俺の朝は爆音に設定したスマートフォンのアラームで始まっていた。
「ほーら、起きて。シャルル」
「……」
 俺の名前を呼んだテノールは爆音のアラームなんかと比べ物にならないぐらい心地いい。体を揺すられる感覚で意識が浮上していく。俺が呻いて体を動かすと、それ以上の催促はすることなく、彼はのんびり、俺が体を起こすのを待っている。
 ゆっくりと体を起こして目を擦った。ベッドの横には、暗い赤色の無地のエプロンをつけた男が立っている。
「おはよう。シャルル」
「……おはよ、トーマさん……」
 欠伸をしながら返事する俺に、トーマさんはちょっとだけ呆れたように笑って「顔を洗っておいで」と俺の頭をかき撫でる。その撫で方は犬なんかにするそれと同じだ。俺はペットなんかじゃない。……のだけれど、今の俺の生活を思うにあながちペットという表現は間違っていないような気もしてトーマさんに面と向かって言う度胸がない。

 あの日以来俺はトーマさんと暮らしている。
 初日に一旦家に戻ったら俺の荷物は全てダンボール詰めにされ外に出されていて、慌てて一応の保護者に連絡を取ると、いつもは全然既読にならないくせにその日に限ってすぐに連絡がつき、色男によろしくというふざけた一文と家の鍵は取り換えた旨の連絡がきた。職場に来て働いてもいいけれど給料は払われないらしい。絶句した。働くとは?
 そうなると俺は結局トーマさんを頼ることしかできない。色々考えた末「家から追い出されました」と一言送り次の文章を考えた。「しばらくお世話になってもいいですか? 荷物はレンタカーでも借りて……」とか、文章を打っていたら既読がつき、その瞬間に電話がかかってきた。
 トーマさんは車で迎えに来てくれた。仕事は半休をとったらしい。申し訳ないことをした。

 相変わらず夢は見る。それまでは一人で旅をしている夢だったけれど、最近は誰かと話している様子なんかもある。不思議な夢だと常々思う。

「それじゃ、行ってくるよ」
「ん。いってらっしゃい」
 玄関のドアノブに手をかけているトーマさんは、ヒラヒラと手を振る俺をじっと見つめ、ちょいちょいと手招きする。不思議に思いながらサンダルを履いて彼に近寄る。
「シャルル」
「わ、……」
 思い切り抱きしめられた。力が強いので体が少し反る。トーマさんの肩越しにまだ閉ざされたままの扉を見つめながら、宙を彷徨う腕をとりあえず彼の背中に回す。
「……ふー……」
「……」
 吸われている。やはり俺はペットだ……。
 しばらくそうした後「時間大丈夫?」と声をかけるとトーマさんは少し不満げに俺から離れ、「行ってくるよ」と二度目になる宣言をした。
 なんだか子供っぽい彼の表情に呆れながら、俺もまた「いってらっしゃい」ともう一度送りだす。今度こそ彼はドアを押した。

 そんなこんなでトーマさんの家に転がり込み1ヶ月になる。この家での俺の一日は確立されつつあった。
 これでも昼夜逆転は直った方だけれど朝はトーマさんに勝てない。平日の朝はトーマさんに起こされ彼が作ってくれた朝食を一緒に食べ、彼が仕事に行くのを見送る。その後俺は洗濯とたまに掃除、たまに買い出しをする。
 洗濯しかすることがないときには映画を見ている。家にいる間暇だろうと、トーマさんが厚意で契約してくれた配信サービスだ。
 夜になって夕食を作っているとトーマさんが帰宅する。リビングに入ってくる彼に「おかえりなさい」と俺が言うと、トーマさんは毎回感銘を受けたみたいな反応をする。一度聞き取れたのは「お嫁さん……」という言葉だった。……俺自身家に帰ると誰かがいる、なんて日常は全くないからなんとも言えないけれど、仕事を終えて帰ってくると部屋が暖かく、料理もできていて、誰かが迎えてくれるというのは嬉しいものなのかもしれない。
 俺の一日はそんな感じ。さて、なぜ俺が自分をペットだと思うのかというと――簡潔に言うなら一切働かず家で過ごし、あんな調子で愛でられ、養われているからだ。
 俺は働いていない。一応トーマさん家の家事をもぎ取ったけれど(もぎ取ったという言葉から察してほしいのだけれど、トーマさんは初め俺に家事をさせる気が一切なかった)、収入は全てトーマさん任せである。このような男をなんと言うか俺は職場で散々聞いた。世間はこれをヒモという。
 最初こそ俺は、店を変えてまた黒服をしようと考えたのだけれどトーマさんに相談したらめちゃくちゃ怒られた。夜職は今後言語道断。そもそも君はまだ十八なんだからとかプリプリ言っている彼に「夜職って言ったって俺が体を売ってるわけじゃないのに」と呟いたときの、彼のあの目は忘れない。俺はあの日視線だけで殺されるところだった。
 それなら昼のコンビニバイトや飲食のホールでも探すかと路線変更したところ、トーマさんはそれさえ否定した。
「シャルルは働かなくていいよ。オレの目の届かないところで働かれる方が心配だ」
 怒った様子で言われたけれど、俺は彼に会うまでの数年、ふしだらな女の代わりに家事をしていたし、ちゃんと社会に出て働いていたのだから、彼が何をそんなに心配して嫌がっているのかが俺にはわからない。
 けれどその後も俺がスマホで求人サイトを見ているとかなり不機嫌になるのでとりあえず大人しくすることにした。
 ちなみにトーマさんに世話になることになって一番最初にされたのはスマホの位置情報共有である。GPSで位置情報を把握するってわけだ。昼間の買い出しも絶対スマホを持っていくこと、なんて言われているので、この人ペットガチ勢じゃん、と内心思った。

 冷蔵庫の中身や棚の備品を確認して、買うものをスマホに打ち込んでおく。肩掛けの鞄を引っ掛けて家を出た。
 トーマさんと彼の仕事について話したことはないけれど、彼は結構いいマンションに住んでいる。俺は今まで足で思いっきり蹴ればドアが開いてしまうようなアパートに住んでいて、鍵を開けたまま部屋を出るなんてこと当たり前にやっていたので、ここに来てからは出かける時は鍵のかけ忘れがないことを念入りに確認している。
 エレベーターに乗り込むと中は養生されていた。引越し作業のためご迷惑おかけします、という旨のお知らせも貼られている。引っ越してくるのか引っ越すのか。予定の日は今日のようだ。
「買い物してくる」トーマさんに一言連絡を送った。すぐに可愛い犬のスタンプが返ってきた。相変わらず既読が早い。「なんかいる?」と付け足すと「じゃあシャルルが食べたいアイス」と戻ってきた。
 ええ……。

 買い物から帰ってくるとマンションの前には一台の引越しトラックが停まっていた。それはちょうど荷物を運び終えたみたいで、バンのリヤドアを閉じる作業をしている。
 誰か引っ越してきたんだ。何となく胸の中で思いながら向かいたい階層で止まっているエレベーターを呼んだ。養生は片付けられていた。
 エレベーターを下りてからの方が驚いた。ドアが開いた部屋の前にいくつかダンボールが置いてある。買い物に行く時はそんなことはなかった。部屋に向かって歩いていくうちに気づいたことだが、ドアが開いてるのは角部屋の、トーマさん家の隣の部屋だった。
「……お隣さんだ」
 自然と呟いていた。隣の部屋、空き部屋だったんだ。トーマさんに、隣が引っ越してきたよって連絡してみようかな。
 二箇所ある鍵のロックを外していると、不意に人の気配を感じた。確認すると開けっ放しのドアから出てきた男を見つけた。彼は、部屋の前に置いているダンボールを取りに来たみたいだ。
「……」
「……こんにちは」
 目が合ったので挨拶した。
 男の手から滑り落ちたダンボールが廊下にぶつかって、ボン、と音を立てた。
「えっ。……大丈夫ですか?」
 何せ重たそうなダンボールを落としたのだ。中に何を入れてるのかは知らないけれど、足の上に落ちていないかとか、さすがに心配した。
 駆け寄ってみると足の上に落としたわけではないみたいだった。ダンボールから男に視線を戻すと不思議なことに彼は俺を凝視している。え? ダンボールの心配は……?
「君……」
「……?」
 ポツリとこぼした彼は、俺の反応を窺ってるみたいだ。と言っても俺はただただこの状況に困惑することしかできず「あの、」と無意味に発してからは黙っている。
 そうやって暫く俺を凝視していた男は、なにか納得したように頷いて、落としたダンボールを足で隅の方に寄せた。
「……あは、ごめんね。君が俺の知り合いにすごく似ていたから、驚いたんだ」
「はあ……」
 胡散臭い笑みを見せてきた男に、俺は曖昧に返事をする。
 ダンボールを落としてしまうくらい驚いたということは、俺と空似の存在と彼は、良くも悪くも関係の深い存在なんじゃないか? 特に聞くつもりはないけれど、お隣さんだ、もしかするとこれから何度か顔を合わせるかもしれないしその度にそういう反応をされるのは困る。
「えっと……隣の部屋のシャルルです」
 隣の部屋の住民の居候ですと正直に言うか迷ったが、初対面で変な印象を持たれても困るので無難に自己紹介した。
「……タルタリヤだよ」
 彼の方も名前を教えてくれた。「タルタリヤさん」と復唱し、頭を下げる。お世話になることはないけど隣人だし。「これからお世話になります」と挨拶しておく。
 さて。買ってきたものを冷蔵庫に入れないといけないので部屋に入ろう。踵を返す。と、ぐい、と腕を引っ張られ、肩にかけていた買い物袋がずり落ち、咄嗟に曲げた肘に引っかかった。
 結構重たい。
「え、……なんですか」
「荷解き。手伝ってくれない?」
「は?」
「俺一人だと思ったより大変でさ」
 俺は改めて隣人の男を見た。
 トーマさんと同じくらいの背丈の、明るい茶髪で、青い目をした俺より歳上に見える男。顔立ちは俺の元保護者が喜びそうな感じ。要するにイケメンである。
 彼は華奢なようには思うけれど、俺の腕を掴む力は強いし、力仕事が苦手なわけではなさそうだ。
「……」
 隣人と言えど、見ず知らずの相手に荷解きなんて頼むだろうか。俺だったら頼まない。事情によって知らない人を家にあげるのはともかく、荷物はそれなりにプライベートだ。あまり見られたくないだろう。
「ダメかな?」
「……ダメというか、知らない人に荷物触らせて、なんか盗られるかもとか思わないんですか?」
「あはは。大丈夫、俺は君を信頼してるよ。君は物を盗んだりしないだろ?」
「??」
 この人、俺のことを『俺のそっくりさん』と同じ扱いをしてるんじゃなかろうか。信頼してるとか、初対面に使う言葉ではない。
 返答に困って眉を寄せる。
「ああ……もしかして、力仕事は苦手かな?」
 少しだけ嘲笑うように言われたそれに、ぴき、とこめかみの辺りが引き攣るのを感じた。
「手伝います」
「え? 無理しなくていいんだよ?」
「手伝いますって言ってんだろ。荷物置いてくるからドア開けて待ってろ」
 どうしてかめちゃくちゃムカついた。彼の、タルタリヤさんのあの笑みを見ると腹がたってしかたなかった。力仕事が苦手? 見た目で判断しやがって! 確かにトーマさんと並ぶと筋肉的に俺は痩せてると思うけど、一升瓶が9本入ったコンテナを3つ重ねて持ち20段ある階段を上るぐらいは簡単にできる。というかやっていた! 舐めやがって!
 イライラしながら買ってきた食材を片付けて、部屋を出る前にふとスマホを見ると、トーマさんから「会社の人とご飯を食べてくるから今日は夕飯はいらない」という連絡と「遅くなるから先に寝てて大丈夫」、「ごめんね」とメッセージが入っていた。少し急く指先で「おっけー」と返事をし猫のスタンプを送る。
 外に出ると彼は相変わらず部屋のドアを開け放ったまま、ドア枠に凭れかかって俺を待っていた。その姿が様になっているのがまた腹立たしいポイントだ。交差した足が長くてムカつく。
「何から運べばいいですか」
「じゃあそこのダンボールを持ってついてきて」
「はい」
 顎で指されたダンボールに近寄って持ち上げる。本でも入れているのだろうか。結構重たい。
 俺が玄関に入るとタルタリヤさんはドアを閉めた。2回鳴った音は彼が扉の二重ロックをしっかり掛けたことを示していて、トン、となった音はドアガードまで下ろした証拠だ。俺を部屋にあげたわりに用心深い人なんだなと少し意外に思う。
 ついさっき引っ越してきたみたいだからそうだろうけれど、見える範囲で部屋はまだ開けられていないダンボールだらけだ。「どこに置きますか」聞くとタルタリヤさんは「あっち」と奥の部屋を指す。言われるがまま荷物を運んだ。
「どれから片付けます、っ……?」
 ダンボールを下ろして振り返ったら思いのほか近くにタルタリヤさんがいた。驚いて後ろに空足を踏む。とん、と壁に背がついた。とん、とタルタリヤさんの肘がそれを追いかける。
「近っ、……」
 壁ドンされている。肘をついていない方の手で顎を掬われた。驚きすぎて「はわ」なんて間抜けな声が出た。
「変わらないね。シャルル」
 タルタリヤさんが口角を上げて、夜の海みたいな瞳を楽しそうに細める。
「は……?」
 言われた言葉の意味が理解できなかった。
 変わらないね。というのは、以前の俺を知っている人間が言う言葉だ。しかし俺はこの男に覚えがない。ただ呆然と見つめ返していると、顔の輪郭を撫でていた手がゆるゆると下りて俺の首を掴んだ。「は、」と息を吐き出し、咄嗟に目の前の男の服の裾を掴む。
「う、あ、……」
「困ったなぁ……まだ軽く握ってるだけだろ? そんなに物欲しそうにしないでくれよ」
 意味がわからなかった。俺は物欲しそうになどしていない。知らない男に首を掴まれ、この後想定される事態に、ただ恐怖しているだけだ。
 首を掴む手を遠ざけようと彼の手首を掴む。その瞬間、緩く握られているだったそれは、強く俺の首を絞めた。
「ぐ、ぅ――、……――っ」
「はは、ほら。その顔。……俺にこうされるの、好きだったもんね」
「……っ、……」
 苦しい。息ができない。視界が白んでいく。ぱくぱくと口を動かすと、俺の首を絞めている男は愉快そうに唇を舌で舐め、そのまま俺の口に噛み付いた。元より息のできないそこを塞がれて、意味のわからないまま舌を吸われる。
 耳鳴りのする耳には籠った水音が頭の内側から響いてくる。口から唾液が溢れているのが何となくわかる。頭がふわふわする。苦しくて死にそうだ。
「苦しいね」
「…………」
「でも、俺以外に心臓を抉られたお前を見た俺は、もっと苦しかったよ」
 ああ、落ちる――。力が抜けていくのがわかる。緊張の後の弛緩というものは、苦しみから解放される脱力というものは、体をふわりと浮かせて、一種の気持ちよさを感じた。

 ◆

 懲りずに落ちていたファデュイの仮面を被ったらしい彼は、構成員のひとりだとまんまと信じられ俺の元に現れた。俺が飛びっきりの笑顔を向けてやるとシャルルは始終動揺していて「こんなはずじゃ……」と後悔のお手本みたいなセリフを吐いた。
 俺たちはアビスの残渣を調査していた。こうなった以上演じ切るしかないと腹を括ったようで、仮面を被ったシャルルも俺の横で、自分なりの見解を述べ、この瞬間だけは構成員のひとりとして、しっかりと仕事をこなしていた。
 あるときあたりが一瞬で闇に包まれた。突如として暗黒の空間に閉じ込められ、部下は一人また一人と、紙のように体を引き裂かれた。襲い来る魔物を屠り続けた。部隊は壊滅していた。
 邪眼も、魔王武装も使い、満身創痍の状態で項垂れていた俺の前に、人型をした魔物が大きく腕を振り上げていた。こんなところで死ぬつもりはなかったが、反して体が動かなかった。
 目を瞑った。痛みは一向に訪れなかった。代わりに生温い液体が顔にかかって、ふっと目を開けた。
 パキパキと音を立てて魔物が凍りつき、なにかに強く打ち付けられたかのようにその場で砕け散る。胸に穴を開けた男も、魔物が砕けた拍子にどさりと地面に落ちた。ぼっかりと空いた穴にはあるべきものがもうなかった。ただそこからはダラダラと血を流し続けていた。
「シャルル」
 呼んでも返事はなかった。ピクリとも彼は動かなかった。心臓だったものがぱきりと割れ、はらはらと氷の破片が宙に飛ぶ。彼の神の目もまた、持ち主のそばにあるの言うのに、輝きを失い、血の海に溺れた。
 シャルルの最期は他人を庇ったものだった。庇われたのは俺だった。彼の胸を貫くのは俺の剣であって欲しかったのに、あろうことか、彼は、得体の知れない化け物にその心臓を貫かれ呆気なく死んだ。
 暗闇が晴れた。俺一人だけが生きていた。

 彼の死を稲妻にいるであろう彼の幼馴染みに俺は伝えなかった。多分シャルルなら、もし遺言を残せたのなら、教えないでくれと言い残したに違いないと思ったからだった。
 遺骨を宝石にした。無色透明の小さな石は、溶かした二つの指輪をひとつにして作った指輪に嵌めて、チェーンを通して首に提げた。指輪をしなかったのは彼の幼馴染みに悪いと思ったからだったかもしれない。
「俺が死んだら遺灰を旅に連れて行ってほしいな」
 生前何気なく言われた言葉を実行する日が来るとは思わなかった。


 生まれ変わったと気がついたのは子供の頃だった。ふとした拍子に俺はなんでこんなところにいるんだろうと思って、自分の体の小ささに驚いた。二度目の人生には七神も元素もファデュイもなく、日常的な争いなんてほとんどないに等しい、穏やかな世界だった。
 俺には兄と姉がいた。歳を重ねると妹と弟もできた。どれも知った姿、知った名前であった。
 それならと思った。俺は一人の男を探し求めた。けれどもこの世界の俺は昔のように権力を持った存在なんかじゃなく、ちっぽけな人間のひとりであった。あの時であれば、特定の人物の情報なんて簡単に手に入ったけれど、いまはそういうわけにもいかない。
 中学、高校、大学。この世界での凡その人間が辿る軌跡を歩いた。そのどこにもあの男はいなかった。

 会社で認められて、別支部の部長を任されることになった。部長をするには異例の若さだとか周りには言われたけれど、そういう経験は過去にあるので、自分としては別になんとも思わなかった。
 引越し業者に部屋の前まで運んでもらった荷物を適当に運び込む。引越し先のマンションは部屋同士の間隔が広い。隣人付き合いとかが面倒なので、交流が少なさそうでなによりだ。
 ダンボールをまたひとつ重ねて部屋を出た。共用スペースである廊下に人の気配があった。ガチャ、ガチャと二度音をたてたそれは、隣人か部屋の扉を開ける音だ。
 なんとなしにその姿を確認して、息を飲んだ。
 こちらを向いたそいつは、綺麗なターコイズブルーの瞳を持つそれは、俺の目の前で心臓を抉られた、俺がこの世界で探していた、まさにその男だった。


 意識を失い俺の胸に倒れ込んだシャルルを抱き上げて、とりあえず置いているソファの上に横たえた。胸に耳を寄せるとトクトクと緩やかな心音が鼓膜を揺らす。彼のそこに心臓があることに酷く安心した。
 それと同時、変な笑いが込み上げてくる。
 この世界のシャルルには前世の記憶なんてものはないらしい。シャルルは俺を知らなかった。
 けれども俺と対峙するときの彼は、以前の彼そのものだ。負けず嫌いだから挑発されてムキになるのも、見ず知らずの相手の家に上がり込んでしまう警戒心の薄さも、首を掴まれた時に瞳を潤ませて弱ったように眉を下げるのも、首を絞められてほんの少し口角を上げるのも。シャルルは前世と変わらない。
 記憶はなくても魂が覚えている。俺にはそう思えた。
 あどけない寝顔の彼をじっと見つめる。苦悶のひとつもないそれを見ていると、愛おしい反面憎らしい気持ちになる。
「酷いトラウマを植え付けてくれたよ。君は」
 非難してもシャルルからの言葉はない。彼は目を閉じて穏やかな呼吸を繰り返している。
 欲した存在が目の前で心臓を貫かれ絶命するなんて、普通じゃ発狂してもおかしくない光景だった。俺は精神的にも強い戦士だから、発狂なんかはしなかったけれど、悔しいことにたまにあれを夢に見て飛び起きるくらいにはメンタルをやられた。
 だから今世のシャルルを見つけてやりたいことがひとつあった。
 彼の上下する胸に手を当てる。
 俺が、この胸を穿ってやりたい。また誰かに取られてしまう前に、俺がシャルルの心臓を抉りたい。
「……」
 緩やかに瞼が開かれた。「なんで俺を庇った?」思考の続きのまま問いかけると、瞳は鈍重な瞬きを繰り返し、静かに俺を眺める。
「……死んでほしくなかったから」
「……」
「あんたのことも、好きだった……」
 ふう、と息を吐き出したシャルルが困ったように眉を下げた。会話が成り立ったことに驚くよりも、返された答えにフツフツと怒りが湧いた。
 死んでほしくなかっただって? 俺のことも好きだったから? なんだよそれ。
「残された人間の苦しさがわかるかい?」
「…………」
「君のその自己満足のせいで、俺が、どれだけ苦しんだか、わからないだろ」
「……わからないよ。俺は残した側だから」
「あは、潔いね。君のそういうところ、本当にムカつくよ」
「でも俺が逆の立場だったら、タルタリヤみたいに苦しんだかな」
「……」
「タルタリヤが俺を庇って死んだら、俺はきっと、ずっとそれを引き摺るよ。……そういう意味では、俺の心臓を貫きたい、なんて言ってたあんたの胸を、俺が貫いてやれたのかな」
「……、」
「はは、最後の手合せは俺の勝ちだね。タルタリヤ?」
 眠たそうで頼りない瞳が、挑発的に俺を笑う。
 ムカついたから拳を握ってシャルルの胸を叩いた。
「うっ」と呻いた彼は今度は恨めしそうに俺を見る。
「今度は俺に殺されてよ」
「……そんなにほしいの? 俺の心臓」
 呆れた眼差しを向けるシャルルを無言で見つめた。数秒も沈黙の後、彼は、彼の心臓に載せた俺の手を優しく掴み、小さく息をつく。
「……いいよ。痛くしないなら」

 ◇

 誰かが叫ぶ。酷く狼狽した声で俺を問いつめる。体は動かない。声も出ない。何も見えない。鳥のように飛んだ空。魚のように泳いだ海。どれもそれも黒ずんでいく。心地よい風はちっとも吹かず、拾い集めた物語は手のひらからパラパラとこぼれ落ちる。
 暗闇。
 ぱたりと頬に何かが落ちた。感覚なんてないのに、それだけがなんでか分かった。
 俺がここで終わっても、あんたは泣かないと思ってた。それなのに泣くんだな。俺のことを殺したがってたくせに、いざ俺が死ぬと泣くなんて。変なやつだ。
 置いていくことをあの子には伝えないでね。きっとあの子はあんたなんか比にならないくらいに泣いてしまう。あんたのことは泣かせたかったけれど、あの子のことは泣かせたくないんだ。
 人はいつか終わりを迎える。でも旅は続けられる。続けさせてくれるだろう?
 ほら、連れて行ってよ。旅の続きへ。

 物語の続きは未来で話そう。俺は夢を見続けるから。


 はっと目が覚めた。なんだか長い夢を見ていた気がする。起き上がるとぱさりとタオルケットが落ちた。見覚えのないそれに首をかしげ、潔く思い出し、は、と息を飲んだ。
 俺は、この部屋の主に殺されかけたんだ。
「起きた?」
「!」
 声のした方を向くと、男がひとり、マグカップを持って立っている。それは俺にタルタリヤと名乗った隣人、今ちょうど思い出していた、俺の首絞めた男だ。
「あれ……もしかして逃げるのかい?」
「は?」
「あはは。それもそうか。首を絞められて殺されるところだったもんね。俺から逃げるのは当然だ」
「……」
 見下すようなその口ぶりに、恐怖を押しのけるほどの苛立ちが湧いてくる。なんでかわからないけど本当にムカつく。「逃げるわけないだろ、」そう口走って手で口を押えた。「へえ」とタルタリヤさんが笑う。
「やっぱり君、前のままだね」
「…………は?」
「でも覚えてないんだろ?」
「……??」
「あはは。おもしろい顔」
 タルタリヤさんがゆっくりこちらに近づいてくる。その歩みは俺の前で止まり、彼はじっくりと俺を見下ろす。
 彼の瞳は夜の海のようだ。音も光も全て飲み込んでしまいそうな深い青。何を考えているのか分からないそれを、不思議と恐ろしく思わない。
「……タルタリヤさん」
「ん?」
「俺に似ている知り合いがいるって言ったけど、本当はそれって俺のことだろ」
「……」
「……あんたも、前世の俺の知り合いなの?」
「……へえ。他にもそういう人がいるんだ?」
「……」
 質問に質問で返されはしたけど、それがもつのは肯定の意だ。そして俺の無言もまた、タルタリヤさんの質問に対する答えを言ったようなものだ。
「俺以外の誰と会ったのかな」
「……」
「あは、そう警戒するなよ。俺はその人に危害を加えたりなんかしないさ」
「……。トーマ、ってわかる?」
「うわ。よりによってあの幼馴染みと会ったんだ」
「幼馴染み? タルタリヤさんの?」
「違うよ。そいつは君の幼馴染みだ」
「え。……俺の?」
 タルタリヤさんが呆れ顔で頷いた。
 トーマさん、て俺の幼馴染みだったんだ……。
 俺は前世ってやつを完全に信じたわけじゃないし、話を合わせて言うなら今世の俺は、前世のことなんか全然記憶にないわけで、トーマさんが俺の幼馴染みだったと聞いてもパッとくるものはない。ただただ、幼馴染み……と釈然としない思いを抱いている。その理由は、前世が幼馴染みだったにしては、トーマさんの今の俺に対しての距離感っておかしくないか? という疑問にある。
「前世の俺って、なにをしたの」
「うーん? 漠然とした質問だね。単純に君のことなら、君は旅をしていたよ」
「旅……」
「心当たりでもあった?」
「いや、……ただ、よく旅をする夢なら見るな、と思って」
「……ちなみに俺は君の遺骨を宝石にして旅の続きを引き継いであげたよ」
「え?! こわっ……」
「あは、失礼だなぁ、シャルルがそうしてって言ったくせに」
「ひえ……」
 なにそれ本当に怖い。俺は、俺が死んだら遺骨を石にして持ち歩いてくれってなんて頼む人間だったようだ。我ながら発想がぶっ飛んでて恐ろしい。
 タルタリヤさんから話を聞いても、記憶が蘇るとか、特にピンとくることはない。ただ、旅をする夢をよく見るのは夢じゃなくて前世の記憶なのかななんて、突拍子のないことはちょっとだけ考えた。
 起きると夢のことは薄らぼんやりとしか覚えていないのだけれど、物語の主人公のように冒険する自分を、俺は羨ましく思う。「……旅を」ぽつりと呟いた。
「旅を、続けさせてくれてありがとう」
「……どうしたの? 藪から棒に」
「……、わからない。ただ、……」
 口を噤んだ。
 そう言うべきだと思った。なんていうとタルタリヤさんは今の訝しげな表情をきっと更に濃くしたのだろう。
 荷解きが進んでいない部屋の中を眺める。手伝いに来たはずなのにダンボールを一つ家の中に入れただけだ。……まあ、俺はタルタリヤさんのせいで気を飛ばしたのだから、申し訳なく思う必要なんてないのだけれど。
「ほら。飲みなよ」
「ん? ……」
 ぼんやりしていた俺にタルタリヤさんは持っていたマグカップを差し出した。「話をしている間に冷めただろうし、君にはちょうどいい温度かもね」なんて付け足されたそれはほんの少しだけ湯気を立てている、白い液体だ。
 受け取ると甘い香りがした。
「ホットミルク? ……」
 マグとタルタリヤさんを交互に見る。
 変なことはない――いや、俺のことを殺そうとした人が温かな牛乳を渡してくるのは変な事だけど――というかそれを言うと殺されかけた相手の前で寛いでいる俺はもっと変だけど――。
 ともかくこの二つに関連するものなんてないのだけれど、ホットミルクとタルタリヤさんを見ていると、自然と口元が緩んで「ふっ」と小さく笑ってしまった。
「ありがとう」
 受け取ったマグに口をつける。液は温くて甘い味。彼の言った通り冷ます必要はないみたいだ。
 荷解きだってろくに終わってないのにホットミルクをいれさせてしまったな。ポケットからスマホを出して時刻を確認する。夕方の6時だ。そろそろ帰って夕飯の準備をしないと。……あ、でもトーマさんの夕飯はいらないんだった。
 ……。
「タルタリヤさん」
「ん? 君が俺のことをさん付けで呼ぶって面白いよね」
「……。ご飯食べる?」
「え?」
「部屋に勝手に上げていいかはわからないから、タルタリヤ……さんが食べるなら、ついでに作って持ってくるけど」
「勝手に部屋にあげていいか分からないって言うのは?」
「え。あー、と。俺、居候だから……」
「居候?」
「隣。トーマさん家の」
「……あはは!」
 急に大きな声で笑い出したタルタリヤさんに俺の方はぎょっとする。
「ふーん、一緒に住んでるんだ? あは、……そう。はは、それは俺を家にあげないほうがいいね。シャルルの判断は正しいよ」
「……あ、あの……」
「俺が君の手料理なんか食べたら機嫌を損ねそうだけれど……まあ、俺とまた会ってしまった時点で詰んでるね。荷解きもまだ終わっていないし、ぜひ料理を作ってきてもらおうかな。そこで一緒に、今世の君の話でもしよう」
 ねえ、と誘うように上げられた語尾。流れるように言葉を言い終えた彼に、まるで役者のようだなと感心する。その言葉の一つ一つは、俺には真意の分からないものばかりだったけれど、タルタリヤさんの分の夕飯を作ってもいいというのはわかった。
 食材をたくさん買ってきたばかりだから、作れる料理の幅は広い。ただ彼、
「お箸使えるようになった?」
「は? …………」
「あれ? ……ん? ご、ごめん……」
 ポロリとこぼれた言葉により困惑したのは俺の方だった。どう見たって俺より年上の男に、お前箸は使えるかなんてとんでもなく失礼なことを言うなんて! いや、タルタリヤさんだから別にいいか……? いや! 多分よくない。
 口に手を当てタルタリヤさんを窺う。すると彼はなんだか寒気のする笑みを浮かべて、腕を組んで俺を見ていた。
 俺は彼と出会ったばかりだからあれこれ言えないが、強いて言うならその顔は、酒を開けさせたいキャストに他の人はもっと一緒に飲んでくれたのにと煽られてそれじゃあ飲んでやるよと挑発に乗る客のそれと似ている。要するによくないやつだ。
「じゃあちょっと作ってくる……」そう言い残して捕まらないうちに彼の部屋を出た。
 タルタリヤさんは通り抜ける俺を簡単に止められただろうにそうはしなかった。俺にとって良くない笑みを浮かべて「待ってるよ」とだけ言ったのだ。
 部屋に戻らないのが得策だけれど料理を作ると言い出した手前、怖いからやーめたなんて言えないのが俺である。

 トーマさん。あんたみたいに俺を知ってるとかいう、やばい隣人が越してきたんだけどどうしよう。部屋に彼がいたのならそう泣きついたけれど、今日に限って彼は帰りが遅いので、胸の中で助けを求めることしかできなかった。