午前3時。こんな早くに目が覚めたのは慣れない環境のせいだろう。加えて二度寝も許されないぐらいに目が冴えている。
水希は布団から出てベッドに腰掛けると何気なく辺りを見回した。まだ暗い室内、見慣れない家具。少し離れたところに眠る年上を認め小さく息を吐く。夢ではないのか、昨日の出来事は。
階段から転がり落ち、未来の幼なじみと出会い。落ち着けばどうにか状況を整理することができるかと思っていたがそう簡単にはいかないもので、ちょっとでも現状に目を向けるとその奇怪さに頭痛がした。
……水でも飲もう。
水希は部屋を出て台所に直行する。初めて来た家といえど広いお屋敷なんかではないので迷うことはなかった。
――遙は自分に何かを隠している。
コップに水を注ぎそれを月光にさらしながら、水希は人知れず眉をひそめた。
遙の自分に対する態度がどこかぎこちないと思ったのは出会い頭より感じていることだ。
初めはほぼ自分と同じ理由、つまりは急に現れた過去の幼なじみに混乱しているのだろうと思っていたが、今の橘水希がどうしているのかを聞いたときに顔を強張らせた遙にそうではないのだと確信した。
とはいってもそれだけでは弱い。決定打は「もし未来の自分が死んでいたらお前はどうしたのか」という質問だ。
遙はわざわざそんな質問をするような人間ではない。この時期の自分と彼の間に何かが起こったのは確実、同時にそれは安易に触れてはならないものだとも理解した。
「俺は死んでる」
ぽつり、つぶやいて水を揺らす。
「それか死に近い状態にある」
ゆらゆらと揺れる水面を眺め続けてふっと排水口に視線を落とす。
心が恐ろしいほど穏やかなのはまだそれが事実であるとこの目で確認していないからなのか、それもと己のことといっても今の自分には関係のないことだからなのか。
――だからってどうしようもない。未来の自分の命の有無を考えている暇があったら元の世界に帰る方法を考えたほうがよほど頭のいい判断だ。
水希はコップの水をぶちまけて、一箇所に水が吸い込まれていくのを見送ると背を向けて歩き出した。
寝室に戻りまだぬくい布団にもぐりかけたときに、なにやらうめき声がした。なんだろうかと動作を止めて辺りを探る。苦しそうな声は時折呼吸すら詰まらせた。
「……遙?」
暗くて様子がよくわからない。水希はまた床に足を下ろして遙の方へ駆け寄った。
言葉にならない低い声はまだ鼓膜を揺らす。近寄れば存外苦しそうにしている遙の表情が見えて、水希は息を飲んだ。魘されている。それも随分とひどく。
怖い。胸を一直線に突き刺した何かから逃れるように頭を振って、どうすればよいのかわからないまま水希は遙の体を揺すった。
「遙」不安なままで彼を呼ぶ声は弱々しい。きっと届いてなんかいないのだろう、遙は未だ鈍く声を上げる。
「……、……っ」
「!」
死に際のような声だ。
緊張で体がこわばった。怖い。また同じ黒い影が忍び寄る。水希自身、何も恐れているのかがわからないが、遙がどこかに行きそうで。
「遙!!」
力の限り彼の名を叫び、やりすぎなぐらいに体を揺すった。シンと静まり返ったこの部屋にまだ時が流れていることを証明するように涙とも汗ともとれない雫が輪郭をなぞる。
「……、……」
ゆっくり、半分ほど遙の瞼が持ち上がった。水希はへなへなと力を抜かして遙に倒れこむ。状況がよくわからないのだろう、遙は不思議そうに水希の頭に手を伸ばし、くしゃくしゃと撫でた。
「どうした……?」
ふるふると頭を振る。どうしたはおまえだろうとか、言いたいのに口にできなかった。
少しずつ意識がしっかりしてきたのか、自分の頭を撫でる遙の手に力が入り始めたのを水希は未だざわめきながらも受け入れる。大丈夫、大丈夫。そっと自分に言い聞かせた。
「水希」
「……うん」
「……横に来てくれないか?」
「……うん」
すっと立ち上がり、もそもそと遙の布団に入る。触れてみるとわかるがやはり彼は随分大人になっている。顔を向かい合わせているのも、遙の手が背中に回るのも、先ほどとは違った意味で落ち着かない。
「……嫌な夢を見た」
ぽつりと遙が呟く。水希は遙のシャツにシワを作り、知ってる、小さく口を動かした。
「……魘されてた」
「、」
「すごく、苦しそうだった」
俺じゃ聞けないことか。そう聞くのはタブーなようで水希は口を噤む。「そうか」と力なく答えた遙は水希の背に回した手に力を込めた。
「魘されてるとき、何か言ってたか……?」
「なにも」
ぐっと遙の胸板に頭を押し付け、水希は堪える。
「なにも、言ってなかった」
遙の緊張がほぐれたのを水希は見逃さなかった。やはり、あれは触れられてほしくなかったのだ。遙の見た嫌な夢には自分が関係しているから。
うそをついた。
――「水希」
魘されながら自分の名前を呼んだことは、言わなくて正解だから。
翌朝――と呼ぶには些かしっくりこないが、もう1度目が覚めたのは時計が7時を示す頃だった。ぼうっと遙の寝顔を眺めていると、タイミングが良いのか悪いのか、彼の瞼も持ち上がる。
「おはよ」遙の目覚めを歓迎したのは幾分幼い幼なじみの笑みだった。
休日だけれど午前中だけ水泳の指導があるのだと言った遙だが、時間に余裕でもあるのか、例のごとく風呂に水を張って水着姿で浴室に消えてすでに久しい。水希はフライパンの上で暇そうにしているサバをなんとなく見守りつつもあがってこない幼なじみを心配した。
かれこれ30分過ぎようとしているが、その午前の指導とやらは何時からなのだろう。朝練と言うのか知らないが、水希の中で朝練は8時からだ。けれどもこの家の主が慌てる様子は見られないので……9時からなのだろうか。いい感じに焦げ目のついたサバを摘み皿に載せる。ついついため息がこぼれた。
あまり遅いとサバが冷えてしまうし、なによりサボりぐせのある遙がわかっていながらも水風呂に入り続けている可能性もあるので、水希はコンロの火を下ろし、エプロンをつけたまま浴室に足を向けた。
「っ」
そこでばったり遙とご対面するのだから、手間が省けたといえばそうである。一気に緊張を解き、なんだ遙か脅かすなよと心内ぼやく。
「どこか行くのか?」と首をかしげる遙にはさすがにため息を飲み込むことができず、「おまえを呼びに行こうと思った」と意図せずとも拗ねたような声色で答えた。
「そうか」と柔らかい声で言う遙に、まざまざと己の幼さを見せつけられたようで恥ずかしい。
「! サバ、焼いてくれたのか」
よくやったと言わんばかりに頭を撫でられ水希はいよいよ視線を落とした。
――遙は、自分よりずっと大人だ。
集合は9時だったようだ。
あれから時計の針が何周したのか。ドアを背中に水希はぼんやりと玄関に座り込んでいた。遙が見ればどうしてそんな奇行に出たのかと聞いただろうが、彼は「外に出てもいいがあまり遠くに行くな」と言い残しだいぶ前に家を出てしまった。
よくわからない。ここにきた自分がどうすればいいのか、遙の魘されていた話を掘り下げていいのか――遙にこの時代の自分は生きているのか聞いていいのか。
自分が死んでいるかもしれない。そのことを考えるとここに来る前に階段から落ちたことを思い出しゾッとした。『あちらの自分』はどうなったのだろう。ここに来たと同時、消えてしまったのだろうか。
考えれば考えるほど怖くなった。けれど泣いたって何も意味がないと、その場に縮こまる勢いの自分に鞭を打ち立ち上がる。何か、気分転換になるものを探そうと思ったのだ。
テレビでも見ていようかなあ。リモコンを探してキョロキョロすると、ふっと隅に置かれたメモ用紙に気づいた。束から引き剥がされていないそれには、なぐり書きの文字が残されている。
――病院の名前だ。
メモを手に取った水希は眉を顰めた。他にも、駅の名前と番数が書かれている。大凡その病院に最も近い出口だろう。ばくばくと急に心臓が走り出す。
しばらく考え、決断した。
遙は代わりになる服を持っていなかったので上のシャツ以外はここに来た時と同じ制服だ。スラックスのポケットに手を入れICカードの有無を確かめた水希は、メモを剥ぎ取り、ハンガーにかかったブレザーと、ベランダに干してあるシャツ(夜外に出したので乾いてはいるようだ)を乱暴に取ると、それらを羽織り、靴を履いて家を出た。
全く知らない人であったならそのときはそのとき、別に構わない。ただ水希はこのメモに記された病院にいる人間が赤の他人でないことを確信していた。理由などない。本能的にとかいうやつだ。またそこにいる人間についてもほぼ見当がついていた。きっと、そこにいるのは。
岩鳶なんか比べ物にならないくらいにごちゃごちゃとした路線に迷いかけたがなんとかメモに記された駅にたどり着くことができた。車内でアプリを使う人を見て焦っていたが携帯がなくてもそれなりにできるものだなと、水希はなんとなく満足しながら3番出口に向かう。
階段を上った先は目の前が病院だった。もっとこじんまりしたものを予測していた水希はそれの大きさに不意を打たれながらも入り口をくぐる。メモには部屋番号も書かれていたので、そこに向かうだけでいいのだ。
ポケットに突っ込んだメモをくしゃりとつぶし、水希はエレベーターに乗り込んだ。他に乗る人もいないらしいのでボタンに手を伸ばした瞬間、一人飛び込んでくるものだから心臓に悪い以外の何物でもない。
息を切らすその少年は自分に向けられた視線に気づき顔を上げ――水希と同じように目を丸くした。
どうしてそんな反応をされるのだ。他に人なんて乗っていないと思っていたのか。水希は見たこともない少年に向けられた目が不愉快で顔を顰める……が、ケンカを売るほど野蛮ではない。ふいっと彼から目をそらした。
7階のボタンを押して閉まっていくドアをぼんやり見ていると「あの」と声をかけられる。
誰になんて、このエレベーターにいるのは水希とかの少年だけなのだから、考える必要はない。
すっとそちらを見れば少年は水希の目つきに怯えたようであったが、ぐっと唇を噛んで堪え、
「橘さんの、お見舞いですか」
ゆっくり、問いかけた。
◇
律儀に届けられる回覧板をずっと部屋に置き続けているわけにはいかず、受け取って2日ほど経ったそれを上の階の人間に届けに行こうとしていたときのことだ。部屋を出て少し歩くと、ガンゴンと遠慮なく激しい音が俺を出迎えた。いったいなんなんだと混乱しているとしまいにはドサリと鈍い音。真琴だったら腰が抜けたかもしれない。そういう俺だってしばらくはその場に突っ立っていたのだけれど、何かの事故だったら――『事故』嫌な言葉だった。
わけもわからないまま音の発生源へ走ってみると、人が倒れているものだからいっぺんに焦りが募る。慌てて声をかけようとして、でも倒れこむ人が着ている制服に見覚えがあって、いやそんなことよりこいつをどうにかしないととしゃがみこんでから――はっと息を飲む。一瞬間意識を失っていたらしい彼はぱちりと目を開けて痛みに悶絶し、俺を見て――――お互い無言だった。水希がどうだったか知らないが、俺は頭が真っ白だった。
22歳の水希が目を覚まさないまま早2ヶ月。どういうわけだか神さまとやらは16歳の水希を寄越したらしい。
体の酷使も良くないということで今日は練習が午前だけだ。久しぶりの休みを、水希がいたときならば彼との時間に使い、彼が眠ってからは泳ぎ足りないとその場に残り自主練習。でも、今日は。
ビーッと強いブサーの後コーチからの召集がかかる。潔く水から上がり俺もそちらへ向かった。
「七瀬、今日はあがるんだな」
更衣室でかかった声に頷くと、声をかけてきたチームメイトは優しく笑う。彼は俺の幼なじみに起きた不幸を知っている。それゆえに俺を気にかけていたのも俺は気づいていた。
逃げるように自主練に打ち込む俺を気の毒そうな目で見ては口を閉じるのをよく見かけた。わかってたくせに何も言わなかったのかと思われるだろうが、恥ずかしいけれど、俺に余裕なんかなかったんだ。
深くは聞かずに肩をポンと叩くだけの彼に少しだけ水希の姿が重なった。
水に潜るときも頭を占めたのは急に現れた16歳の幼なじみだった。ああ見えて優しい水希のことだ、俺が無理しているのが少なからず伝わってしまったのだと思う。家を出るときの水希は元気がなかった。
あいつは家でどうやって暇をつぶしているだろうか。遠くに行かないのなら散策してもいいと伝えたけれど、どちらかというとインドア派(というより単に面倒臭がり)な水希が外に出たとは考えにくい。どうでもいい番組を見て、どうでもよさそうに頬杖をついている姿は安易に想像できた。
そこまで想像してふっとある考えが脳裏をよぎった。
病院で眠る水希は、そこにいるのだろうか。16歳の水希が来たこと自体摩訶不思議なのだけれど……いや、だからこそ、22歳の水希と彼とが入れ替わったんじゃないかという異常な考えに至ったんだ。
もしいなくなっていたら――想像しただけでひやりとする。目は覚めなくても、生きて、そこにいる。それは確実に俺の不安定な精神を繋いでいた。
家で待っているであろう水希には申し訳ないけれど、確認のため病院に寄ることにして、チームメイトと別れる。駅まで走って向かっていると「ハルー!」と後ろから声がかかった。
これが真琴でなかったら、俺は足を止めなかっただろう。
「病院?」
小走りで俺の横に駆け寄ってきた真琴が首を傾げ、俺の返答も待たずに「奇遇だね」と笑った。
焦る俺をいつの光景に重ねたのだろう。「ゆっくり行こう、水希は大丈夫だから」そう言って俺をなだめる真琴は淋しそうだ。しかしそれで俺もいくらか冷静になった。俺がなぜ焦っているのか知らないはずの真琴だけれど、彼が大丈夫というなら大丈夫な気がしたんだ。彼らは、幼なじみたちは、本当に不思議な奴らだ。
真琴と肩を並べて歩く中、水希の事を言おうかと何度か口を動かしたけれど、他愛ない会話の中で流れをつかめず、言えずじまいで病院の前まで来てしまった。
上の空な俺に真琴は何も言わなかった。この幼なじみには今だけに限らず、随分と長い間気を遣わせている。
「真琴」
「ん?」
言おう。うまく説明できないかも知れないけれど、伝えよう。昔の水希に会えて少なからず救われた。だから真琴も、言わないだけで深く傷ついている彼にも、なにかきっかけをあげることができるだろうから。
押したボタンの階数は7階。エレベーターの扉はゆっくりと閉まった。
「高校生の水希に会えるって言ったら、お前、どうする」
「え……?」
ふわりとした浮遊感も少しすればわからなくなる。眉をひそめる真琴は、俺の気がおかしくなってしまったと思っているのだろう。
「…………どうするかはわからないけど、会えるなら会いたいよ」
「……」
「また、笑った顔、見せてほしい」
「……ああ」
「ケンカしたい。ケンカして、仲直りして、あの憎まれ口、また、聞きたい……なあ……っ」
たまらず泣き出してしまった真琴に俺はそうかと返すことしかできなかった。泣くことをずっと我慢していた真琴を俺は知っている。弟たちの前でも、水希の前でも、俺の前でも泣かなかった真琴を、きっと階段から転がり落ちたバカならどうにかしてやれるだろうから。
エレベーターに乗っている時間はもともとそう長いものじゃないはずなのに、目的地に着くのは妙にかかった気がする。
「ごめんね」と謝りながら目をこする真琴の袖を引っ張り、目はこするなと言うと、彼はぽかんとして、ハルらしいやと破顔した。
「真琴、この後暇か?」
「うん。大丈夫だけど……用事?」
「……飯、食いに来い。多分あいつも喜ぶ」
「あいつ……?」
真琴は首を傾げ、立ち止まる。水希の病室は目の前だ。あいつって誰だと顔に書いてあるので気づかないふりをする。それはあとで見て、思う存分驚けばいい。
誰か来たのだろうか。水希の病室の扉が開いている。怪訝に思いながら中を覗いて――「ハル待って!」放心していたが戻ってきて、それから俺に追いついた真琴は、固まる俺にまたも首を倒した。
どうしたの? 真琴のそれも、言葉にならなかった。
「おまえ、なにやってんの」
その声は今朝聞いたばかりのものだった。
何度瞬きしても俺の目に映る背中は変わらない。どうしてここに水希がいるんだ。彼には事実を告げていないはずなのに。
「うそだ……」
真琴が絞り出したような声を出す。心霊現象とかがからっきしダメな真琴のことだから怖がって半歩引いたのかと思ったが、そうではないようだった。
呆然とする俺たちを振り返ったのは水希の横に立っていた――水希があの日助けた――少年だ。彼は俺たちを見ると「七瀬さん、橘さん」と泣きそうな声で呼ぶ。それで水希も俺たちの存在に気づいたに違いないのだが、一切こちらを見ない。
「水難事故だってね。なにしてるのおまえ。シャレでも笑えねーよ」
「っ」
横で息を飲んだ真琴は、涙腺が緩んでいるのか、また目に涙を浮かべる。泣くなという方が無理なのかもしれない。懐かしい背中を見て声を聞いて、焦がれ続けたものが目の前にあって。冷静になれなんて、無理なんだ。
「あの人、橘さんの知り合いだって言ってて……」
ああ、彼が全部水希に話したのか。
こちらに駆け寄ってきた少年が眉を下げて俺たちに言う。泣いている真琴と動揺している俺には少し引け気味になったが、それでも頼れるのは俺たちだけのようだ。
「大丈夫だ」そっと彼の頭を撫でて、ゆっくりと水希の方へ向かう。心配そうな視線はつきつきと背中に刺さった。
「真琴がどうして海を怖がってたのか、おまえは忘れたのかよ」
予想もしていなかった未来の自分の姿に気が動転しているのだろう。返事のない自分自身に問いかけては、水希は拳を固く握る。
「『待てば目が覚めるかも』って中途半端に期待させてなにか楽しい? いっそのこと死ねばいいのに」
はっと後ろで2人が息を飲んだ。
優しく水希に声をかけようとしていた俺は一瞬で消えた。たとえ本人の口から出た言葉だとしてもかっと頭に血がのぼる。後ろからの声なんて一つも聞こえなかった。自分でも意識しないうちに突っ立っている水希の胸倉を掴んでいた。
「ふざけるな……っ!」
俺が、俺たちがどんな思いで水希の目がさめるのを待っているのか、どんな思いで目の覚めない水希を受け入れたのか、それを知らない奴が、「いっそのこと死ね」なんて軽々しく言うな。
胸を占めるのはひどい憤りばかりで、落ち着いてって真琴が慌てて俺と水希を引きはがそうとしても、俺はぎりぎりと水希の首が絞まるぐらいに強くシャツを握り続けた。
「ハル! 離せって!」
「死ねばいいんだよこんなやつ」
「水希もやめろ!!」
「本当はみんな思ってるだろ。優しいから言わないだけで、中途半端に生きてるより死んでほしいって」
かあっと顔が熱くなって、その瞬間のことを俺は覚えていない。
ガシャンとサイドテーブルがひっくり返って上に載っていた小物が床に散らばる。真琴たちがなにやら叫んでいるのは遠くで聞こえる。壁で強く背中を打った水希は激しく咳き込んで、それでもなお俺を煽るかのようににいっと口角をあげた。怒りは収まらず壁に押し付けた水希をさらに強く圧迫する。多分水希の足は床についていなかった。
「それぐらい、あいつを叱ってやってよ」
とんと俺の手のひらに触れた水希の手はほんの少し冷たい。心なしか、水希の顔が青白い。ゆっくり、ゆっくり、自分の手から力が抜けていく。
おれは、なにをしていた。
「あいつ、目を覚ますよ。そのために俺が来たんだと思う」
「あ……俺……」
「気にしなくていい。俺が煽ったんだし」
咳き込むのを我慢しているのは見て取れた。水希は俺から解放されてふらふら、おぼつかない足取りで歩き、眠る彼の手を取る。
「遙も真琴も、それと君も、あとはこいつに言ってやって」
ぱたぱたと複数の足音がこちらに向かっている。きっと騒ぎを聞きつけた看護師だ。
水希は深く息を吸うと、眠る彼の手を自分の胸に当て、空いていた手を彼の胸に当てる。このとき俺は、自分のことで精一杯で気付けなかっただけだとわかる。水希の手は、震えていた。
窓の開いていない部屋に、ふわりと風が吹いた。
◇
水希は海底を歩いていた。薄暗いそこをぼんやり照らすのは所々に浮いて発光する、まあるいなにかだ。
球体以外にもいろいろなものが浮遊しているのに、自分は浮くことができないようだ。不思議な気持ちを抱えながら、水希は一本道を歩き続けた。誘われている。この先にあいつはいる。
口を開くとこぽこぽと気泡があがっていくが、息苦しくはない。奇妙なことにこの水中では息ができるのだ。
(遙、すっげー怒ってたなあ)
まだ少し痛い背中に苦笑いする。この痛みは幾度か現実逃避を図る水希に、すべて夢ではないのだと教えてくれた。
不安で仕方ないだろうに、不満をためているだろうに、黙って笑う遙が許せなかったのだ。水希に何も言わず、自分ばかりを追い込んでいる遙に苛ついた。だからわざと地雷を踏みにいったのだけれどあれは予想以上――いや、自業自得なのだ、何も言うまい。
それからもしばらく歩いて水希は一つの椅子を見つけると足を止めた。どこぞのお屋敷にでもありそうな、革張りの椅子だ。背もたれに隠れて姿は見えないが、だらんとした足と手とは目に入る。
「……呑気なやつ」
こぽこぽ、気泡があがった。
ここは地面が少し違うらしく、歩くたびに軽く砂が舞う。気を抜けば足を取られそうなそこをゆっくりと歩んで、水希は彼の正面に立った。
22歳の自分はこうなっているのか。下がった前髪で顔は窺えないけれども、水希は眠る人物をまじまじと観察した。こちらもごあいにく様、座っているせいで測れないが、身長は180に達しただろうか。ふっと笑って水希は彼に手を伸ばす。優しく起こしてやる気はなかった。
ただ、決して遙のマネではないことを先に言いたい。
「起きろよクズ野郎」
水希は彼の胸倉をとって、そのまま勢いよく後ろに押した。
水希が彼に触れた瞬間浮遊していたものが地面に激しく落下する。どっと鈍い音を立てて椅子もろども倒れ、ぴくりと彼の指先が動いた。派手に起こしてやったのに随分と薄い反応だなと水希は鼻先で笑う。
「寝すぎていろいろ鈍ってんじゃないの」
ゆっくり開いた彼の目は、水希を捉えた。
ゆらゆら、風のないここでまるで水に揺られるように2人の髪が揺れる。
「目覚めは?」
「……最低」
彼は自分の胸ぐらを掴む水希の手に触れる。ああと頷き、水希はそれをそっと離して彼の上から退いた。
「死ねばよかったのに」
「……」
「次はないよ」
彼は水希をちらりと見て、ふっと笑った。死ねばよかったなんて、本心はそうでないことをわかっていたのだろう。
くしゃくしゃと頭を撫でてくる手が遙を思い出させる。水希は泣きそうになるのをこらえて、震えそうになった彼の唇を押さえた。
「ありがとうを一番に言わないといけないのは俺じゃないだろ」
彼は驚いたように目を丸くして、それから泣きそうになった。俺だって我慢しているのだからおまえも泣くなと、水希は彼の脛を蹴る。けれども当たった感触がない。揃って足を見ると、さらさらと、金色に光る砂が、上へ上へと、流れている。
なんだ、目がさめるのか。水希も彼も同時に理解し、お互い顔を見合わせて、同時に笑う。
「遙たちによろしく」
水希が言うが早いか、彼は途端に砂になり、水希の目の前を通り過ぎる。水希はそれを見送って、自分も来た道を引き返そうとした――のだが。
(――――あれ)
かくんと膝が折れ、その場に砂が舞う。体が言うことを聞かない。鉛のように重たいのだ。
戻らないといけないのに。しまいにはその場に倒れんでしまい、こぽこぽと淋しく泡が上がるのをぼんやり見送ることしかできない。
――ああ、おまえがずっと寝てたのもわかるよ。水希は目を細め、指先を動かす。ダメだ、意識も遠い。もうどう足掻こうとムダでしかない。
22歳の自分に散々言ってやったが、結局同じ道をたどるわけか。自嘲の笑みを浮かべ、水希は静かに目を閉じた。
こぽこぽ、こぽこぽ……
水槽、赤い金魚がひらひらとヒレを揺らして水中を泳ぐ。水希はしゃがみこんでそれをぼうっと眺めていた。
ミンミンと外ではセミが鳴いている。4畳ほどの部屋には大きな水槽と小さな窓だけがある。電気もないそこで、水希は座っている。何も考えず、自由に泳ぐ金魚を眺めて。
こぽこぽ、こぽこぽ。水希は水槽の様子がおかしいことに気づいた。キッと嫌な音が耳に届く。
――ヒビ?
気づくや否や水槽は激しい音を立てて割れた。空気を裂くような短く鋭い音に驚いて咄嗟に身を縮め目を瞑る。
音に負けないぐらいの鋭い痛みが頬に走った。ガラスが飛んできたのだろうか。そんなことを考えて、戸惑いがちに目を開き――
「起きろ!」
ぱちりと瞬き。鋭い痛みはじわじわとした熱に変わり広がっていく。
「なにしてるの!」と美帆に押さえられる遙が真っ先に目に飛び込んだ。遙に頬を打たれたと理解するには少し時間を要した。
「ここは……」
「! 水希!」
目が覚めたんだなと自分の手を握る真琴に首を傾げ上体を起こす……と、激しい痛みが身体中に走った。
耐えきれずシーツに沈み、あまりの痛みに思わず唸ると慌てた真琴が「無理したらダメだろ! 階段から落ちたんだから!」と怒鳴る。
水希はクラクラする頭でそれを噛み砕く。階段から落ちた……って。
「だれが……?」眉を寄せたまま水希が問いかけると「誰って」と真琴が目を丸くする。
「お前だ」
答えたのは遙だった。
「俺が……」水希はそうつぶやいて、潔く思い出す。そうだ、ダンボールを運んでいるときに踊り場にいた生徒とぶつかって、落ちたんだ。
ならここは病院なのか。水希は心配する真琴に大丈夫だと言って次はゆっくり体を起こす。この場にいるのは美帆と遙と真琴の3人なので階段から落下しそう時間は過ぎていないのだろう。
「わたしは橘くんの目が覚めたことを伝えてくるわね」美帆は真琴に告げてそっと病室を出た。混乱した真琴だったが、すぐ水希のことだとわかり頭を下げる。
「遙」
「……打ったことは謝らない」
「うん……いや、それはいいよ。おかげで起きれたし」
あのまま狭い部屋で金魚を見ているだけの人生は退屈だ。水希は一人笑う。怪訝な顔をする2人には悪いが、話したって頭の打ち所が悪かったのかと心配されるだけだろうから己の胸にとどめておく。
けれど一つだけ確認したいことがあった。
「なあ遙」
「……なんだ」
「おまえ、今何歳?」
水希の予想通りの反応をこの場の2人がして見せた。ぴたりと遙の手が額に当たる。水希はそれを優しく剥がしてもう一度繰り返した。
遙と真琴は顔を見合わせて、見えない言葉でも交わしたのだろう、「17だ」遙は答えて――ぎょっとする。眉を下げ、目を細め、唇をきゅっ結び、あからさまな泣き顔。ぼろぼろと水希が涙をこぼしているから。
「だよなあ……っ」
「お、おい? 水希?」
「遙」
「ああ、」
本当は怖かった。たくさんの管を通され仰向けになる自分を見て、その場に崩れ落ちそうだった。
「遙、はる、かぁ……っ!」
ぎゅっと抱きしめられた遙は体勢を崩してベットに手をつき、ひたすら困惑している。知らないのだ、こんな子どもみたいに泣く水希なんて、何度も何度も自分の名前を呼んで、わんわんと声をあげて泣く水希なんて。
真琴に助けを求めようとしたとき、ひっとひきつる喉の音に水希の言葉が紛れる。遙はじっと水希のつむじを見下ろし、続きを静かに待った。
「おれ、おまえのこと、すっごい好きだ」
「、」
「すごく、大切だ……っ」
そんなこと、知ってる、ますます込められた腕の力に応えるように遙は水希の頭をぐしゃぐしゃとかき撫でる。
もう見たくない、何かを隠しそれに耐え笑う遙を、もう見たくないから。
水希は念のため診察を受け、特に異常は見られないということでその日のうちに退院した。後から来た父親とは別に、帰りも美帆にお世話になり、彼女の車に揺らされる。助手席に水希、後部座席に遙と真琴が座っている。その間、ずっと無言だった。
「水希、どうしたんだろうね」
急に素直になって、と、真琴は声を潜めて遙に問いかけた。遙は窓の外を静かに眺めている水希を見る。その横顔は気を失った間に随分と大人になっている気がした。
「……頭の打ち所がよかったんじゃないのか」
それだけ言うと遙はそっぽを向く。なにそれ。真琴はくすくすと笑った。
――聞こえてんだよバカヤロウ。水希はむくれながら外を睨み続け、ため息を抑え込むように目を伏せる。脳裏に浮かぶのは『彼ら』の姿だった。
遠い未来に自分の力が及ぶかはわからない。けれど、少しでも結末を変えられるのならば。
あの不思議な出来事をいずれ誰かに語る日が来るかはわからない。だがあれが夢だったのかもしれないなんて、遠い話にはしたくないと思う。
水希は自分の胸を押さえてふっと笑う。ああそうだ、未来を変えられるかなんて小難しい話はどうでもいい、ただあんな弱々しい手、こっちがごめんだ。
美帆はすうと寝息を立て始めた水希に気づき、もしやと後ろの様子もミラーで確認して、柔らかく笑った。
目的地まではもう少しかかる。それまで彼らが共通の夢を見られるのなら、それがいい。