※大学生


 遙の様子が変だ。
 思ったのは1ヶ月も前の話だ。大学生になり流れで同居が始まったのは3ヶ月前。だから、2ヶ月間はまだ幸せだった。
 ごまかさず言うと俺は遙が好きだから、一緒にいられることは、本当に嬉しかった。なんて、過去形。
 遙が俺の知らない女性を連れているのをみた。
 目撃は故意ではなく、大学の親睦会の帰りに、偶然起きたものだった。
 別に連れて歩くぐらいだったらまあよかった。俺が大学での友好関係があるのと同様、遙もそうなのだと頷ける。多少しつこい友人は俺にもいるし、遙も似たような類なんだろうなと、納得できた。
 しかしそんな俺の形ばかりの納得は、女性が遙にねだるように背伸びをし、遙がそれに応えた瞬間に崩れ落ちた。
 キスなんて、するか、普通。相手は友人、なんだろ。それに、おまえには、俺が。
 思わず奇声をあげそうになった口を押さえて、来た道を引き返した。
 あまりに衝撃的すぎて、目の前で何が起こったのかわからなかったし、声をかけることなんて、できるわけもなく。
 相手は友人? それは俺の憶測にすぎないんじゃない。
 逃げ出したときはびっくりするぐらい回っていた足が重くなる。
 遙の恋人は俺? 付き合おう、なんて一言も交わしたことがない。
 ただ、「好きだ」とお互い同じ気持ちを持っていただけで、ただそれだけなのに、俺が遙の横に立ったと、胸を張って言えるのか。
 重たくなった足は、まるで鉛のようで、ズルズルと右足を引っ張るようになってからはもうだめだと察し、都合良くもたどり着いたバス停の時刻表前で立ち止まった。
 先ほどの場所からは随分離れた無人のバス停だった。
 この辺は、俺たちが借りるアパートからだいぶ離れた土地だから、日頃このバス停がこんなに閑散としているのかはわからない。
 ああ、と変な笑みが浮かぶ。
 遙は今日出かけるとは言っていなかった。こんな遠くまでくる必要のある用事があるなんて、言っていなかった。
 絶好の機会。絶好の場所じゃないか。
 誤算は俺の大学の親睦会が、この付近で行われていることを知らなかったことか。
 家から離れた場所であれば、俺と鉢合わせになることはないと思っていたのだろう。
 確かに俺は、遙に「親睦会は多分大学の付近である」と伝えた。
 ことごとく予約が取れず、予定が急に変更され、少し足を伸ばした場所でやるとは、言ってなかった。
 異様な速さで打ち付ける脈は、久しぶりになんの準備もなしに走ったせいなのか、それとも、違うのか、わからない。わかりたく、ない。
 浮気じゃないと思いたかった。
 でもさ、まだこの土地に来たばかりでも、一応、知ってるんだよ。
 おまえらが歩いて行く先にあるのって、ホテル街じゃん。そこですることなんて、一つしかないじゃん。なあそうだろ、それ以外、説明のしようがないだろ。
 思わず笑った。声を出して、笑った。
 不思議と泣けなかったのは、まだ、俺の思い違いかもしれないと、どこかで信じていたからなのだろう。
 そのあとどうやって家に帰ったかといえば、あの無人のバス停にやって来たバスに適当に乗って、運のいいことに自宅近所のバス停へたどり着き、ふらふらと歩いたのだろう。
 記憶が曖昧だ。
 そうなるくらいには、きっと、動揺した。
 風呂をあがって幾分落ち着いてからは帰ってきた遙にガツンと、聞いてやろうと意気込んだ。
 彼とのケンカは慣れている。だから、今回も大丈夫、大丈夫。
 そう呪文を唱えなければ平常心でいられなくなる、その原因は、ベッドのサイドテーブルの上で点滅する小さなライト。最近、大学の友人とやりとりをすることもあるので、使う頻度の増えた、そいつ。
 “今日は友達の家に泊まる”
 大丈夫だって、言ってよ。
 多分、俺は泣いたと思う。声をあげて、とか、嗚咽まじりに、とかじゃなくて、勝手に涙が頬を伝っていった。
 俺がもし、何も知らなければ彼からのそのメールに何ら怪しみを、憤りを、虚無を、負の感情をもつことは、きっとなかったのだろう。
 了解の意を示して、それで朝飯もそっちで食うのか、なんて折り返していたに、違いないのだ。
 嘘つけ、今ごろおまえは女とよろしくやってるくせに――。
 途端にやるせなくなって、けれど手元の携帯電話を壁に投げつける気にもなれなくて、そいつはぽい、とゴミ箱に投げ捨てた。
 ガコンガコンと2度ぶつかる音がしてからは静かだった。
 お湯もわかしていない、テレビもつけていない部屋は、静かだった。
 なあ、俺、どう受け止めたらいい。どう解釈するのが、正解? どうして俺以外のやつと、って、おまえの胸ぐらをとって、醜く泣き喚けばいいの? 女との方が気持ちよかったか、って、皮肉っぽく聞けばいいの? それとも、何も知らないふりをして、おまえと、いればいいの。
 後者2つは置いといて、なんだよ最初の、女かよ、めんどくさ。ナシナシ。
 2番目が一番無難だ。
 そういう嫌みなところが俺らしいだろうし(水希は口が悪いって真琴がよく眉を顰めていたからきっと、俺らしいのだと思う)、俺のこの胸の鬱憤を包み隠さず吐き捨てられるようで、一番、都合が良い気がした。
 そう、気がした、だけだ。
 それでもし、肯定されてしまったら? 正直お前には飽きたから別れよう、なんて、言われてしまったら?
 俺はそれを一瞬で受け止められるのか、想像しただけで、得体の知れないものを、胃から吐き出しそうなのに。
 つまり、俺は女々しいし、臆病だ。
 心のどこかでまだ、あれは見間違いだとか、思っている。
 俺からあのことについて触れるのを恐れている。
 遙に別れようと言われたくないと、言わせたくないと、泣いてる。
 だからそう、俺は何も知らないふりをすればいい。遙が俺に飽いてしまえば、それで終わりだ。俺はそれまでの心構えをすればいい。
 ゴミ箱の中の携帯が着信を告げる。
 耳障りなその音を遮断して、部屋をでた。
 財布をひっつかんで外にでて、家の鍵はドアポストに投げ入れる。これで俺はここに入れなくなったわけだが、そのときはそんなこと、どうでもよかった。
 今日は、この家にいたくなかった。
 それだけなのだ。
 その日、腕時計が翌朝の7時を示すまで、俺は眠らない都会の街をうろついていた。
 よくもまあ職質をかけられなかったものだと思う。
 たまに変なのに絡まれそうになったが、睨みつければ大体引いてくれた。
 高校時代の渚曰くの「水希ちゃんは睨んだときの目つきが殺人鬼並みに怖い」は嘘ではないらしい。あいにく機嫌の悪かった俺は、おまえ殺人鬼みたことあんのかよ、っていった気がする。
 それはさておき。
 外に飛び出したって、結局戻って来てしまうのは同居人のいるアパートなのだ。
 そういえばカギを開けられないことに気づき、期待半分でノブを回すとあっさり開く。不用心な同居人を叱りつけた回数は、はたして両手の指で足りるだろうか。
「……おかえり」
「あ、うん……ただいま」
 こういう日に限って水風呂に入っていない彼に心内タイミングが悪いと悪態をつく。
 リビングで朝ごはんを食べていたらしい手を止めて、遙はジッと俺を見た。
「遅かったな」
「……酔った先輩の介抱してた」
「お前の携帯、ゴミ箱にあった」
 もたげる苛立ちを躍起になって押さえつける俺のことなんて、こいつは知らないのだろう。
 ご丁寧にも机の上に移動させてくれたらしく、遙は俺がゴミ箱に投げ捨てた携帯電話を指差した。
 ああ、少し慌ててるんだ。ゴミ箱に携帯電話があるなんて、普通じゃないもんな。
「……サイドテーブルから、なんかの拍子に落ちたんじゃない?」
「…………」
「さすがに携帯をゴミ箱に捨てるほど、バカじゃないし」
 適当に言い繕う。遙は探るように俺の目の奥を見つめていた。
 その沈黙の時間がどれほど続いたのか、短いのに俺が単に長く感じたのか、わからない。やけに、その沈黙は重たかった。
「……そうか」
 遙はそれだけ言うと、目線を逸らし、再び朝食に手をつけた。
 なんなの、おまえ。おまえさ、俺になんか言うことあるんじゃねーの。
 その途端に溢れ出したやるせないやら、こいつをぶん殴ってやりたいやら、負の感情が頭の中を真っ黒に塗り上げていって、けれど粒子ぐらいのちっぽけな理性が辛うじてつなぎとめてくれたのか、口からそれらが飛び出すことはなく、動いた口は代わりに「シャワーあびる」なんてことを紡いでくれた。
 遙の返事は待たず彼にくるりと背を向けた。
 情けなくも泣いてる顔なんて、見せてやるもんかって、さ。



 日本に少し帰れる暇ができたので、故郷を懐かしむために帰国。
 ついでに懐かしいメンツにあっておくかと、まず初めに確かこの辺りに住んでいるんだという水希に連絡を取った。
 今会えるか、と聞けば渋った後に、まあ、と歯切れの悪い返事。それでも電話して数分内に教えたホテルまでやってきたのだから、相変わらず素直じゃないと思った。
 しかし予想に反してどことなく暗い顔をしていた水希に「最近、疲れんのか?」って、そう聞いただけだった。大学が大変なのかって、そういう意味で。
 あたりを見回して確認できるのは、ベッドやら家具と、キャリーケースの足のみ。
 上を向けば、淡い緑と視線がかち合う。
 どうしてそうなったかわからなくてやはり現実逃避したくなる。
「……あのな、水希。質の悪ィ冗談はやめろ」
 そう言っても水希は退かず、虚無感しかない目で俺をジッと睨みつけていた。
 まるで、何も聞こえていない。耳を閉ざしてしまったようだった。
 疲れてるのか、と聞いた途端に俺は水希に押し倒された。
 まさかそんなことをされるなんて夢にも思っていなかったから、もちろんバランスを失って、フローリングに背中から飛び込む羽目になった。
 質の悪い冗談の一つはそれ。
 もう一つは、水希の口から飛び出したって言葉だった。
「抱けよ」
 俺を混乱される原因となった言葉を、水希はもう一度、俺に告げる。
 ただ呆気にとられるしかない。
「なあ、お願い」俺の返事を待つ彼は、くしゃりと顔を歪めて懇願した。
 どうしてそんな顔すんだよって、もごもご動いた口からは言えなかった。
「何があったんだよ」
「いまさらなんだよ」
「は?」
「飽きたって言われたって、アイツに習ったこと、忘れられるわけない、俺、もう無理だよ」
 戻れないよ、と。水希は泣きながら笑った。
 話が飛躍しすぎていて俺は水希が何を言いたいのか、何にそんなに追い詰められているのか、全く理解できなかったが、彼がここまで感情を揺れ動かす時、必ずと言っていいほど関係する人物がいることは知っていた。
 こいつ、ハルとなんかあったな。
 それは確信だった。わざわざ確認するまでもない。
「ケンカしたのかよ」
「毎日毎日、違う香水の匂いをまとってきたら、イヤでも認めるしかないじゃんか」
「……は?」
「背中の引っかき傷だって、アイツ、泳ぐのに、なんでつけてんだよって。俺にはあんまりつけるなって言ったくせに、ほんと、なんなの」
「おい……ちょっと待て」
 整理させろ。
 慌てて制止を促したが水希は暗い目を細めただけで、薄い唇を変わらず揺らす。
「いいよな、抱く側はさ。馴らされた方は戻れないのに。ほんっと、他人事」
「……っ、水希」
「なあ凛、俺が全部やるから、おまえの好きな人だと思ってくれていいから」
 それはまるで機械的に、シナリオを読み上げているような声。
 俺に馬乗りになっていた水希が服をまさぐり始めたので、こうしちゃいられないと、こちらも変に加減することはなく、大声で怒鳴った。
「落ち着けって!」
 ピタリと水希の動きが止まる。
 今のうちと言わんばかりに上体を起こし、上に跨っていた水希を勢いのまま抱きしめる。
 そりゃ水希だって男だし、水泳をやっていたこともあって筋肉は申し分なくきれいについているのだけれど、妙にこいつが小さく思えた。
「水希の思いすごし、じゃねえんだな?」
 ハルが浮気をするとは思えなかった。
 けれど、水希がそんな安い勘違いをするとも、思えないのだ。
 先ほどの饒舌さはどこに行ったのか、ピタリと黙った水希は返事をしない。
 もともと返事を期待していたわけではないが、俺はどこかで、彼に「ドッキリでしたー!」などと、そんなふざけたことを言ってほしかったのかもしれない。
「寝たよ、アイツ。知らない子と」
「……」
「女。しかも数人。女の方がやっぱいいって言われたら、俺、もうどうしようもねーじゃん、同じ土俵にすら乗れないじゃん。すんなりあきらめようにも、俺は、もう元に戻れないよ。満足できるわけないよ。アイツが教えたんじゃん。こんな俺が他の人を好きになれるわけがさ、好きになってもらえるわけない」
「……」
「も、俺に、どうしろっていうんだよ……っ」
 水希は急に子供みたいに声を上げ泣き始め、すがるように俺にしがみついた。まさに、堰が切れたようだった。
 こんな風に泣く水希を俺は初めて見た。
 きっと何か、まだ解かれていないことがあるに違いないのだが、今の水希をなだめ、ハルに直接聞くのは無理そうだ。
 よしよしと背中を叩いてやったせいか、水希はわんわん泣いた。
「ほんっと今日でっ、死んでやるつもりだったし!」
「はあ?!」
「その辺の変わったおっさんでもひっかけて、抱かれてっ、腹上死……っ!」
「何言ってんだお前!」
 泣き方だけじゃなく、言っていることもガキみたいだ。「んなシャレでも笑えねえこと言うんじゃねえよ!」と叱ってはみたが、「シャレじゃ言わねえよ!」と怒鳴り返されてしまった。
 本気、だったらしい。笑えねえ。
 じゃあもし俺があのタイミングで電話をしなければ、いとまをもらえなければ、こいつはどこのだれかもわからない人間と性交に及び、果てには性交死なんて笑えねえ死に方をして、ニュースペーパーを飾る気だったというのか。
 冷や汗が背中に浮かぶ。
 と言うよりもなぜ死因が性交なんだよ。そんな考えに至るぐらい、こいつ、冷静じゃないというのか。
「……なあ、お願いだって、俺が全部するから」
 ぐい、と肩を押され、水希から離される。俺は混乱していたため、はっとしたころにはまたも水希に押し倒されていた。
 未だにぼろぼろと涙をこぼしながら水希は俺に向かってほほ笑む。
「なあ、俺のこと、殺してよ」顔に似合わないセリフをはきながら。
 何を言っても水希は聞かないんだと、その時になって察した。
 多分、もうこいつ、ダメだ。
 耐えて、耐えて、耐えて、ボロボロになった心が軋んでいる音がする。
 俺が言葉を間違えば、拒んでしまえば、きっと、本当に壊れてしまう。
「……後悔しねえんだな」
 ああ、とかすかに水希の唇が揺れる。
 それを合図に、ゆっくり上体を起こし、俺が水希を組み敷いた。


 腹上死、とまではいかなかったが、行為の最後、水希は気を失った。
 さすがに急にぶっ倒れられて、本当に死んだのかと全身の毛が逆立った気分になったが、反して穏やかな寝息をたてる彼に、口と鼻とを、本気で塞いでやろうかと思ったぐらいだ。
 本当、心配させやがって。
 気を失ったのはもともと精神的に参っていたこともあるのだろうが、泣き疲れたからだろう。
 水希は情事の際、気を失うまでずっと、ずっと泣いていた。
 駄々をこねるガキみたいに声をあげて泣いていたわけじゃなく、快感に溺れて甲高い声を伴ったわけでもなく、静かに、キュッと口を結んで、ぽろぽろ、ぽろぽろ、透明な涙を、ひたすらこぼしていた。
 俺に抱かれても、水希は後悔しないといった。だから俺も、この行為が間違っていたんじゃないか、なんて振り返ってはいけないのだろう。
 こんなことをするためのホテルじゃないんだけどなあと苦笑いしたくなりながらも、シャワーを浴び、眠ってしまった水希の体もある程度きれいにしてやって、汚れた寝具もできる限りで片づけた。
 手のかかる子供を持ったような気分だ。
 カバンから携帯電話を取り出し、電話帳からそいつを選ぶ。
 1コール、2コール、3コールと続く。それが何十回になってくれようが、彼が出るまで切る気はない。
 そんな俺の執念が電波を通じて伝わったのかは知らないが、10回目のコールあたりで、電話の持ち主は応答した。
 もしもし、と不機嫌そうな声の主は、水泳の指導を受けた後の休憩時間なのか。いや、もしかすると、昼寝でもしてたのかもしれない。
「よお、ハル。俺、抱いたぜ」
 誰をとは言わなかった。それで伝わると思ったから、あえて伝えなかったわけじゃない。多分俺は、ハルを試してやりたかったのだ。
 水希が言うとおり、本当にハルが水希に飽きているのなら、きっとハルは誰をだ、と、電話越しに不機嫌に言うに違いない。
 それか、何も答えずに電話を切る。
 しかし返ってきたのは何もかもを失ったような沈黙で、相手方の頭が真っ白になっているというのが明確なものだった。
 ほらな、水希。お前らやっぱり、ちゃんとぶつかり合うべきなんじゃねえの。
 案外可愛い声してなくんだなとか、腰が細せえとか、縋ってくる顔がとか、煽るようにツラツラ並べて、最後にホテルの場所を言って、あ、早く来ねえともう一回ヤるかもな、とかわざとらしく付け加えて、電話を切った。
「ほんっとお前らって手ェかかんだよなあ……」
 ベッドの方に近寄って、寝てる水希の頬をつまむ。
 やや眉間にしわが寄ったが、相当眠りが深いのか、起きる様子はない。
 ふいに電話越しでも感じるあの、人を殺さんばかりの憤りを思い出して、両腕をさする。
 ありゃぜってえ一発は殴られる。
 明日水希に飯をおごらせるぐらいじゃあ足りそうにない。本当、傍迷惑なやつらだ。