※暗い、病んでる
彼らのことならなんだってわかっているつもりだった
俺が彼らと過ごした時間と、彼らだけで過ごした時間とではだいぶ差があった。前者はわりとブランクがあり、後者はぎっしり思い出が詰まっている。というのも小学生のころ、同級生と殴り合いばかりしていたので、俺はあまり真琴や遙と一緒にいなかったのだ。その間の分の彼らを俺は知らない。逆も然りだ。
だから飲み物を買いに自販機の前までやってきたとき偶然耳にした言葉になんら疑いを持てなかったし、反って、ああそうなんだと納得したのだと思う。
「橘くんってどっちの?」
「1組の方だよ。いつも一緒にいるでしょ!」
「へえ、橘くんと七瀬くんって付き合ってるんだ!」
俺が横にいるにも関わらず、3人の女子生徒はきゃあきゃあと高い声で話を続けた。そこにあがったのが見ず知らずの人の名前だったのなら俺は少しも興味を示さなかったのだけれど、残念なことに、彼女らが口にしたのは最も馴染み深い名前だったのだ。
真琴と遙が付き合っている。それを聞いて動揺したのはうそじゃない。でもなんとなく、そこまで反論する気にはならなかった。
高校1年の夏ごろ。クラスの人の顔と名前をやっとのことで一致させ、ぎこちなくもまあ馴染めただろうかというような時期だ。当然他クラスの人のことを知る余裕なんてないし、俺は真琴と容姿がおもしろいほど似ていないから、彼女たちも俺が真琴の身内であるということには気づかなかったのだろう。遠慮なく、言葉を紡いでいった。
真琴も遙も言葉を介さず理解しあうことができるとか、お互いを見る目が優しいとか。
どちらから告白したのか、という話題に至ったときには俺は飲み終えた缶コーヒーの容器を分別厳守と書かれたゴミ箱に投げ入れていた。カコンと先客にぶつかってたてた音に、彼女たちはちらりと俺を見たけれど、話をやめる気配はなかった。
もう少し耳をそばだてていたかったのだが、なんの用事もないのにここに突っ立っているわけにもいかないので歩き出した。
甲高い声は時折驚きを交えた笑い声を聞かせたが、それが俺の背中にぴったりついてくることはなかったので、きっとあちらで無遠慮に盛り上がり続けているのだろう。
不快な気持ちになったというわけではない。疑問を持ったわけでもなかった。
正直に言うと彼女たちの言葉はすんなりと俺の胸臆に腰を落ち着けていた。あああいつらは付き合っていたのか、知らなかった。意外だと驚くというよりも、距離の近い俺にその事実を隠し通せていたことに驚いていた。
真琴と遙は、真琴の双子であり遙の幼なじみである俺から見ても特別な関係なのだと思う。彼らが一線を超えた関係であろうと口を押さえ吐き気を催すなんてことはありえない。むしろ落ち着けた。だから次に沸いてくるのは意味の違う不快感だった。
どうして俺に教えてくれなかったのだろう。一言ぐらいくれたってよかったんじゃないだろうか。
少なくとも俺は彼らと薄っぺらい仲でないと自負していたので、彼らの関係を本人たちからではなく、まったくの赤の他人から耳にしたことに苛立ったのだ。
真琴は苦笑しながら口が悪いよとよく俺に言った。遙はお前は思ったことを率直に口にしすぎだと非難した。後者についてはおまえが言うかと言い返したが、ふと、だから2人は俺に教えてくれなかったのだろうかと思い至る。俺たち付き合っているんだ、と言って、俺がもし性別の壁を感じ、気持ち悪いと。そんなことを言ってしまうのではないかと思ったのだろうか。
そんなこと、言わないのに。
確かに俺は不意を衝かれただろうが心から祝福できたに違いない。
いずれにせよ、俺には彼らからの信用など無きに等しかったというのが今ここでわかった。それだけでも悔しく遣る瀬無いのに、なにも知らずに2人と肩を並べていた自分に顔が熱くなる。とんだ邪魔者じゃあないか。
俺は真琴と家族であるから、登校するときは真琴と遙にくっついていた。下校も然り。当たり前のように彼らのそばにいた。
2人がいつからそういう関係なのか知らないけれど、俺は邪魔以外の何物でもなかったはずだ。なのに彼らがそれを告げなかったのはどちらも優しいからなのだろう。
「あ、水希!」
「……」
「水希ってば!」
「……あ。わるい、真琴……と遙」
「俺をおまけみたいに言うな」
「ごめん。わるかった」
「……?」
「どうしたの? 体調悪い?」
教室に戻る途中偶然廊下で出会った彼らはちょうど俺を探しにクラスにやってきた帰りだったらしい。ぼんやりしていたのを真琴に心配されたので適当に取り繕う。唖然とする遙は、俺が嫌みを返さずに、しかも二言も謝ったことに存外ショックを受けているらしかったが、今はそれをつつく余裕なんてなかった。
ちょうど俺の中で話題の人物だった。情報を整理して感情を落ち着けるのにもっと時間がほしかったのに。彼らの関係を第三者を通して知ってしまった今、気まずさも多少はあったが何よりも自分への嫌悪と彼らへの子供じみた怒りを鎮めることができていなかったのだ。少なくとも今は、会いたくなかった。
未だに彼と目をあわせないのが原因なのだろう。真琴は俺の言葉を疑いつつも、用件を伝えようと口を動かす。どうせ今日の帰りの話なのだ。そんなことぐらいわかった。
そんなことぐらいしかわからなかった。
「今日も終わったら迎えに行くね」
「……」
いつもそうしているのにわざわざ告げに来る真琴がどんな意図を持っているのかはよく分からない。
すぐには返事ができなかった。2人で帰れよ。ぶっきらぼうなその言葉はいつもの俺に反してまったく口にできなかったのだ。
「……水希? ねえ、本当に大丈夫?」
「あ……ああ。わかった、終礼が終わったらまた」
「……」
2人の横を歩く自分を想像すると気が滅入ってしまったのだと思う。それと、彼らとは他よりも随分深い仲で、自分は特別な立ち位置にあると自負していたのだから、彼らのことを何も知らなかったという事実は、思いのほか重たいものだったのだ。
それだから2人で帰れとも言えず、遙の何かおぞましいものを見るような視線にも、何も反応できなかった。自分が思う以上に俺は混乱していた。
いつまでも仲の良い幼なじみ、仲の良い双子ではいられない。薄々気づいていたことなのだけれど、それが唐突に俺の目の前にどっしり腰を下ろすものだから、つい歩みが止まってしまった。
彼らに甘えている意識はあった。いつかは幼なじみ離れをしようと思っていた。いつかは兄離れをしようと思っていた。そう、俺は居心地のいい2人に甘えて、しなければならないことをいつかいつかと永遠に先送りにしていたのだ。
今ここで決心しなければ、俺はこれからも2人にとっての障害物である。
真琴たちの横を通って数十歩、ぴたりと足を止め振り返ると、どういうわけなのか真琴たちと目があった。……あまりに反応の悪かった俺を気がかりに思って見ていたのかもしれない。
それのせいでほんの少し気を押されたが、ここにきてやっといつもの俺が戻ってきたらしい。
「真琴、やっぱりさっきのなし」
「え?」
「しばらく別々で帰りたい」
「は? え、待ってよ」
対話をするにはいささか離れた距離であったが今さらあちら側に寄っていくのも変な話であった。
言葉がいきなりすぎた。それぐらい口にした本人である俺が一番に理解している。真琴が変に口角をあげる横で、遙も僅かに目を丸くしていた。
「別々にって、なんで急に? それに俺も水希も、帰る家は一緒だろ?」
「家が一緒だからって一緒に下校する理由にはならないだろ。俺とおまえらはクラスが違うんだ。今までだって終礼が済むのにだいぶ時間差ができて随分待たせたことだってあったし、正直時間のムダだよ」
「……時間の、ムダって……なんだよ」
「そのままだろ。俺を待ってるより早く家に帰った方がいい」
「誰かに何か言われたのか」
ずっと沈黙を保っていた遙が口を開いた途端、やけに饒舌になっていた俺は一度ぴしゃりと口を噤んだ。勘のいいやつ。何事にも無関心で気が利かないように見えて、実は真琴よりも他人の気持ちに敏感なのだろう。
遙の指摘はほぼ当たっていた。それでもここでぐっと唇を噛み締めてしまえばその通りですと主張しているようなものなので、俺はすぐに否定した。
「そんなんじゃないよ。そもそも俺たちが一緒に帰ることに文句を付ける人だっていないだろ」
「……」
「俺がおまえらと別に帰りたいんだ」
「……なんで?」
「なんでって、もういいじゃん。単に一緒に居たくないだけだよ。いい加減しつこい」
言った途端にしまったと思ったのだが時間が巻き戻ることはない。むきになっていた。俺が彼らのことに関して無知であったこと、いつまでも厚顔無恥に彼らの横にいたこと、彼らに微塵にも信頼されていなかったという事実。自己嫌悪と怒りと遣る瀬無さと、あげればきりのない負の感情は、随分前に言ったように整理できていなかったのだ。
今のは八つ当たりにすぎない。あれじゃあ誤解しか生まないだろう、真琴を傷つけたのは間違いない。最低なことをしたと瞬時に気づいた。
謝ろうと思った。違うのだと弁明しようと、即座に動いたのだけれど。
予鈴が鳴り響いたのは俺が口を動かしたのと同時で、どちらの方が強かったのかは言うまでもなく、俺の声なんか、やけに大きく聞こえた鐘の音にかき消されてしまった。
「おい水希、次移動教室だぜ……お取り込み中? えっと、水希の兄ちゃんと幼なじみくんだろ?」
「あ……いや、今終わったところ」
「そう? なら……はい。お前の教材と筆箱持ってきてやったし、行こうぜ」
クラスで一番仲の良い友人がやってきて、俺の腕を掴んだ。彼は俺たちの間に鎮座していた居心地の悪い空気を物ともせずに、むしろ真琴たちに軽く会釈する余裕すら持て余していた。
次は化学の実験だったとか、勝手に俺の荷物を漁るなとか、今思い出したことや彼に言ってやりたいことは多々あった。でもそれ以上に俺の頭から離れなかったのは、俺が最低な言葉を告げたときの真琴と遙の表情であった。俺の一言が彼らを傷つけたのは明確だった。
何が今終わっただ。何も終わっていないだろう。そう自分を叱りつけたのだが友人に引っ張られる腕を払おうとも、真琴たちのところに戻ろうともしなかったのは、不意に気づいたからだ。
優しい彼らは俺を疎まない。俺を邪魔としない。あるいは思っていても無理に認めようとしないから、俺が最低なやつになって、嫌われてしまえば、俺は彼らから離れてやることができるんじゃないだろうか。2人きりにさせてやれる。俺を彼らから切り離すことができる。それは俺が望んだことだった。
あの様子じゃ、嫌うまでとはいかずとも、さすがに俺のことを嫌なやつだと思ったはずだ。この勢いで一気に距離を置いてしまった方がいいだろう。2人は優しいから、中途半端な距離にいると、きっと手を差し伸べてくる。大事な幼なじみだろ、大事な双子だろって、3人で仲良く幸せにいることを優先しようとする。
俺は邪魔になりたくない。いつまでも3人でこの生ぬるい関係を続けることができるなんて思ってもいない。あればいいなと願うことはあっても、それは無理だとどこかで理解していたのだ。
真琴と遙が幸せであるならばそれでいい。かつ俺はそれを阻害したくない。
「水希ってさあ、手ェきれいだよなあ」
「?」
「んー……恋人つなぎ!」
「……」
「その蔑みの目ガチすぎてやべえ」
恋人つなぎだとか言われた手をじっと見て思うのは、こういうことを真琴たちはしたのだろうかなんてものだった。俺の知る範囲では見たことがないので、常に彼らのそばにいた俺のせいで彼らのしたいことがなに一つできていなかったのならば申し訳なさしかない。でも俺が離れてやれば、きっと。気づくにはいささか時間がかかった気がするのだけれど今からでも遅くないはずだから。
目とは裏腹手を振り払わない俺を見ていた友人はその顔をにやけたものに変えさせ、意地悪くゆがんだ口から余計な言葉を吐き出しそうだったので、だいぶ力を込めて脛を蹴ってやった。威力は上々、彼の反応はお察しの通りだ。
運のいいことにHRが先に済んだのは俺の方だった。
あんなことを言った手前何を勘違いしているのかと蔑む人もいるだろうが、もし真琴たちのクラスが先に終わっていたのならば、今俺が靴を履き替えるこの場にはきっと彼らがいただろう。
それは決して俺が彼らに大事に思われているからとかではなく、彼らは優しくなおかつ俺よりも大人なので、あんな最低な態度をとっても俺に歩み寄ろうとしてくれるはずだからだ。加えてさすがに今までずっと親しかった仲の人間にいきなり突き放されて、あっそうですかと頷けるような無頓着さ、あるいは無関心さなど持ち合わせていないのだ。
要するに何が言いたいかっていうと、結局今日も変わらず真琴たちと下校してしまうのを――2人の邪魔をしてしまうのを――回避できたということだ。
とは言っても真琴は家族なので家での接触は避けられない。学校でのあれはなんなのかときっと問い詰められるだろう。そのときなんと伝えるのかを、今日だけで随分と働いている容量の小さな脳みそをフル稼働させて考える。
まさか単刀直入に「おまえらが付き合ってるからそれを考慮しての行動です」なんて言えるはずがないだろう。当人たちから関係の変化を告げられなかった以上、それを俺が知っているということは失礼なことなのだ。つまりは付き合っていることは俺に知られたくないことというわけで、いつか彼らが俺に教えてもいいと思える日がくるまでそのことには少しも触れず、知らないふりをしておくのが当たり前のことだ。
妥当なのは、そうだな。ふっと思い起こしたのは「ブラコン」と俺を罵る遙のことだ。この期に及んで思いついたのが遙との話であったことに情けなさを感じたのだが今は目を瞑っておく。特にブラコンである自覚はないけれど表向きは「兄離れ」にすればいいだろう。俺は第二反抗期のやってきた面倒くさい弟を演じればよいのだ。そうすれば、特に遙の納得を得るのは容易いだろうし、真琴も苦笑しつつも俺と距離を置いてくれるに違いない。我ながらいい案だ。
2人の中から俺という存在をなるべく薄めるためには、接触時間を減らすのが手っ取り早い。下校を共にしないのなら登校も同じようにするのがいいだろうから、時間をずらそう。初めの頃は10分、20分なんて可愛い範囲じゃあ結局彼らの邪魔をする羽目になりそうなので、とりあえず明日は一時間ほどはやく家を出よう。
そんなことまで考えていれば、久々に歩いた一人での帰路はすぐに終わってしまった。たどり着いた玄関をくぐり今しがた脱いだ靴を並べる。
「お兄ちゃんおかえり!」
どたばたと音を立てて飛びついてきたのは蘭だ。それをしっかり受け止めて、きょろと俺の後ろを覗いた彼女の頭を撫でる。何が言いたいのかはよくわかっていた。
「真琴もすぐ帰ってくるよ」
「……いっしょじゃないの?」
「ん」
「お兄ちゃんたち、けんかしたの?」
大きな瞳を潤ませた蘭が不安げに聞いてくる。一度帰宅を別にしただけでもこんな反応をもらうのだから、日頃俺がどれだけ真琴にくっついていたのかまるわかりだ。
「してないよ。クラスが違うから別々に帰ることにしたんだ」
「ほんとう?」
「本当」
くしゃくしゃと頭を撫でてやれば蘭は次第次第に笑顔を取り戻して、ぎゅっと俺に抱きついた。よかったあと安堵されると、実は内心複雑な気分だ。
「水希にいちゃん!」
随分遅れをとった蓮が走ってくる。聞くとリビングでうたた寝していたらしい。言われてみれば変な寝癖がついていた。
蓮は俺におかえりと言った後、俺の後ろを確認して、不思議そうに首を傾げる。さすが双子だなあと、自分だって双子の兄弟もちではあるが変に感心してしまった。
「真琴にいちゃんは?」と、やはり蘭と同じことを聞いてきた蓮であったがこれには俺ではなく、蘭が、どんと胸を張って答えた。その姿には数分前の弱々しい影なんて全く見られず、さっきのおまえはなんだったんだと俺はつい笑ってしまった。
それからは双子に着替える間も無くリビングへと連行され、なんだかよくわからないごっこ遊びに付き合わされた。今日も今日とて蘭に圧倒される蓮にあきれていれば、今度はにいちゃんの番だよと催促される。夕飯を作りながら母はくすくすと笑っていた。
ふと気づくと覚えのないブランケットがかかっていて、横には温もりがあった。まどろみの中にある意識は朧だ。最後にある記憶は蓮とプロレスごっこをしていたものなのだけれど、いつの間にか眠っていたらしい。横の彼は誰だろう。蓮や蘭にしては体つきががっしりしすぎだ。
「あ、起きた?」
ゆっくり瞬いてやっと横にいるのが真琴なのだと理解した。いつ帰ってきて、いつから俺の横にいたのだろうか。1つ消化すれば2つ浮き上がる疑問には誰も答えてくれない。そもそも俺自身、真琴の俺の髪を梳く手が気持ち良くて答えなんてどうでもいいと思い始めているのだけれど。
真琴の隣はあったかくて、気持ちがいい。もう彼には甘えないと決意したはずなのにどうしても離れられない。真琴。小さく呼んだのに聞こえたのか、真琴が小首をかしげて笑う。ああ、落ち着く。
もう一度目を閉じる。これを次開くときにはもう甘えないから。ちゃんと、彼から、彼らから離れるから。言い訳みたいに心内つぶやいた言葉は一体誰に向けていたのだろう。
「水希、ご飯だって」
「……ん」
俺が再び真琴を見るときはそう間を置かず訪れた。肩を優しくゆすられて、漕ぎかけていた船を止める。相変わらず真琴は穏やかな目をしていた。
図ったわけではないのだが、真琴と同時に立ち上がって、気づけば家族みんなが揃っている食卓へとふらふら歩く。千鳥足とまではいかないけれどあまりに覚束ない足取りに真琴が笑ったのがわかった。
夕飯を食べている間、俺はあのことをすっかり忘れてしまっていたのでどこか夢見心地でいたのだが、夕飯後しばらくして風呂に入ろうと廊下を歩いていたときに、蘭たちに構ってやっていたのだろう、ちょっとだけくたびれた様子の真琴と鉢合わせしたときには(同じ家に住んでいるので鉢合わせなんて変な表現だけれども)、目と同様頭もすっかり冴えていたので多少なりとも気まずさがあった。
言われるだろうなと思った。そしてその読み通り、俺の前でピタリと足を止めた真琴は俺の通路を塞いでしまい、俺はそこで止まる他なくなってしまった。
言いたいことはわかってるよなって顔に書いてある。
「俺たちのこと、嫌いになった?」
「っ……」
そんなことないと、すぐバカ正直に言いそうになった口が恨めしい。今は言葉を慎重に選んでいかなければいけないのだ。そうじゃないと学校であんな態度をとった俺が報われない。
一度唇を噛んで、その一瞬に思考を巡らせる。何が最悪で何が最良なのか。その中間でも困る。俺は最良の方法を導き出さなければならない。
「……嫌いになったとかじゃなくて」
「うん」
「双子だから幼なじみだからって、いつまでも……いつまでも一緒にいるのが当たり前じゃないだろ」
「……」
「俺はこれ以上おまえらに甘えていちゃいけないから、離れたい。真琴たちとずっと一緒にいるのは、きっと……ダメなんだよ」
いろいろ考えたはずなのにいざ真琴を前にすると牽強付会するような形になってしまった。俺自身何を根拠にそんなことが言えるのかよくわかっていない。けれど本当のことを言うのはどうしても憚られて、結局それ以外策はないのだ。
何も答えない真琴が怖い。だから俺は顔を俯けて、彼の返事を待たずに彼の横を通り抜けた。
腕を掴まれることもなく、真琴の声も視線も後を追ってこなかった。異様に速く脈が打ち付ける中でそれだけが唯一救いと言えた。
目が覚めたのは昨夜設定したアラームの20分前であった。
久しぶりの早起きにどうしても下りそうになる瞼を無理に持ち上げてごしごしと目をこする。布団からでた途端にアラームはお役御免だ。枕横の携帯電話を操作してそいつは解除しておいた。
真琴はもちろん、家族はほとんど深い眠りの中だろう。起きているのは父ぐらいだろうか。いや、父の弁当を作るために母も起きているかもしれない。いろいろ考えたってこんな早朝のみんなの事情なんか知らないので答えはわからなかった。
部屋から出て階段を下りる。鼻をくすぐったのはコーヒーの香りだった。リビングに近づくにつれてニュースキャスターの声がはっきりしはじめる。父はやはり起きていた。
ふあとあくびを一つして、おはようと寝起きの隠せない声で言うと、スーツ姿の父は目を丸くする。随分と早いんだなあと感嘆して言われ、頬をかく。うん、とか、まあ、とか。あまり返事にはなっていなかった。
「あら、おはよう。水希」
「おはよ」
「随分早いのね。学校で何かあるの?」
「んーん。何もないよ。たまには早めに学校に行って、予習とかしようかなって思って」
「はあ……」
とってつけた理由は2回目だ。それなのに父は存外感心してしまったらしく、熱いコーヒーの後のため息にそれを交えていた。なんだか後ろめたくなった。
「あら、でもお弁当ができてないわ」
「知ってる。自分で作るよ」
「それぐらい作ってあげるわよ。すぐにはできないけど、いいかしら?」
「あ……うん。ありがとう」
母にも日頃のリズムがあるだろうにそれをいきなり崩してしまったことを申し訳なく思う。これから早く出ることを先に告げておくべきだった。
「真琴は?」
ひとまず顔を洗おうと彼らに背を向けたときにぶつけられた、父の一言は不意打ちであった。
「真琴は早起きじゃあないのか」
振り返ると父は笑っていた。そこに深い意味はないとわかっている。俺と真琴は双子だから大概のことを一緒にすると周りに認知されているだけであって、他意はない。けれど真琴の名前は俺を動揺させるに十分だったのだ。
「……えっと」
「? なんだ、遅いお兄ちゃん離れか」
ぱちぱちと瞬き。父の笑みは変わらない。
なんだ、からかわれただけか。いっぺんに脱力した。
「顔、洗ってくる」
変に探った自分が恥ずかしくてぷいとそっぽを向いた。それがまた父にいらぬ印象を与えたらしい。「おっ、反抗期か?」なんて言葉がかかってきた。
無視するわけにもいかず俺はそれにしかめ面をして、次こそは洗面所に向かった。「やめてくださいよ、お父さん」そう言って咎める母も少し笑っていた。
俺が身支度を整えて、母が弁当を作り終える頃には、父は玄関を通り抜けていた。彼に対するいってらっしゃいは久しぶりだった。曲がってるぞと指摘されたネクタイは父が整えてくれたのだが随分と窮屈だ。
腕時計と壁掛け時計、それからテレビの左上に表示されている時計とを見比べてもどれも大差なく、いつもより1時間近くは早い登校時間を示している。
真琴が下りてくる様子はない。
「行ってきます」
「あら、もう行くの?」
「うん」
「ふふ、気をつけていってらっしゃいね」
カバンをひょいと肩にかけてスニーカーに足を突っ込む。左の紐がほどけかかっていたけれど支障はなさそうなので放っておいた。
少し時間が変わるだけでいつもの景色が違って見える。横に彼らがいないのも理由の一つなのかもしれないが、新鮮な気持ちで、つい深呼吸なんてしてしまった。
石段を下りるときの音は静かだ。朝日に反射する海をぼんやり見ていると心が浄化されていく気さえした。
「あれ。水希?」
「? 欅田」
「おはよ。早いな」
階段を下りて少し歩いていたときに出会ったのは昨日俺の教材を準備していてくれた友人である。ツンツンした短髪の彼は、けやきだ、と言うのだが入学当初は全く読めなくて困ったし、彼自身そう言われるのはもう慣れているのだと言っていた。未だに漢字で書けないことを言うと追い打ちになりそうなので黙っておく。
後ろから声をかけてきた欅田は、俺の横に来るなり自転車からおり、意外だと言わんばかりに俺の爪先から脳天までをじっくり見る。朝っぱらから不愉快なやつだなと一睨みすると、わりいわりいと平謝りされた。
「水希って家近いんだな。余裕で徒歩圏内じゃん」
「まあ。それも進学の理由だし」
「はは、お前らしいぜ」
窺うように見上げると他意はないのだと欅田は軽く手を振った。
「欅田はいつもこの時間?」
「そ。朝練があるからさ」
「へえ。野球……だっけ」
「覚えてたんだな、意外」
驚きで目を丸くする欅田に失礼なことを言うなと言ってやりたかったが、正直なところ彼の背負う野球部のエナメルバックを見なければ思い出せなかったのが事実だし(つまり覚えていたわけではないのだ)、そっぽを向くだけにしておく。
欅田がからからと笑うのと、欅田が押す自転車の車輪からからから音が鳴るのはなんだかいつもと違ってくすぐったい。
「……いや、待て」
「ん?」
「朝練あるなら俺と歩いてる暇なんてないだろ」
時間は? 余裕はあるのか? そんなことを急に詰め詰め聞くものだから拍子抜けしたらしい。欅田はぽかんと口を開け、それからぷっと破顔した。
「なんで笑ってんの」
「やー……水希って案外優しいよなあ。入学して早々はどんな怖い番長かと思ってたけど」
「番長……」
「時間は心配しなくていいぜ。あと5分しかねえけど」
「はっ?」
思わずその場に立ち止まる。あと5分って、ギリギリすぎるだろ。というよりもこのペースでいくと確実に遅刻だ。
欅田は珍しい顔してんなあとのんびり言って、自転車に跨る。あ、漕いでいくのか。納得と安堵が大きく彼のからかいの言葉を買うことはできなかった。
「ほら、後ろ」
「?」
「荷台だよ、にーだーい! 乗って!」
ペダルに片方足をかけ、自転車を斜めにしながら欅田は決して柔らかいとは言えないそこをバシバシと叩いた。
言いたいことはわかる。けれどどうしてそこに至ったのかが理解できないのだ。
「いや。俺はいいよ」
「よくねえの」
「はあ?」
「俺は水希と一緒に行きてえの。わかる?」
とんとん、欅田は自分のこめかみの少し上を軽く叩く。「アンダースタン?」なんて完璧なカタカナ発音がいらっとしなかったのは、彼の言葉に驚いていたからだ。
「水希、早くしろって。あーあー、俺遅刻しちゃうー。グラウンド50周〜ペナルティ課せられちゃう〜」
「っわかった! わかったから黙れ!」
急かされるのは好きじゃないし、俺のせいで欅田がペナルティを課せられるのも本意でなかった。
2人乗りはよくないのにとかぶつくさ言いながら、乗り心地のよろしくない荷台に腰を下ろす。素直じゃねえのって欅田は笑った。
「そんじゃ、行きますっ!」
「うわっ」
ぐんと軸をまっすぐに戻して、彼は自転車を勢いよく漕ぎ進めた。慌てて欅田の背中に手を当てると、それじゃあ危ないから腰を掴んでいろと注意された。躊躇ったが渋々手を回した。
2人乗りとか、同い年の人とするのは初めてかもしれない。いつもはじっくり眺めることのできる海が一瞬で流れていく。前髪があがって額が露わになるのがわかる。切った風が頬に当たるのが気持ちが良い。
「あー、野球部のやつらより断然軽いわあ……」
しみじみという欅田がジジイ臭くて声に出して笑った。
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欅田は駐輪場に自転車を止めた後、全速力で部室棟に走って行った。駐輪場からグラウンドを挟むというかなり離れた位置にあるそこに彼が向かったのが朝練開始の2分前だった。恐ろしいことに彼はあの後3分で学校に到着したのだ。
後ろに俺を乗せてのあれは誰かに怒鳴られてもおかしくないものだったと思うし、乗っている俺も結構怖かった。いつ振り落とされるのかと、本当、気が気でなかった。
駐輪場は正門、ついでに昇降口から離れたところにあるので俺はムダに歩く羽目になったのだけれど、裏門からの登校はなかなか新鮮であったしたまには悪くないかなと思ったのでそこまで苦ではない。
ゆっくり歩いて昇降口まで向かう際、右手にあるグラウンドでは野球部の連中が挨拶をしていた。その声があまりに大きくてついそちらを見ると、恐ろしいことに、あの男の姿があるのだ。欅田はきっちりユニフォームを着こなして、列の中央辺りに立っていた。
遙といい勝負な早着替えだと思われる。
ふと欅田がこちらを見て、にっと笑った。俺も笑い返すなんてのはらしくないのでしっしっと手を振ってやると、なぜだか欅田は更に笑みを明るくした。なんでだおまえ、払われたんだぞ。
欅田はよくわからない。無愛想な幼なじみと、その幼なじみに過保護で、お人好しな兄しか俺は見てこなかったので、彼のような人は初めてなのだ。彼はつかみどころがなかった。
そんなこともあって、俺は今日の登校時間がいつもより1時間も早いことをすっかり忘れていたのである。
教室に上がればそこは真っ暗で鍵はもちろん閉まったまま。しょうがなく1階まで下りて職員室の戸を叩いた。すでに来ていたらしい担任の驚いた顔を拝むことができたのだがまったくいらないオプションである。
教室に戻ってからは蒸し暑いそこの窓を全部開け放ち、遠くに見える海を眺めた。磯の香りがする。すうと息を吸えば首を絞められたので窮屈なネクタイを少し緩めた。
「水希ーっ!」
声はグラウンドからだ。そっと視線を落とすと、グローブをはめたのとは逆の手でぶんぶんと手を振る欅田がいる。なんだあいつ、暇人か。
呆れ顔をしておいて、手は振り返さずに教室に引っ込む。裸眼で2.0と自慢していたのは記憶に新しいので、俺の表情ぐらい見えていただろう。
いつもより早く家を出たのは真琴たちと一緒に登校しないためであって、両親に言ったような理由はもとより含まれていないので、俺はすっかり手持ち無沙汰だ。自分の席に座って、机に突っ伏す。
俺がいなくなって、やっとあいつら、気兼ねなくできているだろうか。
ぼんやり考えてみたが答えなど用意されていない。慣れない早起きに体が訴えかけてきたのだろう。そうこうしているうちにいつの間にやら瞼は下りていて、朝練を終えた欅田が俺を起こす頃には、教室には人が溢れていた。
「おはよ、水希」
欅田の笑みが真琴のと似ていたと言ったらやつはどんな顔をしただろうか。
真琴たちと距離を置き始めて早3週間。絶縁状態というわけではなく、ちまちま真琴だったり遙だったり、日によって様々だけれど教科書を借りにくることもあったし、週に一度くらいは登校、下校を共にすることもあった。家で真琴と接するのもお互いの態度はいつも通りだ。
最初こそ俺は徹底的に2人を避けていたけれど、やっと適度な距離の取り方というものを学び、付かず離れずというものを保っていた。2人がどうなっているかは知らないがきっとうまくいっていると思う。早く彼らの口から話を聞ければいい。
朝は欅田と。放課後は欅田以外の友人と帰ることが増えた。たまには欅田を待って、帰りに寄り道をすることもあった。言い方が悪いかもしれないが、真琴たちから離れて視野が広がった。必ずしも悪いことばかりではなかったのだ。
それが当たり前、日常となり始めていたある日のことだ。例のごとく自販機に眠気覚ましのコーヒーを買いにいったところ、きゃあきゃあと騒ぐ2人の女子生徒が先客であった。なんだかデジャヴだ。
小銭を入れると光ったボタンを適当に押す。さすがにこの時期に赤いボタンを押す勇気はなかった。
「ねえ、橘くんと七瀬くんって付き合ってるわけじゃないんだって」
ガコン。落ちてきた缶を拾い出すその最中、不意打ちで後頭部を殴られた気分だった。
「えっそうなの?」
「あたし気になって橘くんに聞いてみたの」
「うわ、あんた勇気あるね」
「だって橘くん、いつもニコニコしてるから大丈夫だろうと思って」
「なにそれ。大丈夫じゃなかったってこと?」
「そうなの。なんか聞いた途端にどんどん笑みが消えていって、『ごめんね、よくわからないんだけど』って。『冗談にしては度が過ぎてるよ』って、言われちゃった」
うわあ、やらかしたなあというのは彼女たちに対してだけではなく、俺も含めていた。むしろ俺に対してだった。余計な気遣いだったのだ。
もしかすると付き合ってはいるがそれを公にしたくなかったから否定したのかもしれないと一度は考えたが、それにしては真琴の言葉がきつい。彼ならもっとやんわり否定するはずなんだ。
数週間前に耳に挟んだあれはうそだったのか。思えばなんの根拠もなく信じた俺はバカだったけれど、特に疑いようがなかったのも事実なのだ。
言い訳がましいことを言ってみたが、今さらあれが勘違いだったことに気がついたって時間は巻き戻らない。それに今の環境から以前のそれに戻る必要もあまり感じなかった。言うなら彼らとの距離感に慣れてしまったのだ。
少なくとも、変な勘違いをしてしまっていたことは謝るべきだろうか。そんなことを思いつつ飲み干したコーヒーの容器を投げ捨てる。これで午後の古典は生き残れる気がする。
「それでそのあと、『それって結構広範囲にわたってる噂?』って聞かれて、うなずいたら『できれば違うって広めてくれる?』って頼まれたんだけど、そのときの橘くんはいつも通りだったよ」
「ふうん……ま、よかったんじゃない? 特にお咎めなしって感じで」
さて教室に戻ろうかと踵を返したところ、どういうわけなのか真琴たちの話をしていた女子生徒と目があった。しかしそれも偶然だったのか、すれ違うときに他人と一瞬だけ交わる視線のように、あっけなくそらされる。だから俺もそこまで気にせずに歩き始めた。
あ、欅田が炭酸買ってきてって言ってたんだった。忘れてた。……まあいいか。
「……『俺たちが好きなのは水希だよ。殺したいくらい好きなんだ』って。橘くん、すごく、怖かった」
「水希って、2組の橘くん? 今さっきまでそこにいた、あの、双子の」
「多分」
「え、それって大丈夫なの?」
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地獄のような午後の授業を乗り越え、HRも終わり、横で炭酸が飲みたかったとうるさい欅田の肩を小突きながら昇降口に下りると真琴の背中があった。あ、と声をあげたのは欅田だ。真琴の横には遙もいた。
欅田の声でこちらに気づいた遙が振り返り、俺をみて微かに目を丸くする。どう反応すればいいか迷ってとりあえず片手を上げると、遙は真琴の背中を肘で小突いた。「なんだよハル……」とか言いながらも振り返る真琴が妙に懐かしい。
真琴が遙を見て、遙が俺を指差して、真琴がそれを追って。
「今日は一緒に帰れるな!」
「いった……っ! 余計なお世話だ!」
バコンと音がなるぐらい強く背中を叩いてきた欅田は、きっと炭酸の件を根に持っているのだと思う。彼は口笛を吹きそうな勢いでスキップして、さっさと靴を履き替えて行ってしまった。あの、最後にばちんと飛ばしてきたウインクはなんだというんだ。
「……仲がいいんだね」
「?」
「真琴」
「あ……ごめん」
表情を曇らせた真琴は、遙が一度名前を呼ぶとはっと目を覚ましたようだった。俺は真琴が一度だけ見せた影のある表情を気にしつつも「欅田?」と、真琴が指したであろう人物の名を呼んで「まあ仲はいいほうかなあ」と日頃のことを思い返しながら答えた。
「……自転車で2人乗りするぐらいだしね」
「え、なんで知ってんの」
真琴の一言に驚いて、靴箱を開けようとする手がとまった。知られていると支障があるとかいうわけじゃないけれどどうして真琴がそんなことを知っているのかは純粋に気になった。だって俺は真琴に欅田のことを話した記憶はないし、欅田と真琴が仲がいいとも聞いたことがない。2人乗りをする朝は真琴たちがまだ寝ている時間帯だ。どう考えたって知る由はないのだ。
「水希のことだから」
「は?」
「水希のことなら全部わかってるよ」
そんな優しく微笑まれたってなんと返せばいいのかわからなかった。わずかに狂気的なものを感じ取ったのは本能的な反応だったのだろうか。けれどもまさか真琴に限ってそんなことはと否定したのは日頃の彼を知る俺だ。
何も返さないわけにはいかないので、あ、うん、なんて歯切れ悪く頷いて靴箱からスニーカーを取り出した。それに倣うように真琴も、黙っていた遙もそれぞれ靴を履き替える。この流れは言葉を交わさずとも一緒に帰ることが決まっているのを指している。
「あ、そうだ水希」
「?」
「今からハルん家に行くんだけど、水希もどう?」
つま先で地面を2度蹴って、見上げた真琴の変わらない笑みに戸惑った。どうしよう。ちらりと遙を窺うと「俺は構わない」抑揚なく彼は言う。
「俺は――」
あ、付き合ってないんだっけ。
行かないと紡ごうとした口を噤む。そういえばあれは勝手な俺の勘違いで余計なお世話だったんだ。
遙の無表情と、真琴のニコニコ顔とを見比べて、そっと視線を落とす。
「……おまえらがいいなら、行く」