてキーボードに触れた。本日の彼はアイドル業はお休み。自宅で作曲作業に勤しんでいた。
一区切りついたレオが伸びをして時計を見上げると、短針が八を示していた。そこまで遅い時間ではないが、番組の撮影で出ている妻の入眠時間を考えるとレオはそろそろ居場所を尋ねたくなる。
レオはスマートフォンを取り出して美雪に電話をかけた。すっかり冷めているコーヒーを啜ると、「はい」とレオの愛してやまない澄んだ静かな声が響く。
「撮影終わった?」
「……ええ。二時間くらい前に」
「今どのへん?」
「……居酒屋」
「スタジオ近くの?」
「うん」
レオの予想が当たっていたところで、電話越しに盛り上がっている声がする。酔っ払った誰かに話しかけられた美雪が「……ごめんなさい、ちょっと」と対応するのが聴こえたレオは椅子から立ち上がっていた。既に逆の手に車のキーを掴んでいる。
「迎え行くわ」
「……いえ、要らない」
「躱せんの? 面倒臭いヤツ居んじゃなかった? いま近くに居んのそいつだろ」
「……大丈夫。心配し過ぎ。私、貴方と違って酔わないもの」
抉ってくる。眉間に皺を寄せたレオは乱暴に引っ手繰ったパーカーを羽織り、靴を履きながら肩と耳で挟んだスマホに向かって言う。
「おれが来ると何か不味いことでもあるわけ?」
「貴方の手を煩わせる程の事ではないと言いたいだけ。何故そう捉えるの」
「安心できないんですよねぇ、おれの奥さん魔性だから」
続けてレオが「もう家出ちゃったわ」と言うと、美雪が呆れてため息を吐いた。
「おれがやりたくてやってるだけだよ。牽制にもなるし」
レオはオートロックの閉まる音を背に冷気を感じてぶるり、と身を震わせた。些か薄着すぎたようだ。
「……ねぇ。どうして結婚してるって分かってる相手に群がるの?」
「お前の場合は結婚しててもしてなくても群がられるだろ。……知らないけど、人のものだって思うと興奮するんじゃん? 人妻とか新妻とか、そういうのが好きな男って居るし」
「どういう神経してるのかしら。『お馬鹿さん』なんて可愛らしい単語では片づけられないわ」
聞かれないよう声量を絞った美雪の零した愚痴にレオは「やっぱり」と思わずには居られなかった。案の定、彼女は飲み会の席で邪な感情を向けられていたらしい。
相手が彼女・氷室美雪となると理性が働かなくなるというのも、レオは腹立たしくありつつも理解できるような気がしていた。二十一の美雪に『既婚者』という肩書を与えてしまったのはレオだ。それが特定の性癖を持つ人間を貫いてしまっている。
「まあ好みは人それぞれだろ。ほとんどのヤツは空想の中に収めて実行なんてしないけど、実行しちゃう馬鹿なヤツが一部いるってだけで……ま、それはさておき、一人になるなよ。メイクさんの隣キープしとけ。三十分くらいで着く」
「……はぁい」
子どものような返事を聞き届けたレオはふすっと笑って電話を切った。
レオが酒屋に辿り着くと、美雪は言われた通りにメイク担当の女性スタッフの左隣に座っていた。彼女なりに考えたのだろう、反対側が壁だった。少しでも面倒な輩に絡まれるのを避けるポジションに上手く入ることが出来ていたが、それでも対面にいつまでも居座る男がレオの目に入った。割って入り、美雪を連れ帰る去り際にしっかり睨みを利かせておいた。
家に着いた美雪は可愛がっている黒猫ことシューベルトに出迎えられるが、シューベルトは美雪が酒気を帯びていることが鼻で分かると素早く逃げてしまった。避けられたのがショックだった美雪はしょんぼりして、レオに「……シャワー」と呟いて消えて行った。
「分かるぞ、お前も雄だもんな。自分の女に変な匂いが付いてると嫌だよな。でも残ッ念! お前の女じゃなくておれの女でしたぁ〜!」
「……ナァン」
扉からひょっこり顔を覗かせた黒猫にレオがマウントを取った。
氷室美雪が月永美雪になってからレオはてっきり自分が安心できるものだと思っていた。物扱いすると彼女や宗が怒りそうだが、結婚は『相手の物になる』と受け取ることも出来る。夫婦は唯一の対。美雪はレオのものに、レオは美雪のものになった。
美雪は結婚を公表すると同時に、これを機にアイドル活動を引退することを宣言していた。「本業の作曲家をメインに」と発言した場ではレオからもインタビュアーからも「え?」と聞き返された。女性アイドルの鑑とも言える彼女が『本業は作曲家』など、たとえ本人だとしても「何を言ってるんだお前は」と咎められるだろう。美雪はインタビュアーは兎も角レオからも同じ反応をされるとは思っていなかったのか、「貴方だって本業は作曲家って言ってるじゃありませんか」と反論した。
レオはアイドルを続け、美雪は引退するという構図は、美雪のファンからすれば「月永レオが氷室美雪を引退させた」ようなものだ。怒りの矛先は勿論レオに向くことになる。わざわざKnightsのイベントに来てまで罵声を放つ輩も居たが、レオは『氷室美雪』と結婚することがそういうことだと始めから覚悟していた。しっかり法的措置を取りつつ、バラエティ番組などの公の場で「まあお前らの嫁じゃなくておれの嫁だけどな!」と堂々と発言していた。それを自宅のテレビで確認した美雪は恥ずかしさで呆れて物も言えなかった。
「にゃん」
「……もう臭くない?」
「んに」
「……良かった。お前に嫌われたくないの、避けないで頂戴な」
レオがリビングのソファで三毛猫を撫でながらテレビを眺めていると、後ろから脱衣所から出て来た美雪とシューベルトの声がする。振り返ると、美雪が黒猫の顎をくすぐっていた。
「ねぇ」
「ん?」
「……そろそろ貴方の出ているドラマの時間でしょう? 見ないの?」
「あ、あー」
問われたレオは確かにあと数分で出演するドラマの時間だということに気づく。ばつが悪そうに美雪を見上げると、彼女はレオの表情の意味が分からずに首を傾げた。
それは所謂恋愛ドラマである。ということは、そういうシーンもあるわけで。今週はキスシーンがある話だったはずだ。実際にしているわけではなく、角度でしているように見せかけている。結婚している以上そうしたい、というのがレオの願いで、プロデューサーも監督も意を汲んでくれた。
美雪は、レオが他の出演者の女性らと会話をしていても気に留めることはない。レオは彼女が男と話しているだけで意識が向いてしまうというのに。大声で盛り上がり、仲睦まじくしている様子でも見せれば彼女も嫉妬してくれるだろうか、と考え実行したこともあったが、結果はレオの期待通りには行かなかった。彼女は平静としていて逆に相手の女の気を良くさせてしまっただけでなく、レオが美雪から離れたことで逆に美雪に付き纏う男が増え、少し面倒なことになった。
そんな彼女のことだ。レオがいま後ろめたく感じていても、キスシーンを見たところで何とも思わないだろう。レオはあわよくばやきもちを妬いて貰えれば、とチャンネルを切り替えた。美雪が隣に腰を下ろす。シューベルトもついてきてソファに飛び乗った。
暫く無言で見ていると美雪が欠伸をした。ドラマの内容が詰まらないのではなく、彼女の入眠時間が近いのだ。ドラマが終わると同時に眠りに落ちてしまっても可笑しくはない。
件のシーンに近づく。レオは落ち着かずにソファの上で体育座りをしていた。ちら、と横目で美雪を見ると、目を画面に向けたまま膝上の黒猫を撫でている。
画面の中のレオと女優の顔が接近した。現実のレオは舌を口の中の壁に押し当てて気まずさを誤魔化そうとした。再度彼女を確認するが何の変化もない。テレビの中で女優とレオがゼロ距離になっても顔色はそのままだった。
(……ま、分かってたことだけど)
自分ばかり彼女を気にしている。出会ったときから変わらない。結婚してからも。
レオはどこか虚しさを抱えてソファから降りた。美雪が「……まだ途中だけど?」と引き留めるようなことを言ったが、レオは「いーよ」と背を向けたまま手を振り、自分もシャワーを浴びることにした。
ガシガシと髪の上でシャンプーを泡立てながらレオはぼんやり考える。
いくら法的に縛っても引く手数多の彼女だ、安心することはできない。いつまでも男が彼女を囲んでいるし、レオが嫉妬していることを伝えても彼女は取り合わない。
(別に愛されなくても良いよ、あいつがおれの傍に居るのなら。それで良いんだ、それで良いんだ。それで良いんだよ、おれ。……何度も何度も自分にそう言い聞かせてるのに、結婚しても不安が拭えなくて、あいつの愛を確かめるみたいな行動をしてる。意味なんてないのに、虚しくなるだけなのに)
彼女を自分の元に引き留めておくためにはどうすれば良いのか。より縛り付ける方法は。
(…………子ども、だよな)
結婚して一年近く。彼女と二人きりの生活を堪能している内に次なる欲望が湧き出た。肉体的な触れ合い、その末に手に入れられるかもしれない幸福と呪縛。一を得れば十が欲しくなり、十を得れば百が欲しくなる。彼女を得たレオは次第に満足できなくなってしまった。
(美雪は、子ども、欲しいのかな。願望とか……そんな話したこともないけど、あいつ年下好きだし、多分子どもも好きだろ。仕事でも子役と絡んだりするし、前にシュウと三人で記者とかファンとか大勢に囲まれたとき、埋もれちゃってる小っちゃい女の子の声に反応して態々対応してたし……)
彼女が子どもを好きである、という結論に辿り着こうとレオは忘れっぽい頭をフル回転させた。「子どもが嫌い」なんて結果では、希望がまるで無くなってしまうからだ。
ふぅ、と息を吐いて泡を洗い流していく。
(子どもを作るか作らないかっていうのは夫婦になった以上避けられない話題だろうし……おれから話を振っても何一つ問題はないわけだ。うん、そうだよな。おれが「欲しい」って言ったら多分あいつは前向きに考えてくれると思うし……問題は拒否られたときに月永レオくんが立ち直れるかどうかだ。「貴方とベタベタしたくないです」とか「そんな汚らわしい行為」とか言われたらどうしよう。軽蔑されたらどうしよ。いや、おれだって男だし。えっちくらいしたいですけど? 好きな女の子とえっちしたいけど? おれ間違ってないよね⁉ ていうか結婚してる上に一年同じ屋根の下で手出してないおれの方が奇跡みたいな存在じゃない……? おれ、奇跡じゃん。誠実な男じゃん。だからこれは邪な考えとかではない。……ないよな? ないよね⁉ セナ、ナル、リッツ、スオ〜! 助けて! おれは間違ってないって言って! おれの全部を肯定してー! そしておれの背中を押して!)
こんがらがったレオは体に付着した水分を振り飛ばす動物のように頭を振った。
「…………一旦、一旦冷静になろう」
ロダンの彫刻のように考え込むレオの姿、裸。場所、風呂場。レオの毛先とシャワーヘッドから水滴が落ちていく。
「こういうときは相談だ、相談。セナとかママとか。そっからでも遅くない。はい、考えるのおしまい」
考えることを放棄したレオは両手でプレスするように頬を叩くことで気持ちを切り替え、いつもの自分になって風呂場を出た。
タオルドライを済ませてから部屋に戻ると、美雪がソファから立ち上がっている。てっきり先にベッドに入っているから思ったレオは彼女の背に近づき、彼女が何かを抱えていることに気が付く。白いタオルに包まれたそれは。
「──ちょ、おまッ……⁉」
「……? なあに? 大きな声出して」
レオは思わず彼女の肩を掴んで覗き込む。彼が産まれたての赤ちゃんに空見したのは、目を閉じている黒猫だった。一気に力が抜ける。
「えっ、あ、ぁ、なんだ、シューベルトか……焦った、おれの願望が幻覚になったのかと」
「…………願望?」
「あ、いや、うん、何でもない。……何でタオルで包んでるんだよ」
赤ちゃんかと思うだろうが、とは続けなかった。せっかく逸らした後に口を滑らせて元の道に戻るわけにはいかない。
美雪は赤子を寝かしつけるように、タオルに包まれた黒猫を揺らした。
「……眠そうにしていたから、寝かせてあげようと思って」
「……おれにはお前も眠そうに見えるけど?」
「……そう?」
「目、半分しか開いてない」
吸い込まれそうな瞳が伏せられた睫毛で微かにしか見えない。レオが彼女の頬を突いてみると美雪はこくり、とやや俯いた。
「……んー、目を開けるのが億劫。立っているのも億劫」
「じゃあベッド行けって。なんで先に寝ないんだよ」
「……だって、貴方、変だったから」
「変?」
「……貴方が、ふにゃふにゃポテトだったから。起きてようと思ったの」
ふにゃふにゃポテト。夢ノ咲時代、ダイナーライブの打ち上げ時にレオが美雪に餌付けしたものだ。彼女がへにゃりとしたそれを見て「元気がなさそうだ」と表現した。美雪の目には風呂場へと消えていくレオの背中がそう映ったのかもしれない。
レオは悟られていた恥ずかしさと、それでも打ち明けるのが憚られる切なさで胸の中心が少し重たくなった。それを隠すように彼女の鼻を摘まむ。
「……なにしゅるの」
「ふへへ」
「……ごまかそうとしてる」
「いーからいーから。ほら、もう寝るぞ〜」
レオは慣れた手付きで彼女の膝裏と背に腕を回し、寝室へと向かう。そっと美雪を横たえ、髪を整えた。美雪は横向きに転がり薄く目を開けてレオを見ると、ゆっくり口角を上げた。挑発的と受け取ることもできる表情だが、深い意味はないのだろう。彼女の場合、これは「もっと撫でろ」というサインだ。
「なぁ」
「……ん?」
「美雪ってさ、子どもって好き?」
それだけでも聞いておこうとレオは思った。これで「嫌い」と言われれば、かなり気持ちは落ちるだろうが。
「んー……とししたはふにゅい、やみゅ」
「なんて?」
身体が眠りにつこうとしているせいで舌が回らないらしい。聞き取れなかったレオが聞き返そうとするが、美雪は鈍く唸って
「もぷぅ」
と鳴いた後、すぅすぅ寝息を立て始めた。
(……これどっちだ⁉)
取り残されたレオは険しい顔で固まり、起きたら問い詰めてやろうという心意気で彼女の寝顔をじーっと見つめ続けたが、もちろん一度就寝した彼女が起きるわけはなく、そのうち睡魔に襲われ髪の毛を乾かすのも忘れて眠りに落ちた。
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