いつもより早く目が覚めた気がする。遙は体を起こし寝台の棚にある電子時計を見、布団から出た。
 部屋の二つの窓、それぞれのカーテンを開け放つ。日はまだ完全には上がっていない。一方の窓から見える幼なじみの家も寝静まっている。
 自室を出、階段を下りる。いつもなら風呂場に直行するのだが今日は居間に用事がある。
 うそ暗い室内を慣れたように歩く。
 木造の床は少し軋む。珍しく閉まった居間の襖をほんの少し開ける。
 違和感に気付く。
 遙は襖を完全に開け、驚愕した。
「……」
 敷いてやったはずの布団は綺麗にたたみ直され隅に寄せられている。遙が、その上に横になるのを確かに見た青年は、布団とは反対側の部屋の隅で三角座りをしている。
 なにを、とは言えないが、膝を抱え、頭も膝に押し付ける姿は、あからさまに拒絶をしていた。
 遙は素足で畳を踏み青年に近づく。イグサの匂いがする。長年経ち消えかかっていたその匂いに気づいたのは、遙が妙に神経をとがらせているせいだ。
 腰を曲げ青年の目の高さに揃える。軽く青年の手に触れると、ひんやりとしていた。
 息は――? 遙は心臓が一気に寒くなるのを感じた。しかしそれも一瞬の恐怖で、ぴくりと動いた青年の指先に彼が起きたことを知る。
 ほっとした。
「……風邪引くぞ」
「……」
「? 目、赤いな」
 正確には、水希は起きていた。一晩中眠りにつくことをしなかった。床の軋む音を聞いて、遙が寄ってきているのは襖が開く前からわかっていたため驚きはない。
 遙は水希の前髪をかき分けようと手を伸ばしたが、水希が少ない動作で触れられることを拒んだ。
 けほ、と小さく咳をした水希がカバンを手繰り寄せ緩慢な動きで立ち上がる。
 どこに行こうとしているのか。遙はその背中を睨む。
 ふと、水希のいたところに昨夜貸してやったバスタオルまで畳まれているのを見つけた。
 雨に打たれたから風呂に入れといった。
 青年は聞かなかった。
 風呂が嫌でも着替えはしろと言った。
 青年は聞かなかった。
 あまりに頑なに拒否を貫く彼に遙の方が折れて、バスタオルを使って体を拭くように、体を冷やさないように言いつけて居間に閉じ込めたのに。
 家に連れてきた直後濡れ鼠の男を家に上がれる程度に拭いてやったが、あれじゃあ足りないに決まっている。
「……寝てないのか」
「……」
 その通りだが答える気は毛頭ない。遙が起きる前に家から出る気でいたのにまさかこんなに早く目を覚ましてくると思っていなかった。体が重い。気持ち悪い。
 早くこの家を出たい。昨夜すぐ体調が悪くなり動けなくなっていた。少し待てば、と思っていたが、思っていた結果がこれだ。
 また遙と対面してしまった。それは水希にとって最悪以外の何物でもなかった。
 遙は腰を上げ水希を追いかけた。
 ゆらゆらと歩く背中は遙の足音に振り向かない。いささか癪に障り、乱暴に腕を掴む。
 虚ろさを持った若葉色の瞳が遙を睨んだ。遙は少し怯んだが、振り払われそうになった腕は、なんとか繋ぎ止めた。
 顔色がひどい。
「お前、熱……あるのか?」
「鬱陶しい」
 言葉こそ棘がある。けれど声に力はなく、腕の拘束を解こうとするのも弱々しい。
 青年からの肯定は得られていないが自分の読みは当たっているだろう。遙はへの字に曲げかけた口をゆっくりと開く。
「だから風呂に入って体を温めろって言っただろ」
「……」
「居間に戻れ」
「うるさい」
「うるさい、じゃない」
 相手が病人だとわかっているためか、遙の沸点は高い。水希を咎めるように見て隠さずため息する。
「そんな状態でどこに行く気だ?」
「……」
「聞いてるのか」
「……っ」
「とにかく、居間に」
「干渉するなっ!」
 勢いよく手を振りほどかれた。
 水希の怒鳴り声はシンとした室内によく響いた。
 遙は呆然と水希を見る。呼吸を乱した彼は獰猛な瞳で遙をねめつけている。
 しかしそれも少しの間のことで、ゆらりと傾いた体を整えるよう、二、三歩後退した水希は、壁に背をつき、力なくその場にしゃがみ込んだ。
 手足を投げ、力なく首を垂らした姿に、遙は慌てて駆け寄る。顔に赤みが差している。額に触れると思いのほか熱い。
 完全に発熱している。
 苦しげに眉を寄せ、細まった瞳は床を睨んでいる。心なしかその目は潤んでいる。
 遙は水希の腕を自分の肩に回す。抵抗する気力はもはや残っていないのか、水希は何もしてこない。
 力の抜けた人間は存外重い。水希を離してしまわないように、遙は慎重に居間に戻った。

 家に来た真琴に、腹痛がするから今日は休むと伝えたところ、意外にも真琴はあっさり引いた。
 真琴は、サボり癖のある遙について諦めているところがあるのかもしれない。
 遙は小さく吐息し玄関を後にする。居間に入る前一度振り返った。玄関の靴箱の下の方に、隠した男のローファーは見事真琴に見つからなかった。
 居間に入った。
 今度こそ布団に体を横たえた青年がいる。
 服は無理やり取り替えた。熱が上がりきったようなので、薄手のものだ。遙とほとんど同じぐらいの体格だったおかげで替えの服に困ることはなかった。
 真琴が来る前に体温を測ったところ、七度八分との結果が出ている。彼の平熱を知らないけれど発熱に変わりはない。つらいだろう。
 発熱の理由は言わずもがな。昨日、濡れた体をろくに温めも拭きもしなかったからだ。
 発汗しているようなので用意していたタオルで拭ってやる。
 飲み物はスポーツ飲料がいいと聞くが、遙の家にはミネラルウォーターしかない。買いに行くにも自販機や店は遠く、今青年のそばを離れるのが不安な遙はその点については諦めた。風邪に水が悪いわけではないだろう。
 薬箱も引っ張り出してきた。
 青年の目が覚めれば、まず水分補給をさせ、軽く食事をさせ、薬を飲ませるつもりだ。
 ただ、遙が懸念するのは青年が食事を食べるだろうかということだ。
 昨夜青年は出してやった食事を一口も運ばなかった。それどころか箸にも触れていない。
 潔癖症なのかという問いに対して首を振っていたが、昨夜、それから今朝のことを考えると、青年の自覚がないだけではないかと思う。
 意識のあった青年は、遙の出した食事を、遙の貸そうとした衣服を、遙の家の風呂を、遙の提供した布団を、遙が己に触れようとするのを、受け入れなかった。頑なに拒んだ。その原因が潔癖症でないのなら一体なんだというのか。
 極度に嫌われているのなら話は別だが青年とは初対面。嫌われる理由すらわからない。
 遙は徐にため息をする。ため息の回数が増えた自覚はあった。が、抑える気はない。
 朝ごはんはまだ済ませていない。なにせ朝日の上がる前から青年の世話を焼いていたのだ。
 遙は立ち上がり青年のそばを離れた。
 昨日、この男にやるつもりで焼いた鯖が残っている。ダメになる前に食べよう。


 夢を見ている。一人の男を遠目に見つめる夢だ。
 男は水面を掻き分け、掻き分け、気持ちよさそうに泳いでいる。
 水希自身、その男に好意を抱いていると気づいたのはつい最近のことだった。
 漠然とした恋心に戸惑った。男とは幼なじみという間柄で、頻繁に口喧嘩をするような仲の悪さで、なにより男同士で。
 どうしてこの男なのだろう。絶望よりもまず先に純粋に疑問を持った。
 どうして、口下手なこの男を愛しいと思うのか。どうして、表情など微塵にもないこの男を、
 どうして水にしか興味のない、
 男を
 どう
 ――お前、誰だ?
 して。
 水希は口を開き、ゆっくりと閉じた。心臓が嫌な騒ぎ方をしている。握った拳も変な汗が染み付いていて気持ちが悪い。
 いつの間にか制服姿に変わり、自分を怪訝な様子で見ていた男の横をすり抜ける。後ろからかかる声があったような気がするが振り返らない。
 振り返れない。
 怖い。完全な敵意を見せた青をもう一度見てしまえば、自分は、壊れてしまう。
 目の前に現れた段差をひたすらに駆け下りた。
 真っ白な世界を太陽が照らす。夏の太陽は容赦なく照りつけ、見上げる水希に六角形のゴーストを見せる。
 なぜ見える? ああ。夢だからか。
 夢。夢か。ならばすべて夢であればいいのに。
 水希は走るのをやめた。履き慣れないローファーのせいで足が痛かった。
 言えばよかった。忘れられる前に、忘れられないように。今までの悪口なんかより絶対、印象に残るだろうこの言葉を、告げてやればよかった。
 遙。
 胸の中でぽつりと呟くと視界がぼやけた。泣いているのだと自覚するには時間がかかった。
「……遙」
 今度は言葉にしてみる。一層胸が痛かった。
 少し進むと足がもつれた。いつの間にか砂浜に立っていたらしい。急なことだが構わなかった。夢だ。どんなことでも起こる。
 海の向こう。果てのない。
 頓に雨が降る。不思議と冷たさのない、温かい雨。
 不意に人の気配を感じた。振り返ると、傘をさした男がいる。
 ああ。
 どうして? ……どうして、なんて問いかけても答えは出ない。そんなの、自分自身が一番分かっている。
 答えなど見つからない。広い世界に忘れてきた。好きになった。それだけが事実として存在する。
「好きだよ。大好きだ」
 自然と口が紡ぎ、ボロボロと涙がこぼれた。自分のものではないんじゃないかと思うぐらい、涙は止まらなかった。
「好き、好きだ……」
 それしか知らない子どものようだった。
 困ったように眉を下げた遙が、己の方に手を差し伸べた。
 情けない顔をしたままゆらりとその手を掴むと、胸板に抱き寄せられ、ぐっと強く抱擁される。温かい。温かい。
 震える唇が四つの文字をつなぐ。雨音はうるさいのにその言葉は、鮮明
 に 水希
 の、耳 へ。


 鯖を食べ終えたあたりで魘される声に気づき、遙は慌てて青年の元に駆け寄った。
 しゃがみ込み、青年の顔を見て、息を飲む。
 泣いている。
 閉じた目、眦には確かに涙が浮いていて、先に落ちた雫を証明するように涙痕も残っている。
 遙は己の胸を押しつぶされるような感覚を覚えた。
 なぜ……。
 なぜ? 知らぬ男が泣いていることに胸が痛む?
 わけのわからない自分の感情に苛立ち、遙は唇をかんだ。
 とにかく、今は魘される男を目覚めさせてやらないと。青年の体に手を伸ばし
「……はる、か」
「、」
 硬直した。
 魘されていたので声は頼りなかったし、聞き取りにくかったが、それでも遙は青年が呼んだ名前を聞き逃さなかった。
 “ハルカ”
 珍しい名前ではない。知り合いに一人はいるような、一般的な名前だ。しかしその名が、この男の口から発されたという事実が遙を戸惑わせる。
「……、す、きだ……」
「!」
 思わず遙は伸ばした手を引っ込めた。
 青年が魘されながら呼んだ名前は。それに続いた言葉は、きっと、自分に向けられたものではない。だって自分と彼は初対面……、
 ……。そう。初対面、だ。
 この男が涙するほどに大切な存在の“ハルカ”は他にいる誰か。自分ではない。
 遙は深呼吸をし、鼓動の安定を図った。
 青年の肩を掴む。いつまでも悪い夢を見させていては可哀想だ。起こしてやらないと。