トーマはそれをシャルルの家の郵便受けで見つけた。
シャルルがスネージナヤに向かってから早2週間が経とうとしている。トーマはいつも通り神里家の家司としての勤めをこなしながらも、もしかしたらふらっと家に帰ってるかもしれないと、シャルルの家に通う日課も続けていた。
その日もシャルルの家は空だった。けれど何気なしに開けた郵便受けに一通の手紙が入っていた。
住所は確かにシャルルの家のもの。けれど宛名はトーマだった。その文字が馴染み深いものであることに気がついて慌てて封筒を裏返すけれど差出人の名前がない。消印は押されているので普通の手順で送られてきた手紙のようだ。
モンドにいた頃に何通か似たようなものを受け取ったことがある。宛名は書くくせに差出人の名を書かないのは昔からのシャルルの癖だった。
シャルルが自分に宛てて手紙を送ってくれたのは嬉しかった。加えて宛先を神里家の家司に向けてではなく、シャルルの家のトーマに向けたというのも加点である。単純にシャルルが神里屋敷の住所を知らないだけであろうが、それでも、自分の家にトーマ宛の手紙を送るのは当然というシャルルの認識は、トーマの胸をどうしようもなく喜ばせた。
トーマは緩む頬を引き締め、手紙を大切そうに上着の内ポケットにしまい、シャルルの家を後にした。
封筒の中には写真が3枚と便箋が2枚入っていた。
写真は夜空に浮かぶ綺麗なオーロラと、どこか高所から撮ったであろう街の中心部と思わしき俯瞰写真、それから大きな雪だるまの横でしゃがんでいるシャルル自身の写真だった。最後の一枚はシャルルの撮り方とはアングルや癖が違う。そもそもシャルルが写っているのだから他の誰かに撮影してもらったというのは明確であった。
そしてその他の誰かはきっと『小さなガイドさん』なのだろうと手紙を読んでおいおい気がつくこととなる。
便箋には滑らかな筆致でスネージナヤでの過ごしぶりが書かれていた。書き出しはいかにも彼っぽい手紙だなとか、相変わらず字が綺麗だなとか思っていたのだけれど、秘境で遭遇した魔物との戦いで瀕死になり一週間昏睡していましたと、サラッと書かれた文面にトーマは険しい顔つきとなった。思わず便箋を握る手に力がこもり、クシャ、と紙がシワになる。手紙にもそのことを懸念してあった。全くこの子はオレが怒ることをよくわかっているのに懲りないなと呆れもするのだった。
それでも手紙をかけるくらいには回復しているのだろう。まずは命があってよかった。それに、稲妻に帰ってきてからシャルルの傷を見たらきっとトーマはシャルルを許せなかったし、目が覚めて体調も落ち着いてからすぐ、こうやって手紙で素直に報告しようと決めたのは感じが良い。
手紙の文字を追うと頭の中で幼馴染みの声で読み上げられる。彼らしい手紙、とはそういうことである。
さらに続く流麗な文字をトーマは柔らかな眼差しで追いかけていたが、とある一文で、ピタリと読むのをとめた。
少し難しい顔をした。それからすぐ、眉が下がり、緩慢な瞬きをする。
「おや。トーマ、なにかあったのかい?」
「……! 若」
トーマは神里屋敷の炊事場で手紙を読んでいたので、たまたまそこを通りかかったこの家の当主、神里綾人に不思議そうに声をかけられた。
別に隠すようなことはないのだが、トーマは何となく、手元の手紙を折り跡に沿ってたたみ、封筒に戻す。
「いえ、幼馴染みから届いた手紙を読んでいただけです」
「ああ。以前屋敷の入口で抱き合っていたお相手ですね」
「だっ……。こほん。若、勘弁してください……」
「ふふ。幼馴染みと良好な関係でいられるというのはいいことでしょう」
穏やかに笑う主にトーマは力なく肩を落とす。これを言ってきたのがお嬢と慕う綾華の方だったならまだしも、その兄である綾人の方なので純粋さだけで言ってきていないというのは丸わかりである。
トーマはシャルルのことを綾人たちに内緒にしているわけではない。むしろ、シャルルが稲妻に来る前からモンドで一緒に過ごした幼友達のことを綾人たちに話していたし、シャルルが稲妻にやって来てからも、度々シャルルの話題を出すことはある。大抵は、オレの幼馴染みがまた知らないところで怪我をして帰ってきたんですよね、なんていう愚痴なのだが。
シャルルは、稲妻に来てから一般町民と親しげにすることはあっても、役人や名家といった所謂上の人たちに関わろうとする様子は全くなく、神里家の家司という存在のそばにいながら、綾人や綾華と直接言葉を交わしたことはなかった。
話は何度かトーマから聞いているのでちょっとばかりの親しみがなくもないのだが、直接的な関わりはない。綾人はシャルルのことを『トーマの幼馴染み』と呼ぶ。
「トーマの幼馴染みはスネージナヤに向かったと聞いたけれど」
「はい。息災なようで、……あ、いや、子供を助けようとして重体に追い込まれていたのは、息災とは言えないかもしれませんが……」
「おや。それはまたトーマが険しい顔をするわけだね」
綾人の言葉を聞いてトーマがほんの少し瞳を揺らした。
「はは……。でも、彼の向こう見ずで利他的な部分は昔からなので、オレがいくら言っても直らないだろうし、命があればそれでいいかもしれない……と思うこともあります」
「……トーマは相変わらず幼馴染みの話となると嘘をつくのが下手ですね。それは、諦めた人間のする顔ではないよ」
つかの間の沈黙。
お互いに向き合った眼差しを先に外したのはトーマの方だった。「若には敵いませんね」と声音は降参を示して、すっかり項垂れた。
「本音は大方『旅も辞めさせてずっと自分の傍に置いておきたい』とでも思っているのでしょう」
「うっ……どうしてわかるんです?」
「付け加えておくのなら『幼馴染みが信頼しきっている優しい自分でいることもそろそろ限界かもしれない』と悩んでいることも察していますよ」
「えっ!! いやっ。……あー……」
「それと……」
まだあるのか、とトーマは仰天した。できればこれ以上は言わないで欲しい思いが強いが、綾人の口を塞ぐことは出来ない。
「トーマには幼馴染みに対して思う通りにできない負い目があり、その負い目を改めて認識して難しい顔をしていたのでしょう?」
――もし俺がトーマを一緒にスメールに連れていっていたら、トーマはずっと俺の横にいてくれたのかな。
手紙に綴られた文字は書き直した跡もなければ揺れもなく。ほんの世間話をするような調子で書かれた一文であったことは明白である。けれどそれはトーマの気を咎める現実であった。
「…………、はは、……ご明察……」
これにはもう引きつった笑いをすることしかできない。
「若の聡明さを忘れていたわけではありませんが、ここまでくると、ちょっと怖いですね。もしかして、手紙を読みましたか?」
「面白いことを言いますね、トーマ。私が読んでも構わないならぜひ読ませていただきましょうか」
トーマは大慌てで首を振る。ついでに胸の前では手を縦に振り、必死な拒否スタイルである。この手紙に読まれて困るようなことは――まあほんの少し読まれることに抵抗がある一文があることは事実だが――ほとんどない。けれどもはいどうぞと渡すこともできなかった。
そんなトーマを面白そうに眺め「そんなに慌てなくても見ませんよ」と綾人は柔らかく微笑んだ。
★
トーマへ
稲妻を出てから3ヶ月ほど経ちました。
俺はつい先週トーマに手紙を送った気分でいたので宿に戻って日付を聞いてから驚いたよ。というのも宿を借りっぱなしにしたまま辺境を散策していたんだけど、物陰にファデュイの仮面を見つけてさ。周りを見ても持ち主はそばにいないみたいだし、どんなものかなって気になってそれを付けてみたんだ。
ここからが本編。
俺がちょうど仮面をつけたところに、ファデュイの連中がゴロゴロやってきたんだ。それから彼らは言うんだよ。「お前は絶対に逃げ出すと思っていたが腹を括ったのか?」俺のことを嘲笑いながらさ。
全然話が読めなかったけど、向こうは俺のことをすっかりファデュイの誰かと勘違いしちゃってて。ここで「人違いです」って仮面を外すわけにもいかないだろう? それはそれで面倒なことになってしまう。
だから俺は『臆病者のファデュイ』になり切って、言うならば、ファデュイ体験なるものをしてきたわけだ。
俺がなりきったファデュイの男は、弱くて、周りから舐められてて、無口で、意気地無しだったらしい。喋ってしまうと絶対にヘマが出るから、喋らなくても怪しまれない存在であることは俺にとって救いだった。そんな『俺』は、ファデュイが調査を進めている秘境の探索チームになったんだ。
『ファデュイにならなかったら』、あの秘境を探索することは叶わなかっただろう。なんせ周りはファデュイだらけで一般人は足を踏み入れられない警戒態勢を敷かれていたから。
秘境はそこまで珍しい様子はなかった。でも、ファデュイという組織の体験はなかなか刺激的だったよ。
最終的にはそんな警戒網を掻い潜って俺は仮面を捨てたのだけれど、そこでの調査が長いのなんのって。その職場体験はまる二月ほどかかってたってわけだ。
一つだけやらかしたのは、秘境で遭遇した魔物を『俺』が倒してしまったことかなぁ。『俺』は弱虫の意気地無しだから、魔物を伸した俺を見て周りが目の色を変えて驚いちゃって。まあ、仮面をしていたし、俺の素顔はバレちゃいないから問題ないけどね。
さて。俺もそろそろ一度稲妻に戻るよ。スネージナヤはいいところだけど、少し穏やかな気候ってやつが恋しくなってきた。
もしかしたら手紙が届くより先に俺自身が稲妻に帰りつくかもしれない。その時は、トーマ。俺は別に何ヶ月も手紙を書くことを忘れてたんじゃあなくて、手紙を書ける状況にいなかったんだってことをどうか弁明させてください。
☆
長時間船に揺られていたシャルルは久しぶりに地に足をつけてグンと体を伸ばす。大きく手を振りかぶって、はあと脱力。肺に吸い込む空気は暖かく久しぶりの深呼吸が体を軽くした。
石畳の地面、赤橙色の落ち葉、着物を着た街の人。
年単位の旅をしてきたわけではないが数ヶ月ぶりにみる稲妻の風景はなんだか知らぬ土地のようにも思える。
まずは家に帰って荷物整理をしよう。それからトーマに声をかけに行って、その後はタルタリヤへ手紙を書くか。それと、麓の女性にも頼まれごとの報告をしなければ。
とはいえさすがに疲労がある。シャルルはここでは着る必要のないコートを腕に提げゆっくりと歩き出す。
通りかかった絵馬掛け所に、馴染みがあるわけではないが赤の他人とも言えない人影を見つけた。全体的に白っぽい印象。服もそうだし髪色も淡く肌の色だって日焼けを知らない。
そんな男、神里綾人を見かけたシャルルは特に声をかけるつもりもなかった。けれどどんな偶然なのか不意に振り返った綾人とばっちり視線が絡み合い、シャルルはそこで足を止めてしまったのである。
この状況で視線を逸らして歩き出すのは些か無礼というもの。
「……こんにちは。当主様」
「おや。トーマの」
「シャルルです」
「ふふ、そうでしたね。こんにちは、シャルルさん」
穏やかに目を細める綾人にシャルルは会釈した。
「トーマが寂しそうにしていましたよ」
「え。……あー。はは、なんか反応に困りますね」
「無事に帰還されたようでなにより。しっぽと耳を垂らす犬を見続けるのは心が痛むものです」
「……はは」
トーマを犬と比喩する綾人にシャルルは苦笑いしか返せない。シャルルもトーマが犬に見えることはあるが、トーマが忠義を誓った相手の口からでるそれはなんだかとても重々しい。
離島ではなく稲妻城で過ごしておきながらなんだがシャルルはあまり稲妻について詳しくない。それでも離島に綾人がいるのは珍しいのではないかと少し怪訝な顔をする。
「よければシャルルさんもこちらを試されませんか?」
「? なんでしょうか。これ」
「スミレウリ入りの牛乳です」
「……。生で入れてるんですか?」
「はい」
差し出された牛乳瓶と綾人とを交互に見て、シャルルはやや眉を寄せる。なぜ、牛乳にスミレウリを入れようと思ったのだろうか……。
スミレウリは味が渋いので牛乳と直で合わせるのは愚策なのでは。と思うが、親しい仲でもないのではっきりと物言いすることは憚られる。シャルルはひとまず礼を言って牛乳瓶を受け取った。
それにしてもなかなかこの場を後にするタイミングが掴めない。とりあえずもらったこのスミレウリ牛乳を飲むとする。
「いただきます」
ぐいと勢いよく飲んだのを見て綾人は思わず「おお」と感心した。
「ん……ぉぇ」
シャルルは小さく舌を出し「飲めなくはないけど、全然おいしくない」と素直に感想を述べる。
「豪胆な飲みっぷりでしたね。私は正直、貴方は口をつけるのも戸惑うかと思っていましたが」
「幼少期からいろんなものをとりあえず食べてみてたので、口に物を運ぶのが抵抗がないのかもしれません。人気のないところを冒険していると食材は現地調達になるから」
「トーマが聞くとひっくり返りそうな話ですね」
「ん? いや多分トーマはわかってると思いますよ。俺、小さい頃、彼の前でよくわからない木の実を食べたりスライムの分泌物を飲んだりしてるし」
「ほう。その時のトーマの顔をぜひ見てみたいものですね」
「はは。多分当主様の喜ぶ顔だと思います」
シャルルは瓶に残っていたスミレウリ入り牛乳を飲み干す。やはりおいしくはない。口の中に残る後味なんかも最悪である。
流れで物をもらってしまったがなにかお返しを考えておいた方がいいかもしれない。スネージナヤで買ったお土産の中に、めぼしいものはあっただろうか。
「私のことが憎いですか?」
「え?」
スミレウリ牛乳に対して険しい表情をしていたシャルルは、そのままの顔を綾人に向ける。
「急になんですか」
「トーマを稲妻に縛りつけている私にシャルルさんはいい思いは抱いてないでしょう?」
シャルルとは反対に綾人は涼しい顔をしている。
「……」
シャルルは沈黙した。
私のことが憎いですか? 簡潔な一言がぐるぐると胸の中で回る。
トーマからも以前、神里家を目の敵にしているなんて言われたことがある。そして今、そこの当主直々。
――憎いわけがあるものか。
渦巻いた感情の行く末はため息。シャルルはやれやれと言わんばかりに肩を落とす。
なんだか気を張っているのが馬鹿らしくなった。
「当主様は別にトーマのこと縛り付けてないよ。トーマは嫌々あんたたちのそばにいるわけじゃないんだから」
「……」
「俺があんたに向けてるのは憎しみじゃなくてガキみたいな嫉妬ですよ」
発せられた言葉の真意を探るかのような瞳が向いている。シャルルは呆れ笑いをこぼし、いくらか砕けた態度で続ける。
「俺、モンドにいるトーマにプロポーズしたんだよね」
「……おや。それは初耳です」
「そりゃトーマに直接言ったわけじゃないし。旅先から手紙を書いたんだ。『迎えに行くから俺と来てほしい』って」
「……」
「だから稲妻にきて、俺があんたに抱いたのはただの嫉妬だよ」
「過去形ということは、今は違う、と言いたいのでしょうか」
「うーん。……今は、可愛いヤキモチくらいかな?」
シャルルはやんわりと目を細めた。
昔は燃えるような嫉妬をしていた。自分の方が先に出会ったのに。自分の方が一緒にいたいのに。親の寵愛を下の子にとられた子供みたいな心情だった。といっても、シャルルに兄弟はいないが。
それがいつの間にか勢いを失ったのはいつだっただろうか。
嫌いになったわけではない。特別な気持ちはまだ持ったままだ。
けれど、自分が旅を続けることが自分の収まる場所であるように、トーマは神里家に仕えることが彼の形なのだろう。と。
それは諦めでもあったのかもしれないが、今更、なにか変わることはない。
「憎んでないよ。かといってあんたたちには特に関わる気もなかったから距離を置いてたし、そう思われるのもわかる。……あ。当主様をあんた呼ばわりしていたらやっぱりまずいな」
「おや……それこそ今更ですよ」
「はは。……まあ。そんな感じ。当主様を楽しませる話が俺にできたかな」
「……ええ。実に興味深いお話でした」
綾人の返答にシャルルは小さく笑い肩を竦めた。
今になって綾人が自分に関わってきた理由はわからない。ただこれは綾人の意図的なものであって偶然ではない気はしている。
話はここまでだろう。それじゃあ。と、会釈した。
「そうだ。よければ今度私と将棋をしませんか?」
「へ? 将棋?」
「ええ。ご存知ないですか?」
「あ。いや、……トーマとやったことが一応ある」
シャルルは稲妻にきてしばらくした頃に、トーマが将棋盤と駒を持ってきたときのことを思い出す。トーマはシャルルに丁寧にルールを説明してくれたし、将棋をさしながら指南してくれたが、いかんせんシャルルはそういう戦術とか数手先を考えるといったことは苦手な質だ。敵がいるなら力で始末すればいいじゃない。要は脳筋である。
そういうわけでルールぐらいは理解できたが、トーマの熱心な教えも虚しくシャルルは強くなれなかった。
閑話休題。
シャルルの返答を聞いた綾人は頷き「なら」と右手をシャルルに向けて差し出した。
「次はトーマの幼馴染みではなく私の友人として会いましょう」
そう提案する綾人の表情は柔らかい。
シャルルは数回瞬きすると、困ったように笑った。
「……俺はあんまり盤上遊戯が得意じゃないから退屈させると思う。それでもよければ、誘ってください」
差し出された右手を軽く握る。
喧嘩していたわけではないがまるで仲直りをする子供たちの握手であった。
☆
荷物を家に置いたシャルルは鳴神大社をめざして歩いていた。というのも綾人から別れ際に「トーマには鳴神大社へ言伝を頼んでいるのでそちらに行けば会えるでしょう」と親切に教えてもらえたのだ。
鳴神大社は影向山の頂にある。電極を利用してしまおうかとも思ったが駆け抜けている最中にトーマとすれ違いでもしたら元も子もない。シャルルは大人しく一歩一歩山を登っていた。
ここの神櫻はいつ見ても綺麗だ。幼馴染みからいつか時間がとれたら一緒にゆっくり眺めようと誘いを受けた気もするが未だその誘いは現実になっていない。言うまでもなく社奉行神里家家司は忙しいためだ。
あとどれぐらい登ればいいだろうか。シャルルは近くの神櫻の木に手をつき小さくなった家屋を見下ろす。ひらひらと薄桃色の花びらが落ちる。ここの風は心地よい。風の翼で滑空すればとても気持ちがいいだろう。
「シャルル?」
景色を眺めていると後ろから聞き馴染んだ声に呼ばれた。シャルルはゆっくりと声の方向を振り返り、そこにいたのが自分が今探していた人物であり、声から想像した通りの存在であることを確認すると、ゆらゆらと手を振って笑った。
「トーマ」
「いつ帰ってきたんだい? というかなんでここに?」
「さっき帰ってきたところだよ。ここに来たのは、当主様が鳴神大社に行けばトーマに会えるだろうって教えてくれたから」
「若が? じゃあシャルルは若と話したのか?」
「そんな怖い顔しなくても失礼なことはしてないよ。…………多分」
「そんな不安になるようなこと言わないでくれよ」
あんた呼ばわりしたことは失礼に当たるような気がして付け足したのだが、それを聞いたトーマは眉を下げ情けなく弱っている。
その様子がなんだかおかしくてシャルルは喉を鳴らした。
「トーマ」
「うん?」
「ただいま」
「……。うん。おかえり」
傍にきたトーマはシャルルを強く抱き締めた。柔らかな金髪がシャルルの頬を擽る。
いつもは頼りがいのあるお兄ちゃんのようなトーマだけれどこうやって抱きついてくる時は弱りきった子供のようだ。シャルルはトーマの背中をあやす様になでた。
「俺がいなくて寂しそうにしてたんだって?」
「え?」
「当主様がそう言ってた」
「若が? ……はぁ。若と一体どんな話をしたんだ……」
「どんな話、ていうと難しいな。まあ……蟠りがとけたみたいな感じ?」
「ふーん……」
体を離して並んで歩く。鳴神大社に続く階段は幅が狭いので人とすれ違う時は一列に並んだ。
「あ。そうだ、トーマ。絶対トーマが怒ると思うけど言いたいことがあって」
「なんだい? また怪我でもした?」
「えーと。……指輪」
「指輪?」
山の麓まで降りてきた。シャルルは一旦足を止め、同じように隣で止まったトーマを見る。
「……公子から指輪もらった」
「は?」
「公子の元素で扱わなきゃ外れないらしい……です」
シャルルはおずおずと左手をトーマに差し出した。黙っていたってすぐにバレることだ。こういうことは問われる前に宣言するに限る。
トーマの表情は険しい。薬指に重なった指輪を睨んでいる。
トーマとてシャルルから手紙をもらっていたのでスネージナヤではタルタリヤと行動している時間があることはわかっていた。けれどこれは少し想定外。
「……確認したいんだけど」
「うん」
「シャルルが強請ったのかい?」
「え。いや……起き抜けにつけられた的な……」
「いつの?」
「い、いつ? えっと……スネージナヤで一週間寝込んだあと」
正しくは一週間寝込んで目が覚めたあとしばらくして首を絞められた隙に、である。が、それは言い難い。
シャルルは明らかに機嫌の悪い若草色を見つめる。気を悪くさせたのは自分に非があるのだ。視線を泳がせることはせず来る言葉を待つ。
「はあ〜……。そういうとこ」
「え?」
「バカ」
「……」
シンプルな罵倒である。
もっと怒ると思っていた。だからシャルルは拍子抜けしていた。
「トーマ、わっ」
トーマに体を引き寄せられた。左手で腰を抱かれ、右手でタートルネックの首をぐいと引っ張られる。もう一度トーマ、と呼ぶのが早いか、首の付け根に走った痛みに呻くのが早いか。
「い゛っ、トーマ」
「……」
「トーマ、あ゛、痛いって」
シャルルは思わずトーマの頭を掴んだ。
噛まれている。戯れるような可愛らしい甘噛みなんかじゃない。思いっきり、肉を食いちぎるくらいの強さだ。
「う、う゛、あ」
痛みで呼吸が詰まる。ゴリと首の筋を動かされ肩が跳ねる。目には自然と涙が浮かんだ。
痛い。
トーマの背中にしがみついた手に力が入る。
「……は」
気が済んだようでトーマが顔を離した。
宥めるような口付けを肌に落とされた。それでも首の一箇所はジクジクと痛んで熱を持っている。絶対に歯型がついている。というか血は出ていないだろうか。
「う、ぅ……なんなんだよ、痛い……」
シャルルは眼前のトーマを睨んだ。
「……シャルルって痛いの好き?」
「はっ……? 好きなわけないじゃん」
シャルルは服の上から首を押さえ、まだすんすんと鼻を鳴らしている。
「そういうわりには一生懸命オレにしがみついて、可愛い声出してたけど」
あっけらかんと言ってみせたトーマにシャルルは唖然とした。一生懸命しがみついて、って。そりゃ痛いんだから力が入るだろう。しかも可愛い声って。痛みに喘ぐ濁った声のどこに愛嬌を感じるのか。
バカ。その一言で終わりなわけがなかった。トーマは怒っているのだ。これはある種の体罰である。と、シャルルは理解した。首を思い切り噛むやつがあるかと文句を言いたいけれど事の発端は自分なので精々不満げにトーマを睨むことしかできない。
「若と話したことがあるんだ。小鳥を飼う時羽は切るか、って」
「? 急に何……」
「羽を切ると、屋外に飛んでいく心配はなくなるし、思いがけない怪我も防ぎやすくなる。飛べない分飼い主と触れ合う時間も増えるだろう」
「……」
「でも、羽を切られたことに気づかず飛ぼうとして落下してしまったり、飛べないストレスで病気になったりすることも考えられるんだ。……それを踏まえてオレは羽は切らずに飼う方を選んでいたんだけど」
「……あのさ、……もしかしてなくても俺のことペットの小鳥に例えてる?」
シャルルの問いにトーマは「うん?」と柔らかく笑った。
「どうしてそう思うんだい?」
「……いや、話の流れ的に……?」
「ふうん? ……まあ、続きなんだけど、好きに飛ばしてあげてたら、やっぱり怪我も多いし余計な虫を連れてくるし、羽を切っちゃおうかと思ってね」
するするとトーマの手が優しくシャルルの頬を撫でた。
シャルルは小さく「トーマ」と彼の名前を呼び、弱ったように眉を下げる。なにを言えばいいのかがわからない。小鳥の話が自分の例えだったとして、表情には出ていないが明らかに怒っているトーマに「ごめんなさい」というのは簡単だ。けれどその謝罪は果たして何に対する謝罪なのか。意味を持たない謝罪など無意味である。
緩慢に瞬き。シャルルは自分の頬を撫でるトーマの手を掴み、指を絡めた。
「……トーマが切りたいなら、切ってもいいよ」
「……」
「でもその鳥は、飛べないことに気がつかないと思うから、朝から夜まで一日中、ずっと一緒にいてあげてよ」
今度はトーマの方が眉を下げた。「シャルル」と宥めるように幼馴染みの名前を呼んで、きゅっと唇を横にしめる。
例えば"小鳥"の羽を切って自由に飛べないようにしたとして。籠の中ので飼うのは簡単だ。けれど"彼"の言うように四六時中そばにいるというのは、神里家に仕える家司として、無理な話である。
「……できないってわかってて言ってるよね?」
「はは。でも、トーマが羽を切りたいなら切ればいいと思ってるのも本心だよ」
繋いでない反対の手でシャルルはトーマの頬を撫でる。困惑を示す若葉色の眼差しに胸の奥を擽られるような気分だ。
「参ったな……」
そんな扱いは受けたくないと怖がってくれたのなら歪んだ感情を正せるのに。
トーマは自身を真っ直ぐに見つめるシャルルに顔を寄せる。察したシャルルが少しだけ瞳を揺らして目を伏せた。
唇が触れ合う。啄むような優しいキスだ。少しだけくすぐったくてシャルルは思わず笑い声をこぼす。
「ん……甘い。チョコでも食べたのかい?」
離れる唇。ちろりと覗く赤い舌。
「あ。さっきちょっとね」
問われた通りチョコレートを一粒、スミレウリ入り牛乳の口直しに食べたことを思い出した。
「スネージナヤで買ったやつ。トーマにもあるよ」
「はは。君って本当に甘いものが好きだよね」
トーマにくしゃくしゃと頭を撫でられる。まるで子供扱いだなと思いつつも、大きな手で柔らかく触られるのは心地が良くて、シャルルは大人しくしていた。