放課後、いつもならすぐにプールに走っているはずの遙は大きなダンボールを目の前に深い深いため息をついた。その横には水希もいて、しゃがみ込み随分大儀そうにダンボールを触っている。
「重たい」と3個ずつ積み重なったダンボールを軽く動かして水希が眉を顰めた。
「まあ、さっさと終わらせよう」
 不満を言いたくて仕方ないと言った顔をした遙と水希を宥めるような声を真琴が出した。さっさと終わらせて、早く部活に行こう。そう言われているのだと、さすがの2人でもわかる。
 水希が少し前の遙みたく疲れた息を吐き出して渋々ダンボールを持ち上げた。
 行事運営委員という役職は、基本仕事がない。滅多なことがない限りは呼び出しなどかからないのだけれど、時は10月後半、この時期には来年岩鳶高校への進学を考えている現中学3年生とその保護者へ向けた学校説明会が催されることになっている。
 それの裏方をするのが、行事運営委員で、事前準備や当日の会場整理をするのだと昨日の集まりで伝えられた。3年生は受験を控えているので、そういう雑用は必然的に1年生と2年生に回って来る。
 部活動生で大会の近い生徒は代役をたてているのだが、遙たち水泳部は、十分な練習を行える環境にないこともあり、冬季の大会には出ないので委員の仕事をしなければならなかった。
 冒頭の通り、この時期になっても遙は放課後プールに走っているのだが、事実そこにあるのは来年掃除が大変であろう緑色のプールと、走り込みや筋トレのメニューだけだ。泳げない。早いところこの環境をどうにかして欲しいものだ。
 閑話休題。この重たいダンボールには、明日まで差し迫った説明会で配られる学校のパンフレットが入っているらしい。詰め込めるだけ詰め込まれているのだろうから、中には何十部とあるはずだ。
 そんなものを計10箱、一度に持てる数はこの重たさから考えるに2個だろうから、3人で運ぼうと往復は避けられない。
 いっぺんに3個運ぶことも不可能ではないのだが、途中階段を下りなければならないのでやめておいたほうがいいだろう。途中で悪戦苦闘するのは目に見えているし、なにより、どっちにしろ一人は残った1個を取りに戻ってこなければいけないのだから。
 期待を裏切らず力持ちな真琴が先頭を歩く。その後ろをカルガモの親子のように、水希、遙と続いた。
 ダンボールのせいで視界が悪い。気を抜けば前方から来た人にぶつかってしまうだろう。特に階段は気が抜けない。うっかり踏み外してしまえば、悲惨なことに違いはないのだから。
 ちなみにこのダンボールは、南校舎の3階から北校舎の1階へと運ばなければならない。どうしてそんな不便なところに資料を置いていたのかとか、言いたいことはたくさんあったが、真琴も水希も、誰も文句を言おうとしないので、遙は黙って歩いた。
 階段を一つ下り踊り場に辿り着いたところで、水希がダンボールを持ち直した。
 なんとなく遙は「大丈夫か」と声をかける。「おー」と気の抜けた返事がきた。真琴はすでに次の階段を下っていた。
 もちろん階段は無人ではなく、遙たちとは逆にそれを上る生徒もいれば、踊り場で駄弁る生徒もいる。そのうちの2人が何やら悪ふざけをしていた。踊り場でじゃれているのだ。
 遙は一抹の不安を覚えた。そんなに激しく暴れまわって、どうか自分たちにはぶつかってくれるなよと、なぜかこの時に限って危険を感じたのだ。
 注意を払いつつもう半分下り終えた真琴を追うように遙が一歩階段を下りる。それに続いて、少しの休憩をとっていた水希も足を動かした。
「ここでっ! ボディーブロー!」
「おっ、危ねえ!」
 軽い調子の声が聞こえて、どっと、人と人がぶつかるような重い音が続いた。
「え」
 小さく短い声に遙は咄嗟に首を捻った。そうすれば、つんのめった水希が視界に飛び込んできた。
 ダンボールが2つ、宙に浮いている。
 カッと階段につま先の当たる音。
 自分の前に飛び出てそのまま逆らうことなく落ちていく、幼馴染。
 さあっと血の気が引いた。
「水希!!」
 遙の悲鳴に階段を下り終えた真琴も振り返った。それでダンボールが落ちてきているのがまずわかり、次に水希が宙に放り出されているのが目に飛び込んだ。
 水希は来るべき衝撃に備え、よくそこまで頭が回ったものだ、最低限の受け身をとっていた。
 どれもこれも一瞬のことで、遙が悲鳴をあげ、真琴が振り返ったすぐあとには、ダンボールは鈍い音をたてて踊り場に散乱し、水希もぐるぐると階段を転がり落ちた。
「水希?!」
 二度目に名前を呼ばれた時には水希は背中の強打で失った呼吸を取り戻し、身体中に走った痛みに思わず声を上げた。
 階段の数が十数段と、家のそれとは違って少なめであったのが救いか、それとも運が良かったのか、水希は意識があった。
 痛みに悶絶しながら涙でぼやけた視界を瞬きによってクリアにする。そうすると、唖然と自分の顔(というよりこの様)を覗き込む人物がいた。
「……」
 その人物は無言だった。水希はやっとまともな思考ができるようになり、まだ続く痛みに顔を顰めながらも、その人物を見返した。
 それで、ますます顔を顰める。意味がわからなかった。
 そいつは大人だった。学校では見かけたことのない、大人。
「…………水希?」
 彼の顔から何かつかえるものを感じていたのだが、彼の声を聞き、水希はぱっとひらめいた。
 この男、どこかで見たことがあると思ったが、七瀬遙にそっくりだ。とはいっても遙は17歳の高校2年生であるはずだから、大凡20代前半であろうこの男が七瀬遙であるわけがない。
 遙の父親だろうかとも思ったが、さすがにそこまで若くはなかったはずだ。
「……水希、なのか?」
 もう一度名前を呼ばれ、水希ははっと我に返る。混乱していたため流してしまっていたが、この男はなぜ、自分の名前を平然と呼んでいる? それと、手に触れた感じでわかったのだが、水希が転がっているのは、踊り場なんかじゃなく、コンクリートの上だった。
 水希は寝転んだままその男を半ば睨みつけ、「……遙?」と半信半疑で口にした。
 コツンとコンクリートに物が当たる音がする。どうやら男が手に持っていた回覧板が落っこちたらしい。
 ぱたん、とそいつが倒れた途端に、男が突然、泣いた。水希はぎょっとした。そうする以外の反応など何もなかった。
「……お前、今、いくつだ?」
 ひたすら混乱しながら水希は「16」と答えた。男はふむと頷き、ずっと寝転んでいる水希をどう思ったのか、とりあえず水希の腕を掴み、彼を起き上がらせる。
「階段から落ちたのか?」
 前とは違った意味で顔を顰めた水希に男が問うた。
 水希は歯切れ悪く肯き、ふと背中の階段を振り返る。
――驚いたことに目に映ったのは、学校の階段などではなかった。どこぞのアパートにあるような、鉄製の階段だ。
「俺は22歳だ」
 弾かれたように水希が男を見た。涙は引っ込んだらしく男は、ただ、真剣な目をしている。
「22歳の、七瀬遙だ」
 その言葉にガツンと後頭部を殴られた気分だった。

 状況は飲み込めないばかりだったが、あんな場所で立ち話をするのもどうかということで、ひとまずは22歳の遙だとかいう男に引き連れられ、水希は彼の家にいた。
 見慣れない景色がひどく落ち着かない。
 リビングのイスに腰掛けている水希はそわそわとしていた。
「ほら、オレンジジュース」
 部屋のあちこちに視線を彷徨わせていた水希の目の前に、オレンジ色をしたグラスがことんと音をたてて置かれる。水希はそれを見てきょとんとした。
 遙が「好きだろ?」と確認する。水希はぎこちなく頷いた。
「飲んでいい」
「ありがとう……ございます」
 相手が遙といえども、年齢が上なのは確かなのでどうしてもかしこまってしまう。
 まるで買ってきたばかりの雛鳥のように怯える水希が新鮮だったのか、遙が少しだけ目を細める。そわそわとする水希とは逆に、遙は妙に落ち着いていた。
 一旦喉を潤し、意を決したのか水希が重い口を開く。
「……ここは?」
「東京だ」
「? 遙、東京の大学に行ったの」
 声色が意外だと語っていた。
「てっきり、遙は県内で進学すると思ってた」
「……まあ、いろいろあったんだ」
「ふうん?」
 水希は首を傾げながらも納得してくれたらしい。そういうのは水希らしいと遙は思う。
 それにしても自分を22歳の七瀬遙だとすっかり信じ受け入れてしまっている順応性は褒めた物だが、そう簡単に信じられてしまうと水希が心配になる。変な話やらに簡単に引っかかってしまいそうで恐ろしい。
「俺は?」
 水希の質問に遙は閊えた。
 その微妙な変化に水希は目を細める。何かいけないことを言ったのだろうか。
「……言っていいのか?」
「? いいよ」
 まさかそんな心配をしたのかと心内水希は首を傾げた。別にいいじゃないかと思う。将来の話なんて減る物じゃないし、聞いたところで自分の力が及ぶ物だとも思えない。
「製菓専門学校に通ってる」
「へえ……受かったんだ?」
「そうなるな」
 どこか嬉しそうにする水希はこの時期からそちらへの進路を考えていたのだろう。遙はそれを初めて知った。
 遙が水希自ら彼の進路について聞いたのは、高校3年の12月中盤だった気がする。もっと早くに教えて欲しかったが、自分の高3の夏を振り返るに、言うに言えない雰囲気はあったのだろうから言いはしない。
「……そういえば遙さ、同居してんの?」
 水希の口から何気無く飛びだした質問に、遙はそんな回想をいっぺんに終え、どきりと心臓を鳴らした。
「どうしてだ?」
 平然を装って聞く。水希は先ほどより落ち着いた様子で室内を見渡した。
「なんかこの部屋、一人で住んでるって感じじゃないじゃん。食器とか、家具とか」
 変なところで勘のいいやつだと遙は水希を恨めしく思った。
 言うべきか言わないべきか、いっそごまかしてしまえばいいのか。ほんの数秒の間に遙はさまざまなことを考えたが、ただ純粋に疑問をぶつけているだけの水希にあれこれ策を巡らせるのは滑稽な気がしてきて、ため息を一つつくと、「してる」簡潔に答えた。
「あ、やっぱり?」
 自分の読みが当たったのがよっぽど嬉しいのか水希の声のトーンがあがる。
 水希はそのまま続けた。
「真琴?」
「水希」
「は?」
「水希だ」
 水希は怪訝そうに遙を見る。
 遙は「こんなどうでもいい嘘はつかない」とぶっきらぼうに言うとそっぽを向いた。5年経とうと変わっちゃいないなと思ったが、それ以上に遙に知らされた事実が衝撃的すぎて水希は口をはくはくと動かすことしかできない。
「おまえ、俺と同居してんの」
 まあ、そういうことになるわけだ。
 こくんと遙が頷く。水希はしばらく唖然とし、それから何やら喃語を唸って机に突っ伏した。
 よもや将来自分が遙と同居するとは思っておらず、余程恥ずかしいらしい。
「……俺、一人暮らしする予定だったのに……」
「真琴も上京するから、家賃とか、仕送りの負担が親にかかりすぎるって理由で、お前が提案したんだぞ」
「…………」
「……なんだその目」
 やおら持ち上げられた水希の視線を遙が怪訝な様子で見つめ返す。
 水希はゆっくりとした瞬きをし「嬉しい」と一言。遙は何も考えず何がだと聞き返した。
「俺、6年経ってもおまえと一緒にいれるんだな」
 机の上に伸びたまま、少し首を横に倒し、ふにゃりと柔らかく水希が笑った。
 遙は一瞬間ぽかんとしてすぐにじわじわと上り詰めてきた熱をごまかすように水希の髪をくしゃくしゃとまぜた。力任せなそれに水希が猫みたいに嫌がる。
「なにすんの」
 遙の手が離れたとたん、乱れた髪をそのままに水希は遙を睨めた。
「今のは水希が悪い」
 遙は鋭く睨み返した。譲らない様子だった。
 水希は腑に落ちない様子だったがこれ以上文句を言い合っても仕方ないと思ったようで、そういえばさと話を変える。
「俺ここに住んでるなら、俺はここにいない方がいいんじゃない?」
「? なんでだ?」
「なんか、気まずいじゃん。過去の俺と6年後の俺とが会うって」
「……」
 遙はすっかり黙り込んでしまった。
 彼の存外難しい顔に水希は訝る。先ほどから遙に対して水希はこんな変な違和感を持ってばかりだ。
「……大丈夫だろ。今は、いないから」
 ぽつんと捨てられた言葉は非常に重たく感ぜられた。
「いない?」
 水希は間を置かず復唱した。遙はどこか遠いところに視線を彷徨させながら「ああ」と頷く。
「いないってなんで」
 こういう時ばかりは、水希はしつこく質問をするやつだったと、遙はふと思い出す。自分が暗い気分でいると水希はそれを放っておこうとしてくれないのだ。適度な距離を持って、しかし完全には離れない。
 遙は二、三言台詞を考えて、口を動かした。
「今はフランスだ。そこに、留学してる」
「ああ……そういうこと」
 水希は肩の力を抜かした。
「てっきり死んだのかと思った」
 あっさりと零れたその言葉に遙の顔が、あからさまに強張った。しかし水希はそれを見てはいなかった。
「……もし」
「?」
「もし、22歳になった水希が死んでたら、お前はどうした?」
 水希はペアと思われるマグカップから遙へと意識の方向を変え、遙の顔が随分晴れないのを見ると、不思議そうに首を傾げた。
「さあ、わからないよ。そんなの想像もつかない」
 不謹慎な話題ではあるがさておき、自分は死んでいないのだろう。なのにどうしてそんなに沈んだ顔をするのだろうか。
 遙は水希の返答にそうかと力なく頷いた。
 ふっと遙が席を立つ。どこに行くのか問うこともできたがしなかった。水希はやはり拭えない違和感に焦燥に近いものを静かに感じていた。

 時間が随分と経ったようだ。
 階段から転がり落ちてなぜか未来にやってきた水希は、その地で夜を迎えていた。うんうん唸ったわりに解決策は見つからず、気付けばあたりは真っ暗だったのだ。
 遙が今日は泊まれと言ってくれたので言葉に甘えることにしてはいるが、あちらの自分はどうなっているのかと聊か落ち着かない。水希が最後に聞いたのは、悲痛な兄と幼馴染の声だったのだから。
「俺、どこで寝たらいい?」
 夕飯を終えた水希は食器をシンクに運びながら遙に問うた。ちなみに夕飯は遙が振舞ってくれたので、水希は食器洗いをするつもりだ。
 遙は冷蔵庫のミネラルウォーター取り出して、少し考えると、寝室は同じだと告げた。思ったとおり水希は唖然とした。
「折り畳みが一個と、シングルベッドを置いてる」
 遙が後付けすると、水希がわずかに安堵した様子を見せる。
 寝ぼけのひどい水希が遙のベッドに紛れてくることが常なので、実質1つしか使っていないことは言わないでおいた。