翌日の昼。今日も寝たふりをして遙たちに置いて行ってもらった。
 今日は弁当を半分食べたところで図書室に足を運んだ。高校になってからは滅多に行かない場所だ。図書室独特の空気を吸い込む。人はあまりいなくて静か。同じ校内なのに切り取られた世界みたい。
 図書委員オススメ、というポップの立てられたコーナーをぼんやりと眺める。俺に本の知識はない。作家名や本のタイトルを見てもピンとくることはなく、なんとなく、本の表紙から選んで手に取ってみる。
「水希先輩?」
「? 怜」
 声のした方を見ると怜がいた。
「こんなところで会うなんて。珍しいですね」
「そうだね」
 声を潜めて話す。怜が俺の横にきて、俺が持っている本を覗く。「最近流行ってるやつですね」と、そんなコメントをもらっても素っ気なく相槌することしかできない。表紙が気になったから手にしただけで、この本が流行ってるとか、そんなことすら俺は知らないのだ。
 なんとなく申し訳なくなって本を棚に直した。
「最近、昼休みは図書館に?」
「いや。今日が初めてだよ。いつもは教室にいる」
「……ふふ。遙先輩が『寝る子は育つ』て、言ってました」
「……」
 俺が昼休みに屋上に行かず、何をしているのかは大体話に聞いていたらしい。
 寝る子は育つ、とか。そのままの意味ではなく単なる皮肉だろう。そんなことを言われていたとは。まったく知らなくていい事実だった。
 小さく溜息をして怜の手元を見た。怜は本を3冊ほど持っている。一番上の本には“水泳の体づくり”と書いてある。
「……。相変わらずだな」
「あ。……はい。まだまだ学ぶことはたくさんありますし」
 わずかに笑みしてみせると、怜も照れたように笑った。
 嫌みとかじゃなくて感心だ。知識を集めて部活に生かそうとする怜はすごいと思う。向上心が伝わってくる。
 そういえば……怜は本に関しては詳しそうだし、俺の気分転換に付き合えるようなものを提案してくれるかも。
「怜。なんか読みやすい本ない?」
「読みやすい本、ですか?」
 きょとんとした怜は、俺の顔をジと見ると、メガネのブリッジに手を当てて考え込んだ。……あまりに抽象的すぎたかな。
「できれば没頭できるやつがいい」
「……おすすめできる本なら数冊あります。水希先輩が普段どのような本を読むのか知らないのでなんとも言えませんが」
「なんでもいいよ。教えて」
 こくんと首を縦に振った怜が、別の本棚に向かうのについて行く。
 図書室の奥まで来た。ハードカバーだらけのところだ。怜の細い指が本の背表紙をなぞるのを見つつ、びっしり詰まった本棚に一人ため息する。迫力というか圧迫感というか。
「えっと……。これです」
 一冊の本を抜き出して、怜は俺に差し出した。そこそこページ数のある硬表紙の本だ。受け取るとズシリと重みがあった。
「推理小説なんです。僕が今まで読んだ中では一番でした」
「へえ……」
 心なしか怜の目が輝いている。
「ありがとう。借りてみる」
「はい」
 貸出期限内に読み終えられる自信がないけれど、せっかく紹介してもらったんだ、怜に感想が言えるように頑張ろう。
 怜と一緒にカウンターに行ってそれぞれ本を返したり借りたりした。その後は今度の合同練習の話なんかをしながら教室を目指し、階段で別れた。
 途中で本をめくってみたところ、字も小さいし500ページはあった。怜おすすめの本はなかなかに読み応えがありそうだ。……全く本の虫なんかではない俺が果たして最後まで読めるのかは別として。
 ……何か別に没頭できるものがあるのなら、遙のことで悶々とするのも少なくなるんじゃないかと。そんな理由から本を探し、しかも怜に本を勧めてもらったのは罪悪感だ。怜、自分の好きな本に興味を持ってもらえて嬉しそうにしていたし。
 せめてこの本を読み終えて怜に感想を言えるようにはしよう。じゃないと申し訳ない。
 教室が目の前、というところで遙と出くわした。彼の横に真琴はいない。あちらは手洗い場にでも行ってきた帰りなのだろう。
 遙は俺の手元に目をやって、怪訝そうにする。普段読書なんかしない俺を知っているからよほど奇妙に思えるらしい。
「本、借りてきたのか?」
「ん。怜に勧めてもらった」
 軽く頷くと遙が眉をひそめる。……わざわざ人に勧めてもらってまで本を読もうとする俺の態度が不審なんだろう。例えとしてはなんだけど、俺も、遙が誰かにいい温泉を聞いてそこに行こうとしていたら変だと感じるし。
「……お前、そんなに長い本読めるのか?」
「さあね。でも勧めてもらったんだし。怜に感想が言えるように頑張るよ」
 嫌みっぽいことを言われたけど気にしない。予鈴が鳴ったので遙との会話はそれで終わりにして教室に入った。
 やっぱり遙が好きだ。ちょっとのやりとりだったけど、遙と会話したことに気分が上がっている自分がいる。胸のあたりが熱くなる反面、やるせなくなる。
 本鈴まであと五分。本を少しだけでも読み進めておこう。

 結論から言うと怜に勧めてもらった本はかなり引き込まれる。昨日は部活後、早速本を読み進めた。リビングで本を読んでいる間、蘭が俺に構ってくれとちょっかいをかけるのをいい加減に扱ってしまっていたようで、俺が気付いたときには蘭は頬を膨らましていた。今朝には許してもらえたけど、二度目はないそうだ。気をつけたい。
 ちなみに、夢中で読み続け夜遅くまで起きていたので午前中の記憶が全くない。どうやって学校に来たのかも曖昧だ。
 寝ている間、学校に来る夢を見た。授業を受ける夢も見た。……もしかしたら夢じゃなかったのかも。
 ちなみに今は授業中。四限目だ。
 始まって5分と経っていないが、本が読みたくてたまらない。続きが気になる。
 さっきから机の横にかけた鞄をチラチラと見てしまっている自分がいる。中に直した本を相当気にしているらしい。

 肩を叩かれる感覚で目が覚めた。視界が暗い。いつの間にか机に伏せていたようだ。
 ゆっくりと頭を上げ、目をこする。あたりは騒がしい。あと、弁当くさい。
「水希。飯、食べるぞ」
「……?」
 遙だ。俺の肩に手を置いている。起きる直前、肩を数回叩いてきたのも彼だろう。
 何気なく遙の付近を見渡す。何か違和感があると思ったが、なるほど、真琴の姿がないんだ。
「真琴は……?」
「屋上に行った」
「ふうん……」
 自分から聞いておいて反応が悪い。と、頭の片隅では思っている。正直寝起きだ。何かと頭がついていっていない。
 まず。いつ、寝たんだっけ。
 時計を見ると昼休みは半ばになっている。俺の記憶は四限のはじめの方で途切れているから、多分、そのあと寝たんだろう。
 遙は俺の前の席に座っている。俺の記憶違いでなければ、その席の女子は、昼休みいつも席を空けている。だから今の時間は遙が座っていても大丈夫だろう。
 遙の弁当が俺の机に載った。
「急に読書家になったな」
「? ……ん」
 なんの話かいまいちわからない。首を傾げる。
 遙は苦虫を噛んだような顔をした。
「……今日も図書室に行くのか?」
「んー。いや、行かないよ」
 今日、図書室に行く予定はない。借りた本の返却期限がくれば行くつもり。
 ふと、読書家云々が俺を皮肉った言葉なのだと。遅れて理解した。遙の前で本を読んだ記憶はないが、今朝見た登校する夢の中で「昨日はずっと本を読んでたね」とかなんとか。真琴が俺に言っていたのを遙も聞いていたのだろう。
 机の上で広げられる遙の弁当をぼんやりと眺める。……いまさらだけど、なんだ、この状況。遙と一緒に昼飯を食べる流れになっている? なぜ?
「水希。弁当」
 遙がコツコツと指先で机を叩く。
「忘れたのか?」
「……。あるけど」
 今日は俺が当番だ。うとうとしながらキッチンに立つ俺のそばで、母がハラハラしていたのを思い出した。
 まあ、今日の俺の弁当事情なんてどうでもいい。
 遙は、真琴はもう屋上に行ったと言った。いつものごとく水泳部のメンツで昼食をとるためだろう。もうすでに飯を終えて戻ってきたのならともかく、なぜ、遙は飯を食べず教室に残って俺を誘っている?
「遙。なんでいんの?」
「……屋上だと暑い」
「? ふーん」
 遙からの返答にはやや間があったが特に気にすることでもない。
 屋上が暑いから教室に残っていたのか。納得した。ただ、俺を起こして昼ごはんを一緒に食べようとしているのは謎だ。遙は一人で弁当を突くのが苦手なタイプではないと思うのだけれど。
 ともあれ時間は限られている。悶々と悩んでいると昼飯を食べ損ねることになるので、俺も弁当を机に置いた。
「……真琴が今日は水希の担当だって言ってた」
「? ああ。弁当か」
 蓋を開いた。鼻はもう弁当独特のにおいになれてしまっていた。
 おかずは卵焼きとウインナーと唐揚げと。野菜は入れてない。彩が悪いのはそのせいだ。余談だけど真琴のには野菜を入れておいた。
 ……真琴はわざわざ、今日の弁当を作ったのが俺であることを遙に言ったのか。別に重要なことでもないのに。
 ちょっとしたことでも……遙と共有したいんだろうな。ほほえましい。遙っ子だな、ほんと。
「……緑がないな」
「は。おまえの鯖弁当に言われたくないんだけど……」
 遙の方は相変わらず鯖と白米だ。俺が言うのもなんだけど栄養が偏ってると思う。だから細いんだ。遙もしっかりしてる方だろうけど、真琴と並ぶと体格差が際立つ。遙は細い。……俺も遙と似たような体型であることはさておき。
「遙の弁当、色少なすぎ」
「好きなものが食べれたらそれでいい」
「それは俺も同意するけど」
 夕食は家族と一緒の俺とは違って遙は夕食の管理も自分自身だ。夜もこんな調子だろうし、昼ごはんの様子を見逃してやるのはいささか難しい。
「そんな食生活でおまえが倒れないか心配だよ」
 俺自身も遙が倒れたら怖いけど、俺以上にきっと真琴がうるさい。あいつは遙に過保護だ。高校前も二度ほど遙はやらかしているし、また体調を崩しでもして真琴の過保護に拍車がかかれば俺もますます居心地が悪い。……なんて、自分勝手か。
 ため息をしつつ、唐揚げと卵焼きを一つずつ、遙の弁当の蓋の上に置いた。
 遙が目を丸くして俺とおかずとを交互に見ている。味の保証はするからそんなに挙動不審にしないでほしい。ほっぺたが落ちるほどうまいとまで言う気はないが、食っても死なないと思う。……あ。もしかしていらないのか? 鯖と白米で満腹とか。
「! なっ……」
「? 余計だったろ」
 遙に分けた卵焼きを自分で食べる。もぐもぐと口を動かす俺を、遙は最初は驚いた顔で見て、次第に睨むようになる。
「……余計とか言ってない」
「気ぃ遣わなくていいけど」
 卵焼きを飲み込んでから返事した。自画自賛するがおいしかった。我ながらうまくできていると思う。
 唐揚げも回収しようと箸を伸ばす。と、遙が素早く箸で唐揚げをつまんで、……一口で食べてしまった。
 ……。
 遙の右の頬が膨らんでいる。ハムスターみたいだな。かわいい。……いや、かわいいじゃなくて。
 遙は口を閉じてもぐもぐと動かしながら視線を俺の弁当にやる。多分、卵焼きを見ている。
 ほしいのだろうか。本当、無理して食べてくれなくていいんだけど。
「いるの」
「ん」
 やはりもぐもぐしながら頷かれた。
 ……鯖以外を遙が進んで食べるのも珍しいな。それに、俺が作ったのだとわかっていて食べたいと言ってくれるのは素直に嬉しい。
 卵焼きを一切れ、遙に寄越した。
 遙はやや嬉しそうに口角を上げた。
「……、……」
 唾をごくりと飲み下した。心音が早い。苦しい。
 窓の外を見る。
 ……遙が、好きだ。どんなに距離を取ってみても、彼のことを考えないようにしてみても、やっぱり変わらない。
 “遙が好きだ”
 思っているだけなら問題ないだろうか。口にしなければ、押し付けなければ、今までのように幼馴染でいれば、俺は真琴を傷つけないだろうか。周囲に怯えないだろうか。
 無理に遙と距離をとらなくてもいいだろうか。一緒にいて幸福を感じるのは許されるだろうか。……欲望を抑えられるだろうか。同じように特別視してほしいと、俺は、言ってしまわないだろうか。
 ふと見えた時計が昼休みが終わりに近いことを示していて、少しだけ気落ちする。
 ……五限目は。本の続きのことでも考えて、気を紛らわすしかないな。

 HRも終わり放課後になった。いつものように真琴と遙と一緒にプールに向かう。今日の授業がどうだったとか、出された課題がどうであるとか、そんな話題を真琴が俺たちに振ってくる。俺からすると真琴は遙を間に挟んだ位置にいるので、彼への受け答えは遙に任せている。真琴の話を聞いていないわけじゃない。
 昇降口についた。二年の下駄箱にチラと見えた影が気になって、そちらに向かう。
「怜」
「あ。水希先輩」
「渚は?」
「係の仕事があるので先に行っててと頼まれました」
「そう」
 怜は下駄箱の蓋を開けたまま、不思議そうに俺を見つめている。多分、俺の言葉を待っている。
 怜の靴箱にチラッと見える消臭剤について、几帳面というかなんというか、一言言いたいが今はやめておく。話しに来たのは怜にお勧めしてもらった本のことだ。
「被害者の妹を探すところまで読んだよ」
「! 早いですね」
 心なしか自分の表情が緩んだように思えた。怜が声をうわずらせて感心したふうに言うので俺も得意げになってしまう。
「話、おもしろい。それと読みやすい」
「ふふ。そう言ってもらえると僕も嬉しいです」
 我ながら小学生みたいな感想だったが、怜は嫌な顔一つせずに応えてくれた。
「ネタバラシするようなことを言うかもしれませんが……」
「問題ないよ」
「! その……。コホン。妹の件は見所です。結構意外な展開になりますから」
「マジか」
 片手を腰に当て、メガネのブリッジを押し上げ、斜め上を向く怜はいつもの理論を語るときと似たような雰囲気だ。
 ネタバラシっていうほどの情報ではないと思う。ただ、早く本の続きを読みたくてうずうずしてきた。
「読んだらまた声かける」
「はい! 待ってます」
 怜は早く彼の好きな本について語りたいのかもしれない。早く読んでくださいね、て顔に書いてある。
「水希」
「?」
 怜は振り返って、俺は怜の後ろに視線を飛ばした。声の主は靴を履き替えた遙だ。どことなく不機嫌な顔をしている。
「早くしろ。行くぞ」
「ん。ごめん」
 顔だけじゃなく声でも機嫌の悪さを表している。遙、声が低い。
 遙の機嫌が悪いのは、俺のせいでプールに行けずに大好きな水がお預けになっているからだろう。……俺のことは気にせず先に行ってくれてよかったんだけど。
 遙とは少し離れて、出入り口近くで俺たちの様子を見る真琴が苦笑いしている。その理由はわからない。
「怜も一緒行こうよ。プールだろ?」
「あ。はい」
 怜が慌てて靴を履き替えるので俺もそこそこ急いで自分の靴箱まで移動する。上履きを脱ぎつつ靴箱を開けた。雑に落下させたせいで好きな方向を向くスニーカーを履く。上靴を靴箱に直し蓋を閉めた。
 先に準備のできている三人は、外で俺を待っていた。
「遅い」
「……ごめんって」
 合流するなり遙に怒られた。
 ……遙が水に関して待てのできない性格だと知ってるけど、さすがに嫌な気持ちだ。なんでこんなにしつこく責められる?
 俺、そんなに長く怜と話していたか? そんなに支度を整えるの、遅かったか?
「……先に行けばよかったのに」
 思わず本音が出た。言った、と気がついてからヒヤリとした。
 小さな声だったが、遙にだけは聞こえたらしく、彼は眉間のシワをこれでもかってぐらいに寄せている。真琴と怜は、俺を不思議そうに見ているだけだ。俺が何か言ったのは気がついたが、その内容まではわかっていないんだろう。
 選りに選って遙に聞こえるなんて。
 遙は、俺を睨んだまま無言だ。
「先に行けばよかったのに」という発言自体に問題はない。遙とのやりとりでは基本的に余計なことまで言う。ただ、状況が悪かったわけだ。遙は怒っていたし、俺の言い方も鬱陶しげだった。
「ハル、水希? 行かないの?」
 ジッと佇む俺たちを怪訝に思ったらしい真琴が声をかけてきた。
 真琴の方に視線だけでなく体も向ける。あわよくば、助けてもらおうと思って。
「っ?」
 ぐっと腕を引っ張られた。体勢を崩してふらついた。
 俺の真横に遙が立った。驚いて彼の横顔を注視する。口元が小さく動いた。何か言った。
 人の動く気配がした。注意がそちらにそれるままに確認すると、真琴と怜が俺たちに背中を向けて先に行っていた。
「……行くぞ」
 二人の背中を追うのをやめて、もう一度遙に視線を戻す。今度は遙も俺の方を見ていたので目があった。
 遙の眉間にはまだ縦皺があるが、さっきよりは幾分少なくなっている。
 怒っている。けど、俺を置いていかない。……。なぜ? このまま喧嘩が長期戦に縺れ込むと面倒だから、遙の方が妥協を示しているんだろうか。
 俺も謝るべき? 待っていてくれたのにその気持ちを無下にしたことに、悪かったと。
 ……。
 喉に言葉がつっかえる。俺は、自分が思っている以上に遙の行動に混乱している。現状を理解できていない。
 遙から目をそらし前を向いた。俺が歩く意思を見せると、腕を掴んでいた手が離れていった。
 拳一個分ほどの距離をあけてるとはいえど、ピタリと歩調を合わせてくる遙に気持ちが落ち着かない。