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遙を好きだと自覚したのはつい最近のことだった。それも、江に「水希先輩は、なんだかんだ言って遙先輩といるとき楽しそうですよ」と指摘されなければ、彼の何気ない仕草に目を奪われ、何気ない一言に一喜一憂する自分に気づくことはなかったのだろう。
ほとんど無意識。
ほとんど当たり前のように遙を好いていた。
が、遙を好きだと自覚したからといって、何か急激な心境の変化があるわけでもなかった。いつも通り遙や真琴と肩を並べ、いつも通り後輩に接し、いつも通り家族と過ごし、……。
男を好きになってしまったとか。
同性をそういう目で見ているとか。自分の性と感情に葛藤しても良さそうだったが、日常は何も変わらなかった。だから遙を好いていることを苦痛に感じることはなかった。
ただそれも、俺自身の気持ちが強くなる以前の話だ。
遙が好きだ。彼によく思われたい。彼に――。
目が覚めた。ヘッドボードに載っているデジタル時計を掴んで時刻を確認する。7時2分。もう一度眠りたい気持ちを抑え、体を起こし、ベッドから下りる。カーテンを開けば光が差して部屋が明るくなった。
床に落ちている布団をベッドに投げ、部屋を出る。
「あ。おはよ、水希」
「はよ」
ちょうど横の部屋から出てきた真琴と軽い挨拶を交わした。階段は2人で並んで下りるほど広くない。先を行く真琴の後をちょうどいい間隔をあけてついていく。
真琴はトイレ前で立ち止まり俺を振り向いた。首を横に振って彼の横を抜ける。俺もトイレに行きたいけど空いてからでいい。真琴には伝わったようで後ろでドアが閉まる音がした。
代わりに向かった洗面所は無人だ。鏡の中の自分と向き合うのもほどほどに顔を洗って歯を磨く。
……眠たい。顔を洗っても歯を磨いてもすっきりしない。いますぐにでも寝たい。
あくびが出た。いつまでもここにいたら遅刻だ。身支度をしなければと方向転換する。と、ドンと腹に衝撃。
「っ」
「おにいちゃんおはようっ」
「……おはよ」
腹あたりに頭をぶつけ、しがみついてるのは蘭だった。ぴたりとひっついて眩しいぐらいの笑みを見せる蘭の頭を撫でてやる。そうすると蘭は満足げに頬ずりして俺から離れた。
洗面所の隅にある台を抱えるのまで見て、蘭に背中を向ける。
「あっ。おにいちゃん、ご飯一緒に食べよう!」
「ん。うん。わかった、待っとく」
肩越しに蘭を見て返事。今度こそ洗面所を後にした。
トイレのドアに手をかけたところで蓮が階段から下りてきた。手すりを頼りに目をこすっている姿はどう見ても寝起き。蘭とはえらい違いだ。
「ん……にいちゃん。おはよー」
「おはよ。寝ぼけてんなよ」
「うんー……」
ふわふわとした様子の蓮がリビングに入っていった。ソファで寝なければいいけど。最近の蓮は、二度寝しては遅刻しそうになってよく蘭に怒られている。
トイレを済ませてリビングに入った。
「あら水希。おはよう」
「はよ。……?」
キッチンの方から声をかけてきた母に返事をしつつ、リビングで蓮が船を漕いでいないか見てみようとすると、予想外の人物を見つけた。
父だ。コーヒーカップを片手にテレビを見ている。と、俺の視線に気がついたのかこちらを向いた。
「お。水希」
「おはよ。今日遅いの?」
「ああ。久しぶりに水希たちと一緒に出れるな」
からかうような言葉に微妙な表情をすれば、父は優しく目尻を下げた。冗談と本心と半々ってところみたいだ。
よくよく見れば蓮が父の横でうとうとしている。……また蘭に怒られながら急くはめになるだろう。
テーブルにある空の皿を2枚取ってキッチンカウンターに持って行く。
「蘭の分も」
母は俺から皿を受け取って、ちょうどいま焼きあがったらしい目玉焼きを一つずつ皿に載せた。
「はい」
「ありがとう」
カウンター越しに戻ってきた皿を持って席に着く。パンとサラダは机の皿の上。好きなのを自分の皿に移して食べるのが基本だから俺はサラダを取らない。よく真琴に注意されるけど聞いてない。たまに俺のせいで蓮が野菜を残すとか言われるけど。
そんな真琴は彼の向かいに座った俺を不思議そうに見る。俺が座るのは、いつもは真琴の横だからだろう。
「真琴の横だと野菜を食えってうるさいから」
「えっ!」
「うそ。蘭に頼まれたからだよ」
「……もう」
真琴のそばにあるピッチャーに手を伸ばすと真琴は俺に渡してくれた。意地悪くされた相手に対しても優しい。半分本音だったことは黙っておくことにした。
蘭に待つと言ったため食事に手をつけず飲み物のみで過ごす。
暇なので真琴を観察することにした。
なんか。相変わらず頼り甲斐のありそうな感じだ。ガタイがいい。この間腕を並べて比べたとき悲しくなったのを思い出す。ついでに宗介に「真琴と違って薄いな」と胸板を叩かれたのも思い出した。結構いい音がなったしなかなか痛かった。身体的苦痛はもちろん精神的にも屈辱だったのであいつは許さない。
運動量は同じぐらいだろうし、俺は密かに筋トレをしているのにどうして真琴みたいにならないんだろうか。まさか野菜……?
俺の視線には気づいているだろうけど真琴は特に反応しない。してほしいわけじゃないけど……あ。
「真琴、寝癖ついてる」
「……またうそとか言うんじゃないの?」
「いや。さっきのも今のもほんとだって」
「……、ちょっと待って?」
「あ。やば。口滑った」
真琴が険しい表情をしている。
うまい言い逃れが思いつかない。我ながら眠いときの自分は脳と口が直結していると思う。言わなくていいことを言ってしまうというか。
「おにいちゃんっ。まだ食べてない?」
「ん。おう」
タイミングよく蘭がやってきた。
俺の隣の椅子を引いてちょんとそこに座った蘭が、身を乗り出そうとしているので適当にパンと野菜とを取ってやる。
「ありがとうっ」
「うん」
「蘭はちゃんと野菜を食べてえらいな」
「えへへ」
向かいの真琴に褒められて蘭は嬉しそうだ。
真琴の視線が一瞬俺に向いたのがわかった。彼のセリフは若干俺への当てつけが含まれていたらしい。が、気にせず食事を始める。
「あ! おにいちゃん寝癖っ」
蘭が真琴に向かって言った。俺が指摘したのと同じものだ。
真琴が髪を撫でている。やや居心地悪そうなのは俺にも蘭にも指摘されたからだろう。ふっと笑みをこぼすと目ざとく真琴に見つかって気持ち睨まれた。
結局今日も蓮は蘭に怒られた。みんな同じような時間に家から出るのを、母は玄関まで見送ってくれた。
俺は今、真琴が遙を呼びに行ったのを遙の家の玄関で待っている。本当は家まで来るつもりはなかったのだけれど、真琴が「多分今日は時間がかかるよ」なんていうから、外で日差しと格闘するのも嫌で仕方なく。
真琴の言った通り、ここについて十分ほどしても遙は玄関まで出てこない。代わりに魚の焼けたにおいがする。あまり好きじゃないにおいだ。
玄関で座って待ちながら、何気なく足元の靴を見る。真琴のはここに来たとき俺が隅に並べた。そばには遙がいつも履くやつがある。
……話が前後するが、真琴の言った通りになった。真琴は何を根拠に遙の支度が遅くなることを予想したのだろう。
昔からそうだ。真琴は遙のことならなんだってわかっている、――?
そこまで思考して胸苦しさを覚えた。
「……」
ここに居たくない。ここに居たくない。ここに。
すぐそばから声がする。繰り返される低いうなり声。気持ち悪い。吐きそうだ。
壁に寄りかかって目を瞑る。
焼き魚のにおい。食器の音。2人ぶんの会話の声。
居たくない。居たくない。居たくない。居たく、
「水希?」
「、」
とん、と肩に軽い衝撃が走ってびくりと体が跳ねた。
「あ、ごめん。驚かせた?」
「……真琴」
真琴だ。俺と同じ目の高さになるよう、屈んでいる。
「ハルが遅いから寝ちゃったのかと思った」
「……。俺は別に待っててくれなんて頼んでない」
聞こえた真琴以外の声に、ずんと臓器が下に引っ張られるような。体が重くなる感覚がした。
徐に振り向くと、真琴の後ろで不機嫌そうにしている遙がいる。
「もう。ハル」
真琴が遙を咎めるころには遙を見るのをやめた。
立ち上がってさっさと遙の家から出る。後ろから真琴の慌てた声がした気がする。おおかた「待って」とでも言ったんだろう。
石段を全部下りたところで真琴たちのことを待った。
海風に乗って磯のにおいがする。嗅ぎ慣れたにおい。少しだけ気が落ち着く。
「水希」
意外にも、先に下りてきたのは遙だった。
「なに?」
「……その。さっきの、お前のことが迷惑とかじゃない」
「そう」
さっきの、てのは待っていてくれるように頼んでないとかなんとか。そのことだろう。
そんなこと伝えるためにわざわざ真琴より先に下りてきたのかと思うと少し笑える。遙への蔑みではなく、あからさまな態度を取ってしまった自分へ向けた嘲笑だ。
あんなやりとり数え切れないぐらいしている。あれが遙の本心でないことぐらいわかっているはずだ。なのに傷ついて、剰え機嫌を悪くしましたと、そんな態度を取ってしまうなんて。いつも通り、俺は言い返せばよかったのだ。「真琴がいれば十分だろうな」とか、適当な嫌みを。それができなかったことから、自分に余裕がないことをまざまざと感じさせられる。
「もー。2人とも待ってよ」
居心地の悪い空気になりかけたときに、真琴がくたびれた声を出しながら近づいてきた。今朝の蘭のようなタイミングの良さ。
遙とのやりとりはこれで終わり。と思ったけれど。遙が若干俺の返事不足を感じさせる顔をしているのでちゃんと完結させられていないようだ。
「遙」
「……」
「わかってるよ。気にしてない」
「……、ん」
もう少し言葉を添えてやると遙は小さく頷いて、肩の荷が下りたような顔をした。
他人には無関心そうに見えるけれど遙は案外思いやりのあるやつだ。俺が機嫌悪くしたのを結構気にしていたんだろう。
「仲直りした?」
「は。喧嘩してないよ」
真琴の言葉に薄ら笑いして、また一番前を歩く。
遙が俺の右隣に来て、真琴が遙の右隣に並んだ。
三列で並んでいては、車とか、そこそこ邪魔になるだろうと思う。歩調を緩めて遙たちとずれた。1人になって海を見た。また磯のにおいが鼻をくすぐる。朝日が水面に反射して眩しかった。
遙が好きだ。彼によく思われたい。彼に――俺の好意と同じものを返して欲しい。
自分はいつからそう思うようになったのかはっきりとはわからない。遙の何気ない言動に喜んで、傷ついて、期待して、落ち込んで。浮き沈みの激しい自分自身にそろそろ心身ともに疲労している。
遙が好きだ。その気持ちが欲深くなると今まで気にならなかったことが気になりだして、大きな壁となって俺の前に立ち塞がる。
同性であること。
共通の友人が多すぎること。
幼なじみであること。
……真琴のこと。
自分の気持ちを殺さなければならないことがこんなに苦痛だと初めて知った。知らなくていいことだった。
同性であることは何よりの壁だった。俺自身が、同性を好きであることに後ろめたさがあった。なんだかんだ言って同性同士に理解のある人は少ないと思う。
自身の気持ちを本人以外にも受け入れてもらうことも一往、必要になるだろう。他人に理解されなければそれはそれで仕方ないのかもしれない。……俺に、今まで築き上げてきた友人や家族との絆を無視できる根性があるのかは別として。
……真琴は。
俺とはまた違う意味で、真琴は、遙が好きだ。遙を大切にしている。幼い頃から遙と過ごしてきて、遙を心から信頼している真琴を俺は知っている。小学校でも中学校でも遙の姿をキョロキョロと探し、遙を気にかけていたし。恋人とか親友とかそんなくくりじゃない。自分と共に居て当然の存在だろう。ネガティブな表現にはなるが依存といっても過言じゃないかもしれない。
遙に俺の好意と同じものを返して欲しい――俺は遙が俺を見てくれるのを望んでいる。それは真琴から遙を取り上げるのと同義だ。ほとんど真琴の半身ともいえる存在を、俺の感情でどうにかするのは憚られた。
真琴が邪魔とか、そういう意味で言っているんじゃない。真琴が遙に向けるものと同じような意味で、俺は真琴も好きだ。真琴を悲しませたくない。……というよりも、そもそも。2人の昔からの強い絆の間に入っていくような図太さが俺にはない。
最近昼休みは寝たふりをしている。そうすれば遙たちは俺を放って、後輩たちの待つ屋上へ行ってくれるからだ。彼らが教室から出てしばらく経った頃を見計らい、体を起こしてカバンを漁る。中から弁当を見つけ出し机に置く。
今日は母が作ってくれた。明日は俺が当番。おかずが被らないように気をつけなければ。参考にするため、部活のときにでも、真琴に弁当の中身は何がいいか聞いておこう。
一人で箸を進める。周りは賑やかだ。グループになって食事をしている。一人きりが苦手なわけではないが、今朝の食卓とのえらい違いに、少しだけ寂しくなる。
屋上では水泳部のメンツが騒がしくしているのだろう。その中で、遙も、かすかな笑みを浮かべているのだろうか。
「……」
窓の外。プールの方に視線をやる。
遙が屋上に行かず、寝たふりをする俺のそばにいてくれたのなら。俺のことを気にかけてくれたら。なんて。女々しい自分が嫌になる。
遙のそばにいるのは苦しい。
遙がそばにいないのも苦しい。
遙のことを考えない時間がほしくて、わざと距離をとってみても、結局、その場にいない遙のことを考えて、自分で自分の首を絞めている。
遙に好きなのだと伝えたい。その好意に応えてほしい。
ぐっと喉まで込み上げてきた何かを飲み下す。
目を閉じた。
暗転した世界。瞼の裏で幼い真琴が泣いている。遙の手を引いて歩く男を、悲しそうに見つめている。「ハルちゃん」真琴の口がそう動いた。
心臓が縮むような感覚を覚え、そっと目を開けた。周りは相変わらず賑やか。苦しそうに表情を歪めていた幼い真琴はいない。
「……」
胸の圧迫感を覚えて箸を置いた。容赦無く胸を貫くのは真琴への罪悪感に他ならなかった。
食べたり食べるのをやめたり。かなりもたもたと食事をしているうちに真琴たちが教室に戻ってきた。俺を見るなりこちらに寄ってきた真琴は「今起きたの?」と困ったように笑いながら、俺の頭をくしゃりと撫でる。蓮や蘭と同じ扱いはやめてほしい……。
「水希。お前最近寝てないのか?」
「……ん」
真琴の横に立っていた遙に聞かれ曖昧に頷いた。
「寝てはいるんだよね」
俺の曖昧な返答に、遙が納得していない顔をしたのを見たからだろう。真琴が俺の代わりに口を開いてそう言った。
「いつも俺より先に寝てるし」
「……。そうだっけ」
「そうだよ」
真琴は相変わらず俺の頭に手を置いたままだ。
「寝不足じゃないのに昼も寝てるのか……?」
遙が奇妙なものを見るような目で俺を見る。昼も寝てる、て。寝たふりだし。……と言いたいけれど言ったところで俺に利益はない。むしろ不利益。
遙の言葉には返事をせず、最後まで残っていた野菜を箸でつまんで口に放る。苦い。そんなに噛まないうちに水で流し込む。
「偉いね。水希、野菜食べたんだ」
ニコニコとする真琴。……嫌みを言ってるわけじゃなさそうだ。
「……蘭たちと同じ扱いするの、やめろよ」
ため息と一緒に真琴の手も払った。
昼休み、午後の授業、終礼まで終わり、いよいよ遙の待ち望んだ部活動の時間だ。まあ……遙は部活がしたいというよりかは単に泳ぎたいだけだろう。
真琴がミーティングの進行をする。俺の右隣が遙、左隣は怜。ちら、と左から窺われたような気がして俺も同じように目だけ動かす。
怜は俺を見ていた。ただ、俺が振り向くとは思っていなかったようで、やや驚いたようにしている。何か言いたいことでもあるのだろうか。首を傾げ促してみるけれど、長くなる話だから今は言えないのか、それとも話すことは特にないのか、曖昧な笑みを返された。
「――来週は鮫柄との合同練習もあるから。しっかり準備をしよう」
真琴が話を締めた。それとちょうど同時に俺の右隣がゆらりと動く。
準備体操がまだなのに。胸の内で呆れつつ、まあ遙にしては持った方だったのだろうかとも思う。真琴の話中はプールに飛び込むのを我慢していのだ。
「ハル。準備運動」
「! ……」
……俺や後輩たちが見逃しても部長はそうでなかったらしい。
遙はプールを目の前にして真琴に腕を掴まれた。グイグイと腕を引いてもあの馬鹿力には勝れないのだろう。恨めしげに真琴を睨んでいるが、真琴には効いていない。
「……準備運動なんかしなくても俺は問題ない」
「ダメだって。足が攣ったりするんだからさ」
二人の会話を聞くのもそこそこにしておいた。プールから少し離れて、怜や渚はもうすでにウォーミングアップに取り掛かっている。俺もそちらに参加した。
「あ。水希ちゃん」
ぴょんぴょんと跳ねていた渚が俺を見て声をかけてきた。「おう」と軽く返事をしておく。
「水希ちゃん。まこちゃんが困ってるよ」
「? 困らせてるのは俺じゃなくて遙だろ」
「うーん。そうだけどさ」
渚は跳ねるのをやめて、手足首の関節をほぐす。
「ハルちゃんも、まこちゃんと言い争ってないでさっさと準備運動しちゃえばすぐなのにね」
「本人にそう言ってやれよ」
「水希ちゃんじゃあるまいし」
「は?」
思わず低い声を出すと渚が怜の後ろに隠れた。急なことに怜は頓狂な声を出して驚いていた。
「渚くんっ。僕を盾にしないでくださいよ!」
「だって水希ちゃんに脛蹴られるの痛いもん!」
「渚くんが余計なことを言うのがいけないんでしょう!」
怜と渚はなぜか俺を抜かしてもめてる。脛を蹴るつもりなんかなかったんだけど……。
……「水希ちゃんじゃあるまいし」て。なんだよ。