子供の頃はフォンテーヌの湖を泳ぐのが好きだった。周りの子供が家族で出かけている頃、シャルルは一人でどこまでも深い内陸湖を潜水してそこにいる魚や沈んだ遺跡の中を見て回っていた。そんなシャルルを母親は酷く心配していたが、父親の方は進んで潜水服を買ってくれるくらい、シャルルの好奇心に協力的だった。
 いつだったかうっかり溺れかけた時に偶然付近にいた人に助けられたことがある。母親にはまたとないほど叱られた。もう一人で危険なことをするなと潜水服を取り上げられた。
 しょぼくれながら湖の前にしゃがむしかできなくなったシャルルに、取り上げられたはずの潜水服を持ってきてくれたのは父親だった。父の手は大きく、荒っぽくシャルルの頭を掻き撫でた。
 お父さんは自分を叱らないのかとその時に聞いた。
 父親はシャルルの問いに困ったように笑っていた。
「危険なことをするなとは言わない。でも、シャルルが死んでしまったら悲しむ人がいることは覚えていなさい」

 ふっと意識が浮上する。最初に聞こえたのはぱちぱちと火の粉が踊る音。すうと息を吸い込み静かに吐き出す。シャルルはゆっくりと体を起こした。
 なんだか懐かしい夢を見た。内容こそはっきりとは覚えていないけれど、胸がじんわりと温かい。いつも起き抜けは思考が冴えないが今日は調子がいいように感じた。
 体は重たいが動けないほどではない。確かめるように両手の指先を動かし「よし」と呟いて布団から出た。
「!」
「えっ」
 ドコドコと大きな音だった。一体何事かとそちらを見ると、足元に薪を散らかした少女が、信じられないものを見たかのようにシャルルを凝視し、暖炉の前に立ち尽くしている。
 少女の首に巻かれているのは見慣れたマフラーだ。
 あ。と思った。今日は何日だろうか。
「お、お兄さん、起きた……あっ!!」
「あ」
 話しかける隙もなく少女が部屋を飛び出して行った。シャルルは呆然とその場に立っていたが、徐に頭をかき、ふうと小さくため息をして、散らばった薪を拾い集め始めた。
 暖炉に薪を焼べて部屋を暖めてくれていたらしい。あの様子だと火の番もしていてくれたのだろう。甲斐甲斐しい献身に胸中で感謝する。
 ひとまず今日が何日なのかを聞きに行こう。すぐ戻るつもりなので暖炉はそのまま。シャルルは適当に衣服を着替えて部屋を出た。

 受付で日付を尋ねた結果、シャルルはまる一週間眠っていたことがわかった。新記録達成である。そう言われてみれば体を動かすこと自体に違和感があるように思えたが、以前3日気を失ったときには全身脱力していたのに今回は調子が良くて拍子抜けだ。
 一週間も気絶していたから却っていい休息にでもなったのだろうか。
 空腹であることは起きて早々自覚している。と言うよりそれ以前になにか飲みたい。
 買いに行くか。
 着てきた上着のポケットにしっかり財布が入っていることを確認して、今度は宿を後にした。

 まず水を買って一瞬で飲み干した。食欲はあるがガッツリ食べれるようなコンディションを感じないので、宿に持って帰って食べられるような軽食を見繕う。ちなみに寒すぎるのでホットカフェラテを買ってみた。それをちびちびと飲みながら気に入る食事を探しているところである。
 宿にいた頃は特に思っていなかったけれど外に出ると寒いので希望は温かいもの一択だ。串焼き屋の店主に手招きされてそちらへ寄る。
 何やら近づいてくる騒がしい足音。走っているのだろう。
 シャルルは店主のおすすめを尋ねつつ道をあけるように少し身を寄せた。
「――ってなんでここにいるの!? こんの……バカ!!」
「いっ! ……? ……!?」
 シャルルは理解が追いつかなかった。急に後頭部に激痛が走ったのだ。ぐわんぐわんと脳が揺れ、共鳴するように視界が回転し、思わずその場にしゃがみこんだ。
 えっ。なに? 痛い……。
 呆然としていると「お兄さん!」と心配そうな声のあと自分に影がさしたのがわかった。
「お兄さん、シャルルお兄さんは、怪我人だからっ」
「! ……はー……。……シャルル」
 シャルルは頭を抱えたまま視線を上げた。
「……あ」
 シャルルの前で両手を広げてシャルルを守るように立っている小さな女の子と、心底複雑そうな表情をして腕を組みシャルルを見下ろしているタルタリヤがいた。
 状況を理解した。シャルルの目が覚めたのを見た少女は慌ててタルタリヤを呼びに行き、今二人で、シャルルが泊まっている宿へと向かっていたのだ。
 ついでに、後頭部を殴ってきたのはタルタリヤだろう。
「戻るよ。シャルル」
「え? でも俺まだご飯買ってないんだけど」
「は?」
「……、はい」
 すごい威圧であった。トーマの説教は絶対に勝てないと思っているが、それと並ぶくらい逆らえない雰囲気を味わうことになろうとは。
 しゃがみこんでいたシャルルはタルタリヤに腕を引っ張られ立ち上がる。逃走防止なのか強めに引かれたので思わず顔が歪んだ。あの時の落下で全身打撲済みだ。乱暴に動くと鈍く痛む。
「あっ。わたし、1回おうちに帰るねっ。シャルルお兄さん、また後で行くからっ」
「え? ああ。うん、いろいろありがとう」
 きゅっと手を握ってきた女の子の頭を撫でてやると、彼女は柔らかく顔をほころばせ、忙しい様子で駆け出して行った。
 その背中を見送ってシャルルは前を向き直す。と、険しい表情でシャルルを見ているタルタリヤと視線がかち合った。
「……未成年は犯罪だって知ってる?」
「はぁ? いや、あんなのあんたとテウセルみたいなものだろ……」
「君のことが好きって言ってたよ」
「え。……そうなんだ。はは、あるよねそういうの、稲妻でも聞いたよ。一緒に遊んでくれた年上のお兄ちゃんお姉ちゃんのことが好きってなるやつ。子供らしくて可愛いじゃん」
「……」
「えっ?」
 なんだか凄まじく機嫌が悪い様子である。タルタリヤの目はもともとハイライトがないが、目が随分と据わっている。
 ……まさか、自分の妹と少女を重ねてブチギレている?! シャルルの脳裏にその考えがよぎった。タルタリヤには溺愛する弟妹がいる。そんな溺愛する弟妹――今回の場合は妹――が、ひょろっと出てきた素性の知れない男に弄ばれたら、彼はきっとおもしろくないどころか殺意を抱くだろう。というか、想像だけで既に殺意を抱いている。
「……いや、そんな怖い顔するなよ。俺だって倫理くらいあるから……」
「……」
「あ。公子もここまで寒かっただろ? カフェラテ飲む? はい」
 シャルルはタルタリヤの無言の威圧に耐えきれず、飲みかけのタンブラーをタルタリヤに握らせた。それがべこっと音を立てることも一応想定したのだが、タルタリヤは一頻り睨むようにシャルルを眺めたあと、大きなため息をして、カフェラテを飲んだ。
「飲むんだ……」
「は? シャルルが渡してきたんだろ。……あっま」
「そう? そんなに甘くないと思うんだけどな」
「相変わらず子供舌だね。ほら、帰ろう」
 呆れた様子のタルタリヤはもう怒っていないらしい。シャルルは大人しく手を引かれタルタリヤと宿に戻った。

 件の秘境の奥の部屋はシャルルが魔物と決着をつけるまで赤黒い結界が張って中に入れない状態だったらしい。タルタリヤが途中で加勢できなかった理由を聞いたシャルルは「秘境あるあるだな」とのんびり答える。
「ああいうのって大体どっちかが死ぬまで開かないよな〜」
「呑気すぎない?」
「まあいいじゃん。別に俺、公子が加勢して来なかったことになんか思ったりしてないよ」
「……そういう話じゃないんだけどさ」
 食事はタルタリヤが買ってきてくれていたピロシキを食べている。つい昨日食べたような感覚だが実は一週間ぶりである。
 ――戦闘狂だし魔物と戦ってみたかったのかな。
 シャルルはもぐもぐと咀嚼しながら複雑そうなタルタリヤの表情を眺めていたが、ふと思い出した。
「あ、背中ってどうなってんだろ」
 立ち上がり宿に備え付けられている鏡の方に歩いた。上着を脱いで巻かれていた包帯を外した。早速背中を見る。左肩から腰にかけて深く斜めに入った赤い傷はまだ生々しい。軽く背筋を伸ばしたり上体を曲げたりするとズキズキと痛む。「まあ首よりエグくないかも」と一人で納得した。
「こう、」
「ごめん」
 包帯を巻き直してもらおうと振り返ると、いつの間にか傍に来ていたタルタリヤに手を掴まれ、シャルルは中途半端に言葉を飲み込んだ。
「……公子?」
「俺のせいだよ。俺がシャルルを酷い目に遭わせた」
「えっ。いやいや、ちょっ、公子……頭上げなよ。怪我が増えたところで気にしないって。というかこっちは謝んないのに今更だろ」
 シャルルが腹部の傷二つを指して軽く笑うと、タルタリヤは小さく顔を歪ませる。
「死ぬところだったんだよ?」
「公子に腹ぶっ刺されたときもそうだったって。公子絡みで死にかけるのなんか今更なんだから責任感じなくていいよ」
「……、……」
「それに子供なんて危ないって知ってようが好奇心で動いちゃうんだから、守ってあげるのが大人の役割だろ。俺が怪我したのは公子が悪いわけでもテウセルが悪いわけでもないって」
 これはタルタリヤを気遣った言葉でなくシャルルの本心だ。シャルルだって子供の頃から好奇心の赴くままに大人が聞けば怒られるようなことをしてきたし、好奇心は猫を殺すと言ったもので、その好奇心で死にかけた回数は数え切れない。
 無知は危険だ。だからシャルルは危ないことは教えなければならないと思っている。けれど無知で身を守れない子供が悪いとも思わない。今回は自分が無垢な子供を救える距離にいた。それだけの話だ。
 シャルルは自分の腕を掴むタルタリヤの手を優しく解いた。
 タルタリヤの横を通り抜け、ベッドに腰かけくるくると自分で包帯を巻き直す。他人に巻いてもらった方が楽だけれど自分で巻けないこともない。
「ていうか公子がテウセルと遊んでやってたら、テウセルも友達と秘境にいかなかっただろうし。俺がテウセルから公子を取った結果だ。俺の方こそごめん。公子の大事な弟が無事でよかったよ」
 包帯の先端を折り込んで止めた。
 寝ている間の手当ては、多分、少女ではなくタルタリヤがやってくれていたのだろう。せっかく家族と過ごすために戻ってきたのに余計な手間をかけさせたな。ぼんやり思う。
 タルタリヤがシャルルの前に立った。
 シャルルは首を傾げながらタルタリヤを見る。
「公子? 〜〜っ! ……い゛、っ、……たぁ……」
 いきなり肩口を強く押されてそのままベッドに押し倒された。急な動きは傷に響く。脳天を突くような鋭い痛みに思わず声を漏らし、自分を組み敷いたタルタリヤをシャルルは不満げに見上げる。
「……なに?」
「……」
「公子? ……黙ってたらわからない。なんでそんなに怒ってんの?」
「シャルルがムカつくからだよ」
「は?」
 率直な暴言には顔を顰めざるをえない。
「何やってもテウセル、テウセルって。そんなに俺の弟だけが大事?」
「は……? 公子の大切な人だから無下にしないだけだよ。別に公子から弟をとろうと思ってないって」
「そうじゃない」
「?」
「俺の大切な人を無下にしないって言うなら、シャルルはシャルル自身のことも大事にしてよ」
「……。……?」
 シャルルは以前眉をひそめたままだ。けれど今そこにあるのは不快感ではなく疑問と困惑である。
「俺はシャルルに死んでほしくないんだ」
「……あ。公子との決闘以外で死ぬなって話?」
「違う。俺は君が大切だから死んでほしくない」
「え。……っと、はは、どうしたの。公子」
 シャルルは困惑のまま笑って、覆い被さるタルタリヤを退けようと彼の胸板を押す。
「、」
 ぐ、と首を掴まれシャルルは息を飲んだ。急にバクバクと心臓が騒ぎ出す。すっと細められた青の瞳はどこまでも深い海のようで見つめていると溺れそうだ。それなのに、目が逸らせない。
「……は、……公子……?」
「俺を置いて死ぬなよ」
「っ、……! ……、……」
 気道が絞まる。タルタリヤに首を絞められている。空気を求めた口が小さく開き、吸えない酸素に口端がピクリと痙攣する。
 シャルルは自分の首を絞めるタルタリヤの腕を掴んだ。掴んだつもりなのに思いの外力が入らず、まるで腕に手を添えたかのようになった。
 苦しい。ジーと変な耳鳴りがする。瞼が勝手に落ちてきて、眼球がぐるんと回りそうだ。
「……はは。可愛い顔してる。シャルルは首絞められるの好きだもんね? 放っておいて勝手に死なれるくらいなら、俺が今、本当に殺しちゃおうかな」
「……、ぃ……」
 公子と呼びかけたいのに声が出ない。
 あ。――落ちるかも。シャルルの頭のどこか隅っこにいる冷静な部分がそう思った。
 その瞬間に圧迫を解放されて思考とは関係なく身体が大きく息を吸う。はあ、と大袈裟な呼吸をして、いきなり得られた空気に驚くように咳をする。
「げほっ! はあっ、はー……」
「俺と結婚しよっか、シャルル」
「……? ……しない……」
 まだ大袈裟に体全身で息をしている。けれど霞みがかっていた思考は晴れてタルタリヤの言葉は理解できる。いきなり何を言っているんだと憤る気力はない。シャルルは必死に呼吸を整えながら、タルタリヤの軽口を否定した。
「強情だね」タルタリヤは優しく目を細め、シーツに落ちているシャルルの左手を掬う。
 何をするのだろうとぼんやりタルタリヤの仕草を眺めていたシャルルは驚きで目を見張った。
「え。ちょっ」
 するりと指に通ったのは青みがかった銀の指輪。それには見覚えがある。タルタリヤがシャルルの観光に付き添った時に、ジュエリーショップで買っていたものだ。
 左手の薬指。既に身につけていた細身の銀の上に青みがかった銀が重なっている。
 シャルルは焦った。慌てて上半身を起こしタルタリヤにつけられた指輪を外そうと試みる。が、サイズがきついわけでもないのにまるで錆び付いたネジのように動かない。つけるときはなめらかに滑ったというのに。
「無駄だよ。それは俺の元素で扱わないと取れない」
「はっ?」
「別に俺だけじゃないよ? そういう風にしてるの」
「? え。……え?」
「俺だって驚いたさ。君が幼馴染みからもらったっていう指輪が外れないんだから」
「え? え、いや、何勝手に外そうとしてんの」
「あはは。いいじゃないか、結果的には外してないんだし」
 シャルルは唖然と向かい合って座っているタルタリヤを見つめる。
「……、ていうか、俺がトーマからもらった指輪が外れなかったって言った? しかも、そういう風にしてるって、……これも"特定の人の元素"が作用しないと外れないってこと?」
「そうだよ? 相変わらず愛されてるね」
「……」
 絶句だ。
 タルタリヤがこういうことをするのは腑に落ちた。結婚しようと宣い指輪をはめてくる心情は理解できないが、人の許可なく錠をつけ、鍵は自分の懐にしまって決して出そうとしない――執念というか執着というか、これは今までの手合わせから感じ取ったものだが、"こういうこと"をやっても違和感がない印象だからだ。
 けれど幼馴染みについては、トーマについては全くそういうことをするように思えなかった。
「なんで、……」
「さあ? 君の幼馴染みの執着なんか俺は語れないけど、……そうだな。君が、擦り寄ってくるくせにすぐにそっぽ向いちゃう気まぐれな猫だからみんな強引に首輪をつけたがるのは確かだね」
「え。……俺はペットじゃないんだけど」
「比喩ってわかる?」
「は? ばかにしてんの?」
「してるよ? 実際バカだろ」
「表出ろよ。公子」
「いいねその殺気。一週間も寝込んで今も万全じゃない怪我人とは思えない。足も腕も折って抵抗できなくなった君を陵辱して泣かせてやりたくなる」
「…………発想がエグすぎてさすがに萎えるんだけど」
「好きだよシャルル。今夜はオーロラを見に行こうか」
「……は?」
 あからさまな狂気を孕んだ瞳から一点、曇りない眼差しでタルタリヤから穏やかに笑いかけられ、シャルルは素っ頓狂な声を出した。というかタルタリヤの表情以前に話題が一気に飛んだ。
 危険な目に合わせてごめんと謝ってきたかと思えば、大切な人だから死んでほしくないのだと急に怒り出す。死んで欲しくないと言ったわりには首を絞めて殺そうとしてきて。かと思えば結婚しようと宣い、酷く暴行した末に泣かせてやりたいと語り、次には笑顔で好きだよと。
 この男の情緒は一体どうなっているんだ。様々な瀕死を根性で乗り越えてきたシャルルでもこれには当惑するほかない。
「急になんなの?」
「オーロラが見たいって言ってただろ?」
「言ったけど……」
「それとも俺のプロポーズにいい返事をする気になったのかな」
「はあ? 断ったじゃん。ていうか何? え。本気なの?」
「俺が冗談でそんなこと言うようにみえる?」
「…………。まあ」
「ひっどいなぁ」
 言葉と裏腹落ち込んでいる様子はない。タルタリヤは目を細めて口角を上げている。
「冗談なんかじゃないよ。君のここを貫くのは俺の剣であってほしいな」
「……こっわ」
 トン、と人さし指で突かれたのは左胸。
 シャルルは隠すことなく顔を歪めてため息をついた。
 殺したいほど愛している。そんな言葉を旅の途中で聞いたことがある。もちろんそれはシャルルに向けられたものではなく、食事処で遭遇した男女の会話だが、自分に無関係だと思っていた所謂"重たい愛"というものを唐突に突きつけられては手に余る。
「公子って俺を殺したいの?」
「あはは。その質問なら答えは『イエス』だ。でも俺はシャルルに死んでほしいと思ってるわけじゃない」
「ちょっと受け止められないかな……」
「別に受け止めてくれなくていいよ? 君がなんて言おうと俺はシャルルを屈服させて征服するだけだから」
「はあ〜〜……あっ! 公子さあ! オーロラが綺麗に見える場所とかわかる!? せっかく見るんだからいいとこで見たいなあ〜〜!!」
 手に負えないとわかったシャルルはヤケクソである。わざとらしく声を張り、さほど重要ではないことを聞きながら、なにやら自分の首目掛けて伸ばされているタルタリヤの手を必死に押し返している。
 シャルル捨て身のヤケクソだが「おすすめの場所ならいくつかあるよ」と楽しそうに口元に弧を描いているタルタリヤの様子から全く効果がないことが分かる。
 このとち狂った相手をどういなすかと考えを巡らせるけれど思いつかない。シャルルはこうみえて怪我人だ。そろそろパワー負けしそうである。
「シャルルお兄さん!」
「! ――っ!?」
 突然聞こえた高い声に気を取られたのがダメだった。
 力が抜けた一瞬の隙を突かれた。甘い雰囲気なんか一切ないが絡めていた手は振り払われてタルタリヤに片手でまとめられ、そのままどさりと押し倒された。後ろは柔らかい寝具と言えど自重のままに背中をぶつけると痛みが走る。反射的に体が弓なりに跳ね、喉から捻り出したかのような悲鳴が飛び出た。
「いたぁっ……公子!」
「シー……」
「んっ!?」
 生暖かい舌に唇を舐められたかと思えば口を無遠慮に割って入られた。首を倒して逃げようとすれば片手で頬を鷲掴みにされ正面を向かされる。タルタリヤの目は捕食者のそれだ。
「ふ、うぅ、……」
 鼻から息が抜ける。引っ込めた舌を無理やり絡められ軽く噛まれた。
 苦しい。手に自由がないのでシャルルは足でタルタリヤの外腿を蹴る。なんだか目を瞑ったら負けな気がしているので、きゅうと眉を寄せたついでにタルタリヤを睨んだ。
 ふーん。聞こえたわけではないが、そういう顔だ。タルタリヤの深い青色が何か面白いものを見つけたかのように細まった。
 コンコンと控えめなノックの音。扉は鍵がかけてある。だから小さな来訪者が部屋に入ってきてしまうことはない。そのうちに出てこない部屋主に落胆したのか、ドアの前の気配がなくなってしまった。
「はあっ、……っ、公子、キスんときしつこいっ」
「はは。シャルルって俺からキスされるのを受け入れてるよね」
「? ……、……?!」
 確かに、である。自覚がなかった。自覚がなかっただけならまだしもそれをタルタリヤ本人から指摘されると大変動揺する。
「シャルルって俺のことなんだと思ってる?」
「…………友達……?」
「幼馴染みとはキスはしない。じゃあ友達とならなおさらだろ?」
「……」
「さて俺と君はどんな関係なんだろうね?」
 機嫌よく口角を上げているタルタリヤは既に答えを知っているようだ。
 ひく、と頬の筋肉が引き攣ったのがわかった。絶対的な厄介事に足を突っ込んでしまったとシャルルは確信したのであった。

 ★

 トーマへ
 スネージナヤに到着して1週間と3日が経ちました。俺はこの手紙を前述の通りスネージナヤについてから大体1週間後に書いているけれど、稲妻にいるトーマに届くのはそれから何日後なんだろう。
 スネージナヤは俺の知る限りでは毎日雪が降っています。俺はあまり厚着が好きじゃないので、もこもこと着込むのは少し苦痛なところだけれど、ここの雪景色はすごく綺麗だ。
 写真を何枚かとったので添えておきます。
 モンドにあるドラゴンスパインも寒かったけれど、スネージナヤはまた違った寒さを感じるよ。それがどんな違いなのかはうまく説明できないけれど。
 さて、本当は俺もスネージナヤについてすぐ手紙を書こうと思っていたのだけれど、諸事情あって、少し遅くなりました。その諸事情ってやつを隠したって稲妻に帰ったらどうせトーマにはすぐバレるから、俺の生存確認のついでに書き添えておきます。
 スネージナヤには、帰郷していた公子がいました。手紙に書くと長くなりそうだからいろいろ端折るけど(また稲妻で話すよ)、公子の弟が友達を連れて子供たちだけで秘境に入ってしまったのを連れ戻しに行ったのだけれど、そこにいた魔物との戦いで俺はうっかり瀕死になっちゃって、そこから1週間昏睡してたみたいです。
 多分トーマはこれを読んだ瞬間便箋を曲げちゃうだろう。稲妻に帰ってからの説教はどうかお手柔らかにしてもらえると嬉しいな。
 トーマはよく俺の傷痕を見て悲しそうにするから本当は黙っておきたいけど、背中にだいぶ大きく爪痕が残っちゃった。痛みはだいぶ引いてるから心配はいりません。でも結構グロかったからトーマ怒るかも。

 スネージナヤでは小さなガイドさんにお世話になっています。子供たちの雪合戦に参加したとき懐かれたみたいなんだ。なんで雪合戦に誘われたのかは俺もずっと疑問だから、説明はできないや。
 その子は8歳の女の子なのだけれど、将来はいろんなところを旅してみたいんだって。雪山の奥深くとか、まだ入ったことのない秘境とかには連れて行けないけれど、その子を連れて軽く散策するのは、昔トーマとモンドを冒険していたころに戻ったようでなんだか懐かしくなる。
 その子の将来の夢はもうひとつあって、なんとそれは俺のお嫁さんになることなんだって。横で聞いてた公子が「彼、自己中心的だし勝手に死ぬから絶対やめた方がいいよ」って茶々をいれてきたのがムカついたけれど、まあなんかその通りだなって思ったよね。
 この子はこれからたくさんのことを経験して彼女なりの価値観を持つんだろう。もし君が大人になっても俺が好きだったら考えようって在り来りな言葉を送ったのだけれど、俺自身はこの先の数年後どうなってるんだろうな。
 あの年頃の女の子って年上の男の人に憧れるのかな。稲妻でも似たような経験があるんだよ。まあ、どこまで本気なのかわからないけどね。

 俺は旅が好きだから、一人旅でもいいと思ってるのだけれど、スネージナヤを巡っていたら、横にトーマがいたらきっと大きな声で驚くんだろうなとか俺の大雑把な探索の仕方を危ないと注意するんだろうなとか、何度か横にトーマがいることを考えていたよ。
 トーマの忠義を理解した上で書くけれど、俺は神里の当主たちが羨ましいです。もし俺がトーマを一緒にスメールに連れていっていたら、トーマはずっと俺の横にいてくれたのかな。
 そういえば俺はスメールに行ってからもトーマに手紙を送っていたのだけれど、そのうち何通かはトーマが稲妻に行ってしまった後に届いたみたいで、モンドを訪ねた時におばさんからトーマに渡してあげてと言われました。もちろん俺は断ったよ。モンドのトーマに送った手紙はなんて書いたか忘れちゃったけれど、いつかあんたが、モンドへ行った時に読むのが一番だから。
 旅ってそういう楽しみが必要だろ? トーマが旅をするなんて、いつになるかわからないけどね。

 そのうち稲妻に戻るよ。長くなりそうだからまた手紙を送ると思う。
 それじゃあまた。

 ☆

 スネージナヤにきておよそ3週間。タルタリヤの休暇が終わり、璃月に戻るとかで、家族総出のお見送りになぜかシャルルも参加していた。スネージナヤの中心部から離れた港で船が来るのを待ちながら、タルタリヤとその弟達が話をしているのを何となく見守っている。
 今タルタリヤと話しているのはテウセルとアントンだ。シャルルは自分の横で鼻を赤くしている女の子を見下ろし小さく息を吐く。
「トーニャ。お兄ちゃんに渡すんだろ?」
「! う、うんっ」
 緊張した面持ちのトーニャは、お腹に回した肩掛けカバンの中に、大事なプレゼントを持っている。それは昨日、シャルルと一緒に雪山で綺麗な青色の鉱石を探し、手作りしたものだ。
 ――その日、いつも通り散策をしようと宿から出たとき、扉の目の前にいたトーニャの姿にシャルルは思わずビクリと肩を揺らしてしまった。そこからさらに、お兄ちゃんにプレゼントを作りたいから手伝って欲しい、と言われシャルルは動揺した。
「なんで俺に?」と率直に尋ねるとトーニャは「お兄ちゃんの次に頼りになるから」とほんのり頬を赤らめながら答えた。お兄ちゃんにお守りを作ってあげたい。その頼みにシャルルはしばらく考えた。
 頼まれた内容自体は問題ないが、トーニャと二人で行動したらさすがに殺されるんじゃなかろうか。
 ちなみにシャルルが借りている宿はタルタリヤの後をつけて特定したらしい。テウセルはタルタリヤに会うために密航していたが、妹のトーニャは尾行ときた。あの兄あってこの弟妹たちありか……。
「えーっと……、アヤックスは?」
「お兄ちゃんは今日はテウセルとおもちゃ工場に行くって言ってた」
 おもちゃ工場の見学は丸一日くらいかかるだろう。タルタリヤにバレないうちに終わらせてしまおう。シャルルはトーニャの頼みを受け入れた。
 ちなみにタルタリヤにはチャームを紙箱に入れている時にトーニャと向かい合って座っていたのを目撃され、のちにシャルルはそこはかとない嫉妬とともに幼女キラーという不名誉なあだ名をつけられることとなる。
 ――閑話休題。
 シャルルに軽く肩を叩かれたトーニャは戸惑いがちにシャルルを見上げ「ついてきてほしい」と懇願した。
 別に逃げる気はないが後ろから見守っているつもりだった。まあ仕方ないかとシャルルはトーニャに袖を掴まれながら歩く。
「お兄ちゃん」
「ん? トーニャ。シャルルはやめておきなよ?」
 シャルルの横でモジモジとする最愛の妹を見たタルタリヤの開口一番はこれである。その声音こそ優しいけれど「ねえ?」とシャルルを向いた目は全然笑っていない。
「はぁ。そういうのじゃないから。あんたに渡したいものがあるんだって」
「へ? 俺に渡したいもの?」
「うんっ! ……これ、お守り!」
 カバンから小さな箱を取り出してトーニャはタルタリヤにそれを手渡す。「開けてみて!」と妹に促されたタルタリヤは言われるがまま箱を開けた。
「これ……」
 入っていたのは、瑠璃色の石が嵌った小さな鯨のチャームだ。
「どこで買ったの?」とタルタリヤが思わず聞くとトーニャはちらりとシャルルを見て「自分で作ったの」と少し後ろめたそうに言う。驚いた様子のタルタリヤから、またもう一度シャルルに視線を向け「……シャルルお兄さんに、手伝ってもらったんだ」と付け加えてタルタリヤに向かってはにかんだ。
「お兄ちゃんが怪我しませんようにって、お守り」
「……」
 タルタリヤは妹からの愛情に声が出ないくらい感動しているらしかった。
 ちらりと向いた3回目の視線にシャルルは静かに首を振る。きゅ、と袖口を強く掴まれたが同じように首を横に振る。いくらちいさな女の子から弱ったように眉を下げられても絶対に首を縦に振るつもりはない。
 あれは『シャルルの手を少しだけ借りて』、『トーニャが手作りしたもの』だ。
「ありがとう、トーニャ。大事にするよ」
「! うんっ」
 柔らかく頭を撫でられ彼女はとても嬉しそうだ。
 タルタリヤはトーニャに合わせて屈めていた腰を戻しシャルルを向く。
「君はまだしばらくスネージナヤにいるのかい?」
「ん? うん。まだ辺境の方まで行けてないから」
 シャルルの返事を聞いてタルタリヤは渋い顔をした。
「勝手に死ぬなよ」
「あ。そっち。……はいはい」
 俺の可愛い妹や弟を誑かすなよと釘を刺されるのだろうと思っていたのでわりと拍子抜けである。そんな険しい顔をしなくても、シャルル自身は死のうとは思っていない。たまにヘマして死にかけてしまうけれども。
「あとさ、俺にも手紙を書いてよ。幼馴染みには書いてるだろ? スネージナヤでのことも書いて欲しいけど、これからのことも。俺も君の旅の先々には興味がある」
「? ああ、強い戦士とか強い魔物報告とかかな。別にいいけど。……」
 璃月港にある北国銀行を宛先にすればよいかと思ったがタルタリヤは各国を転々としていることも多いとみた。璃月に送った手紙はタイミングによっては埋もれてしまいそうだ。
 シャルルは徐に自分のピアスをひとつ外す。
「これ。あげるよ」
「え?」
 シャルルが差し出したピアスをタルタリヤは不思議そうに見つめる。
「俺の元素を辿れる子がいるんだ。俺が旅に出てるとき、俺宛で届いた手紙はその子が俺のところに持ってきてくれてる。どこで俺のことを見てるのかまでは知らないけど、呼んだら来てくれるし、賢い子だから、確実に届けられると思う」
「……なにそれ。どんな人?」
「人じゃなくて、鷹だよ。鳥の」
「ふーん……どうやってそんな鷹を手に入れたのか興味深いね」
「ん。また今度話すよ」
 また今度。シャルルから何気なく口にされた言葉を少しくすぐったく感じる。
 タルタリヤはピアスを受け取った。何の変哲もないシンプルなフープピアスだ。
「君の元素がついたピアス、ね。指輪のお返しかな」
「は? ……あー。そういうのじゃないよ。今、手持ちにあってあんたに渡せるのはピアスぐらいだし。つけなくていいよ。持ってて。手紙、送るから」
「フープピアスなら合わせやすい。せっかくだからつけておこうか」
「あーもう。やめろよ。つけてもらうなら俺のおさがりなんかじゃなくて、もっとちゃんとしたのを選びたい」
 シャルルは眉をひそめている。真剣に言っているらしかった。
「……。はあ」
 そういうところだよ。と指摘したかったけれど弟妹たちの手前、口を尖らすのは情けなくて、タルタリヤはため息するに留めた。
 港に船が入った。タルタリヤが乗る便だ。
「それじゃあ。また会おう」
「ん」
 ひらひら。シャルルは小さく手を振る。
「トーニャ、アントン、テウセル。兄ちゃんはまた帰ってくるから、いい子にしてるんだぞ?」
「うん!」
 幼い返事は3つ揃った。
 人の流れに乗ってタルタリヤは船に乗り込む。と、寸前でくいと後ろに引っ張られた。
「お兄ちゃんっ」
「わ。……トーニャ?」
「あのね。お兄ちゃん、さっきの鯨、本当はシャルルお兄さんが作ったの」
 タルタリヤはその言葉を聞いてきょとんとした。
 トーニャが言うには、トーニャはタルタリヤにお守りを作りたいとシャルルに頼んだが、その漠然とした願いを鯨のチャームという形にしたのはシャルルだったらしい。本当に1から10まで彼が仕上げたのだとか。彫金が得意だったとは意外だ。彼のアクセサリー好きは、もしかするとそれも関係しているのか。
 それよりもタルタリヤが困惑したのは、トーニャがシャルルにお守りを作らせたことだ。どんな物がいいのかシャルルに尋ねるのはわかるし、その結果がチャームだったとして、材料集めを手伝ってもらうのもわかる。しかし加工は、職人に頼もうと思うのが普通ではないだろうか。
「どうしてシャルルに? トーニャはシャルルの手先が器用だって話でも聞いたのかい?」
「ううん。お兄ちゃん、シャルルお兄さんのこと好きでしょ?」
「え」
「お兄ちゃん、シャルルお兄さんのこと、テウセルに取られて拗ねてたもん」
「え! えーっと……はは、参ったな。トーニャ」
「好きな人から手作りのものがもらえたら嬉しいでしょ?」
 最愛の妹はどことなくいたずらっ子な笑みだった。
 タルタリヤは、あのくらいの歳の女の子って結構ませてるよなぁとシャルルが呟いていたのを思い出した。シャルルから譲り受けたマフラーを大事そうに身につけている少女を見ながらこぼした彼に、だから未成年は犯罪だよと適当に返事をしたのだけれど、今ならあのつぶやきに頷ける。
 このくらいの年頃の女の子とは、実に鋭く、実におませなものである。