彼を二人で共有することが最良の方法だった
俺と真琴と水希。小さい頃から共に過ごしてきた。真琴はしんから優しいやつ。水希はそんな彼と双子なくせに素っ気ない。でも、根は優しいし甘えたなところもある。
転んで怪我をした真琴を一目散に保健室に連れて行って消毒を怖がる彼を慰めてたり、同級生に名前をからかわれた俺の代わりに言い合いをして取っ組みあったり。
眠くなると裾をツンと引っ張って訴えてきたり、冬場は暖をとるために肩を寄せてきたり。
九割方無愛想だし、俺に対しては特に口が悪くてムカつくけれど、俺たちに甘えてくる彼はどうも突き放せなかった。
水希は喧嘩っ早くて、俺たちとはあまり一緒にいることをせず、同い年のやつと殴り合いをしては青あざを作り、母親によく怒られていた。俺も真琴も水希に喧嘩をやめさせて、彼とずっと一緒いたかった。けれど水希は耳も貸さずに俺たちと距離を置いて過ごしていた。
俺たちの知らないうちに水希は何かを経験している。それが綺麗なものではなかろうと思い出を作っている。俺たち以外との時間を、俺たちのいない記憶を。それがひどく苦痛だった。
アイス、クッキー、焼きたてのパン。思わずこくりと喉が鳴ってしまうそれらが目の前に1個だけ置いてあるとき、俺が欲しいと思うのと同様昔から一緒にいる真琴も欲しがって、ならば半分ずつだと、2つにわってわけあってきた。
キーホルダー、ノート、シャープペンシル。自分の気に入ったデザインのものが1個だけしかなくて、けれど同じものが欲しいとかの幼なじみも思っているときには、じゃあ俺が我慢するからと、代わる代わるに譲り合ってきた。
じゃあこれは?
「遙、真琴」
柔らかく目を細めて手を伸ばして来るこいつは?
横の真琴を見ればちょうど彼も俺を見た。かつてないほど苦しそうな目をしていたのだがきっと俺も似たような目をしていたのだろう。
欲しい。でも真琴も欲しい。水希が呼ぶのは俺たち2人の名前なのに。それなのに水希が伸ばすのは彼の利き手一本だけだ。
はんぶんこはできない。譲れば次がない。水希は替えがきかないのだ。
「……水希に選んでもらうしかないね」
俺もそう思っていたというのはいちいち伝えるまでもなかった。
真琴と俺は同時に片手を水希に突きつけた。決して彼の手を取らない俺たちに、彼はきょとんと目を丸くして、ああと笑った。
「ん」
くるりと完全にこちらに振り返り、利き手では俺、逆の手で真琴の手を握る。水希はどちらかを振り離すなんてことを知らないやつだった。
中学の終わり頃にはみんな受験で精一杯になり、喧嘩三昧だった水希も落ち着いてきた。水希が以前よりも俺たちと一緒にいるようになったことは嬉しいけれど、反面、繋いだ手を強引に引っ張って彼を自分の胸に閉じ込めることができないのは苦しい。
真琴とはお互いに約束をした。一つ、水希が決めるまで手を出さないこと。ただそれ一つだ。それ一つがお互いをひどく縛り付けた。
俺と真琴。どちらを切り離すことはせず、水希は俺たちの間に居続ける。本当に彼が決める時が来るのだろうかと、……多分真琴も思っていたのだろうが互いに口にはしなかった。
高校生になった。三人で受験した高校に無事三人とも受かった。涙ぐんで喜ぶ真琴を水希と一緒に呆れ顔で見る。
「お前は真琴と違って泣かないんだな」と声をかけると水希は「表情筋が死んでるやつには言われたくない」と低い声で返した。
俺も水希も一瞬間無言になり、次には悪口の応酬が始まった。自分でも感心するほど彼への悪態は尽きない。それは水希も同じようだった。最終的には真琴に止められた。先ほどとは違う意味で涙目になっていたらしかった。
賑わう掲示板を確認するのは背の高い真琴に任せた。程なくして戻ってきた真琴は浮かない顔をしていた。俺と真琴は1組。水希は2組だった。
真琴と揃って不安な顔つきで水希を見ると、彼は何を思ったか
「俺も一応友達つくるぐらいできるって」
八の字を寄せながら言った。そんなことを心配したわけじゃなかったのは言うまでもない。……いや、確かに彼がクラスに馴染めるのかは心配することではあったけれど。
「水希、行きと帰りは一緒にしようね」
「? うん」
「部活、何か入りたいのあったらちゃんと俺たちに話してね」
「別に何か入ろうとかは思ってないけど……」
「それと――」
真琴の過保護はしばらく続いた。
登下校は一緒。昼も水希が寝ているとき以外は屋上に出て一緒に食べた。水希は相変わらずどちらかに決めることをしようとしなかった。代わり映えのない日々を過ごすうちに夏になった。
今日も昼を誘いに2組に行ったが水希は寝ていた。水希を起こすのは一苦労するので、項垂れる真琴をなんとか持ち直させて、2組を後にした。
昼ごはんは屋上で真琴と二人で済ませた。屋上にはあまり日陰がないので暑くてたまらない。そろそろ涼しい場所を探したほうがいい気がする。
教室に戻って真琴と別れた。俺は机に伏せた。眠るつもりでいたが教室はざわついていて眠れなかった。こんなときばかりはどこでも眠れる口が悪い方の幼なじみが羨ましい。
昼休みも終わる。そんなころに肩を叩かれた。体を起こすと真琴が立っている。水希のところに行きたいのだとわかって腰を上げた。
昼休みに欠かさず水希と話したがる真琴に呆れると同時、決して一人では向かわない彼を律儀だとも思う。
一言も交わすことなく教室を出た。
「起きてるかな?」
「どうだろうな」
真琴は今にもスキップしそうだ。さっきみたく撃沈されると困るから過度に期待しないでほしい……。
水希のクラスに着いた。真琴とそっと中を覗く。もうすぐで午後の授業が始まるというのに人数は揃っておらず、むしろどんどんクラスを後にしている。
移動教室のようだ。そうわかったのは真琴も同時だったらしい。しょんぼりしたようすで俺を見てきた。
「水希、いないね」
「そうだな」
「もう行っちゃったのかな。さっきまで寝てたのに」
「……。戻るぞ」
「ん。うん……」
「帰りには会える。それにお前は家でも一緒だろ?」
「……うん」
これ以上真琴が気落ちしないうちに、と思って真琴を引っ張って廊下を歩く。そのうちに真琴も自分でしっかりと歩き始めたので彼の腕から手を離した。
歩き出して間を置かないうちに向かい側から見知った影がくるのが見えた。真琴の反応は早かった。
「あ、水希!」
「……」
水希は反応しない。距離が詰まってからやっと見えた顔は何やら思い悩んでいる。……真琴の方はやっと会えた水希に気づいてもらいたい気持ちでいっぱいのようだ。気づいてない。
「水希ってば!」
「……あ。わるい真琴」
真琴の大声にハッとこちらを見た水希が俺にも気づく。
「と……遙」
「俺をおまけみたいに言うな」
「……ごめん。悪かった」
聞き間違いかと思った。が、居心地悪そうにしている水希を見れば否定される。嫌みが返ってくるどころか二言も謝られた? ……、こいつ、最近よく寝てるとは思っていたが、まさか夏バテでもしてるのか?
「どうしたの? 体調悪い?」
真琴が俺の言いたいことを代弁した。
「いや、……少しぼーっとしてただけだよ」
水希は首を振って否定する。
視線は床に落ちている。先ほどから彼は一切俺たちを見ようとしない。
真琴がちらりと俺を見る。……俺も問い詰めたくはあるが、今は時間がない。首を横に振って応える。
真琴は腑に落ちない顔をしたが、とりあえずは用件を話すことにしたようだ。
「今日も終わったら迎えに行くね」毎日毎日真琴はこの言葉を水希に伝える。よく飽きないものだと思う。……俺が水希と意味のない悪口の言い合いをするのが実は自分にとって大切なことであるのと同様に、真琴にとってこのやり取りは大事なものなんだろう。俺から口出しすることはない。
水希は黙っている。いつもなら呆れたように「わかってるよ」と言うのに。真琴も怪訝に思ったらしく声をかける。
「……水希? ねえ、本当に大丈夫?」
「あ……ああ。わかった、終礼が終わったらまた」
水希はやはり俺たちを見ずに言うと、半ば逃げ出すように歩き出した。
らしくない。
真琴と一緒に水希の背中を睨みつける。もし真琴が彼の後を追うのなら俺は止めない。もうすぐ鳴るのは予鈴だ。本鈴までに話をつければ教師にうるさく言われることはない。
真琴が動き出そうとした途端、水希がピタリと止まりこちらを振り返った。今度はしっかりと俺たちを見た。ただ俺たちがまだいるとは思っていなかったのか多少動揺を見せた。
「真琴」
しかしそれも一瞬のことで、真琴を呼ぶ彼の声も表情も、もはや先ほどのぼんやりとした様子が嘘のようにいつも通りだ。
「やっぱりさっきのなし」
「え?」
「しばらく別々で帰りたい」
矢継ぎ早に続けられた言葉に俺たちが動揺する番だった。
「は? え、待ってよ……別々にって、なんで急に? それに俺も水希も、帰る家は一緒だろ?」
「家が一緒だからって一緒に下校する理由にはならないだろ。俺とおまえらはクラスが違うんだ。今までだって終礼が済むのにだいぶ時間差ができて随分待たせたことだってあったし、正直時間のムダだよ」
俺たちを見る若葉色の瞳は本気だ。ただ、やけに饒舌だと思う。
困惑していた真琴が憤りをみせる。
「……時間の、ムダって……なんだよ」
「そのままだろ。俺を待ってるより早く家に帰った方がいい」
「誰かに何か言われたのか」
双子同士で続いていた会話を切った。ずっと黙っていた俺が発言したことに水希は些か不意を打たれたからか、それとも図星だったからか、わずかに表情を歪めた。
時間のムダとか。もう3ヶ月近くは続けてきた習慣を今更になって、しかも今日も一度は頷いたのに、唐突に否定するのはおかしい。
水希は俺の一言を聞いた後も黙らなかった。すぐに続けた。
「そんなんじゃないよ。そもそも俺たちが一緒に帰ることに文句を付ける人だっていないだろ」
「……」
うまく隠すように次の言葉を紡いだって、俺が何年お前を見てきたと思っているのだろう。
不意うちのせいか図星のせいか。答えは後者だったようだ。誰かに何か言われた、というのはほぼあたりだろう。ぼんやりしていた原因もそれだと思う。
「俺がおまえらと別に帰りたいんだ」
「……なんで?」
「……なんでって、もういいじゃん。単に一緒に居たくないだけだよ。いい加減しつこい」
つい口が悪くなるのは、普段より饒舌になるのは、焦っているときやイラついているときの、水希のくせだ。
真琴がひどく驚いた顔をして、それから泣きそうになる。なんで。ぽつりと呟かれたそれは予鈴に負けて掻き消された。
「おい水希、次移動教室だぜ」
真琴に代わって俺が問い詰めようとした瞬間だった。いやな沈黙が鎮座するこの場に現れたのは見慣れない男子生徒だ。運動部に所属してそうな短髪で、見た感じは爽やかな好青年。よく焼けた肌は水希と並ぶと際立つ。
そんな彼は勢い良く水希に話しかけてからこの場の空気に気づいたようで、俺たちと水希とを交互に見やり首を傾げた。
「……お取り込み中? えっと、水希の兄ちゃんと幼なじみくんだろ?」
夏のこの時期に他クラスの生徒の顔を覚えているのには少し驚いた。
それは水希が彼に俺たちのことを教えたからだろうが、あれが双子の兄貴であれが幼なじみでと詳しく語るほど彼と仲がいいということだろうか。……水希に友人がいるのは結構なことだが、タイミングが悪い。瞬時にどす黒いなにかが這い上がってきて吐きそうになる。彼は俺たちの名前を呼ばなかったがきっと知っている。水希は話している。
「あ……いや、今終わったところ」
思い出したように水希はつぶやいた。
「そう? なら……はい。お前の教材と筆箱持ってきてやったし、行こうぜ」
彼は当然のように水希の腕を掴んで駆け足気味に歩き出す。水希は何か言いたそうにしたが、それでも無抵抗に彼に引っ張られて行った。
彼が軽く会釈してくるのに真琴も俺もなにも返せなかった。彼は一人だけ余裕だった。
水希って。呼べば彼はいつも振り返ったのに。どんなに小さな声でも振り向いてくれたのに。水希って、縋るみたいに情けない声にはこちらを見やしなかった。
ずいぶん離れた背中を呆然と見つめ続ける。真琴と水希のやりとりを見ていたうちはまだ冷静さが残っていた、つもり、だ。
水希はあの友人に手を取られ、嫌そうな顔をしたあと、目を細めた。振り払わなかった。そしてあの目は何か愛おしいものを見るときの目だって俺は知っていた。
?
水希、
水希、は。誰かに言われたから、……。言われて従ったということは彼の意思……なのか? 水希は売られた喧嘩は買う。過去もそうだった。誰かに俺たちと一緒にいるのをやめろと言われて素直に従うか……? きっかけはなんであれ、どこかに俺たちを拒絶したいという気持ちがあった?
水希は、彼の意思で俺たちを拒絶した? 俺たちのことは拒絶したのにあの男のことは受け入れた? 愛おしいという感情を向けた?
いきなり目の前が真っ暗になる。俺たちと手をつないでいた幼い彼がその手を払う。
なんで。なんでだ? ずっと大事にしてきたのに。選んだのは? 愛しそうに見つめたのは? 俺じゃ、
「ハル、ねえハル、どうしよう」
「、」
俺だって気が動転していたけれどそれが表に出なかったのは、俺以上に真琴がひどく動揺していたからだ。
「なんで? なんで俺たちを拒絶したのにあいつにはついていくんだよ。なんで急に? なんで拒絶するの? 何か悪いことした? 俺、水希に嫌われるようなことした?」
「真琴、いいから落ち着け」
「なんであいつに手を握られて嫌がらないの? なんで? 俺とは一緒に居たくないって、なんで……っ」
「だから落ち着け!」
つい怒鳴ってしまった。真琴ははっと我に返ってごめんと小さく謝ってくる。
それで俺もすっと何かが冷えていった。俺の方こそ悪かったと小さく呟いて、とりあえずは本鈴が鳴る前に教室に戻ろうと提案した。真琴は反対しなかった。
ふらふらとおぼつかない足取りの真琴に不安になりながら、そっと振り返る。もうそこに水希とあの男子生徒はいなかった。
数学の授業。教科書とノートを広げて、その上に頬杖をつき窓の外を眺める。空が何色かわからない。考えるのは水希のことだった。
真琴には落ち着けと怒鳴りつけたけれど、俺も真琴と同じ気持ちだ。どうして水希は急に俺たちから離れたいと言い出したのか。どうして水希は俺たち以外と手を繋ぎ、愛おしそうに目を細めていたのか。ずっと待っていたのに。俺たちのどちらかを選ぶと思っていたのに。我慢していたのに。剰え「一緒に居たくない」なんてあんまりじゃないか。
理由を問いただしたい。俺の納得のいく理由を。
……しかし理由はどうであれ、いざ、面と向かって水希に俺たち以外を選んだのだと言われてしまったら? 俺は。俺は、水希を、……。
きっと俺は、俺を否定する答えの全てを受け入れない。本当は理由なんてどうでもいい。拒むことは許さない。
頬杖をといた。俺の右斜め前で授業を受けている真琴を見る。いつものように板書はとっているらしいが、どことなく覇気がない。
……約束は一つだった。水希が“決める”まで手を出さないこと。
決める。
何を決めるのかは明確にしていない。俺か真琴、どちらかに“決める”、俺と真琴、どちらとも一緒にいることを“決める”、俺と真琴、両方から離れることを――。
水希は決めた。
……水希が“決めた”今、俺は真琴に遠慮する必要なんてないんじゃないだろうか。
……。
もう一度空を見た。よく晴れた青い空だ。
「ハルちゃん」
ハッとして真琴の方を見る。そして今の声が幻であったことを知る。真琴は俺を見ていない。相変わらずどこか落ち着かない様子で授業を受けている。
思えば幼い頃の真琴の声だった。幼い頃の呼び方だった。
……そうだ。俺は、俺と一緒でずっと我慢してきたあいつを知っている。俺と同じ気持ちであることも。もしもこの状況で真琴が俺に一言かけることもせず水希に手を出したら……俺は許せない。……さっきのは浅はかな考えだった。
静かに目を閉じた。
退屈な授業を受けているうちに高ぶっていた気持ちは幾分落ち着いた。唐突な出来事だったから冷静さを欠いただけだ。時間が経てばやや余裕ができる。
だけどそれは俺だけで真琴は違ったようだ。
終礼まで終わると真琴はろくに片付けをせず水希の教室に向かう。慌ただしい彼の様子に何人かが驚いている。それらを横目に見ながら俺も真琴の後を急ぎ足で追いかける。
真琴は大きく手を振って、普段よりも大きな歩幅でズンズンと効果音がつきそうな早歩きをしていた。目的のクラスに着くと、ピタリと止まり、明らかに放課後になっている教室内を睨みつける。
つきそうになったため息を飲み込み、こわばった表情をする真琴を小突く。彼はハッと我に返って申し訳なさそうに顔をうつ向けた。
水希のクラスは俺たちより先にホームルームを終えていた。そして水希も、言葉通り先に帰ったようだった。急いで後を追えば追いつくかもしれないけれど、真琴も、もちろん俺も、走って追いかけるような気力がない。本当に俺たちから離れていこうとしている水希を思い知り、ショックだった。
「……水希」
「……」
ぽつりと呟いたのは無意識だったのだろう。真琴はその後に何も続けず、操られるように歩き出す。ふらふらと安定しない足取りは二度目だ。
水希のいない教室を見直す。今は空席のあそこで、水希はいつも頬杖をついて俺たちを待っていた。たまに口の中で飴をコロコロと転がす様子を見ることもあった。
「オレンジ?」問いかける真琴にしかめ面をした水希は図星だったのだろう。クスクス笑う真琴から目をそらし、立ち上がって荷物を持つ。相変わらずカバンは軽そうだった。飴を砕く水希を見ながら「相変わらず好きなんだな。その味」と口にした俺を睨みつけてきたのは、つい昨日の話なのに。
そんなことを思い出している最中、女子生徒が俺の方を見て何か話しているような気がしたがどうでもいい。
わりと離れている真琴の背中を追う。
「真琴」
「……」
呼び止めると真琴は素直に立ち止まった。
「俺はあれが水希の本音だとは思わない」
「……」
「お前だって水希のクセぐらいわかってるだろ?」
「……。わかってるよ」
振り返った真琴は目が据わっている。
「お前は家で会うだろ。聞いてみてくれ」
「……」
真琴はしばらく無言でいた。普段の俺と彼の立場が逆転したような気分だ。
真琴の目が徐に俺から逸れ、ゆっくり瞬きをする。暫時窓の外を見つめ、目を伏せ、深呼吸。
「……そうだね」
参ったように眉を下げ笑みする彼はいつもの表情だ。
「ごめんね。ハル。俺、気が動転してて」
「ああ」
「……、……」
「なんだ?」
「ん……」
口をもごもごとさせる真琴をじっと待つ。真琴は大概「なんでもないよ」と困ったように笑ってごまかすけど、今回のは待てば言うだろう。なんとなくわかる。
視界の隅に動く人が見え横目で確認すると目があった。同じクラスの女子だ。廊下の隅で無言でいる俺たちを奇妙に思ったのかコソコソと話しながら去っていく。
「……。あのさ、ハル」
決心した声だ。意外と早かったな。
真琴に視線を戻して話を促す。
「……あの後から考えてたんだけど、俺、夜に水希と話すつもりだったんだ」
「……」
「ごめん。……もちろんしないよ」
真琴の言う“話す”が俺の提案したものとは別のものであることは容易にわかる。
水希が“決めた”今、手を出さないという約束は無くなったも同然。約束がないのなら遠慮する必要もないのではないか。それを真琴も考えたのかと思うと、柄にもなく笑いそうになった。
「謝らなくていい」
「え?」
「結局いつも……同じことを考えるんだな」
「! ……そっか」
目を丸くしたのも一瞬で、真琴は納得したように微笑んだ。
やっと学校を後にした。いつも歩く道なのに違和感のある帰路をたどって家に帰った。
家の戸を開ける直前、先ほど別れたばかりの真琴が大声をあげたのがなんだったのか気になったけれど、多分蓮たちから熱烈な出迎えを受けたんだろう、と、納得しておいた。
翌朝。いつもより早く起きたから溜まっていた洗濯物を片付けることにした。洗濯機が止まるまではのんびり水風呂に浸かって待った。
洗濯機が電子音を鳴らすころには潔く風呂から出て、体を拭いて、用意していた着替えを着た。どうせ後で制服を着るのだからと思って用意したのは薄手のTシャツと短パン。完全な部屋着だ。
洗濯物をカゴに移し居間を通って庭に出た。シワを伸ばしハンガーにかけ竿に吊るす。その作業を繰り返していると重たいものが閉じる音――玄関の閉まる音がした。
この辺りは静かなので家の戸の音はそこそこ響く。加えて音が聞こえる範囲にある家などたかが知れている。音のした方向からも、閉まった扉は幼なじみたちが住む家のものだと容易にわかった。
ずいぶんと朝早い。父親だろうかと思った。
なんとなく庭から玄関先に出て、見慣れた石段の下を見た。予想外にも、そこにはこんな時間には見慣れない人間の姿があって、驚愕した。
水希がいた。一瞬は郵便受けでも見に来たのかと現実逃避をした。けれど、いつものごとく中身の入ってなさそうなカバンを肩にかけた制服姿の彼が、ゆっくりと石段を下っていくのは止まらない。しばらくして水希は俺の目が届かないところに行ってしまった。
「……」
ただ立ち尽くす。
どうしてこんな朝早くに登校するのか。その理由など俺たちから離れるため以外の何物でもないことはすでにわかりきっていても認められない。……昨夜、真琴は水希からなんと言われたのだろうか。拒絶されたのか。……拒絶されたんだろう。今の光景が答えになっている。
ふと一台の自転車が通り過ぎたのが見えた。一瞬のことだったけれど、その自転車を漕ぐのが岩鳶高校の制服を着ていたことはわかった。
男子生徒だった。
見覚えがあった。
無性に胸騒ぎがした。
込み上がってくるのは焦り。何かに対する嫌悪。水希が俺たちのいない思い出を作ることに対する恐怖。それらに気づいていながら何も知らないふりをして、庭に戻って洗濯ものの残りを片した。
いつもは美味しく感じる鯖も今回ばかりは味がしなかった。
制服に着替えた。家を出て、石段に腰掛け真琴を待った。海からくる風に頬を撫でられながらしばらくの間ぼうっとしていると幼なじみの家に動きがあった。
扉の開閉する音。
踊り場まで出てきた真琴はこちらを見上げ驚いたような顔をした。それから「早いんだね」と柔らかな声で言うと困ったように笑い、表情を沈める。
立ち上がって真琴の方に向かう。
真琴は、階段を下る俺をぼんやりとした目で追ってくる。何か言い出そうとしているような気がする。まあ、内容はわかるけど。
真琴の後ろを確認するのも、あの家から遅れて出てくるんじゃないかと待っておくのもムダ。俺も水希がこの家を出たのは見ている。
「先に行ってたな」
「! ……」
俺の方から振ってやれば真琴は目を丸くした。それからため息をついてまた暗い表情をする。……水希や俺と違って表情豊かだと思う。
「……。早く行って学校で予習するんだって」
「ウソだな」
「……」
即座の否定に真琴が気まずそうに頬をかく。
「それで?」
続けて昨夜はなんと言われたのかと言う意味で促す。言葉は足りないし切り出し方も唐突で、何を促しているのか、逆に自分がやられたら眉を顰めただろうが、俺と真琴なら問題ない。
現に真琴は頷いて、歩きながら話すことを提案した。
階段を全て下り終えた。俺たち以外にも登校する生徒がちらほら見られる。
「……俺たちを、嫌いになったわけじゃないんだって」
「……」
「『双子だから幼なじみだからって、いつまでも一緒にいるのが当たり前じゃない』」
「……」
「水希はこれ以上俺たちに甘えていちゃいけないから離れたいって。俺たちとずっと一緒にいるのはダメなことだって」
「……。ずいぶんこじつけてきたな」
「俺も思ったけど、問い詰められなかったよ」
真琴が苦笑した。話すことで幾分気が晴れたのか、表情に明るさが戻っている。
俺も真琴も無言になった。横切る車、大声で話す女子、駅に向かう人、小さな店で世間話をする大人。いつも通りのそれが却って今一緒にいない水希を浮き彫りにする。
……真琴の話を聞いても、やっぱり、水希は俺たちから離れて行ったというより、俺たちから離れなければならなかった――俺たちから離れたのは本意でない――ように思える。
もう随分と昔のことのような、昨日の出来事を思い出す。「誰かに何か言われたのか」と。そう問いかけても答えは否だったが、やはりあたりだ。「双子だから」「幼なじみだから」水希はなんのきっかけもなくそんな面倒なことを口にするようなやつじゃない。凡そそんなことを言い出さなければならないことを誰かに言われたんだろう。
水希は簡単に人のいいなりになるやつじゃない。ならば俺たちを拒絶したい気持ちを元から持っていた――と、昨日は考えたけれど。よくよく思えば彼が簡単に人の言いなりになる条件が一つだけある。
水希は、俺たちに甘えただし、俺たちに甘い。“俺たち”に不利な話を持ち出されたのならきっと頷く。
……けど、どうして俺たちから離れるように脅しつける人がいるのかはわからない。まさかとは思うが……俺たちと似たようなことを考える人間がいるとでもいうのか? 自分以外と一緒にいる水希を許せない、とか……。
……ともかく。誰に言われたのか。
昨日俺たちから水希を離した男子生徒が思い浮かぶ。……が、彼ではないと思う。もし彼が水希を唆したというなら、昼に彼が水希を連れにきたとき、水希はもっと動揺してよかった。それにあいつは唆すとか嘘をつくとかそういう行為はしなさそうだ。……単なる印象だけど。
見た感じはいかにも好青年、いかにも運動部に、……。
「多分水希、あいつと学校に行ったぞ」
「え。……?」
今朝見かけた自転車を漕ぐ男が、昨日のやつだったことをふと思い出して口にした。ただ今朝のような負の感情は浮かばなかった。
あの進行方向だと水希と出会うのは当たり前だし、昨日の水希への構いようから無視して進むことは考えられない。発言は憶測ではあったがほぼ的中している自信がある。
真琴が難しい顔をする。“あいつ”が誰なのか考えているわけではなさそうだ。
「約束して、とかじゃないだろうけどな」
「……」
念のため一言付け加えておいた。真琴は考え込むと突拍子もない行動に出る。昨日も気が動転して我を忘れてたし。俺があいつを庇わなければならない理由はないけど、危害を加えなければならない理由もまたない。水希の良い友人ならなおさらだ。
大して会話が弾むこともなく学校に着いた。グラウンドでは朝練をしてたらしい運動部が集まって顧問の話を聞いている。
野球部だ。仲の良い友人はいないが、彼らにはやたらと顧問や先輩に礼儀正しい印象がある。にしてもユニフォームは汚れてるし、長袖長ズボンのそれは暑そうだし。改めて見ると悪いイメージだ。
観察もほどほどにして昇降口へ歩く。
「あっ! 水希の!」
大声に反射的に振り向く。こちらを人差し指でさす男がいる。しかし俺たちが何か反応したり彼が次のアクションをしたりするよりも早く、彼の横にいた一人の部員が「空気読めっ!」と彼に負けないくらいの大きな声で言って、彼の頭をぶん殴ったので、それ以上のことはなかった。
止まっていた歩きを再開した。真琴を見上げると呆れた顔をしている。多分俺も似たような表情だろう。
……あんなバカを水希が選んだとは思えないし、あんなバカが水希を唆したとも思えない。真琴も彼に対する敵意を薄めたと思う。
昇降口で真琴が水希の靴箱を気にしているようだったが何も触れないでおいた。
クラスに着くと真琴とは自然と離れた。教室のクーラーは一定の時間になるまで操作ができない。窓が開け放たれているとはいえど人の数あって暑苦しいそこに思わず顔を歪める。自分の席についてカバンを横にかけた。突っ伏す。と、トントンと軽く肩を叩かれた。
顔を上げる。
さっき別れたばかりの真琴だ。
「……、」
「無理だろ」
「!!」
真琴に一文字喋ることも許さず否定した。
「ま、まだ何も言ってないだろっ」
「どうせ『放課後水希と一緒に帰りたい』とか言うんだろ」
「うっ……!」
図星らしい。ギクリと表情を強張らせるなんてベタだ。
「昨日の今日で、は無理だ。水希、頑固だろ」
「……」
「少し様子を見たほうがいい。それと、水希があんな行動に出た原因も探るべきだ」
俺が思うことを淡々と紡ぐ間、真琴は拗ねた子どものような、どことなく納得のいっていない顔をしている。
なんだ、と視線で訴えれば真琴はため息を一つおいて口を動かす。
「……なんか俺よりもハルの方が水希のことをわかってるみたいで悔しいな」
「……」
これには何も返さず目を逸らした。
今は真琴と争うつもりはなかったし、もしそうだったのなら、俺が真琴よりも水希を理解しているのだとしたら嬉しいと。どこかで思ってしまったことが否定できなかったからだ。
黙っていると真琴は自分の席へ向かって行った。その背中を目で追いかける、と、少し離れた席に集まっていた女子と目があった。しかも数人。前々から俺たちを見ていたらしく、あちらは慌てて目を逸らした。
真琴は気づいていたのだろうか。席に着いた彼に視線を送ると小首を傾げられた。……時間も時間だ。後で聞くか。
……ここ数日ああいう奴らが多いような気がする。一体なんなんだ。
こそこそと陰で話されているような気がすることを真琴に伝えると、真琴も同感だったようだ。とはいえ陰で何か言われるようなことをした覚えはお互いにない。何の用かと直接尋ねれば早いだろうが今はそれよりも優先することがあるので後回しにすることになった。
水希が俺たちと距離を置き始めた一週間はこちらも接触を控え、主に移動教室のときに彼のクラスを覗き見た。たまにあの短髪に絡まれてはいたが、水希は大抵一人でぼうっとしていた。水希に言い寄るような人物はなおさらいない。俺の中の仮説が一つ崩れる。
水希のクラスに、水希が俺たちから離れた要因となるものはありそうになかった。
二週間目に突入した。
「朝一緒に行こうって誘ったけど、うやむやにされちゃった」
真琴が悄然としながら言う。彼の弁当の中身はなかなか減らない。
最初の数日こそ水希と真琴は家でもギクシャクしていたようだが、真琴の話を聞く限り、最近ではいつも通り接しているようだ。俺は以前のような関係を取り戻していないので少し……なんというか。……妬ける。
「しつこく誘えばいいだろ」
「30分置きぐらいに聞いてるよ」
「しつこいな……」
「?! 矛盾してるだろそれっ!」
大声を出す真琴に耳を閉じる。確かにしつこく聞けと言ったけどさすがに30分置きに朝一緒に登校しようと言われる水希は気の毒だ。そのうちノイローゼにでもなるんじゃないか。
「……。ならハルが水希を誘えばいいだろ」
「……」
露骨にふてくされている。わざと口を大きく開けて弁当のおかずを食べる真琴になんとも言えない気持ちだ。
真琴は、俺が水希に言ったところでうやむやにされるだろうし却って真琴が苦労する口喧嘩になるかもしれない、ということもわかっていてあんなことを言ったんだろう。相当参っているみたいだ。
……とはいえ俺も妙案は浮かばない。真琴とは違ってもう弁当も空になっているのでこの沈黙を過ごすためのものがない。
真面目に受ける気は無いけれど午後の授業の準備をすることにした。後方の黒板を見て科目を確認する。
現代文だ。
鞄から教科書を取り出して机に置いた。
……あ。
「ハル、それ古典だよ」
「……」
わざわざ指摘されるとむかつく。
現代文と古典の教科書は表紙が似ているし大きさも同じだから間違えてしまった。別に真剣に受ける気はないから無くても問題はないけど、いかんせん現代文の教師は口うるさい。
「借りてくる」
「? あ。うん」
まだ弁当をつついている真琴を置いて教室を出た。
と、廊下であの短髪の男を見かけた。2組の前で男子としゃべっている。多分部活絡みだろう。
彼には用も興味もないのですぐに彼を視界の隅に追いやった。
「あっ。水希の!」
「……」
デジャブだ。
しかも俺自身ピタリと足を止めてしまったので無視ができない。しかたなく声の方を見る。
「水希に用だろ?」
「……」
「ついさっき起きたぜ! おはよ、て言ったら睨まれたんだけど、あいつほんっと寝起き機嫌悪いよな!」
「……。そうか」
カラカラ笑いながら言われるのでとりあえず頷いた。短髪と話していた男子生徒が不思議そうに俺と短髪を見比べる。短髪は気づいてない。察しが悪いな。
「水希によろしくなー」
「……ああ」
内心貶しているのにニコニコ笑いながら送り出されるので複雑な気分だ。
2組に入り水希の席を確認する。水希は……イヤホンをしている。……携帯とかポータブルプレイヤーとか。持ち込みは許可されているが校内での使用は許可されていない。まだ一年生だというのにさすが元不良なだけあってやることが大胆だ。
水希のところへ向かう。水希は俺に気がついて片耳を外す。
「学校で使ってたらとられるぞ」
「バレないようにしてるって」
教師の目を盗んでも同級生からの告げ口があるんじゃないかと思ったが、水希のセリフは教室でのイヤホンの使用は常習と言ったも同然だったので黙っておいた。周りもわざわざ教師に告げ口するほど暇じゃないんだろう。
「で?」
水希はイヤホンを完全に外し、ポケットに丸めて入れた。
「……ああ。お前、現代文あったか?」
「? ないけど。教科書はあるよ」
「……?」
「置き勉してる」
椅子を斜めに傾け、引き出しから教科書を引っ張り出し、机にのせる様子をぼんやり眺める。
……教材の持ち帰りは大変だろうからと、教科担任がいくつか学校に置いて帰ってもいいと許可をしているものもあるけど。化学の資料集とか英語や古文漢文の辞書とかだ。教科書は許されてない。
「教科書は持ち帰らなきゃダメじゃなかったか?」
「そうだよ」
言いながら水希は机の上に次々と教科書を重ねていく。数学。古典。物理。化学。……。
「……。お前ほんと不良だな」
「……」
かたん。浮いていた椅子の前足が床につく。
水希は俺を上目に見た。
「……。俺は困らないけど?」
最後に机に置かれたのは現代文の教科書。水希はそいつを守るようにその上に片手を置き、八の字を寄せている。
「……冗談だ」
「……。それで?」
「貸せ」
「は?」
「……、……っ。貸して、クダサイ……」
屈辱だ……。
「ふん」
水希が満足げに鼻を鳴らし俺に教科書を突きつけた。とりあえず受け取ったけど、乱暴すぎるだろ……。
「遙のとこの現代文の先生、俺のところと一緒だろ」
「……」
「俺が不良でよかったな」
水希は机に出した他の教科のテキストを引き出しにしまっていく。
教科書は貸してくれたが俺が水希を不良と罵ったことは根に持っているらしい。俺に言い直しを強要させたくせに……。……思えばこんなやりとりは久しぶりだ。俺は水希の機嫌を直す言葉を探さなきゃいけないのに、なんでか頬が緩んでしまう。
「……なんでにやけてんの?」
「にやけてない」
思わず水希を睨みつけた。
ちゃんと睨み返してきつつも俺を怪訝そうに見る水希はかなり器用だ。
「まあ別にいいけど。早く戻れよ。予鈴、もうすぐ鳴るよ」
水希が顎で時計をさした。つられて時計を見る。時刻は予鈴がなる1分前。
戻れ、か。場所は言うまでもなく自分の教室……、あ。
「真琴、落ち込んでるぞ」
「……」
最近弁当を空にするのが遅い真琴のことを思い出し、口にした。
水希は一瞬疑問から顔を歪めたけれど、すぐに理由が変わり、呆れ寄りの顰め面になった。しばらく沈黙した。
「……。わかったよ。少し考える」
「ああ。そうしてやれ」
「……、……」
「? なんだ?」
何か言い出そうに水希が口を開閉させたように見えて問いかけたが首を左右に振られた。
追究しようとしたけれど予鈴が鳴った。加えて教師も入ってきた。
「教科書、明日でいいよ」
「……。わかった」
それが暗に今日の放課後会う気はないと言っていることを察したが水希に背中を向けた。
俺たちがそうであるように水希も二週間も経てば落ち着いてきたんだろう。俺たちと距離を置こうとしているのは変わらないけど、以前のようにあからさまにじゃない。
廊下を小走りで進む。本鈴がもうすぐ鳴るから……じゃない。
……俺は自分が思っていたよりも単純らしく、久しぶりに水希と以前のように接することができてかなり気分が良くなっている。
教室に入ると授業を受ける準備をしている真琴と目があった。
「……良いことあったんだ?」
「……」
真琴の視線が一度今しがた借りてきた教科書に向かい、また俺に戻ってきた。
「少し話しただけだ」
「……ふーん」
「……。拗ねるな」
「……拗ねてないよ?」
「……」
拗ねてるだろ、と思ったけど言わないでおいた。
水希が俺たちと距離を置いたせいで独占欲というか嫉妬というか、真琴は水希関連のことにめんどくさくなった。前まではそうではなかったのに。……いや、前はそんなに顕著に表さなかっただけかもしれないな。
真琴とのやりとりはそれだけにして席に着いた。ちょうど教師が入ってきて、起立の号令がかかる。
今座ったばっかりだったのに……。
♯
俺が水希から教科書を借りた翌日。
いつものように水風呂に浸かっているとやっぱり真琴が迎えにきて、いつものように鯖を焼くと真琴はいつもより急かしてきた。その理由は、真琴に引きずられるように家を出たとき、石段に座っている人間に気がついてやっとわかった。
水希、と声には出さず口の形だけを作る。
「ハルに言われてやっと、ていうのがあんまり納得できないけど」
ハッと真琴に視線を向ける。
「水希がそう言ったわけじゃないよ」
「……」
昨日俺が真琴のことを水希に伝えた、というのを真琴が知っているのは水希がみなまで話したからかと思ったが違うらしい。
「そもそも俺が、ハルに水希を説得するように言ったからさ」
「……俺だけが言っても聞かなかったと思う」
真琴は不意を打たれたように目を丸くして、しかしすぐ柔らかく笑んだ。
「水希」
真琴が呼ぶと水希は立ち上がる。それから緩慢にこちらを見上げ、眩しそうに目を細めた。
久しぶりに3人で肩を並べて歩いた。真琴が話をして、俺と水希が相槌を打つ。真琴が普段より饒舌だった気がしなくもないけれど、前と比べても特にこれといった変化はなかった。
いつもと同じように真琴の言葉に短い返事をしていたつもりが、いつもより早く学校に着いた。昇降口に入る。クラスが違うので少し離れた位置にある下駄箱にスニーカーを直す水希のところへ、靴を履き替えた真琴が駆け寄る。……真琴のやつ、履き替えるの早いな。
「水希。帰りは?」
「……あ。っと、ごめん。約束してる」
「ん……。そっか、仕方ないね」
しゅんと肩を落とした真琴は本当にわかりやすい。……わかりやすい、のに、水希はどうしてわかってないのだろう。
「よ。橘」
「はよ」
短髪とは別の男子生徒が水希と軽い挨拶を交わして行った。
水希の意識がこちらにないうちに悄然とする真琴の肩を叩き、声を潜めて話しかける。
「焦ることはないだろ」
「……。うん」
靴を上履きに履き替えた水希が俺たちの方を向く。それに合わせて小声で話せるくらいに詰めていた距離を、そっとあける。
水希が俺をジ、と見てゆっくりと瞬きした。次にその若葉色の瞳で見るのは真琴だ。
「……真琴」
「うん?」
水希は下がったわけでもないカバンの紐を肩にかけ直す。
「……、その。あんまり俺に気ぃ遣わなくていいよ。俺も一往、友だちいるし」
「?」
「ん。……うん」
水希はそれ以上は言いづらそうな様子だ。顰蹙して頬をかいている。水希があからさまに言葉を詰まらせるなんて珍しい。
真琴が怪訝そうに首をかしげる。
「……俺は別に気を遣ってなんかないよ?」
「……。ん」
水希は小さな声で頷いた。
以来、週に一度くらい水希は俺たちと登下校を共にするようになった。
あの出来事から三週間経った。最初こそ“一緒に居たくない”なんて言われたが、今はそんなことは言ってこないし素振りも見せない。
三週間、様子を見続けたけど、水希は順調にクラスで友だち関係を築いているだけで、彼に俺たちと離れるように脅した人間なんてまったく見かけない。俺たちと同じような考えの人間云々は見当違いだったのだろう。
ほとんど衝動に駆られたように俺たちを拒絶した理由はなんだったのかが未だに解明できない。しかも、その、水希を突き動かした“何か”は依然として存在していて、水希は適度な距離を保ち俺たちのすぐそばには来ようとしない。……姿のない邪魔者に胃がムカムカする。
今日の昼ごはんは真琴と二人だ。水希も誘いに行ったけど眠っていた。見慣れた光景だった。俺のことを「水希の」て呼ぶ短髪曰く四限の途中から寝てるらしい。
「屋上もそろそろ暑いな……」
先に屋上に出た真琴が独り言のように言った。
いつも弁当を広げる場所に座る。手提げから弁当箱を取り出そうとしてふと、視線に気がついて顔を上げる。
女子生徒が三人。
……。見覚えのある人たちだ。しつこく見てくるのは知っていたけど後回しにしたのをすっかり忘れていた。
あちらからまったく声をかけてこないのは、俺か真琴、どちらか一方に話があるからか。……だとすると真琴だろうな。背も高いし優しいしイケメンだし、女子が目をギラギラさせてるぜ、て入学してすぐに真琴がクラスの男子にからかわれてたのを覚えている。
ため息を飲み込み真琴を見るとすぐに見返され、首を傾げられた。
「……先に食べてろ」
「え?」
「トイレに行ってくる」
「? ああ。うん、わかった」
手提げを置いて屋上を出た。
真琴が断ることをわかっているのにわざと彼を一人にしたのは悪いと思うけど、さっさと当たって砕けてもらえばあの鬱陶しい視線に苛まれることはない。
とはいっても時間を潰す場所が思い浮かばなかったので、わざわざ一階まで下りて、用もないのに手洗いに寄って、なんとなく手を石鹸で洗って、また屋上に向かう。
階段を上っているとさっきの三人組が駆け下りてきた。バタバタと忙しない。当たって砕けたんだろうな。
……石鹸のにおいがする……。
屋上に戻った。
真琴はまだ弁当箱を開けていない。俺が帰ってきたのには気づいているんだろう。が、たった今の出来事が気まずいのかこちらを向かず、グラウンドの方を向いているので表情は見えない。
俺からも特に声はかけず、横に座って手提げから弁当箱を出した。
弁当の蓋をあける。
鯖。白米。
と、横から笑い声がした。
「……。真琴?」
聞き間違いではない。真琴は肩を揺らして笑っている。
もう一度呼ぼうとすると真琴がこちらを向いた。
「ふっ。はは……」
笑い声を抑えるように口元に拳を寄せる。
急に何を笑っているのか。あまりに怪しくて自然としかめっ面をしてしまう。
「ハル」
「?」
「俺とハル、付き合ってるって噂されてたみたいだよ」
「? ……は?」
驚愕。冗談ではなく目眩がした。真琴の発言がすぐには理解できない。
俺の反応に真琴はまたおかしそうに声をあげ、やっぱりそうなるよなぁと声を震わせながら言う。
「さっきの子に聞かれたんだ。『七瀬くんと付き合ってるんですか?』て」
「は、……」
さっきの……は、てっきり真琴に告白したのかと思っていた。……俺と真琴が付き合ってる、て、なんでそんな噂……? 意味がわからない。
「もちろん否定したよ。それと、そんな事実はないって訂正するようにお願いしておいた」
「……。脅したんじゃないのか?」
「そう思う?」
苦笑された。
……すれ違ったあの女子の慌てようから真琴が“お願い”したようには思えない。けど。そんなのは問題じゃない。
ずっと疑問に思っていたことだった。
――誰に何を言われたのか。
――俺たちのそばに水希がいるせいで、俺たちに不利になる話。水希が俺たちから離れる理由。
……。
「水希がなんで『気を遣わなくていい』て言ったのかよくわかったよ。それと、あんなことを言い出した理由も」
「……」
「知らなかったよ。水希、噂話なんか本気にするんだ」
黙っているのは真琴に同意見だからだ。
あの日、唐突に、俺たちを拒絶したのは、誰が言い出したかもわからない噂話を信じたからだった、とか。
「……俺たちはずっと水希を大事に思ってきたのに。赤の他人が言ったことなんかを鵜呑みにして、……勝手な勘違いで俺を突き放したとかさ」
真琴が笑みを消した。
「笑えない」