夢の中の自分はいつも自由な冒険者だ。心地よい風に吹かれながら大陸を見渡し、大きな翼で鳥のように空を飛んで、深い深い海を魚のように自在に泳ぐ。世界には集めきれないくらいの物語が散らばっているから、きっと自分は一生をかけたってそれの三分の一すら知ることができないのだろう。壮大な冒険には魔物や魔法は当たり前。自分の背丈と変わらない大きさの剣を振り回し、何もない空間から変幻自在の氷を生み出し、強靭な魔物を次々と屠る。その先でついに手に入る宝箱を、興奮の溜息を零しながら開くのだ。
そして、目が覚める――。
爆音のリズミカルな音楽に、体がビクリと揺れて目が覚めた。手繰り寄せたスマートフォンが示す時刻は昼の二時。画面に表示されるメッセージの履歴を寝ぼけ眼で追いかけてスマホを布団に寝かせた。数秒の間。体を起こす。
「……うー……」
一人うなりながら布団を出た。
このアラームは出勤4時間前の設定だ。食事をとり、家事をし、身支度をしなければならない。
俺はとあるガールズバーの黒服として働いている。午後6時には職場に向かい、店内の清掃、食材や飲料の確認、開店の準備を始め、翌2時で終業。その後にキャストの送迎なんかもするので家に帰る頃には朝の4時になっていることが多い。それから風呂に入り睡眠。そして昼の2時に起床。世間一般的にこのような生活を昼夜逆転という。
スマホには来る時にキャベツを二玉買ってくるようにと連絡が入っていた。こういう雑用は給与につけて貰えない。
歯を磨きながらなんとなしにSNSを眺める。ぼんやりしていれば午後の6時なんかすぐだ。そんな繰り返しの毎日を過ごしている。
出勤中にたまに学生とすれ違う。お揃いの制服を着て笑い合う彼らを見ると、少しだけ胸が寒くなるのはいつものことだった。
両親とは十歳のときに死別した。俺は遠い親戚の女性のところに引き取られた。中学までは通ったけれどそれ以降の学歴はない。日常生活にふしだらな女の代わりに家事をして、たまに家にいるかと思えば酒を煽ってタバコをふかす彼女の話し相手をする。そんな生活を続けて十八になった。
少しだけ、同じ制服を着て学校で過ごすような普通の子供に憧れることはあっても、今の生活に不満はない。暖かい家と腹を満たす食糧があるだけで恵まれている。
その他に夢を持っていたってそれを叶えるには金がいる。そして自立しなければならない。
現実は夜に見る夢のようにはいかないのだ。
スーパーに買い物に来た。冷蔵庫の中身が空になったからだ。卵は必須。それからハムと、牛乳と……。必要な品物を選んでカゴに入れる。
「……、シャルル?」
「?」
不意に呼ばれて冷蔵棚から視線を動かした。一人の男が呆然と自分を見つめていた。
「……えっと。俺、ですか?」
その男性は俺の知った人間ではない。とはいっても目が合ってしまった手前不自然に視線を逸らすわけにもいかず、不思議に思いながら問いかけた。
男が口を動かす。けれどもそこから紡がれる音はなく、なにか信じられないものを見たかのような態度で、ぱく、ぱく、と二、三度開閉を繰り返し、きゅっと真一文字に唇を噛んだ。
スーツほどかっちりはしていない彼の服装はスマートカジュアルというものだ。柔らかい金髪の、若草色の目をした、背の高い男性。思考をめぐらせるがやはり俺はその男に覚えがなかった。
店に来たことのある客だろうかとも一瞬思ったが、こんな印象的な好青年、絡みがあれば忘れないだろう。
「あの、……失礼ですが、どこかでお会いしました?」
「…………オレのこと、分からない?」
「え? ……えっと」
確かに初対面のはずだけれど、イタズラや勘違いにしては目の前の男がやけに真剣だ。
変な汗が浮き出てくる。必死に記憶を探るけれど全然わからない。もしや、俺の一応の保護者である女絡みか? あの人は、俺の知る限り男を取っかえ引っ変えしている。
「……。そっか」
時間切れのようだ。俺が黙り込んで視線を右往左往させるのを眺めて、男は悟ったらしい。
随分と悲しそうな顔だった。男のそんな顔を見ると、なぜか、心臓を鋭利な刃物で一突きされたみたいな、痛い気持ちになる。焦りが喉を乾かせる。「名前、」咄嗟に口にする。
「あんたの名前、教えてください」
「、」
なぜそうしてしまったのかは自分自身が一番困惑したけれど、気がついたら男の手を取り、強く握っていた。こうしないと、目の前で悲しげな目をする男が消えてしまいそうな気がしたのだ。
「……オレの名前?」
「うん」
男は躊躇しているようだ。
「……。トーマ」
しばし思考を巡らせた後、そう名乗った彼は、期待する反面どこか泣きそうな、複雑な表情だった。
「トーマ…………?」
教えられた名前を復唱する。「トーマ……」もう一度確かめるように呟くと、ぎゅうと心臓を鷲掴みにされているみたいな窮屈さを感じた。
トーマなんて男は知らない。知らないはずなのに、その名前を呼ぶと無性に胸が苦しくなる。どこかで会ったことがある気がする。でも、全く覚えがない。
「……、トーマ、さん。のこと、多分、俺は知らない。でも……、……」
「……」
「……すみません、俺、十歳あたりとそれより前の記憶が曖昧で、もしかしたら、その時に、……」
「……。ううん。それよりも、ずっと前だよ」
「へ……?」
ぽかんとトーマと名乗った男を見つめる。俺が強く握っていた手は、優しく解かれ、指と指を絡めて繋ぎ直された。
「シャルルは前世って信じるかい?」
「え。……あの、それって新手の勧誘? 俺、そういう宗教チックな話はちょっと……」
「はは……。そういうとこ、変わらないね」
トーマさんは少し呆れたように笑った。その口ぶりは、まるで本当に俺の昔馴染みであるかのような、自然な語り方だ。
トーマさんの指先に力が入り、俺の手の甲を軽く押す。絡んだ指を立てたままであった俺は、どうしてそうしようと思ったのかはわからなかったけれど、おずおずと、指を折り、恋人繋ぎを完成させた。
と、軽やかな電子音が響いた。
それはトーマさんのポケットからだ。繋いでない方の手でスマートフォンを取りだした彼は画面を見て「ごめん。仕事だ」と言う。
ごめん、と謝られる意味は謎だが。「そうなんだ」と返事をし、指先から力を抜いた。
「また、オレと会ってくれないか?」
「え? あ、……え?」
「スマホはある? 連絡先を交換しよう」
問われてぽん、ぽんと上着の左右のポケットとズボンのポケットを叩くが財布はあってもスマホはなかった。ここは家からすぐのスーパーだ。適当な準備でやって来たのできっと机の上にでも置いてきたのだろう。
「えっ。……と、あれ。あ、……すみません、家に置いてきたっぽい」
トーマさんが眉を下げた。しゅん、という効果音が良く似合う表情だ。その顔をされると焦る。なんだかとても酷いことを彼にしている気持ちになる。
「あの、俺の仕事場に来てもらえたら、多分いつでも会えますから」
「仕事場? 見た感じその年なら……。ううん、どこで働いてるんだい?」
「ここから近い歓楽街のガールズバー。店名は――」
「……」
「え。な、なにその怖い顔……」
「……いや。ごめん。わかった、会いに行くよ」
眉間に皺を寄せたままフルフルとトーマさんは首を振り、それから随分と名残惜しそうに、繋いでいた手を離した。
「シャルル」
「? はい」
「また会えて、本当に良かった」
震える声でそう言った彼は嬉しそうでいて苦しそうだった。
去っていく背中を呆然と眺める。また会えてよかった? 何を言ってるんだ。だから、俺とあんたは初対面だろう。
――初対面なのに。
教えていないのに呼ばれた名前なのに、怖いとは思わなかった。「また」があることを、嫌だとも。
わりと自分は距離感の緩い方だと思っているがそれにしたって多少の嫌悪はわくのが普通な気がする。でもそんな普通は機能せず、「トーマ」とこっそり呟くと、胸がきゅうと苦しくなった。
……あれ。これって世間一般的に言う一目惚れなのだろうか。
◆
二度目の生を受けたのだと気がついたのは十七歳の頃だった。ここはテイワットではなく、元素も七神もいない、全く別の世界。技術は以前の記憶のものよりかなり発展していて、簡単に他国に赴くことも、遠く離れた人間と瞬時に連絡を取ることも出来る、便利な世界だ。
自分に前世の記憶と言えるものが蘇った時相当混乱したけれどそれに関しては今は置いておく。
前世を知ったオレは幼馴染みを探した。この世界にシャルルがいるなんて確信はないけれど、どうしても会いたかった。
とはいっても世界は広い。オレは精々通う学校の生徒に、先生に、あの奔放な幼馴染みがいないかを、すれ違う人の中に、同じ電車に乗った人の中に、彼がいないかを、探してみることしかできない。彼に関する手がかりなんてなければ、そもそも彼がこの世にいる確証もないのだから、彼を探すための切り口なんかないし、いつか奇跡的に会えるのを、会えるかも分からないものを、延々、追い求めた。
前世を自覚してから八年だった。オレはこの世界の流れに沿って、会社で働く一人の社会人になっていた。入社してすぐに幼馴染みのことを探したし、新入社員が入ってくる時期はいつも、あのターコイズブルーがないかを探した。
この世界で、前の世界の友人に会ったことはまだない。やはり自分だけがあの時と同じ見た目で、同じ名前で、二度目の人生を始めているのか。外では雨が降っていて、気持ちは少し弱気だった。
弁当を家に忘れた、と気がついたのは昼休憩に入る少し前だ。会社の近くにコンビニがあるけれど、何となく、何駅が離れたところにあるスーパーで弁当を買うことにした。多分、遠くに行きたい気分だったのだ。
軽快なBGMを聞きながら弁当の他に調味料を買っておこうかななんて店内を回る。そしてそれは、何となく足を運んだこの場所で思いがけず見つけたそれは、八年間ずっと探し続けた存在だった。
シャルルは変わらなかった。昔と同じ見た目で、いや、少しだけ不健康で、ちゃんと食べてるのかと聞きたくなるような顔色で、オレより背が低くなっていた。
シャルルはオレを知らなかった。オレが前世を覚えているからシャルルもきっと前世を覚えている、なんて思っていたつもりはないけれど、また会えただけでも喜ばしいことだけれど、「トーマ」と、あの頃のようにオレの名前を呼んで顔を綻ばせてくれないのは、ひどく落胆する。
加えて、目の前で困惑するシャルルを見ていると、だんだん胸が冷えていった。そっか、そうだよな。今世の彼の中だとオレは全くの赤の他人。急に名前を呼ばれて当惑するのも、この状況に恐怖するのも、彼にとっては当たり前の反応だ。
「あんたの名前、教えてください」
引き止めるみたいにオレの手を強引に取ったシャルルは、必死で、焦って、瞳の奥に熱を揺らがせながらオレを見据えた。その目をオレは知っていた。
――「トーマは神里家と離れて、俺とずっと旅をしてくれる?」前世でオレにそう問いかけたときも、シャルルはその目をしていた。
名前を教えてみると、シャルルは何度かそれを口にして、本人は自覚があるのか知らないけれど、泣きそうな顔をした。シャルルはオレを知らないという。知らないと言ったが、本当に知らないのだろうか、と考えを巡らせているのは、彼を見ればわかった。
オレは別に、この世界で神様だとか哲学的なことだとかを盲信しているわけではないけれど、魂は覚えているんだ、と確信した。今世のシャルルは前世の記憶はない。けれど彼の魂は、オレを覚えているんだ。
思い出してくれなくたって構わない。そこは、重要じゃない。
オレはそばに居たかった。もう二度と彼を手放したくなかった。「ずっと一緒に旅をしてくれるか」その願いに、別に今世のシャルルからは頼まれていないとしても、頷きたかった。
二度目の人生で奇跡が起きるのを何年も待った。前世の彼が愛してやまない、世界にシャルルしかいないオレとして、彼の全てを喰らいたかった。
◇
俺は大抵カウンターで酒を作っている。料理もまあ作るけど、ほとんど酒の当番だ。キャストの女の子たちが客の横に座って談笑するのをたまに見ながら、パチリとウインクされたら水を持っていくとか、されなくても飲みすぎてるなと思ったら一旦キャストを離れさせるとか、そういう管理もしながら、マドラーを回したり、シェイカーを振ったりしている。
たまに、俺が客につくことがある。女の子と会話しに来ているんじゃないかこの人はと思うことはあるけれど、ベロベロに酔っ払った男の相手をすること自体は、タバコをふかして缶ビールを飲む家主の相手と大して変わらないから、別に、嫌ではない。
そして今日は、その日だった。
夜の10時になるくらいの時間に彼は二人で来店した。昼間に見たその金髪に、ほんとに来た、と内心で思う。彼と並ぶ横の男は、彼の同僚なのか上司なのか分からないけれど、彼はどことなく、気まずそうな感じだ。……というか、面倒くさそう?
二人のうち、トーマさんじゃない方は、案内された席にすぐに座り、早速キャストに酒の注文をしている。彼の方も俺は知っている。たまに来る客だ。
トーマさんは席に座らず、探るような様子でキョロキョロしている。「そんなに緊張するなって!」と隣の男に袖を引かれる彼と、不意に目が合った。
「シャルル」
「う。……うん、いらっしゃいませ……」
カウンターにいる俺の前の席に駆け寄ってきたので、トーマさんと一緒に来た男が不思議そうにしているし、手隙のキャストも怪訝な様子でこちらを見ている。
なんかトーマさんって犬みたいだな、なんて思いつつ「座っていいですよ」と俺の前の席を手のひらで指す。トーマさんは嬉しげに目を細め、ちょこん……なんて成人男性に使う効果音ではないけれど、本当にそんな調子で席についた。
トーマさんが一目散に俺のところに走ってきてしまったから少し変な空気になったけれど、前述の通り俺が客につくこと自体は珍しいことではない。俺と同じ黒服も、キャストの女の子も、意識はすぐに自分の業務に戻った。
「連れの人はいいんですか?」
「ああ。彼は気にしなくていいよ。いろいろあって一緒に来てしまったけど、店内では別々って話してるからね」
「そうなんだ」
「シャルル。ジントニックお願い」
「ん」
トーマさんの横からずいっと身を乗り出したのはキャストの子だ。この子は、よくトーマさんの連れの相手をしている。注文も、いつもと変わらないもの。
トーマさんには悪いがキャストについている客の世話を優先しなければならない。じ、とこちらを見ている彼にちょっと待ってね、と伝わるかはともかくジェスチャーして、冷蔵庫で冷やしているグラスをひとつ取り出した。
彼女は、ちら、とトーマさんを見て、俺に目配せする。
「どういう関係?」
「え。……あー、幼馴染み」
咄嗟についた嘘だった。つい数時間前に会った人です、と正直に言ったら悲鳴をあげられるのがわかっているからだ。「つい数時間前に会ったのにこの店にシャルル目的で来たの!?」なんて言われた暁には絶対に収拾がつかない。
「え。シャルル、幼馴染みいたんだ」
いません。胸の中でそう返す。キャストの隣のトーマさんの方がもっと驚いているけれど、嘘を訂正する様子はなさそうだ。女の子もこのことをトーマさんに確認する気はなさそうだし、とりあえず大丈夫だろう。
「シャルルって14からここにいるよね? 今年18になったでしょ? ……長いこと会ってなかったってこと?」
「……あのさ。お客さんの前で俺の実年齢の話はやばいからやめよう……」
「あっ。……でも幼馴染みでしょ?」
「…………」
無言に限る。ジンと氷を入れたグラスにトニックウォーターを注ぎ、軽く攪拌。ライムを刺して完成だ。
配膳は俺でもいいけどあの人はこの子に酒を持ってきてもらうのを好む人だ。やっちゃったーなんて顔をする女の子は、出来上がった酒を持って、そそくさと男の方へ戻って行った。
「……」
「……」
気まずい空気すぎる。何か言うのが憚られて、とりあえず誤魔化すために烏龍茶をコップに注いでトーマさんに出した。
「……」
「……? あっ。ごめん、烏龍茶とか出しちゃった」
動揺しすぎて何を飲むか聞くことすらせずしかもアルコールじゃないものを渡してしまっていた。慌ててコップを下げようと手を伸ばす。と、「いや。これでいいよ」伸ばした手を掴まれた。
「実はオレ、酒が飲めないんだ」
「へ? あ、そうなんだ?」
「はは。ごめんね、酒商売なのに」
「え。いや、俺はキャストじゃないし、俺のお客さんなんだから別に飲まなくていいですよ。……うん? 俺のお客さん……? あ、うわ、なんか変なこと言ってすみません……」
「……いや」
口を開く度に失言している気がする。
「……さっきの話だけど」
「さっき? あ、すみません。勝手に幼馴染みとか言って」
「うん? あー……、いや、オレは、別に。大丈夫だよ。……で、そっちじゃなくて、シャルルって18歳なんだね?」
その問いは俺の現年齢を聞いているのではなく、それに肯定した続きの話が本題であることがよくわかる。さっき彼女が暴露してしまったからこれに関しては誤魔化しようがない。
「……あー、と。ここの店のオーナーが、俺の保護者……的な人で」
「うん?」
「その。反応に困る話するからサラッと聞いてもらうだけでいいんですけど、俺、10歳の頃親が死んでるんです」
「えっ。……」
「それで引き取ってくれたのが遠い親戚の女性で、ここの店のオーナーなんですけど……あー……これ、時効……なるのかな。……そういうわけで、14歳の時から裏方で酒作ってたんです。表に出るようになったのは、去年から」
「……」
トーマさんが険しい顔で黙り込んだ。
見た感じ、彼は一般常識を兼ね備えた社会人だ。今の話を聞いて、それは法的にどうなんだと懸念しているに違いない。まずい。俺はいま18歳で学生ではないから多分……多分今の俺は平気だけれど、通報されたら過去の諸々でわりとアウトかもしれない。
「トーマさん」
「オレと暮らそう」
「…………ん?」
「シャルル一人くらいなら、養えるよ」
「うん…………?」
ふとトーマさんの前にある、渡した時より表面が少し沈んだコップを見た。酒は出していないはず。
「酔ってます?」
「どうして? シャルルはオレに酒を出したのか?」
「いや……」
出していない。焼酎は俺の手元から少し離れたところにあるから、あれは間違いなくただの烏龍茶。「……なんか、場の雰囲気に酔った、とか……」と続けて、黙った。
トーマさんは真剣な目をしている。このカウンターでいろんな酒飲みの顔を見てきたけれど、こういう目は、酔っぱらいができるものではない。
この人は、本気で俺に、一緒に暮らそうと提案している。……。おかしくないか?
確かに俺はこの店で、会ったその日に関係を持つ男女というのを何回か見てきたけれど、だからって俺がトーマさんと会ったその日に同棲する理由にはならない。俺の印象だが、トーマさんは、堅実そうな人だ。そんな人が言う「オレと暮らそう」は決して遊びではないと思う。
「……なんで、」
なんで俺なんだろう。なんでこの人は俺の名前を知っているんだろう。
「なんでって……君が好きだからだよ」
「会ったばっかだ」
「違う」
「違わない。俺は、俺は、あんたと、……」
初対面だ。簡単な言葉なのにどうしてか言葉が詰まった。
トーマさんが小さなため息をついて、頬杖をつく。彼はカウンター席に座っているからカウンターに立っている俺より目線が低いはずだが、俺はなぜか、彼に見下ろされている気分だった。
「オレのこと、好きじゃない?」
「は……」
「嫌い?」
なんだその質問。軽く目を剥いた。好きか嫌いかなんて、その問に答えられるほど俺はこの人と関わりがない。「俺は、」好きでも嫌いでもない。そう言ってしまえばいい。なのに言葉にできない。口の中がカラカラに乾いていく。
「シャルル」
俺を呼んだのはトーマさんではない。掠れたハスキーな声はもう聞きなれた俺の保護者の声だ。
「今日アンタ、帰ってこないでね。店の事務所ででも寝なさい」
「……おばさん」
「うちに人を呼ぶから……あら? いい男」
店のホール側、つまりはトーマさんの横にいる彼女は、そう言ってトーマさんの肩に触れる。彼女はそういう人だ。八年、俺はこの人のこういう態度を腐るほど見てきた。
ツ、と彼女の細い指先がトーマさんの顎をなぞる。突然の出来事に彼は惚けた顔をしていた。
「トーマ、……」
気づいたらカウンターから身を乗り出し、俺はトーマさんの胸ぐらを掴んで、彼女から引き離していた。胸ぐらをとるなんて乱暴なことをされた彼はもちろん、俺がそんな行動を取ったことに、俺の一応の保護者である彼女も驚いたようで、二人揃って呆然と俺を見ている。
「ふーん……ちょうどいいじゃない? この人のところにでも泊まれば?」
最初に冷静になったのは彼女だった。トーマさんではなく、俺の事をじっと見る彼女は俺を軽蔑しているとも慈しんでいるともとれる、複雑な瞳で、俺を眺めた。
「シャルル? とにかく今日は帰ってこないでね」
彼女はなんだか楽しそうに笑いさっさと俺たちから離れていく。彼女はそういう人。俺を引き取ったのもただの気まぐれだし、こうやって顔のいい男に色目を使うのも気まぐれ。
「……シャルル?」
「は、……ごめん」
トーマさんの声で我に返った。掴んでいたシャツを慌てて離して彼を解放する。急に胸ぐらを掴みなんかしたから驚いただろうし苦しかっただろう。「すみません」もう一度謝ってカウンターから身を引く。身を、引こうとした。
「わ」
今度は俺が胸元のネクタイを引っ張られ、カウンターに手をついて再びトーマさんの方に乗り出した。「なん、」その後になにか言う前に、もともとほとんどない距離の唇が触れた。驚いて目を見張る。俺は彼に酒なんか飲ませていないのに、彼から口移しで酒を飲まされたかのように、クラリと目が回るのを感じた。
目を閉じた。
「ふ、う……」
自分以外の熱が口の中を荒らす。べろちゅーじゃん、なんて頭の片隅の方で驚いた。探るように舌をつつかれ、隙間からはあと息を抜けば、今度は大胆に舌を吸われる。びくりと肩が跳ねた。ネクタイを掴んでいない方の手で後頭部を押さえられる。逃げないようにでもしているのだろうか。
俺は、彼からは逃げないのに。……?
「シャルル」
消えていた周囲の声が徐々に戻る。唇は離れ、濡れた口端を彼の親指で拭われる。
周りを気にする余裕なんかなかった。俺は、バカみたいにトーマさんの綺麗な若葉色をじっと見つめ、優しく頬を撫でられるのを、まるで首を絞められたみたいな息苦しさを感じながら、ぼうっと、受け入れていた。
この目もこの優しさも俺は知らないのに、なんだかひどく懐かしくて、心の底から欲していたものを手に入れたみたいな、得体の知れない喜びが胸を満たす。
「……トーマさん、俺は、あんたを知らない」
「……。うん」
「でも、……こういうのが嫌じゃない。すごく、……すごく懐かしい」
「……」
トーマさんは黙っていた。彼に柔らかく目元を拭われてから自分が泣いていることに気がついた。なんで泣いてしまったのか、俺の体のことなのに、俺が一番分からない。
◆
有給を取っておいたのは英断だったなと我ながら感心する。聞けば深夜2時まで働くのだと言うシャルルをじゃあその時間で待つから一緒に帰ろうと誘うと、彼は「お前は正気か」と言わんばかりの顔で俺を見ていた。
送迎は変わるとか、少し早めに上がっていいとか他のスタッフに耳打ちされる彼は、公衆の面前でディープキスをしたという事実にはさすがに頭を悩ませているようで、あーとかうーとか唸っていた。それで結局深夜1時になる前に私服に着替えて、オレと一緒に店を出た。
こうやってオレの言うことを最終的には聞いてしまうのは、昔と変わらないなと感じる。
自分の連れは、オレからしつこく話を聞き出し、その店は俺のテリトリーだとか語りながら勝手についてきた同僚なので、放っておいて問題ない。見れば随分酩酊しているがシャルルがあの人はタクシーで帰るよ言うほどの常習のようだった。
話に聞いたが今世のシャルルはオレより七つ年下だ。彼の頭がオレの肩くらいの位置にあるのも、まだほんの少しだけあどけなさの残る顔つきをしているのも、なんだか不思議な気持ちになる。
それこそテイワットでのシャルルはオレを「トーマ」と呼び捨てにしていたから「トーマさん」とどことなく慕いながらオレを呼んでくるのはくすぐったい。
「トーマさん、……」
考えているうちに甘やかなテノールがオレを呼んだ。手元のマグカップから、声のした方へ視線を遣る。と、頭にタオルを被り、俺の貸した大きめのシャツを一枚羽織ったシャルルが立っている。
オレのシャツはシャルルにとってちょうど太腿くらいの長さの短いワンピースになったらしい。ズボンを用意してやらなかったっけと驚いていると、まるで心を読んだみたいに「脱衣所にこれと、コンビニで買ったパンツしかなくて」とシャルルが申し訳なさそうに言う。オレが、用意したつもりになっていたらしい。
「……ああ、ごめん。用意してなかった」
「あ。いや、俺、いつも家でこんな感じだから別に……」
普段シャルルが家の中でこんな感じであろうが、その姿で無防備にオレの前に来るのは少しだけ目眩がする。いや、前世で彼は風呂上がりの時よくオレの前でパンイチだった。今回はTシャツを着て出てきたのだから、布面積的に増えているはずだ。
「……」
シャルルからふっと目を逸らす。あれが、オレの貸した服でなければ多分、もう少し冷静でいられたと思う。
ふーと息を吐く。
「あの、トーマさん。ドライヤーを借りてもいいですか」
「ん。いいよ。……あれ? ドライヤーの場所、わからなかった?」
「え。あ、いや、勝手にいろいろ触るのは、よくないと思って」
「……いい子だね」
素直にそう思った。オレにホイホイついてきてしまうわりには、そういうところはちゃんとしているらしい。シャルルはきょとんとオレを見つめ、む、と唇を尖らせる。「いい子とか。そんなガキじゃないです」ぼそりと反論する彼は、子供扱いが気に入らないようだった。
「はは。ごめん、ごめん。ほら、ドライヤーを取りに行こう。オレが乾かしてあげるよ」
「……」
タオルの上から頭を撫でる。シャルルは相変わらず不満気な顔をしていたけれど特に反抗はしてこなかった。
頑なにソファで眠ると言って聞かないシャルルをベッドに連れていくために、ひとまず今は眠るまで待つかとソファの傍に座っていたら、小さな呻き声が聞こえた。先程までうつらうつらとオレと会話をしていて、それが途切れたから、もうすぐ眠るものだと思っていた。急に苦しそうな声を出したのに驚いて、立ち上がってシャルルの顔を覗き込む。
「う、……うう……」
「シャルル?」
彼は目を閉じていた。眉間に皺を寄せて寝苦しそうにし、うっすら開いた口からハッキリとしない声を漏らして。
魘されている。そうわかったけれど少しだけ様子を見る。長く魘されるようなら起こした方がいいと思うが、すぐに収まるようなら寝かせておいた方がいいとも思ったからだ。
「うう、……っ……」
起こそう。判断は決まる。シャルルの肩に手をかけた。
「……とーま、……いっしょに、……」
「……」
「たび……、し、……った……」
オレはシャルルを起こせなかった。彼の口から途切れ途切れに出た単語に、ただ身を硬直させていた。
前世のシャルルの最期をオレは知らない。シャルルはいつもの調子で「ナタに行ってくる」とオレの元を離れたあと二度と帰ってくることはなかった。ナタに着いた旨の手紙は届いたし、その一年後にもうすぐ帰ると手紙を送ってきた癖に、それが果たされることは一生なかった。
遺品も遺体も届かないのだから亡くなったのかは定かではなかった。ただ彼は、オレが死ぬまで、二度とオレのところに戻ってこなかっただけだ。
シャルルは未だに魘されている。苦しそうに呻いて意味のない言葉を発している。シャルルの息が荒くなる。
起こしてあげないと。そう思うのに体は動かなかった。
「! はあっ、……はあ……」
そのうちシャルルは急にがばりと体を起こした。飛び起きる、とはこのような様子を言うのだろう。荒い呼吸を返し、胸の前でぎゅっとシャツを握りしめた彼は、不意に辺りを見渡し、すぐにオレの姿を見つけて、びくりと身体を震わせた。
「あ、……トーマ、さん……」
「……魘されてたから、起こそうと思ったんだ」
「…………」
シャルルは肩を上下させる息をなんとか整えてから、ぐるりと室内を見渡し、「……夢」小さく呟く。
「怖い夢でも見たのかい?」
「……」
焦燥しきった瞳でオレを見つめるシャルルは暫く黙り込んだ末に曖昧に首を振った。
「夢の中で……いつも俺は冒険をしてるんだ」
「……」
「現れる魔物を、大きな剣と魔法を使って倒す、勇者みたいな、そんな夢をいつも見る」
「……」
「また、その夢だった。その夢で、心臓を抜かれたんだ。……そんなことしたら、即死してるはずなのに、俺は、自分の胸を何かの手が貫いているのを確かに見て、その手が、俺の心臓を握っているのを」
「落ち着いて。夢だろう? シャルルは生きてるから、大丈夫だよ」
「……、……」
「怖かったね。シャルル」
「……怖かったんじゃない。痛いのも寒いのも、死ぬのも俺は怖くないんだ。でもあの子を、あいつを置いて死ぬんだと思うと、すごく、苦しくて……」
「シャルル、大丈夫だから……」
「……え、なんで、あんたが泣くんだよ」
「え……?」
彼を落ち着かせるために体に触れようと伸ばした手は中途半端な位置で止まった。逆に焦ったようなシャルルがオレの方に手を伸ばして、オレの顔を両手で包む。彼の親指が涙を拭ったのは、頬に冷たい感覚が伸びたことで理解した。
シャルルはソファにきちんと座り、中腰の姿勢でいたオレを抱きしめる。「泣かないで」困ったように言いながら、ぽん、ぽんと優しく背中を叩かれた。
「もう置いていかないから……」
シャルルの口から零れたその言葉は、オレが長い間、彼に求めていた決断だった。
◇
「そろそろ起きなよ?」
「う゛ー……ううん……」
体を揺すられる感覚にぼんやりと意識が浮上した。唸りながら枕元に置いているスマートフォンを探すが、いつもならこの辺にある薄い箱はなかなか姿を現さない。探るように手を動かし続けると、あたたかい感覚が手のひらに触れた。それは、ぎゅうと俺の手を掴む。
「今は9時だよ」
「……? ……」
「まずはその昼夜逆転を直さないとね」
ゆっくりと瞼を持ち上げた。最初に確認できたのは誰かと手を繋いでいる自分の手。少し視線を動かして見つけたのは、どうしようもないものを見るような目をした、金髪の男の姿だった。
「…………」
「はあ。覚醒が遅いのは相変わらずだ」
「……トーマ、さん」
「うん。おはよう」
柔らかく笑いかけてくるトーマさんをぼんやりと眺める。
おはよう、とは言われたが、確か彼、今は9時だと言った。カーテンの開いた窓から差し込む光で部屋の中は明るいし、朝の9時で間違いないだろう。まだ俺はおはようの時間ではない。
「こーら。二度寝しない。今日からオレと暮らすんだから、まずはその狂った生活リズムから直そう」
「………………?」
ぱさりと布団を剥がされた。急に温もりが消えて身動ぎしていると、何を思ったのかトーマさんが俺の体の下に手を突っ込み、ひょいっと軽い調子で俺を横抱きに持ち上げた。
……??
「え? ……え、なに……?」
「こうでもしないとまた寝るだろう?」
「ん……?」
「朝ごはんもできてるよ」
俗に言うお姫様抱っこで俺は部屋を移動する。さすがにそろそろ思考が追いついてきた。この状況は一体なんなのか。
「フレンチトーストにしてあげたかったんだけどタイミングが悪いことにパンを切らしてた。稲妻の料理をあまり好んでなかったような気がするけど……味噌汁と焼き魚は食べられる?」
「……? 食べれる……」
俺はまだトーマさんの腕にいる。横抱きにされた状態で、机に並んだ料理を眺めている。俺の返答にトーマさんは「よかった」なんて嬉しそうに答えていて、俺と違ってこの状況に困惑している様子はない。当たり前か。この状況にしているのは彼だ。
「……トーマさん」
「ん?」
「降りたい。トイレ行って、顔洗いたい……」
「しょうがないなぁ」
渋々といった様子でトーマさんは俺をソファに下ろしてくれた。……いや、しょうがないってなに? 男なのにお姫様抱っこをされたことがまず屈辱だけれど、彼は俺がトイレに間に合わなくて無様に失禁して尊厳を失う姿を見たかったのか?
ひとまず色々と済ませた。着替えにはトーマさんの私服だとかいうパーカーとズボンを借りたけれど俺には少しサイズが大きくてダボついている。なんだか同じ男として負けた気分になるけれどこういうダボついたファッションもあったはず。そういう体でいこう。
「今日から一緒に暮らすとか言ってたけど」
「うん。そうだね」
「おかしくない? 昨日会ったばっかだよ」
「お互い好きなんだから、いつ会ったかなんて関係ないだろう?」
「は? べ、別に好きじゃないし……」
誤魔化すためにトーマさんが作った味噌汁を啜る。ほのかに甘くてすごく美味しい。……えっ? 何この人……料理うまくない……? 生活力高め人間……?
「そんなこと言って、オレとのキス嫌がらないくせに」
「べ、べつに……」
「それにオレが女の人に絡まれて嫉妬してただろ?」
「……」
彼が言ったのは昨日の俺の一応の保護者とのやり取りだろう。思い返すと胃を捻られるような不快感に襲われて何も言い返せない。
「ほら。そうやってオレのこと大好きって顔する」
どんな顔だ。
トーマさんの声音は甘やかで、俺を見る表情も嬉しそうなのが少しムカつく。
焼き魚も美味しい。俺は基本的に自分で料理をするからあまり意識していなかったけれど、トーマさんの料理が思いのほか美味しくて、もしかするとこれが胃袋を掴まれるってことなんじゃないかと気づく。悔しい。好きかもしれない。
「シャルル。オレは君を絶対に離さないよ」
「……は?」
「やっと見つけたんだ。それに、シャルルも言ったよね。『もう置いていかない』って」
「、」
ね、と念を押す彼は柔らかく笑っているはずなのに俺には獲物を追い詰めた肉食動物のようにしか見えない。
ぽんぽんと頭を優しく撫でられ口の端がひくついた。
俺は、相当やばい相手に惚れてしまったのかもしれない。