こいつ大丈夫か、と遙が心配になるくらいには今日の水希は目が死んでいる。
登校するときもどこかぼうっとしていたがどうせ寝起きだからだろうと気にしなかった。現代文から始まった午前の授業を終え、腹を満たし、残り2限の午後の授業を終えた後、ホームルームから現在に至るまで空っぽの人形を演じられるとさすがにおかしいと思い始めるのだ。
今からは部活だ。プールまでは真琴たちと一緒に行くので遙はジッと待っているのだが、真琴がカバンを整理していて、水希は準備すらしようとしない。席に座ったままだらんと手を垂らし、黒板の上に設置された時計の秒針を眺めているのだ。
どうかしたのかと水希に聞いても生返事ばかりで、かといって「あっそ」と完全に興味を失うこともできないのでのっぴきならない。
遙のそわそわした様子に荷物をまとめ終えた真琴は気付いたらしい。ちょっと困ったように眉を下げ、「水希」とぼんやりしている弟を呼ぶ。
水希の指先がピクリと震えゆっくりと首から上だけが動く。
「大丈夫?」
「……あ、うん……わるい。そんなにぼうっとしてた?」
「ハルが心配するぐらいには」
「……おい」
まさかここで自分に振られるとは思っていなかったので遙は不意を打たれつつも不満のこもった声を出す。心配したのは間違いじゃないが素直に認めたくはない。口の悪い幼なじみが「おまえが俺を心配するとか気持ちわりぃ」と一言くれるのが目に見えているからだ。
ふっと水希と目が合う。遙は口をへの字に曲げた。
「……余計な気ぃ遣わせてごめんな」
「、」
と、予想外な反応をされてしまうと不意打ちの乗算である。遙のショックは大きく言葉を返すことはできなかった。
水希がやっと席から立ち上がり始める横で遙はこっそりと真琴に尋ねる。あいつ、どうしたのかと。トゲがない水希なんてよもや明日槍でも降るのではないかと嫌みつきだ。
真琴は頬をかき、水希にとっては槍が降っても今さら驚かないようなことが起こっているんだよなあと思いつつも、
「ハルにもいずれ説明することになるよ」
「?」
「部活の後、ちょっと寄ってくれる?」
と奇妙な言葉を残したのだった。
寄るもなにも真琴の家は己の家までの通り道だ。遙はよく理解できなかったが反応しないのもどうかと思ったのでとりあえず首肯する。ここでは話せない話なのだろうか? ちらと水希を見るがいつもより活気のない目が揺れているだけで何もわからなかった。
家族の受け入れは早かった。
午前策も立てぬまま思わぬ形で蓮に目撃され一時はどうなるかと思ったが、水希2人を目の当たりにした両親は最初こそ腰を抜かしそうな勢いだったものの、すぐ彼を受け入れたのである。
「真琴とよりもよっぽど双子みたい」と笑いながら言われたがそりゃ本人なんだから何もかもが一緒なのは当たり前だし、ずれた反応に肩をかくんと片方落とす他なかった。
蓮も蘭も最初は警戒心丸出しであったがじゃれているうちに慣れてしまった(あるいは懐いた)のか、すっかり“水希”に甘えたになっていた。
しかも“水希”は嫌な顔一つせずにむしろどこか嬉しそうにしているのだから水希はさらに複雑であった。
彼は水希が受け入れられなかった自分自身であり、水希は彼が好きではない。それなのに水希から見て異端な彼はすんなりと家族に馴染んでしまった。水希が否定し続けていたものを何ら抵抗なく認められてしまうと水希はどうすることもできなかった。逆に自分が否定されたような感じでもあった。
“水希”もずっと家にいたらつまらないだろうから、学校は交代で行ったらどうか。なんて提案が出始めたころにはひどい頭痛がした。こいつが俺と入れ替わるなんて冗談じゃない。
授業がわからなくなる、と早口で言ってしまってから自分の機嫌の悪さと余裕のなさに気づくのだが、こんな口調はいつものことのようで誰も焦りはしなかった。
それなら一日一日教えあいっこすればいいなんて言われたがそれこそ度の過ぎた冗談である。こいつと向かい合って授業内容を教えてもらえと。吐き気どころの話ではない。
つきつきと突き刺さる視線は“自分”のものだ。どうやら水希の不機嫌を察し、なおかつその理由もわかっているらしい。むかつく、むかつく。消えてしまえばいい。やんわり笑う彼も少しの不機嫌を見逃そうとしない彼もいらないから捨てたのに。他人に対して器用な自分なんて見ていて気分が悪い。水希は決して顔をあげなかった。
後は聞かず水希は無言で家を出た。慌てて真琴が追ってきた。時計が示す時間はいつもよりほんの数分早い出発時刻であった。
「水希先輩! 今日は終わりですよーっ!」
江がプールサイドを行ったり来たりして水中にいる水希に声をかけているのに気づいて、遙はタオルを頭にかぶったままそちらへ向かう。
「水希せんぱぁい……」
がっくりと肩を落とす江。遙は彼女の横に立ってぱしゃぱしゃと水を掻き分ける水希を見ながら「どうしたんだ?」と彼女に問うた。
どうしたも何も目の前の光景が全てである。あがってくれないんです。と江は困ったような声色で言う。
「時間なのにあがらないし、休憩もろくにとってませんし……今日の水希先輩、おかしいですよね?」
「……」
江の言うとおり水希は時間がくれば言われる前にさっさとプールサイドにあがり、大嫌いな水泳キャップを脱ぎ捨て、2日に1回くらいの頻度で渚に飛びつかれている。
水希に払われて騒ぐ渚を目撃しなかったのは今日が飛びつかれない日だからではなく、水希がプールサイドにあがっていなかったかららしい。遙は何となく納得しながら泳ぎ続ける水希を目で追った。
水を掻き分け、掻き分け、ターン。まだあがらないつもりらしい。部活が始まってからたまに水中に足を付くこともあるがこの調子のままであると江がつぶやいた。
遙はさすがにそこまでとは思っていなかったので目を丸くする。体力をつけるために遠泳でもしているのだろうか。
さておき、時間は時間だ。これ以上江を困らせるわけにはいかないので遙は水面に足から滑り込ませた。体を拭いたばかりだが致し方ない。
反対の壁でターンした水希が戻ってくる。その泳ぎに衰えはない。勢い良くかなりのスピードで迫ってくる彼には遙もちょっと足が竦む思いがしたが、止めるには強硬手段しかないのだろう。あの様子じゃあこうするまで泳ぎ続けているに違いないのだから。
「うわ……っと……」
「っぷは!」
水を掻き分ける手がおりてくる瞬間を掴んだのだが思いのほか威力があった。バシッと強い音を立て遙の手のひらに水希の腕が収まる。遙の腹に容赦無く飛び込んだ頭が上がる前、驚いたのか、ぼこぼこと気泡があがった。うっかり肺の酸素をすべて吐き出したのだと思う。明らかに前方不注意だったがまさかレーンに人が侵入しているなんて思わなかったのだ。
泳ぎ疲れているのだろう。肩で息をする水希は腹をさする遙を見てやおらゴーグルをあげる。
「……わるい」
なんて罵声より先に謝罪が降ってくるのだからやはり明日は槍が降る。
遙が静かに手を離すと水希は乱暴にキャップを脱ぎ捨てた。
「……いや、わざとレーンに入った」
「……?」
水希は眉を顰める。遙が何を言っているのかよくわからなかった。なんでまたレーンに侵入なんか。ぶつかったら危ないということぐらい彼ならわかっているだろうに。
遙は、婉曲にもやもや、探り探り聞くのは嫌いだ。
「今日、どうしたんだ?」
率直に言った。
水希が軽く目を見開いて、伏せ、斜め下を向く。迷いと拒絶だ。言いたい、でも言いたくない、それがもぐもぐと動く口にありありと出ている。
「……」
「は?」
「……いや」
なんでもない、なんて。はっきりしない答えに遙は苛立つ。けれど1度聞き逃した言葉は2度とは紡いでもらえなかった。
「水希」
「……真琴」
「帰ろう」
制服に着替え終えた真琴がプールサイドにしゃがみこんで水希に手を差し出す。戸惑いがちにそれをじっと見る水希を遙は釈然としない気持ちを胸に見つめていた。
「ほら、ハルも」
もう一方の手は遙に向かって伸びてきた。これではなす術がない。暗にこの陰気臭い雰囲気は終わりだと言われているのだ。
遙は隠しもせずにため息をついて真琴の手を掴んだ。ぐんと強い力で引き上げられ、プールサイドにあがる。水希はそれを見送って、もう一度真琴の手が伸びてくる前に、ついと水を切って彼らから離れると端に設置された銀の梯子を登った。
きょとんとするのは遙だ。なんてったってあのブラコン、どうして真琴の手を掴まなかったのだろう。心内しっぽを忙しく振っていると思ったのに。
真琴が眉を下げる。大丈夫かなあ、と。うすうす気づいてはいたが、真琴は水希が浮かない理由を知っているらしい。ほぼ確信だ。
今日の帰りに、教えてもらえるらしいのだけれど。対して遙はあの背中がどんより曇っていることしかわからず、顰め面をする他なかった。
◇
「おかえり」
蓮と蘭に挟まれた男がにこりと笑いそう言うのに遙はすぐにはついていけなかった。咄嗟に横を見ると一層死んだ目をした水希がいるのでますます混乱する。真琴と水希は双子であり決して三つ子であるはずがないのだ。
「何か変わったことはあった?」
「なんにも?」
「そっか」
混乱する遙をよそに真琴は当然のように男と会話をする。
水希がうんざりしたようすで息を吐き出し、身を斜めにして男の横を通り抜けた。男は止めはしなかったが家の中に消えていく背中を目で追って肩を竦める。
「露骨なやつ」
蓮と蘭が水希の後を追った。
と、そこで男と遙の視線が交わる。遙が思わずギクリとする。男はぱちぱちと瞬きを繰り返して「ゲーム?」と聞くのだ。
「は?」
「違う? 真琴とゲームするために来たのかと思った」
確かに遙はたまに真琴とテレビゲームをするが今回はそれが目的ではない。しかしそんなことよりも、どうしてこの男がそれを知っているのかがひどく痞えた。
「お前は……」
存外弱々しくなった声に男が軽く笑う。ああ、そういうこと、なんて。遙の訪問に対して一人納得しているようだ。その様子は見慣れなくて目眩がした。
「ハル、この子は水希だよ」
「……?」
冗談言うなと顰め面をしてやったが真琴は真剣な顔をしている。頭が痛い。だって水希はさっき家の中に入って行ったんだ、違うだろ、こいつは似過ぎた他人に決まってる。
「遙が混乱してるのはわかるけど。経緯を話そうにも、俺もどうしてこうなったのかわからない」
「……」
「ただ、俺は水希だよ。橘水希」
あいつがころした橘水希。それは遙にだけ聞こえるよう、意図的に声を低くした。その思惑通り、遙にだけ聞こえ、真琴には聞こえなかったのだ。どこか嬉しそうに目を細めて言う彼に遙は一種の狂気を感じ取った。真琴から見れば“水希”のそれは普通の笑みだった。しかし遙はそこになにかひずみがあると本能的に思ったのだ。
彼は水希であって水希ではない。何をどうすれば恐ろしいほど完璧なクローンが生まれるのかなんて知らないが、こいつは危険だと。それだけはっきりした。
「このことは――」
「俺たちとハルしか知らないよ。水希たちは交代で学校に行くことになるから、最低でもハルには知らせないとって思ってさ」
「水希は積極的じゃないけど」
あはは、なんてらしくもない。笑いながら言う“水希”を見ていると自然と眉間にシワがよる。
「……よく笑うんだな」
「俺と水希は似て非なるものだから……立ち話もなんだし」
“水希”は扉を大きく開いた。その意図はわかってもうまく足が働かない。
数歩先まで行った真琴が振り返る。
「ハル」
「……」
遙は探るように“水希”を見て、浮かない気分の足を引きずった。家にあがる際おじゃましますと小さくでも口にすることは忘れない。
奥のほうからドタバタ聞こえるのはかの双子たちだろうか。もう一度出迎えてくれるらしい。
靴を脱ぎふと後ろを見ると“水希”と目があった。――――淡い緑の中にあった遙に対する暗い影など気配すら見せなかった。
「ハルちゃんもご飯食べるの?」
「いや……」
「せっかくだし食べて行きなよ」
がしりと抱きつき見上げてくる蓮の目はきらきらとしていて眩しい。微笑ましそうに遙たちを見る真琴はさながら母親のようだ。
「水希も喜ぶと思うし」
チッと火傷のような痛みが首あたりに走った。なにか形ある鋭いものが刺さったわけではない。遙は窺うように振り返る。
小首を傾げる“水希”が読めない笑みを浮かべていた。
ぞわりと背中に嫌なものが走り、すぐさま視線を外す。遙は食事の誘いは曖昧にした。けれどその曖昧こそ真琴にしてみれば肯定なので決定したに等しい。
「今日はなにかなあ」
「ハンバーグだよ!」
なんて、真琴と蘭の間では和やかな会話が始まっている。なかなか動かない遙を焦れったく思ったのか蓮が彼の手を取って歩き出す。
「……水希は?」
「水希兄ちゃんはシャワー浴びるって言ってたよ」
この場にいない水希のことを聞いてみると蓮がにこにこしながら答える。自分から聞いておいてなんだが、そうか、としか言いようがなかった。
遙は焦っていた。水希は、大丈夫なんだろうか。学校での様子を考えるとどうも“水希”という存在を受け入れられているようには思えない。あいつは人にはお節介なくせに自分の内を曝け出しはしないから、一人で抱えて、喘いでいるのではないか。
「ハルちゃん、この間のゲームの続きしようよ!」
「こーら、蓮。ご飯を食べてからだぞ」
「俺、水希に遙も飯食うこと伝えてくる」
すいっと横を通り“水希”が浴室を目指す。お願い、となんの躊躇いもなく答えた真琴に対して遙はほぼ反射的に“水希”の腕を掴んだ。きょとんとする淡い緑は確かに見慣れたものとおんなじであった。
「……俺も行く」
一瞬だけ、“水希”が鋭い光を灯した。
「ん」
文字通り一瞬であり数えることもかなわないような早さで常の顔に戻られたので、あれは見間違いだと言われると素直に信じてしまいそうだ。
真琴と蘭、蓮は2人に手を振って先にリビングに向かった。必然的に2人きりとなった遙と“水希”の間には微妙な空気が落ちる。
「……お前、俺のこと嫌いだろ」
「……」
浴室にたどり着くには少し時間がかかりそうだ。
思ったままを言葉にすると“水希”がじっと遙を探るように見つめる。値踏みされているようで居心地が悪い。
「……あいつは“七瀬遙が嫌いな橘水希”なんて捨ててないよ。もともと持ってないんだ。あいつの中におまえに対する嫌悪は微塵にもない」
「……」
「あいつが主として捨てたのは“自分を愛せる自分”だ。あいつは俺を嫌うけど、俺はあいつが大好きだよ…………俺が個として存在してしまった以上俺は俺の人格を形成する。あいつが捨てたものとは関係なく、ね」
やっぱりこいつは見た目だけが橘水希なのだ。言葉が婉曲でいらいらする。“彼”はそんな難しいこと言わない。すぱっと、イエス・ノー、好き嫌いを言ってくれる。
要は嫌われているのだろう。病的といっていいほど水希に愛されている遙を敵対視している。嫉妬しているのだ。
彼は水希とはまったくの別人物だと遙は確信した。それと同時ますます水希が心配になる。自分の一部とはいえど、こんなやつと向き合う羽目になって、絶対、疲れ切っているに決まっている。
遙が記憶を頼りに浴室を目指すのと、“水希”が一歩踏み出すのはほぼ同時であった。
お互い、睨み合い、隠すことなく舌を打った。まったく仲良くなれそうにない。というか、こちらから願い下げだ。
◇
さあさあと水の流れる音が、ひたすら浴室で響いていた。もやもやとした人影は確かにそこに見えている。イスに腰かけているのだろう。前かがみになっているのがわかる。
「水希。遙もメシ食うって」
と、ドアを挟んで“水希”が言ってみたところ返事はなかった。シャワーを止める気配もない。
“水希”がほんの少し悲しそうにしたのが遙にはわかって、本当に好きなんだなあとも思ったし、なによりその顔はやっぱり“橘水希”で放っておけなかった。
「水希」
返事ぐらいしてやれ、と言おうとしたが続かなかった。
水希は“水希”が嫌いだ。それなのに周りがなんら抵抗なく彼を受け入れるから、焦りを感じている。なんでそんなこと言えるのかって、やつはプールで差し出された真琴の手を取らなかった。あれは拒絶だ。何へなのかはさすがにわからないが、真琴に対するものではないだろう。なにか、後ろめたいことがあったのだ。
これらは遙の憶測にすぎないし、手を取らなかったことも根拠になるとは限らない。けれど長い時間一緒にいた遙は自分の考えがほぼ正しいであろうと自信を持っていた。
ここでもし自分が返事ぐらいしてやれ、なんて言ってしまったら。高確率で、暗に、“水希”に対する態度が悪いぞと言っていると取られるだろうし、やっぱりそっちがいいんだ、とか思われるに違いないのだ。
多分水希は“水希”と自分を比べている。比べて、優劣をつけている。周りに必要とされる自分について深く考えこんでいる。不安定だ。少しつつけば途端に崩れてしまう。
先に動いたのは“水希”だった。遙が水希を呼んで数十秒、彼から返事はなかった。それを焦れったく思ったというのならいささか心が狭すぎないか。
遣り戸を動かそうとした“水希”の腕を慌てて掴むと、殺すような勢いで睨まれる。思わず足が竦んだ。
「おまえは、気付いてやれないわけ」
「……は?」
「水希はおまえのこと、絶対に無視しない。おまえに呼ばれて返事をしないとか、ありえないんだよ」
一語一句、反芻する。水希が返事をしない。“水希”はそれを異常だと言う。……だから? だからなんだというのだ。
茫然とする遙の手を振り払って“水希”は引き戸を開いた。重みのある湯気が足元に流れ出し、湿りと熱気を肌に伝える。“水希”が目を細めると、だんだんと目がなれてくる。といってもそれに数秒とかからなかった。
イスに座って、太腿にタオルをかけ、またそこに両腕をつき、頭を力なくだらんと垂れた男。ひねりっぱなしのシャワーからは熱い水が彼の上に遠慮なく降りかかり続ける。
“水希”は衣服が濡れるのも気にせずに浴室に駆け込み、一度水希の肩を揺すったが、反応がないのをみて、うるさいシャワーを止めた。体は随分火照っている。目はその色を見せず、息は浅い。髪先に水が鉛玉を作り、ぽたぽたと音を立てる滴は徐々に冷え始める。
「水希!」
遙もやっとのことで足を動かし駆け寄った。数秒前の“水希”と同じように肩を掴むが、彼の呼吸が存外薄くなっていることに気づくと顔を青褪めた。伝えなければ、真琴たちに、助けを求めないと。
「余計なこと、しようと思うなよ」
咄嗟に“水希”を見た。彼はまた遙をきつく睨みつけていた。さすがの遙でも頭に血が上る。
「何が余計なんだ!」
どう考えても水希は危ない状態なのに、助けを呼ぼうとすることの、何が余計なのだと。
それでも“水希”は感情のない瞳を遙に向け続けた。遙も強く“水希”を睨める。向けあった鋭い刃物を先に下ろしたのは“水希”だった。
「……やっぱり、誰よりもわかってやれるのは自分自身なんだよ。なのに、なんで、捨てたんだよ。最後まで裏切らずに愛してやれるのは俺なのに」
“水希”は浅い息をする水希の背中をさすりながらポツリといった。遙はそれではっとした。
「遙。タオル持ってきて。水希の体が冷える」
すっと熱が冷えていくのを感じて、そうすると“水希”の命令にも反することなく素直に従えた。どうしてあそこまでカッとしてしまったのかわからない。
言われたとおり脱衣所からバスタオルをとって、浴室に戻るため振り返る。その先に見た光景に――体が石化した。
――キス、していた。
誰と誰がなんて言うまでもない。そっくりそのままな2人が、額でも頬でもなく口に、キスをしていたのだ。不思議な光景だった。顔がまったく同じ人間が同時に存在して、目の前にいて、キスしてるなんて。不思議だとか思えてしまえるぐらい、衝撃的すぎて、頭は現実逃避へといっぺんに走ったのだ。
触れるだけのキスであったようだがその時間はやけに長く感ぜられた。顔を上げた“水希”が、唖然とする遙に気付いて蔑みの笑みを見せる。カチンときた。それはズカズカとした足取りに出た。
ぱさりと乱暴に、頭からバスタオルをかける。そいつにすっぽりと収まった水希は見えなくなった。
「なにしたんだ」
「なにって。キスだけど?」
「水希に触るな」
「は。俺のものってやつ? 怖いねえ、独占欲ってのはさ。簡単に人殺しの目をさせるんだから」
セリフだけだ。“水希”は全然怖いだなんて思っていないのが見て取れる。同一人物なのに、同じ顔なのに、同じ声なのに。どうしてこうも気に障るのだろう。
遙がぐっと拳を握った時、ぴくりと水希の肩が揺れて、弱々しい動作でバスタオルを取った。しばらく床を見つめていた目はそろりとあがり、遙と“水希”とを見ると、困惑の色を見せる。
「……なんでいるんだよ」
「おまえ、また溺れてたろ」
被さるように“水希”が言った。水希の質問には答えていない。
また、とはなんだろうか。いきなり自分の知らない話が始まり遙は焦りを覚えた。しかも水希のほんの少しの動揺を見る限り、“水希”のヘタなうそではないのがあきらかなのだから。
「……好きでやってるんじゃない」
「だろうな」
「……」
「今のおまえ、不安定なんだよ。おまえは俺を嫌うけど、結局俺はおまえなわけだし。おまえは自分の一部を失ってるんだ。早いとこ俺を受け入れて、戻さないと、ずっと“それ”を繰り返すと思うけど?」
なんの話なのだろう。この不穏な空気の中では聞くに聞けない。
「……そんなの、簡単にできたら、苦労しない」
「……」
「……引き上げてくれたのがおまえだっていうのなら、とりあえず、ありがとう」
水希はポツリと言って、着替えると残すと、バスタオルを腰に巻いて(膝丈のスカートみたいだった)浴室を出た。ご丁寧にも開けた引き戸を閉めなおしたようだが、浴室に2人を閉じ込めて、一体どうしろというのだろう。
「……」
「……」
“水希”は水希の出て行った方を見続けていて、遙はそんな“水希”を見続けていた。
気になることは多々あるのだが、なによりも、まず。
「キスする必要なんてあったのか?」
“水希”はゆっくり遙を振り返って、つま先から頭のてっぺんまで値打ちづけるように眺めた。
「離れすぎたんなら、触れてやれば戻ってこれるかなって思ってさ」
「……?」
「まあ一番は俺がしたかったからだけど」
「おい」
謎は残ったままだが、簡略化してしまうとしたかったからしたのだ。要するに敵だ。キッと睨みつけてやるとハンと鼻を鳴らされる。そういう癪に障る態度は、脛を蹴ってきたあとの水希とそっくりだ。
「誤解してんじゃない?」
「はぁ?」
「水希」
主語は構わない、なんとなく読み取れた。聞きたいのはその次だ。誤解って、なにをだ。
遙のしつこいとも言える視線に辟易したのか、“水希”は浴室の戸を開きながらちらりと遙を見た。教えないと目が言っている。誤解しているんじゃないのかの言葉すら余計だったと思っているようだ。
「うわ……っ」
「わ……っ、あ、わるい」
一歩踏み出すと、いるとは思わなかったのだ、己のそっくりさんとぶつかった。遙に負けず劣らずの早着替えなのか、それとも単に“水希”たちが浴室を出るのが遅かったのかはわからないが、水希はラフな格好に着替えており、その手にはもう一着、衣類を抱えていた。1度部屋に戻って持ってきたのだろう。
水希はじいっと見つめてくる“水希”に居心地悪そうにして、その着替えを彼に突きつけた。
「濡れただろ」
「……」
「着替えた方がいい」
「……ありがと」
“水希”の顔すら見ずに衣服を渡した水希は彼がふにゃりと柔らかく笑ったのさえ見ていないのだろう。
と、遙はここで一つの違和感を覚えた。水希と目が合わないのだ。位置的に1度や2度あったって不自然じゃないのに、故意に視界に入れないようにされているような。そんな気がしてならない。
誤解してんじゃない。“水希”の言葉が蘇った。誤解。この状況で水希がする誤解とはなにか。この状況とはなにか。
“水希”と一緒にいた。それだけだ。“水希”と一緒に浴室にきた。それ以外には特にない。
遙の頭は恐ろしいほど素早く回っていた。きっと瞬き一回にも満たなかっただろう。
あ、と気づいたときには水希が踵を返すところだった。誤解。水希の考えそうなこと。
水希は自分と“水希”とを比べて卑屈になっている最中だ。十中八九、なんの違和感もなしに並んだ遙と“水希”とを見てさらに劣等感を持ったに違いない。やっぱり彼は簡単に受け入れられてしまったんだと。
「水希」
呼ぶと水希が数歩先で足を止めた。“水希”の言葉は嘘じゃなかったらしい。振り返ってはくれなかったけれど、返事もくれなかったけれど、無視は、しない。
“水希”がつまらなそうにしたのがなんとなくわかった。それを遙は気に留めず荒々しい歩調で水希の横まで行くと、遙の立つのとは逆方向へ向いた顔を無理やり己に向けさせた。
沈んだ瞳はほんの少し驚いていた。
「俺が好きなのはお前だ」
「は……」
ちょっとだけギクリとしたのが伝わってきた。やっぱり気にしていたんだと思いつつ、
「それと、」
薄く開いた唇に噛み付いた。余程の不意打ちであったのだろう。水希は遙が離れてもキスされる前と変わらないままでいた。
「消毒」
当たり前のように言われてやっと我に返るのだ。いっぺんに顔に熱が集まる。水希は口を手の甲で覆うと、泣きそうなのか、怒鳴りそうなのか、混乱した瞳で遙を見た。
どうしてキスなんかしてきたのか、しかも、“水希”がいる前で。それと、消毒ってなんのだ。急にたくさんの「?」が頭の中を回り始める。目眩がしそうだ。
“水希”は言わずもがな、遙はなにも言わない。水希が答えるのを待っている。
「…………時間がほしい」
遙が自分を安心させるために声をかけてくれたのはわかったのだけれど。舞い上がる元気がなかった。
遙からのキスの理由にしろ、“水希”の存在にしろ、もう疲れた。考えるのがひどく億劫だ。
水希は遙の手からすり抜けて今度こそ出口を目指す。察したのか、遙は無理に引きとめようとしなかった。
「メシは?」
声をかけてきたのは“水希”だ。片足を廊下に出した状態で答えを紡ぐ。
「喉を通る気がしない」
「遙がいるけど」
「じゃあ俺の分食べといて」
ぶっきらぼうに言うと水希は次こそは振り返らなかった。ホールドアップ。“水希”は両手を肩あたりまであげてやれやれと首を振った。
ひとりになって、“また溺れたら”どうする気なのだろう。水希を心配しているのだろう、手前の遙がそわそわしているのを隅に置き、“水希”は浅い呼吸を繰り返す水希を思い出すのだった。
「……おまえには俺が必要なんだよ、水希」
小声が聞こえたらしい。遙が首だけひねって振り向く。“水希”は素知らぬ顔をした。もちろん遙の怪訝な顔をもらうことなど予想の範囲内だった。