「……あのね、お兄様」
「どうしたんだい、ぼくの可愛い妹」
もじ、といじらしく指を摘まんでぼくを見上げてくる瞳は、あの学院の窓から見えていた海よりも綺麗で、澄んでいて、出会った頃よりも煌めいている。
今日もぼくの妹は美しい。ぼくの妹になった、巴の娘になった愛しい子は長い睫毛を伏せたり起こしたりさせて、最終的には伏せた。ぼくは彼女の頬の横にはらり、と降りてきた絹糸のような髪を耳にかけて問う。
「その顔は何か悩んでいるね?」
「……うん」
華憐な唇から可愛く紡がれた。「うん」、だって。可愛いね。
「いいよ、話してご覧。兄様が何でも応えてあげるよ」
「…………うん、あのね」
何を打ち明けようとしているのだろう。ぼくの妹・巴美雪は沈黙ののちに決心したのか、「……お耳を貸してくださいましね」と言ってぼくを屈ませた。ひそひそ話をする幼女のように顔を寄せてくる。耳を向けると至近距離で小さく息を吸う音が聞こえた。ぼくの妹、呼吸音まで可愛いってどういうことなんだろう。
「……好きな人できたの」
「────は? え、ん? ちょっと待って? なに? 何? すきなひと? すきなひとって何? そもそも『すき』って何? 兄様よくわかんないんだけど詳しく教えてもらっても良い?」
怒りで震える指に力を込めすぎないように努め、妹の薄い肩を掴んで瞳を覗いた。彼女は大きな目を丸くして首を傾げる。
「……? 『好き』は、お気に入り、とか……心惹かれる、もの?」
「つまりすきなひとは」
「……心惹かれる、人」
悪い日和通り越して絶望だね。今日って世界滅亡の日? それなら納得だね。
ジュンくん、また来世で会おうね。
凪砂くん、死ぬときは一緒だね。
茨。茨はー……まあ何でもいいね。ばいばーい。
「え? えっ? だってさ、昔は『お兄様のこと好き』って言ってくれたよね? 『お兄様と結婚する』って」
「言ってない」
「言ってないか、じゃあぼくの捏造だね。でも兄様覚えてるからね? 『好き』は絶対言ってるね。今更気持ちが変わったってこと? なんて罪な女! 兄様を弄んで楽しいっ? この悪女!」
思わず罵倒すると妹は困ったように口を噤んだ。
誰。ぼくの妹にこんな顔させたの。ぼくだね〜! 最悪、悪い日和!
「……でも、兄妹は結婚できない、よね?」
「大丈夫、ぼくたち血繋がってないから。やろうと思えばいけるね」
ぼくも兄上も、彼女を一目見たときからお嫁さんにしたいと思っていた。だから彼女を手元に置きたいが為に巴の養子にすると父上が言い出した時は兄弟で割かし本気で反対したけど、兄上と調べてみたら実子と養子で結婚することは法律上問題がないらしい。
でも兄上は跡継ぎだから他所のお家のお嬢様と結婚する確率が高いはず。つまり妹は必然的にぼくのお嫁さんになるってことだよね。
「……? お兄様と私が結婚するの?」
「うん♪」
「……誰かが決めたの?」
「ぼくが決めたね♪ 結婚しようね♪」
「……しない」
「なんで⁉」
ぼくを拒否するってどういうこと? 酢豚にパイナップルを入れるくらい訳が分からないね。
ぼくが絶望で膝をつくと妹は床にぺたん、と女の子座りした。可愛い。ぼくの真似してる、可愛い。ぼくの真似をしちゃうくらいぼくのことが好きならぼくのプロポーズを受け入れるべきだと思うんだけど。本当に訳が分からないね。
「……というかその好きな人って誰」
ほんのちょっとの間放心したお陰でぼくは我に返って本題に戻ることができた。そいつを抹消すればぼくが妹と結婚できる。良い日和は自分で作り出すものだね。
ぼくが問うと妹はぽぽっと頬を薔薇色に染めた。恥じらうように肩を竦めて、またぼくを上目遣いで見上げた。そういう仕草だよ、妹よ。兄を狂わせて、どうしようもない子だね。
「ン……ないしょ」
「内緒? 兄様に隠し事するの?」
凄んで口を割らせようとするが、妹はぷいと顔を背けてしまう。負けじとずい、ずいと顔を寄せて、このままどさくさに紛れてキスできるくらいの距離まで迫っても意味がなかった。本当に隠すつもりらしい。好きな人ができた、と言っておいて。まさかぼくの考えが筒抜けているわけではあるまい。
「じゃあヒント! ヒント頂戴!」
ぼくが「お手上げだ」と懇願すると、妹は考え込む。
「じゃあね、えっとね、あのね…………んと、お兄様が、仲良しな、ひと」
「な、仲好し……?」
顔が広いとこういうときに困るんだね。ぼくは仲良しだと思っている人間の顔を思い浮かべてみる。一番に浮かぶのは凪砂くんだ。
彼女と凪砂くんの関係は、同じ『父親』の元で同じ部屋に閉じ込められ飾られていた運命共同体・魂の双子のようなもの。親友である彼が、彼女の『好きな人』──この場合は恋愛感情ではない──であるのは当たり前のように思う。わざわざ改めてぼくに伝える必要性はないだろう。彼を選択肢から除外した。
「……ジュンくん?」
そうすると次に浮かぶのはジュンくんだ。ぼくが秀越ではなく、玲明を選んだ理由の彼。地獄のような当時の玲明学園でたった一人、ひた向きで輝きを忘れなかった男。
ジュンくんになら妹を任せても良い? 否。妹はぼくの妹でぼくのお嫁さんだね。ジュンくんでも駄目。あげない。まあぼくも凪砂くんも知ってるけどね、ジュンくんが妹を目で追っていること。この子は見るもの全てを魅了するのだから仕方ない。
ジュンくんの名前を出すと、ぼくが却下を出す前に妹が首を振った。違うんだ。残念だったね、ジュンくん。振られちゃったね。哀れだね。滑稽だね。告白する前に振られるって気の毒だね。
「…………待って。美雪の言う『仲良し』って、まさかとは思うけど英智くんとか茨とかまで含めてないよね?」
決して『仲良し』が凪砂くんとジュンくんだけな訳ではなくて、一応、確認の為に妹に尋ねた。あんな連中まで含められていたら彼女の『仲良し』の認識を疑うし、恋敵候補の範囲がとんでもなく広がる。
「……? 含めてるよ? お二人共、お兄様と仲良し、だよね?」
「仲良しな訳がないよね⁉ すれ違う度に嫌味皮肉を言い合ってるんだけど⁉」
「……でも、喧嘩するほど仲が良いって」
「それは嘘だね。四六時中喧嘩してたら仲良くする暇なんて無いからね」
「……そうなの?」
「そうだよ」
妹は一度ぼくの言葉を反芻するようにして上空を見上げた。人間には見えない何かが見えている子猫のような動き。
「……でも、天祥院さんとは、同じサークルだよね?」
「だって『英智くんがいるからこのサークル入るのやめよ〜』ってしたら負けてるみたいだね?」
「……でも、元fineだし、一緒に居た時間も長いよね?」
「ちょっと待って? 何でそんなに英智くんの話を引き出すの? まさか英智くんが好きとか言わないよね? 見てくれで騙されちゃ駄目だよ。絶対駄目だからね。あんな男に嫁がれるくらいなら閻魔大王に嫁がれた方がましだね」
天祥院英智、あの男はいつもならぼくと軽口を叩き合うはずなのに、ぼくの妹に会った途端に顔色を変えた。ぼくの妹に初めて見えた人間は皆そうなるのだ、ぼくもそうだった。
養子を引き取ったことを天祥院に知られる、それは弱みに成り得る。現にヤツは妹が養子であることを知ると「……へぇ」と笑みを深め、天使の皮を被って妹の手に触れようとした。ぼくが妹を庇うと「どうしたんだい日和くん。僕と君の仲じゃあないか。君の妹は僕の妹のようなものだよね」とよく回る口で親友のように振る舞った。妹の前で紳士らしく、好意的に受け取られるように。ぼくの妹を『女』として意識している行動だった。
巴との友好的な関係を築く為、などと言って婚約を持ちかけようとしていた事だってあった。あのときは「あの子にはまだ早すぎる」と父上が何とか話を逸らしてくれたが、あの後「あの子は巴じゃない」とぼくが噛みつくと「彼女が巴の養子なら天祥院と巴の繋がりに十分成り得る。血統は必要ないんだよ。僕は彼女を幸せにする準備はもう既にしているから、安心してね、お義兄さま♪」なんて抜かしてくるから、頭に血が上って殴りかかるところだった。
「……七種さんも、お兄様と同じユニットだし」
「今度は茨が好きとか言わないよね⁉」
「……七種さんは、『パパ』に似てるから、好き」
「ヒュッ」
喉から引き攣った音が漏れた。この『好き』はどの『好き』だ。白目を剥きかけていると「でも」と続く。頬が染まった。
「…………『あの人』の『好き』とは、違う気がするの」
「……まさか君に『好き』の違いが分かる日が来るなんて」
この子にそれを気づかせる男は自分でありたかった。
***
いくら問い詰めても口を割らない妹と別れ、ぼくはEdenの皆をカフェ・シナモンへと呼び出した。議題は勿論、先程の妹の発言である。「好きな人」なんて、兄様は認めないからね。
「今日みんなに集まって貰ったのは他でもないね」
「何すか、ゲ*ドウポーズなんかしちゃって」
「手短にお願いします殿下。この後ミーティングの予定が」
急な招集にも関わらず、ものの数分でメンバーは集まった。ジュンくんと茨は、ぼくから何を言われるのかまるで検討もつかない様子でのんびりしている。彼女との絆がある凪砂くんは異変を感じ取っているのか、眉間に皺を寄せて心配そうな表情だ。
「ぼくの妹・巴美雪のことで、皆に協力を得たい」
美雪の名を出すと二人は目付きを変えた。凪砂くんは瞼を閉じる。
「な、なんかあったん、すか?」
ジュンくんが首筋をぽりぽりと掻きながら尋ねてくる。敬愛するぼくの妹で、密かに想いを寄せる少女に関することとなると彼も身を乗り出すだろう。その横で茨はカチャリ、と眼鏡を押し上げてパソコンを開き目線で続きを促した。
「──好きな男が、できたらしいね」
「す、ッ……⁉」
茨は机に置いていた肘をガクンと落としてそのままの勢いで顎を打ち、ジュンくんは今まで見たことがないくらいに目を見開いて息に詰まった。
「挙動不審になっているところ悪いけどジュンくん。君ではないね」
「えっ、ぅ……」
何で、とでも言いたげな顔。ぼくが「分かりやすすぎるね」と呆れると、気まずそうに唇を噛んだ。好きな女に好きな男がいて、それが自分ではないと告げられるのだから、本当にこの子には苦い思いをさせているとは思うが、ぼくは美雪の兄。背中を任せる男を励ましたい気持ちと、愛する妹を男の手から守りたい気持ちを天秤に掛ければ、後者の方が重い。
「──……相手の男は?」
冷たく低い声。静かな炎のようだ。今の今まで黙っていた凪砂くんが肘をついてぼくを睨んでいる。恐らく、ぼく越しに彼女の想い人を。いくら魂で繋がっている凪砂くんでも相手は分からないらしい。
「分からないね。ただ、ぼくの親しい人間だと」
「親しい人間?」
「協力を仰いでいる以上お分かりだとは思うけど、Edenには居ない、ということだね」
三人とも黙りこくる。気持ちは分かるね。選ばれなかった男の嫉妬の矛先は勿論、彼女に健気に想いを寄せられている謎の男だ。茨はよく回る頭でぼくの周りにいる人間をピックアップしているのだろう。先程から顎に手を当てている。
「おひいさんと親しくて、オレらじゃない……コズプロの人間っすか?」
「ぼくもそうなのかと思うんだけど、誰だと思う? 茨はあの子のプロデュースもしてるよね、あの子の周りに男の陰はなかった?」
抗争を経てぼくと凪砂くんが転入を決めると、夢ノ咲学院音楽科の入学を予定していたはずの美雪は「それならば」と玲明・秀越付近にあるお嬢様学校を選んだ。音楽科に所属して作曲技術を高めるのが目的だったのに勿体ないと思ったが、あの子にとっては、抗争で疲れ果てたぼく達の傍にいることの方が重要だったらしい。全く、優しい子だ。天使の生まれ変わりだね。
ぼくと凪砂くんの傍を選んだ彼女は当然、ジュンくんと茨に出会うことになる。茨はあの子を見た途端にピンと来たようで、すぐにコズミックプロダクションへの所属を推奨した。というかスカウトをした。かつて彼女と屋敷で歌い踊ったぼくと凪砂くんも後押しし、あの子は今ではコズプロを代表する女性アイドルになっている。そしてぼくらの専属作曲家でもある。兄として鼻が高い。
「……そんな男がいれば、自分が摘んでいます」
「だよねぇ」
「虱潰しに挙げていきますか。我らコズプロからとなると、2wink、Valkyrie、Crazy:B」
「Crazy:Bなんて論外でしょ」
あんな野蛮な連中をぼくの妹が好きになるはずがない。そう思って即座に選択肢から消そうとすると、ジュンくんが口を挟んできた。
「分かりませんよ? サクラくんのこと可愛がってますし」
「あれは後輩を可愛がってるだけだね。あの子の周りにはあまり年下が居なかったから物珍しいだけ」
「……うん、そうだと思う」
「じゃあ、椎名先輩は? あの人の料理、気に入ってるみたいですけど」
「何ですって? 自分の知らないところで勝手に餌付けされてるとは……もっと監視しておくんでした」
「聞き捨てならないね。ぼくの妹をストーカーしないで」
「彼女の健康と安全を管理するのも自分の勤めです」
毒蛇が腹が立つくらいに綺麗な笑顔を浮かべた。殴り飛ばしたいね。
「──あ! そういや前に、HiMERUの顔が好きだとか言ってました!」
「ハァ? そういうことは早く報告して欲しいねジュンくん⁉ HiMERUくんが好きなの⁉ ぼくじゃなくて⁉ ぼくの顔の方が美しいよね⁉」
信じられない。美雪がぼくじゃなくてHiMERUくんの顔が好きなのも信じられないし、そんな重要なことを聞いておきながら兄であるぼくに何の報告もしないジュンくんも信じられない。そんなに君ってポンコツだったんだね?
「落ち着いてください殿下。あくまで好きなのは『顔』でしょう? 恐らく血統の関係だと思いますよ。彼女はゴッドファーザー……彼の血を引く男の顔が好みのようですから。それで言うと、自分も彼女の『好み』の範疇の男、ということになりますねぇ。アハハッ、こればっかりはあの男に感謝しても良いかもしれません」
自分にも勝算はある、と言いたいのだろう。やっぱり殴り飛ばそうかな。あ、凪砂くんが拳握ってる。いけいけ、そのままやっちゃえ。と思っていたら凪砂くんの殺気に気づいた茨が冷や汗をダラダラ流し始めた。ざまあないね。
「じゃあValkyrie……も、ないっすかね」
当然のように天城燐音の名前を出すことはせず──何故なら彼は論外中の論外だから──、次のユニットへと話が流れる。ジュンくんはアイドルというよりもアーティストのような彼らを頭に浮かべて苦い顔をした。
「……そうだね。斎宮くんは美雪を追いかけ回して怖がられている」
斎宮くんは美雪がコズプロのアイドルとしてテレビに出ているのを発見し「何て美しい娘なんだろう」と一目惚れをしたらしい。所属事務所でコズプロを選んだのは恐らく美雪との遭遇率を上げるためだろう、初対面のときに「待ってくれ美しい人! 僕は君に会う為に此処に来た!」と白昼堂々叫んでいたし。会う度にあの子のことを追いかけて、本当に鬱陶しい男だね。
みかくんも良い子ではあるけど、斎宮くんに心酔しているせいか、人を疑わないあの子を斎宮くんの元へと誘導しようとする部分があるので油断ならない。何も知らない美雪が気づいたら衣装ルームに導かれ、瞬く間に二人に押し込められたという話を聞いたときは生きた心地がしなかったね。あの時はテレパシーで勘付いた凪砂くんが大慌てで駆け付けたから大事には至らなかった──斎宮くんのことだから女性に乱暴はしないと思ってはいたけれど。フリフリのドレスを着せられた美雪が真珠の涙を流しながら雛鳥のようにぴぃぴぃ鳴いてぼくらに縋って来たのは可愛くて仕方がなかったね。
コズプロのアイドルを洗っていったが、どれも腑に落ちない。もっとあの子からヒントを貰っておくべきだったか。茨もカタカタとキーボードを打って彼女の身辺調査をしているらしいが、売れっ子アイドルなだけあって最近共演した男までマークしようとしたらキリがないようだ。
「──やはりHiMERUではないでしょうか。HiMERUは彼女に直接、魅力的な顔だと褒めていただいた事があります♪」
「いやそれはないっす。HiMERUくんは顔だけっす」
「椎名だって料理だけでしょう」
「『だけ』って何すか!」
「先に言い始めたのは椎名です。HiMERUに非はありません」
「なに子どもみたいなこと言ってるんすか! 『どっちもどっち』っす!」
「そういや最近、美雪ちゃんから熱っぽい目で見られてる気がすんだよな〜」
「気のせいやろ」
「あれは俺っちを誘ってるな、絶対」
「気のせいやろ」
いつの間にかカフェ・シナモンに入り浸っている蜂たちも会話に加わっていた。最初はただちょっかいを出すだけのつもりだったらしいが、ぼくらの話題が美雪の恋する男だと分かるとあっさり手のひらを返した。それにしても喧しい。
「ふむ……美雪はんの初恋って誰なん?」
「ぼくだね」
「は?」
言い切ったら狂った蜂全員から白けた目で見られた。痛くも痒くもないけど、どうしてそんな目で見られなきゃいけないんだろうね。
「……いや、美雪の初恋は、まだだと思う。だから多分、今回が初恋」
「え! 何それ腹立たしい! あの子のはじめてを奪われた……!」
「日和ちゃん声でけぇって。一応昼間な? んで店内」
「君に常識を説かれるなんで屈辱……!」
「うーん、タイプの男が分かれば絞れる思たんやけど……」
「……美雪のタイプは、私」
「ここにも阿呆がおったわ」
「随分淡々としたアホだな」
すると新たな来客。ぼくたちは店の最奥にいる。店員に案内された客が柱を挟んで手前側に座った。先刻別れた美雪だった。店員にアイスティーを頼むと、そわそわと落ちつかない様子でスカートを払ったり、ポーチから鏡を取り出して化粧が崩れていないか確認したりしている。そんなことしなくても宇宙一美しいよ、我が妹よ。
そう、ぼくの妹は何よりも美しく可愛い子なんだ。ぼくや凪砂くんに飽きるほど褒め称えられてきたお陰で、本人もそれを自覚しているはず。あの子は賢いから、テレビや映画・舞台でも自分の顔の使い方を理解して振る舞っている。そんな子が、頬を染めて身なりを気にしているということは、まさか。
(──デート、だね……⁉)
ぼく達はアイコンタクトを取って、聴覚の優れたあの子に気取られないよう息を顰める。ぼくの妹に先に来させて待たせるなんて、なかなか良い度胸してる男だね。殺してやろうか。
美雪はその間、ぼくらに気づく気配はなくアイスティーをかき混ぜたり、店の壁に掛けられている時計をちらちらと確認したり、悩まし気なため息を吐いている。恋をする乙女の一挙手一投足、何もかもが眩しいね……。
「すみません、お待たせしました」
「……! い、いえ」
──来た。男だ。ぼくらは揃って顔を確認しようと覗き込んだ。
まず見えたのは服だ。グレーのチェックのボトムス、ひし形のラインが入ったネイビーのセーター。男は息を切らしている。走ってきて暑くなったのか、途中で脱いだと思われるブラックのコートを腕にかけていた。
穏やかな声は聞き覚えがあった。ぼくのよく知った顔が、妹の前に腰掛けた。
「──風早巽ィッ⁉」
ぼくが声を上げるよりも先にHiMERUくんが立ち上がった。すかさずCrazy:Bの他三人が肩を掴んで座らせ、口を塞いだ。
「ど、どういうことだ……? か、か、彼女はまさか、風早巽を……? な、なんで? 何故『俺』ではない……⁉ 彼女は『俺』の顔が好きだと、『俺』を好きだと……!」
「いやメルメルが好きとは言ってないっしょ」
「オレのライバルが、巽先輩……? む、無理だ……あんな聖人君子、オレが敵うわけがない……」
「ジュンはん! 気をしっかり!」
あれだけ大きな声だったというのに、美雪も巽くんもぼくらに気づいた様子はなかった。広い店内が救いだったと考えるべきか、彼らが、周りの騒音に気づかないくらいに二人っきりの世界に入っているのか。互いに夢中なのか。
巽くんは店員に注文し終えると、ちらりと美雪を見遣った。丁度美雪も彼を見ていて、ぱちっと視線が絡んだ二人は同時に目を逸らす。二人の頬は揃って薔薇色。
(これ、間違いなく、逢瀬だね……?)
信じたくなかった。ぼくの妹が、巽くんと、恋。
「いやぁ……近頃あたたかくなって、きましたなぁ」
「……そうですね」
「そろそろ衣替えをしなければなりませんね」
「……ええ」
二人はぎこちなく会話を重ねていく。ぼくたちは一言一句聞き逃さないように聞き耳を立てた。
「……風早さんは、最近、お変わりなくお過ごしですか?」
「はい、元気にしておりますよ。有難いことに仕事も増えてきて」
「……あの、映画、観ました」
美雪がスカートをきゅっと握って話しかけた。勇気が必要だったのだろう。何気ない会話なのに、この男に対して妹は緊張している。心臓を鳴らしている。
それを空気で感じ取ったのか。巽くんはポカンと口を開けたかと思えば、はにかんで少し俯いた。
「そ、そうです、か……美雪さんに観られるなんて、なんだか恥ずかしいですな」
「……? なぜ、です?」
「貴女は俺より沢山、色んな方と共演しているでしょうから。俺の技量の低さに落胆させてしまうのではないかと……」
「そんなことない!」
美雪の声が店内に響いた。耳を澄ましていなくても聞こえるくらいの音だった。
美雪は巽くんの驚いた顔を見るとハッとして口を噤み、唇を触った。
「ご、ごめんなさい……そんなこと、ないです。素敵でした、とても…………どうして、相手役の女性が、私じゃないのかと、思うくらい」
「──!」
「……羨ましかった。貴方と……口付けを交わす女性が」
妹は、今自分がどんな顔をしているのか気づいているのだろうか。頬を染めて唇を触って、男を見上げて。
巽くんはパチパチと瞬きをして口を開けたり閉じたりして狼狽えていた。美雪はまたハッとして慌てて頭を下げた。
「ご、ごめんなさいっ……私、貴方を……困らせてます、よね。忘れてくださいまし……」
「いえ! 嬉しいですっ、俺……俺は、嬉しい、です。貴女にそう言っていただけて……」
ぼくは何を見せられているのだろう。
「こ、今度、また恋愛作品の出演に声がかかったら……英智さんに頼んでみます」
「……?」
「……その、相手役は、貴女が良い、と」
「──!」
「そ、そんなことができるかは分かりませんがっ……」
「私、も! ……七種さんに、頼んでみますね」
「……それは、良いですな」
全員の目が茨に向いた。茨は目を合わせようとしないが「絶対にやるなよ」「何としても回避しろよ」という無言の圧力は感じ取っているはずだ。特にHiMERUくんの圧が凄いね。
二人のテーブルに店員が近づく。巽くんの頼んだ紅茶とパフェがテーブルに置かれた。店員が要らない気を利かせてスプーンを二つ用意している。巽くんは「良かったら」と言って一つのソーダスプーンを美雪に差し出した。美雪が受け取ろうと手を伸ばすと、巽くんの指と触れたらしい。同時に「あっ」と小さく声を漏らしていた。ぼくは地団駄していた。
「……風早さん」
「はい?」
「……口にクリームがついてます」
「? ……ここですか?」
食べ進めていく内に美雪がくすり、と微笑んで指摘した。巽くんは口の周りに触れるが、なかなかクリームを探すことができずにいる。
「……いえ、もっと右に」
「ここ、ですかな?」
「……もう少し下」
「…………ここ?」
そんなに分からないものだろうか。美雪も困ったように微笑んでいる。巽くんは覗き込むように美雪を見つめ、そっと手を取った。
「……取って、いただけませんか」
「……っ」
「貴女の指で」
ぼくは思わずジュンくんの手を掴んで粉砕しかけた。茨が凪砂くんに腕を掴まれて悶絶している。
美雪は恐る恐る指を伸ばし、巽くんの唇の端に乗っていた僅かなクリームを掬った。離れる前に指を捕まえ、巽くんが口に含んだ。恐らく美雪の耳が「ちゅ」という音を拾った。
美雪は顔を林檎のように真っ赤にした。肌が白いから恥ずかしがっているとよくわかる子なんだ。悪い男に弄ばれて可哀想に。
美雪が慌てて指を引こうとするけど巽くんが許さなかった。指を咥えたまま確かめるように美雪の瞳を見つめ、舌を這わせて漸く解放した。
「……美雪さん」
「……は、い」
「……すみません」
「え?」
沈黙の後、巽くんが我に返ったように、神妙な面持ちで言った。
「…………俺の勘違いでなければ、貴女は俺に……好意を持ってくださっていると、思います」
「……っ」
「ですが俺は……信教があり……」
「────」
その先に続く言葉を妹は想像したのだろう。「結婚はできない」あるいは「恋愛はできない」。恐らくそう続いたはず。
美雪はぎゅう、とスカートを握って俯いた。異変に気付いた巽くんが「美雪さん?」と声をかけ、ぎょっと飛び退いた。美雪がぽろぽろと涙を零していたからだ。
「美雪、さんっ……?」
「……ごめ、なさいっ」
美雪は立ち上がって駆け出した。巽くんが慌てて追いかける。
「待って!」
「……っ、は、はなして」
手首を掴まれた美雪は泣き顔を見られないようにそっぽを向いたまま巽くんに訴えた。巽くんは静かに、何かを堪えるように語り掛ける。
「駄目です、離せません……泣いている貴女を、俺は放っておけない」
「……優しく、しないでください」
巽くんが逃げようとする美雪を引き寄せ、そのまま腕の中に閉じ込める。
「俺は、俺はっ……信教が、あります」
「……」
「……ですが、貴女がもし、俺の信教を受け入れてくださるなら……俺の」
巽くんは美雪の髪を撫で、肩を掴んで真っ直ぐに瞳を見た。頬を伝う涙を指で拭い、告げる。
「──俺の伴侶に、なっていただけませんか」
「ぼくの妹を泣かせた挙句プロポーズとは良い度胸だねぇっ、巽くん⁉」
いつでも飛び出す準備は出来ていたね。もう聴いていられなくて、聞き捨てならなくて二人の前にスライディングして現れてしまった。
「──えっ、えっ⁉ お義兄さん⁉」
「だぁれが『お義兄さん』だね⁉ 君にそう呼ばれる筋合いはないね‼」
ぼくは体勢を立て直し、仁王立ちする。この男はいつまで美雪を掻き抱いているつもりなんだろうね? 図々しい。頭が高い。
「大体! 順序が可笑しいよね⁉ いきなりプロポーズって!」
「あっ、そ、そうですな! では結婚を前提に……」
「許すはずないよねぇッ⁉ 美雪! こっちに来なさい! そこに座りなさい! お前に恋愛なんてまだ早いね! 巽くんは駄目! 御実家の宗教が面倒臭いし、そいつは誰にでも優しいから美雪が傷つく事になるね!」
そうなるに決まっている。ぼくはジュンくんほど彼のことを知らないけれど、彼という人の良さを知っている。良すぎるのだ。慈愛が分け隔てなさ過ぎるのだ。
ところが美雪はその男の腕の中で華憐に叫んだ。それはぼくの体を劈いた。
「──……だ、誰にでも優しいから、好きになったの!」
「オギョッポ」
「何語ですか殿下⁉」
「日和くん……!」
「おひいさんが倒れたぁああ!」
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