水希は座卓の前に座ったまま、出されたご飯に手を付けず、俯き、膝の上に置いたこぶしを見つめていた。
 数分前からこの調子である。もしかしてサバは嫌いだったのかと聞いて首を横に振られたのは何分か前のことで、もともと口数の少ない遙はほとほと困り果てていた。
 空気はひたすらに重い。自分が彼を家に連れてきたのだ。自業自得の結果であるが素直に認めることもまた難しい。
「……冷める」
 もう空になった自分の器と、水希に出してやったのとを見比べて、遙は眉を顰めていった。返事を期待したわけじゃないが、無視されて落胆するのは致し方ない。深い大息をつく。
「……おまえは、警戒心がない」
「? なんだ、急に……」
 やっと口をきいたかと思えば随分と上からな言葉だった。遙は箸を持ったまま怪訝な目で水希を見つめるが、水希がそれを見つめ返すことはない。
「普通、初対面の、見ず知らずの人間を家にあげて飯を出したりなんかしない」
「……」
「おまえはお人好しだ」
 その声が遙を非難しつつも、どこか優しさを帯びていたのに遙は気付いた。
 彼の声が柔らかくなる理由など、遙には皆目見当がつかなかったが、無理に理解する必要性も感ぜられない。遙は胸を掠めた小さな違和感を隅に追いやって、はんと軽く鼻を鳴らした。
「そういうお前は、口が悪いな」
「…………」
「礼よりも先に、一応恩人に当たる俺に、『お人好し』。お前の性格の悪さが滲み出てる」
 どうしてこうもズバズバと、しかもあたかも彼を昔から知っているかのように、決めつけるようなことを言えてしまえたのか遙本人が一番わからないのだが、一度声に出してしまった言葉を、飲み込んでしまうことなんか不可能だ。
 不思議と遙に焦りや罪悪感はなかった。
「……ああ」半ば、ため息のような返事であった。相変わらず遙の手料理に手をつけようとしない水希の拳は一度だけ解かれる。
「よく、言われてたよ」
 しかし緩んだそいつが箸に伸ばされるのかと言えば否であり、水希は手のひらを重ね合わせて、自嘲の笑みを浮かべた。
 遙は一旦口を動かしたが、何も発さず、静かに一文字を作る。
 水希の言葉に、ただただ首をかしげることしかできない。「よく言われていた」とは、どういうことなのだろう。
 見た所自分と同い年であろう彼は、自分が今しがた口にしたのと同じセリフを、きっといるであろう友人に常日頃聞かされていたのだろうかとも思った。初めは、それで納得できたのだ。だから、「よく言われるほど性格が悪いんだな」と、もっと皮肉ってやろうと思いもした。
 それを咄嗟にやめさせたのは、なんだったのだろう。
「……とにかく、食べろ。お前が食べなかったら、ゴミ箱行きだ」
 遙はこれ以上考えたって答えが出ないことを潔く認め、すぐに話題を変えた。
 もちろん単に話を別のことに移したかっただけなので、水希が食事に手をつけなかったからといって、遙がそれらをゴミ箱に突っ込むことはない。むしろ中途半端に残されている方が迷惑だから、食べないのなら食べないで構わない。皿の上のサバは、ラップをかけ、冷蔵庫にしまえば万事解決する。
 水希の視線が食事に向く。遙は、温めなおすべきだろうかと、水希と同じように、今日も完璧な焼け目をつけるサバを見た。
 だから、水希の口が皮肉で弧を描くのは見えなかった。
「……捨てる気なんかないくせに」
「? 何か言ったか?」
 遙の視線が上がり、再び水希へと向けられる。それでも青と淡緑が交わることはなかった。水希は遙を見なかった。
「あまり食欲がわかないんだ。飯がまずそうとか、そういうのじゃなくて」
「……他人が作ったものは食べられない、とかか?」
 どうしてそんな話になるのだろうかと、心内では頭を抱えつつも、それをうまく隠して水希は首を横に振る。潔癖症になんて、なったつもりも、なるつもりもない。
 けれども遙の言葉はほぼ正解としていいのかもしれない。今は“他人”が作った料理を口にすると、吐いてしまいそうだった。
「なら……」
「中途半端に食べて、残された方がおまえも困るだろ。だから、気持ちだけで充分です。ありがとう」
 水希は無理やり遙の言葉にかぶせ、それ以上は聞きたくないと、暗に告げた。徐に立ち上がる水希を、遙は呆然と見つめることしかできなかった。
 水希が慣れた様子で玄関まで向かうのを、遙はやはり呆然と見つめ続けたが、突如弾かれたように立ち上がり、その衝撃で机から落ちた、水希のために用意した箸も気に留めず、彼の後を慌てて追いかけた。
「……帰る、のか?」
「……そうだね。ただの家出だし」
 ローファーの踵を叩き、水希は戸を開く。
 やっぱり、家出だったのか。と一拍遅れて受け取った遙が、呆れ顔を作る。玄関から出た水希の足元には、黄色の光が差し、濃い影を生む。
「それじゃあ、どうもありがとう、お人好しさん」
「……俺はお人好しなんて名前じゃない」
 水希は振り返らない。コツコツとローファーを鳴らし、闇に滲む。
 遠くでは海がきらりと光っていた。
「七瀬だ」
 規則正しく鳴っていた足音が止まる。
「七瀬遙」
「……」
「お前も名前ぐらい教えろ。俺は教えたし……家にもあげてやった」
 蒸し暑い空気に長いこと当てられたせいか、遙の額には薄っすら汗が滲んでいた。しんしんと名も知らない虫が鳴く。それが耳に届くほど、2人の間は静かであった。
「名前を知って、どうする?」
 雲ひとつない夜空には満月が浮かんでおり、その月光は水希を青白く照らした。ほぼ水希の表情を隠す中で、くるりと光った淡緑の双眸は、やけに神秘的で、遙ははっと息を呑んだ。
 遙は初めて、まともに水希の瞳を見た。……いや、水希が初めて、まともに遙を直視したのだ。
「俺の名前を、今更改めて知って、おまえはどうしたいんだよ」
 遙は口ごもった。どうしたいのかと問われても、明確な目的があるわけではなかったからだ。
 困ると同時、遙の胸に蟠りを作ったのは、現在彼が見せるのと同じ憤りであった。どうして名前を聞かれるぐらいでそうも攻撃的になるのか。どうして自分に対してそんなに敵意を向けてくるのか。
 そもそも、自分は彼をどうしたいのか、わからないのにそれを彼に聞かれることが苦痛であった。
「……名前なんてないよ」
 いつの間にか下がっていた頭をあげる。
 遙が見ることができたのは、ちょうど水希が遙に背を向ける瞬間であり、己の名前がないと言ったその時の彼の顔は、見ることができなかった。
 どこまでも悲痛な声は、確かに聞こえていたのに。
 沈黙が下りたのを合図に、またローファーがアスファルトを鳴らす。それだけのことなのにわけのわからない焦燥感が遙を襲った。
 遙の口内はからからになってしまっていて、またそれは喉にまで侵食しており、声は一言も発せない。遙の足もまた、どうしてか棒になってしまったかのように動かず、水希の後を追うことは叶わなかった。


 遙の家を後にしたところで行くあてがあるわけではない。最初にいた海辺のベンチに戻ろうかと思ったが、一度いた場所に、また一つの場所に留まるのは何となく気が引けたので、ふらふら、わけもなく砂浜を歩いていた。
 波が押し、ゆっくりと引く。ふっと立ち止まって果てのない海を見つめる。静かな波音をたてるそれは、砂が乾ききる前にまた寄り、水希の足跡を消した。
 懐中電灯なんていう便利なものは持っていないが、月明かりだけで十分明るいので、水希が足元に困る様子はない。
 冷たい潮風が水希の頬を撫でる。すっと目を細めそれを受け入れる水希は、静かに目元を拭った。
「…………」
 これからどうしようなんて、声に出す気力さえなかった。声に出してしまえば却って悪い方向へ何もかもが進んでいきそうな気がした。この悪夢が、いよいよ現実になってしまうことを、水希は恐れたのだ。
 “この世界”に自分が存在しないのを、未だに受け入れきれていないことを、彼はごまかすことができない。
 哭し、嘆きたかった。
 どうして急にこんなことになったのか。どうしてこんな目に遭わなければならないのか。どうして、どうして。
 頼れる人なんていない。同情してくれる人はなおさらだ。たとえあの遙たちであっても、水希が真実を話したって、眉を顰めて水希の頭の心配をするだろう。
「……だれか」
 意味もなく、星空に向かって手を伸ばす。右腕についた腕時計は、寸分違わない時刻を示しているのに。
「名前を、呼んでよ」
 狙ったかのように月光に反射する文字盤はひたすら白かった。
「水希」と、己の名を呼んでくれるだけでいい。それだけで自分の存在を、自分自身で認められる気がした。
 ――――目を閉じ、眠って……再び瞼を持ち上げる時には、見慣れた景色が広がっていればいいのに。
 見れば時刻は昼過ぎで、タイミングよく部屋に様子を見に来た真琴が、「相変わらず寝起きが悪いね」と、水希の顔を見て苦笑するのだろう。「夢見が悪かった」と、不貞腐れて枕に顔をうずめれば、きっと真琴は優しく頭を撫でてくれるのだ。
 目を伏せ、水希はゆっくりと手を下ろす。ぶらんと力なく垂れ下がったそれが、掴んだものなどない。
 水希の鼓膜を揺らす波音は、時に車の風を切る音に濁されることもあったが、相変わらず穏やかであった。
 どのくらいの間そうしていただろうか――。浜辺に佇む水希の足元は、唐突に翳った。月は、どこから現れたのか、黒みがかった雲の間から見え隠れする。ぽっと水希の頬に一滴、ぶつかったのが合図だった。
 天気は急変し、少しの間もなく、細かい雨が激しく降り始めた。
 水希は一瞬にして濡れ、衣服も髪も体に張り付く。防水加工してある腕時計だって、焦りがわいてくるほどの雨。波の動きも怪しいものと変わり、早くここを立ち退けと言わんばかりだ。
 それなのに水希は微動だにしなかった。
 冷たい雨にさらされ、海風に吹かれる体は寒さに悲鳴を上げている。波が荒れ始めたここは危ないと、わからないほど愚かではない。なのに水希は動かなかった、いや、動けなかった。動く必要性を感ぜられなかったのだ。
 ――――このまま溶けてしまえればいい。海に混じって、消えることができたのなら。
 頬に伝う雨水は、生ぬるい滴を完璧なまでに包み隠してくれる。それだけが救いであった。
「……おい」
 これもまた唐突で――しつこいぐらいに降り注いでいた雨が急にやんだ。
「家に帰るんじゃなかったのか?」
 もちろん雨が上がったわけではない。それは水希の上に傘がさされたから、水希の上に降り注いでいた雨だけがやんだにすぎなかった。
 雨が止む前から、近づいてくる気配には気づいていた。だから水希は振り返らずに一度鼻で笑う。「なんで来たの?」なんて言ったが、特段答えは求めていない。
「質問に質問で返すな」と、彼は不機嫌そうに言った。
 水希に傘を傾けた彼――遙は、水希が去って行った後、追いかける義理はないと結論付け、家に戻り食器を片付けていたのだが、胸のざわめきに落ち着いていられなかった。
(……結局、少しも食べなかったな)
 気づけば作業の手は止まっていて、頭を占めるのはあの不審者だ。そのことにハッとして頭を振ったのは、何度したことだろうか。
 知らない奴なのに、なのに、どうしてこんなにも気になってしまうのだろう。どうして不安になるのだろう。どうして、どうして。
「……あ」
 ――――雨だ。
 先ほどまであんなに晴れて、顔を見せていた月はどこにいったのか。遙が不意に外を見た時には、外は真っ暗で、土砂降りの雨が、気味の悪さを醸し出していた。
 ――「名前はないよ」あの背中が遙の脳裏をよぎった。きっかけは、それだけだった。
 家出だと、本人が言っていたのだから、もう気にかける必要なんてないはずなのに。まだ外にいる保証なんてない。ましてどこにいるかなんて、全く見当がつかないのに。
 それでも、もう22時を回る頃、遙は傘をさし、家を飛び出した。
 それから、土砂降りの中海辺に突っ立っている水希を見つけるのはすぐであった。あまりに怪しい、奇行すぎるだろうと、さすがの遙も驚いた。
 海にいると、確信していた自分がいた。そしてそこに彼はいた。
「……お人好し」
「……だから俺は、」
 お人好し、なんていう名前じゃあなくて。二度目となる訂正を入れようとしたが、遙の口からそれが紡がれることはなかった。
 うつむいたままの水希が、ゆらりと身を反転させて、力なく遙の肩に頭を預ける。遙の衣服は、肩を中心にすぐに濡れた。
「嫌いだよ。大嫌いだ」
 動揺に招かれた体の硬直は次第に解ける。
「嫌い、嫌いだ……」
 水希の濡れた髪は、水希に視線を落とした遙の頬をも濡らす。
 ざあざあと、雨はうるさい。それなのに水希の声は、はっきりと遙の鼓膜を叩いた。
 ぎゅうと痛いぐらいに締め付けられる胸は、一体何に同情しているのか。なぜ、なんのためらいもなく、自分を嫌いだと言い、縋ってくる彼の背中に空いた手を回せたのか。
 予想以上に水希の体は冷たくなっていた。それがますます、遙の腕の力を強めさせた。
「……知ってる」
 遙の口から出たのは、彼が意図していないものだった。
 この男を気にかけてしまう理由も、この男に嫌われる理由も、この男が泣くわけもなにも、この男の名さえ、知るはずがないのに。