ジワジワと地面が鳴いている。空を仰ぐと、照りつける太陽が成す幾重に集まった六角形が水希に目を細めさせる。右手で影を作り、一先ずは遠くに見える海を見た。青々とし、一定のリズムで揺れる波は、なるほど見慣れたものだ。
次に水希は横を見た。古い一軒家。表札の名前は昔からの付き合いである、かの人のもので、なんら特別なことはない。
何をするために、ここに、いつから、突っ立っていたのだろう。水希はもう一度海を見て、首を傾げた。遙の家の前に自分が立つ以前のことが、どうしてか、面白いほど思い出せないのだ。夢遊病にでもなってしまったとでもいうのか。眠りながら階段を上るなんて、随分器用なことをするものだ。
水希が遙を訪ねる大抵の目的と言えば、母親に「食べ物を分けてきて」と頼まれた時のお使いであるのだが、手は空っぽ、どうやらそれが目的だったわけじゃないらしいのだ。ジリジリと肌を刺す日光に、足は自然と石段を下る。とりあえず家に帰ろう。
ふと気づくと向かい側からは真琴が上ってきている。目を細めてよくよく見てみると(視力が悪いわけではなく、眩しくてよく見えないのだ)後ろには遙の姿もあった。
ちょうど橘家の前で2人との距離は話せる程度になり、先に口を開いたのは、後ろの遙の方だった。
「俺の家に、何か?」
「?」
ふっと胸をかすめたのは妙な違和感と気色悪さ。遙が変に他人行儀なのだ。新手の嫌がらせかと首をかしげつつも「いや」と否定をするが、遙は訝る目を変えないままである。
遙の家よりも上にあるのは、古く小さな神社だけなので、まさかそこに用事があったとは思えないのだろう。
ああ、暑い。じわりと頬を伝った汗を乱暴に拭い、水希は溜め息をついて自宅に足を向けた。自分があそこにいた理由にしろ、遙の絡み方にしろ、意味がわからない。
「あ。あの」
「?」
水希は自然と集まる眉間のシワをごまかせないまま振り返った。遙は相変わらず無愛想な顔を、真琴はどことなく警戒し、困惑した顔をしている。
水希の胸にはひたすら吐き気が蔓延っていた。まるで熱中症にでもなってしまったかのように、火照り、眩暈がし、頭がぼうっとする。それは警鐘でもあった。耳を塞げ、目を背けろ、今すぐこの場を離れろと、何かが叫び声をあげていた。
「うちに何か?」
「は……?」
ふざけているのかと怒鳴りたくなったが、その気持ちは真琴の目の真剣なことに、一瞬で萎んでしまった。真琴の瞳はまるでふざけていない。本気で聞いているのだ。
「えっと……見た感じ俺たちと同い年だよね?」
真琴は答えない水希の代わりに言葉を紡ぐ。しかし、却ってそれは水希を混乱させ、困却させ、苛立たせるための扇動にしかならなかった。
「真琴」
何よりも強い憤りが水希に行動を起こさせた。真琴を呼ぶ彼の声はきつく、水希の不機嫌さをまざまざと伝えた。
真琴が目を大きく見張って、ぽかんと口を開ける。ぱちんと、何か張っていた糸が急に切れるような音が、確かに水希の耳には聞こえた。
「どうして、俺の名前を……?」
「お前……誰だ?」
水希は、はっと短く息を吐き出して半歩後退する。真琴と遙の目は見たことがないぐらい、水希に対する警戒心と猜疑心とを露わにしているのだ。
かっと顔が熱くなって、額に、手のひらに脇に、嫌な汗が浮かび上がる。ばくばくと心臓はうるさくて、「俺は」そう紡いだ唇は震え、続きを言わない。
気持ち悪い、意味がわからない、怖い、怖い、怖い。何も言わない水希を待つ2人の瞳が冷めきっているのを、水希は気づかなかったことになんかできなかった。
「あの」と痺れを切らした真琴が言うや否や、水希は2人の横をすり抜けて、勢いよく階段を駆け下りた。驚いたような声が背中にぶつかったが、振り向く余裕などない。逃げたかった。ただそれだけなのだ。
追いかけてくる足音なんて一つもなかったが、履きなれないローファーは水希の走りの邪魔をした。痛む足に次第に速度は落ち、終いに水希は走るのをやめた。
なんでローファーなんか履いているんだ。こいつは入学式以来、靴箱に仕舞われていたはずなのに。弾む息を整えながら、ふと横を見ると、ちょうどバスが通り過ぎ、そこに映った自分の姿に、水希はまたもや頭がついていかなかった。
黒のスラックス、刺繍など一つもない白の半袖カッターシャツ。中学校の制服と大差ないそれは、ローファー同様、今では着なくなったもののはずであった。
しばらくその場に呆然と佇む。ピュンと車が一台、二台と横切り、マナー悪くも並列走行する学生の自転車に、迷惑そうに追い抜かれてから、水希はまた足を動かすことができた。
ここは、どこなのだろう。
#
夏の太陽は随分と長い間空にいるようで、時刻が午後7時半を回ってもあたりは赤く染め上げられる程度であった。取り乱していたので気付かなかったのだが、水希は肩に黒を基調とした、アクセントに青の入ったエナメルバッグを背負っており、その中には使い慣れた財布と、開封済みのペットボトルと、スマートフォン、スポーツタオルと、最近買ったばかりの音楽プレイヤーが入っていた。
いったい自分が何をしていたのか(あるいは何をしに行こうとしていたのか)皆目見当つかないが、これまでのバイトで稼いできた全額であろうお金と、憎らしくも電波を飛ばし、電池の減りを微塵にも見せない端末から、しばらくは野垂死ぬことだけはないだろうと思われる。
海辺の通りのベンチに腰を下ろしているのは、水希のほかにも数人いる。しきりにスマートフォンの画面をスワイプする女子高生やら、くたびれたスーツ姿の男性やら、とにかく、水希が目立っている様子はない。それだけが水希にとって救いであった。
「あの一件」から、混乱したまま水希は街を歩き回ったり、電車に乗り隣町まで行ったりしたのだが、どうもここは住み慣れた岩鳶の地以外の何物でもないらしいのだ。岩鳶高校はもちろん、よく水泳部の人間と立ち寄るコンビニもあったし、鮫柄学園も、水希のバイト先も、何一つ失われずそこにあったのだ。目新しいものなど一つも見つからず、ただただ水希のICカード残額と体力とが減るだけだった。
ゆえに、水希はやはり意味が分からなかった。真琴たちのあの態度は受け入れられなかった。
あたかも橘水希という人間はいないかのように振る舞った彼らを今、もう一度思い返しても、水希をからかうために度の過ぎたことをしていたようには思えない。「お前は誰だ」という遙の言葉は本気だった。思い出すだけでも寒気がする。
水希の手元で暇そうにしているスマートフォンの画面は、今しがた画面を暗くしたところだ。薄暗くなったそこには、どれも同じキーワードの含まれたリンク先が、どれも同じように地味な紫色をしている。
パラレルワールド。耳に挟んだことぐらいはあるそいつは、どうも現実味のないものだった。
スマートフォンが完全に真っ暗になったと同時に向かい側に座っていた女子高生の前に友人であろう、違う制服の女の子が現れる。どちらも、名前は忘れたが私立高校の制服だ。立ち上がり嬉しそうに顔をほころばせる女子高生をぼんやりと見つめ、水希は目を伏せた。
ネットで調べたパラレルワールドとやらは、どれも水希の参考にはならなかった。なぜならどの異世界にも、きちんと自分が存在しているからだ。一つの世界の自分と、もう一つの世界の自分が入れ替わる。自分の存在を知っている人は、どちらにも、当たり前のようにいる。もともとオカルト分野になど興味のない水希はここがパラレルワールドたるものであるとは完璧に認めたわけではないのだが、そう考える以外、この状況を説明する手段がなかった。
まさか自分だけが存在しない異世界があるなんて。変な笑いがこみあげる。警察に駆け込むにも、そこから自宅に電話すればそれこそもう一度あの反応を食らうだけだし、そうなれば自分の身柄がどうなるかなんて、いい方向に行かないことしかわからない。異世界人だとかなんとか、話題にしてもらえるのだろう。
これから先どうすればいいのかを考えると、やはりあの頭痛と気持ち悪さが這い上がってくる。帰る先なんてどこにもない。今は何も考えたくなかった。
「ねえ、君」
どのぐらいぼうっとしていたのだろうか。顔を上げると先程まで犬の散歩をするような人だっていたのがうそだったかのようにこの通りは閑散としていて、日も沈みきっていた。
「……俺、ですか」
「ああ」
後ろから街灯に照らされる男の顔はよく見えないのだが、おそらく180センチはあるであろう彼はすらりと細身で、なんとなく、高級感の漂うスーツに身をまとっている。もてるだろうな。心内そんなどうでもいいことを思った。
「ここで何をしてるの? もう9時だよ」
男は腰を屈めて、幼い子をあやすような口調で言った。自分に何の用だろうかと思ったが、どうやらめんどくさい話のようだ。都会とは違ってこの町は地域の結びつきが強い。子供は早く家に帰りなさいと、有難迷惑、声をかける人だっている。
水希はこっそりため息をつき、ずり落ちていた姿勢を正す。「別に、何も」ふてくされた声だった。相手を拒絶するように視線を合わせずに答えると、何を思ったか、ふうんと鼻を鳴らし、男は水希の隣に腰を下ろした。
なんだこの人。水希の眉間にしわがより、こぶしがきつく結ばれる。
「君、きれいな顔してるよね」
「……あなたに言われることじゃないと思いますけど」
初対面の相手――しかも男――に何をナンパめいたことをしてくるのかと鳥肌が立ったが、相手をあしらうのも面倒で、水希は若干の尖りをやすりがけせずに返した。
それがおかしかったのか、男が笑う。
「……君さ」そっと手が伸び、水希のこぶしを覆う。さすがに驚いて、水希は血の気が引くのを感じた。
「暇なら俺と、そこの居酒屋でもどうかな?」
「……は」
「見た感じ高校生だろうし、俺がおごるよ」
「いや、あの……」
どう対応すればいいのかなんて知るはずがない。水希は初めて男を直視し、けれどもすぐに唇を結んだ。彼の目が幼馴染のように青かった。ただそれだけだ。
「ああ、やっぱり俺好みだね」くすりと男が笑う。
「その先も、悪い話じゃないと思うんだけど」
男はそっと、ひたすら呆然とする水希のこぶしを解かせた。「俺……」その先なんて考えていない。だから水希は何も言えなかった。
異常だ。気持ち悪い以外の何物でもない。きっといつもの水希であったのなら、罵詈を浴びせて男に背を向けたに違いないのだ。ただ、今はそんな状況ではなかった。
水希の頭を異様な速さで過ったのは、この男に身を売るメリットだ。カバンに入ったお金はいずれ尽きる。身分を証明するものがない自分が生きる術を失うのはそう遠くない未来のことだろう。先の見えないのはどちらを取ろうが同じである。それでもいささか希望の見える「こちら」を選んだ方がいいんじゃないかと。
どうせ今の自分は「存在しない人間」なのだ。知らない男に嬲られようが、好きに利用されようが、悲しむ他人も、本人もいない。それに水希は、自分を認めてくれる人間をどこかで欲していた。その形がどんなものであろうと、ここに自分はいるのだと、教えてほしかった。
からからに乾いた口を唾液で潤す。こくりと下りた喉仏はある種の返事だと男はとった。
「……おい」
数分前から近づいてきていた軽いスニーカーの音は、こちらを気にも留めずに走り去るものだとばかり男は思っていたので、忌々しげに声の出先を見た。水希は水希で、誰かが近づいてきているなんてまったく気が付いていなかったので、突如聞こえた第三者の声には随分と驚かされたようだ。
次はいったい誰だと暗いそちらを見て――息をのむ。
「何してるんだ。早く帰るぞ」
「は……?」
彼、七瀬遙は男をきつく睨み付けた後、水希にそう言い放った。水希はまたも理解できなかった。何がどうしてこうなっているのか。帰るって、どこに帰るのか。遙は、やはりあのとき、自分をからかっていたのか?
痛いぐらいの沈黙を破ったのは男だ。彼はやれやれと首を振り、降参だと両手を上げる。遙はそれをやはり睨んで、水希の腕を掴み、彼を立ち上がらせた。
「……気になったら連絡して」
「、」
男はこの場をあとにする間際、水希の耳元でそう囁き、彼のスラックスのポケットに紙切れを忍ばせた。呆然と男を見送っていると、またも不機嫌な遙の声が、水希の意識をそちらへ向ける。怒っているのだと思い、水希は少し後ずさりした。
するりと水希の腕は遙の手から抜けだす。
「……さっき俺の家の前にいたやつだろ? えっと……大丈夫か?」
「……」
失望した。やはりあれは夢でも、何でもない。これは、遙の中に水希という存在はもとよりないというこの現実は、本物なのだ。水希は何も答えずにうつむいた。遙は不思議そうにその姿を眺め、先程まで水希が男と座っていたベンチを見る。
「……家出か?」
水希は答えない。
「……何か、深い事情があるのか?」
遙はそれぞれ間を取って水希の返事を待つのだが、反して水希はうんともすんとも言わず、黙り込んでいるだけだ。
遙は面倒事が嫌いだ。だからランニングの途中にまた遭遇した、この同い年であろう男に関わる気なんてなかった。彼が変な男に絡まれていようと、どうだってよかった。それなのに、彼が寂しさに濡れた目で男を見つめ返したのを見たとき、どうしてか進行方向はそちらへ向いていたのだ。
用もないのに自分と真琴の家にいて、しかも真琴の名前を知っていて、どうして知っているのかと問うと急に駆け出した、怪しい青年だ。放っておけばいい、関わればどうせ面倒なことになる。わかっていたのに、どうしても体は言うことを聞かなかった。
理由はわからないし、考えたところで見つかる気もしないが、放っておけなかった。他人とは思えなかったのだ。
「……サバ、焼いてやるから家に来い」
一瞬水希の纏う空気が凍てついたのに遙は気付かなかったわけではない。「……いらない」と、首を振る水希だって見えていた。
「行くぞ」
もう一度水希の腕を取って、遙はズンズンと歩き出す。「嫌だ」と、はっきりした拒絶が弱弱しく聞こえた。伴って、引きずる体は重たく、腕をほどこうともしてくる。まるで躾のなってない犬の散歩でもしているかのようだ。
「行くぞ」
ぐいと強く水希の腕を引っ張り、自分の横に並ばせる。たたらを踏んで横に来た彼は俯いたままで、遙がしばらくして歩き出すと、もうあきらめたのか、おとなしく足を動かした。どうしたものかと、遙はこの青年と、自分自身とを心配する。見知らぬ、しかも何らかの形で幼馴染を知っている、怪しい男を拾うなんて、ばかげているのに、この腕をほどこうと思えない。ついた溜息は、静けさに交じって消えた。
水希が遙に引っ張られ歩くまでの数秒の間に、雨が降ったわけでもないのに水玉を数個作った地面はあたりの暗さで隠れ、遙が気づくことはなかった。