とある朝の斎宮夫妻

 斎宮美雪の朝が早いことは、彼女が斎宮宗の苗字を頂戴する前から、アイドル時代──それ以前も含む──の彼女を知っている人物であればほとんどの者が知っている情報だった。寝るのも早ければ、アイドル時代であっても体力の限界が来て昼間の活動中に仮眠を取ることは頻繁にあった。二十三時前には就寝、六時前には起床。そんな規則正しい生活を送っている。

 彼女の夫は繊細、言い換えれば拘りの強い性格のため、日々のルーティンというものがある。とはいえ、それは彼の芸術活動が忙しくないときに限る。夢ノ咲時代に比べれば幾らか丸くなり妥協を覚えた宗だが、拘りの強さは健在だった。近々開催されるライブの衣装の仕上げに取り掛かっているということを、昨晩先に寝床に入ることを告げに行った美雪はミシンに向かう彼の背を見て認識していた。

 目が覚めた美雪は肩を縮め、息を吐いて脱力し、隣で眠っている宗を見下ろした。いつベッドに合流したのか、彼の閉じられた瞼の下は黒ずんでいる。優しく隈に触れ、そのまま頬を撫でていくと、美雪の指に何か引っかかる感触があった。

「……あら?」

 美雪は指で往復してみる。確かにそこに何かがいた。ざりっとしたような、ちくっとするような、何か。男性の頬に現れるもの。

「──……まぁ。まぁまぁ。まぁまぁまぁ!」
「……ん、んん?」

 それが何なのか気づいた美雪は宗を起こさないようにするなんて気遣いをすることもなく、遠慮無しにがっちり彼の頬を掴んだ。違和感で目覚めた宗は寝ぼけ眼で妻を写した。

「え、えぇと……美雪?」
「まぁ……! まぁ! なんって可愛らしい……!」

 いつになくテンションの高い妻が興味津々で自分の顔を覗き込んでいる状況。宗は何が何やら分からず、頭が段々覚醒していき、目をぱちくりさせた。

「……? ……? ん? 僕の顔に何かついてる?」
「ええ、ええ! ああ、ここにも……ふふっ」

 鼻の下をくすぐられた宗は思わず眉間に皺を寄せてしまう。それから彼女が触れているものが自分の皮膚から生えている忌々しい物体であることを理解した瞬間、宗は美雪の指から逃げるように顔を背け、デュベを引っ張った。

「あぁっ、私のお髭……!」
「君のではないだろう!」

 美雪の気分を高揚させたもの、それは宗の髭だった。
 可愛い感触が指から離れて嘆く美雪は、このままデュベにくるまろうとする宗を追いかけて引っ張る。

「私が一番に見つけたのだから私のお髭です……!」
「どんな理論かね、僕から生えているのだから僕の髭だ! 放してくれ、剃ってくるから!」
「そっ……剃ってしまうのですか⁉ こんなに可愛いのにっ?」
「かわっ、いい……⁉ これが⁉」

 宗が驚愕して手を緩めてしまうと美雪がデュベの下に潜り込んで、宗の体を這って上り、宗からすれば髭なんぞよりも何億倍も何兆倍も可愛い顔を出した。宗は髭を触ろうと伸びてくる手を避ける。美雪はむっと唇を尖らせる。

「……これは赤ちゃんです」
「は? 赤ちゃん?」
「……そう、赤ちゃん髭。綺麗に整備された道の、ほんの少しの隙間から芽を出した健気な植物……とても愛おしい存在でしょう?」

 いつもは少しでも生えて来れば宗自身が始末していたが、ライブが迫っているというのに納得できる衣装が出来上がらないフラストレーションのせいか、ホルモンバランスが乱れて髭の成長スピードが速くなってしまったのかもしれない。
 彼女の中で自分の髭はそんな存在か。宗は額に手を当てて息を吐いた。

「抜いても抜いても生えてくるしぶとい雑草だよ。根絶やしにしないと駄目だね」
「……そんな可哀想なことしないで? 私の子に」
「君と僕の子は君の腹にいるだろう。比較するまでもなくその子こそが愛おしい存在だ」

 宗が膨らんだ美雪のお腹を撫でて言う。時折ぽこんと内側から蹴ってくるが、今は静かにしているようだった。

「……それはそれ、これはこれです」
「そうやって我を通す気かね。剃るよ、見栄えが良くないからね」
「……え〜」
「……君だって清潔感の無い男は嫌いだろう?」
「……ちょっとお髭が生えたくらいで貴方の清潔感は失われません。……ねぇ、ちょっと、育ててみませんこと?」

 何を言うか、と宗が目を剥くと、美雪は「ほんのちょっとだけです」と食い気味に強請った。

「……お腹の子が産まれてくるまでの間だけでも」
「その子が出てくるまでどれくらいかかると思っているのかね⁉」
「ざっと……四か月?」
「そんなに放置したらどうなると思っている」
「……さあ、見たことがないので何とも。見させていただけます?」
「却下」

 宗は即答してベッドから体を起こすと寝室を出て洗面所に向かう。美雪は慌てて夫の後を追いかけた。宗がシェービングジェルと髭剃りを構えると、美雪が横で「あぁ、あぁ……私の赤ちゃん……」とぼやいた。

「……美雪。やりづらいよ、近い。離れたまえ」
「……やりづらくさせてるんです。せめてもの抵抗です」

 髭剃りを持っている方の腕にひしっとしがみつかれ、宗はまたため息を吐いた。

「……そんなに目立つわけではないのだから良いではありませんか。何も今すぐ処理せずとも」
「駄目だ。放置するとこいつらはすぐに付け上がるのだよ。僕が『生えて良い』と許可をした覚えもないというのに勝手に根をつけているのだからね。刈られても文句は言えまい。忌々しい第二次性徴の象徴め……」
「……ならせめて剃らせてくださいまし」

 鏡を睨んでシェービングジェルを馴染ませていた宗はぎょっとしてジェルの入ったチューブを押し潰してしまった。蓋が開いていたせいでジェルが溢れ、洗面所を汚した。

「剃る⁉」
「ええ」
「君が⁉」
「ええ」
「剃りたいのかね⁉」
「剃りたいのです」

 宗は唖然とする。そして妻に、美雪に顔剃りをしてもらう想像をしてしまう。傷をつけないように丁寧に触られ、優しく世話をされる。それも美女に。どこぞの富豪や貴族のように。それはそれで悪くない気もしてしまう宗だったが、彼女に自分の抜け毛を見られたくはないという気持ちの方が強かった。今更彼女が宗の新たな一面を見て幻滅することなど無いのだが、硝子のようにデリケートな男だった。

「…………お願い、あなた」
「…………………………駄目だ」
「…………私の目を見て?」
「…………いや、駄目だ」
「…………あなた」
「駄目だ。僕は見ない、そして剃らせない」

 甘く呼ばれるだけでも揺らぐ決意は、彼女の顔を見れば崩壊してしまうかもしれない。宗は鏡の中でも彼女の瞳を見ないようにしなければと髭剃りを握り直し、固く閉じていた瞼を開けた。下から「あぁ〜っ」と聞こえてきても手を止めることはなかった。

 斎宮家長子が産まれる前の話。

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