テレビからの取材が来るぐらい有名になると、自然と友好関係についても見張られるようになる。
 芸能人がいい例で、オフの日なんかにちょっと異性にあったぐらいで、あることないこと、でっちあげだ。
 競泳を真剣にやっていくうえで、それは俺も例外でないのかもしれないと、不安を感じるようになったのは、大学になって3ヶ月と経たない頃からだった。
 もし俺がそれなりに人からの注目を浴びる選手になったとき、他社に差をつけるためにどこにも負けない大報道をしたいマスメディアが、うっかり水希の存在を知ってしまったとしよう。
 幼少期からの付き合いで、ルームシェアをしている幼馴染とかなら、まだいい。けれど面白おかしく、あるいは人々の気を引くため、他社を圧倒するために、水希を俺の恋人だと報じてしまったら。
 それは事実だが、俺はそれらを否認し続けなければならない。彼らがやっとそうですか、と項垂れながら手を引いてくれるまで、ずっと、ずっと、違うんだと、拡声器を使って、あるいはマイクのケーブルをアンプにさし、ゲインを最大限まで引き上げて、声を張らなければならなくなる。
 そうしなければ自分の選手生命はもちろん、水希のことも守れない。
 同性愛者があまり一般に認められていないこの土地で、俺たちは付き合っています、愛し合っています、こいつが俺の大切なやつです、なんて、声を張り上げて公言するのはあまりにリスクが高すぎる。
 しかしそうすることで、俺が水希との関係を否定することで、水希を傷つけてしまったら。
 それでは声を張る意味なんてない。
 きっとあいつはしょうがないことだと笑うに違いないが、俺が水希との関係を否定する最中に、どこか陰で、こっそりと苦しさに喘ぐんだろう。
 それに加えてしつこくマスメディアにカメラやボイスレコーダーを片手に追いかけられるのを想像したら、今にも吐き出してしまいそうだった。
 そんなもの、水希に背負わせたくなかった。
 もちろんどれも俺の想像で、将来絶対にそうなるというわけじゃない。しかしそれを裏返せば、絶対にそうなるわけじゃないが、そうならないと、限られることもないのだ。
 つまり俺は、いつか来るかもしれない最悪の事態に、対応できる何かを備えなければいけないのだと、躍起になった。
 何が何でも、アイツには笑ってほしかったんだ。
 そう関係のない女と関係を持ったのは、そんなストレスからだった。
 この落ち着かない感情のまま水希に手を出せば、ひどい抱き方をしてしまいそうで、それこそ冷静でいられる気がしなかったから触らないようにしていたこともあって、溜まっていたといえば、溜まっていた。
 最近女子大生の間で流行っているとかいう香水の香りなんか水希の首筋の甘い匂いとは比にもならないぐらいどうでもいいもので、むしろ不快感を覚えたし、誘うような甘い声なんか、ひび割れたラジオの音声みたいだった。
 まるで月とすっぽん。
 こんな感情を持ってしまう人間を相手にしたって、何か満たされる気はしなかったが、俺はどこかはけ口が欲しかった。
 不安な感情を押し流せる、排水溝のようなもの。
 軽率に、そちらへ流れてしまったのだ。
 女を抱いた後は得体のしれない不快感で2,3度洗面所でえずいた。
 その瞬間に水希の姿が脳裏でちらつき、表しようのない罪悪感で押し潰されそうだった。
 もちろん女を抱いている最中だって、気分が良かったわけじゃない。
 けれど一瞬、ほんの一瞬だけ不安から解放される瞬間があって、まるで麻薬のようなそれに、俺は依存した。
 気付いた時にはセフレのような存在が増えていて、セックスなんて正直、俺の苛立つをぶつけるという意味では、ある種の暴力のようになっていた。そして自分の傷をえぐっていくだけの、自虐行為だった。
 変わらないアイツの笑顔だけが、唯一、救いだった。水希は比較的俺よりも早く帰ってくる日が多いので、勉強がてらに、と夕飯を作る日が多い。
 家のドアを開ければ食欲をそそる香りが鼻をくすぐって、「よう、おかえり」とか、エプロンをつけたままで、ニコリと笑う水希がいるだけで、何となく、脱力した。
 それがなかったのは、水希が大学の親睦会に行く、といった日だった。
 俺が苛立ちのはけ口として始めた行為は思いのほか面倒に及んでおり、その日はしつこい女の相手をすることになってしまった。
 今日は気分じゃない、と拒んでも猫なで声を出す女にこちらが面倒になり折れて、ホテルで午前2時あたりまで過ごし、そのあとは適当に、別れた。
 気分は最低だった。
 すぐに家に帰る気にはなれなくて、ぶらぶら街を歩いたので、結局家についたのは、午前4時ぐらいだった。
 こんな時間にインターフォンを鳴らして水希を起こしてしまうとこちらが忍びないので、カギを使って中に入ると、思いのほか、部屋は静かだった。
 人が、眠っている気配もしなかった。
 部屋中見回っても彼はいないので、なんだか嫌な予感がして寝室に飛び込んだが、やはり同居人の姿はない。
 慌てて室内の電気をつけよくよくあたりを確認しても、いないものはいないのだ。
 焦る俺が唯一見つけられたのは、本来あるわけがないところに落ちていた、携帯電話。
 なんで……。
 ごみ箱に捨てられた携帯電話はあまりにも不自然だった。
 結局そのあと眠りにつけるはずがなく、何をどうやって過ごしていたかは知らないが、自宅について吐き戻して以来何も通していない腹が悲鳴を上げたので、適当に朝飯を並べて、イスに座っていたときだった。
 ガチャガチャとノブの回る音がして、ひょこりと、同居人が顔を見せた。
 帰りが遅くなったのは酔った先輩の介抱をしていたからだといい、携帯電話については勝手にサイドテーブルから落ちたんじゃないのかと水希は言った。
 帰ってこないんじゃないかと不安でいっぱいだったせいで、何ら変わりない水希に泣きそうだった。
 しばらく淡い緑を見つめて、静かに目線を落とし、素っ気ないような態度をとった。
 そうでもしないと、こいつの前で泣きそうだったのだ。


 凛からのしつこい着信に気づいたのは、練習を終え水着から着替え、一旦手洗い行って戻ってきてからだった。
 マナーモードにするのを忘れていたそいつは存外長いこと電子音を奏でていたらしく、「早く出ろよ、カノジョか?」なんて野次を飛ばされるほどだ。
 更衣室を出て電話に出た途端、鼓膜を揺らしたのはわけのわからない、凛のセリフだった。
 オーストラリアにいって、また頭がとち狂ったのかと皮肉ってやろうとすれば、できたのかもしれない。
 しかし一拍の間をおいて凛の言葉を噛み砕いた俺は、頭が真っ白になったのだ。
 凛がわざわざ女なりなんなり、自分が誰かと体の関係を持ったことを、無関係の俺に告げる必要があるんだろうか。答えは否だ。そんなもの凛がわざわざ伝えるはずがないと思ったし、俺もお断りだ。
 なのに凛は電話をかけた。その報告のために、しかも、俺が電話に出るまで、しつこくコールを続けて。
 ――水希?
 こちらに背を向けていた水希がパッと振り返ったのを、目じゃない何かが見た。
 まさか、と身の毛がよだつのを感じた。それは紛れもない恐怖からだったが、それよりも何よりも、憤りからでもあった。
 フツフツとわき上がる負の感情を電話口の相手は知ってか知らずか、可愛い声で鳴くだの腰が細いだの、縋る顔がだのツラツラ並べ、途中でどうでもいいことのように現在地をつぶやくと、しまいには早く来ないともう一回抱く、なんてことをのたまって電話を切った。
 ――抱いたぜ。
 通話が切れるよりも前に携帯はカバンにぞんざいに入れ、俺は走りだしていた。


 告げられたホテルまで走った後は、勢いのままエレベーターに乗り、彼が言った回数を殴るように押して、はやくはやくと歯を噛んだ。
 エレベーターが動き出す不快感なんて気にならないほどに頭の中は一つのことでいっぱいだった。
 指定された回数までたどり着き廊下を見渡すと、わざとらしくストッパーでドアを隙間程度にあけている部屋を見つける。
 出迎える気なんてないから、自分で入って来いよと言われているようで苛立ちは募った。
 ドアを勢いよく開き中に入る。
 少し進めばすぐに見えたベッドでは、俺に電話をよこした人間が腰掛けており、そこにはさらに、シーツにくるまって眠る大事な人間の姿もあった。
 故意ではないが、ストッパーは足で蹴飛ばしたため、ドアはガチャリと音を立てて鍵を閉めた。
 その音以来、ただ居心地の悪い沈黙だけがこの部屋を支配する。
 胸には吐き気がこみ上げていて、それでも誘われるように彼らの元へと足は動く。
「……早かったな」
 俺を見るなり、凛は苦笑いがちに言った。
 それを俺はまるで他人事のように眺めて、ベッドで眠る水希に目線を落とす。
 きっと凛のものであろうシャツを着ている彼の目元は、涙痕が残っていた。
 それを見た途端、ここに来るまでに感じていた凛への憤りなんて、どこかに消えさってしまった。
 凛が水希を抱いたというのが程度の過ぎた嘘なんかじゃなかったと視覚的にも理解してしまい、なんとも言えないやるせなさがいっぺんに、波のように押し寄せてきたのだ。
「……なんで」
 なんで、水希を抱いたんだよ。なんで、こいつに手を出したんだよ。なんで。なんで。
 冷静になれない頭が、子供みたいになんで、どうして、と繰り返す。
 凛、知ってるだろ? 水希は俺の大切な人だよ、なあ、知ってるだろ。なのになんでだよ、こんな仕打ち、あんまりじゃないか。
「こいつ、知ってたぜ」
 ボロボロとこぼれ落ちる涙をそのままにして、ゆらりと凛を見る。
 彼は後ろめたいことがあるからか、あるいは俺が泣いているのを見ないようにしているのか、こちらを見てはいない。
 もし後者だというのなら、そんな変なところで気を遣うぐらいなら、こいつに手を出さないでほしかったと、心から虚しさが湧き上がる。
「……何を」
「お前の浮気」
 すぐには理解ができなかった。どちらかというと、理解することを拒んだのかもしれない。
「『俺のこと抱いて』って、水希から言ってきた。お前に飼い馴らされた体じゃもう普通には戻れないからって、腹上死させろとか、なんとか。ヤケになってたぜ」
 だから抱いた。凛ははっきりとした声で言うと、おもむろに目線を寄越した。
「『凛に抱かれても後悔しない』って言ったくせに、ずっと泣いてたぜ。……で、どっちが先だ? 俺を殴んのと、水希と、話をすんの」
 返答するまでに、しばらく時間がかかった。
「……水希と、話をする」
「そりゃそうだ」
 凛はカラカラと笑うとベッドから立ち上がり、財布と携帯とをポケットに突っ込んで、「ルームキー取るから電源は使えなくなるからな」と一言告げ、俺が頷いたのを見るとゆっくり、ドアの方へと歩いていった。
「お前らだと一歩間違えば殺し合いになっててもおかしくねぇし、1時間ぐれーで戻るけど、そんだけあれば足りるよな?」
「……ああ」
 そもそも現在のこの部屋の主は凛だ。
 それなのに彼が気を遣ってこの部屋を出なければいけないのも、戻ってくる時間の確認と許可を取らなければならないのも、おかしな話ではある。
 凛はそれ以上は何も言わなかった。
 ガチャッと自動的にカギの下ろされた音が凛の外出を告げる。
 ルームキーが抜かれた部屋は真っ暗とまでは言わないが、ランプは一つも灯っていないので、陰気くさく感じられた。
 すっかりと静かになってしまった部屋では、俺の呼吸音と水希のかすかな息の音とが混じり合って、やけにうるさく聞こえてしまう。
 緊張はしていた。
 けれど躊躇はなかった。
 ベッドまで歩いて、目線を合わせるためにかがむ。「水希」名前を呼びながら肩を揺するが、あいにく彼は眠りが深い人間なのでなかなか起きようとしない。
 そう、そうだな、お前は眠りが深いやつだったよな。
 そんなこと、わかりきったことなのに、どうしてかとても懐かしいことのように思えて、またも涙腺が緩む。
「、」
 泣かないように目を伏せると、ふいに水希の体がピクリと動いた。
 ああもう、お前、なんでこういうタイミングで起きるんだ。
「……遙……?」
 声をあげて泣いた後なのだろうか。
 水希の声は寝起きのそれとは違った掠れ方をしていた。
「どうして、いんの」水希が泣きそうな声で言う。
 きっとこのまま俯いていれば要らない亀裂を走らせてしまうのだろう。それは勘弁願いたいから、ゆっくりと視線をあげ、淡い緑を捉える。
 淡い緑は驚いたように見開かれた。
「なんで……おまえ、泣いてんの……?」
 いつものやり取りであれば、泣いてない、目がおかしいんじゃないかなんて皮肉を言ってやれたのだ。
 けれど今回ばかりはそれができず、しかも水希に泣いているのを指摘されたのが何か糸を切ったのか、ガマンしていた涙は止まる所を知らないもののようにこぼれ始めた。
 水希はいよいよ慌てたようで、勢いよく上体を起こすが、ぐっと痛みに耐えるような顔と、小さな呻き声をあげて、また、ベッドに沈んだ。
 おい凛、お前、いいこと言っといて、結構がっついたんじゃないのか。
 そんなことを頭の隅で思いながら、水希に手を伸ばす。
「そのままでいい、聞いてくれるか?」
「…………」
 片手では目を拭って、もう片手で水希の額を撫でながら言うと、
彼はすでに傷ついたのか、くしゃりとゆがんだ顔をした。「別れ話とかじゃない」気休めにしかならないだろうがそう告げる。
 水希は静かに目を閉じ、次第次第に瞼を持ち上げ、頷いた。
「確かに、俺は水希じゃないやつと寝た。けど、それはお前に飽きたからとかじゃない」
「そんな都合のいい話を信じろってわけ」
「……」
「……うそ。続けろよ」
 果たして本当に冗談だったのかは定かでない。
「不安だった。いつか水希を傷つけることになるんじゃないかって、俺じゃお前を守れない気がして、ただ、怖かった」
 始まりは些細な不安、それをより深めていったのは、きっと、俺の弱さだ。
 それから水希には、何一つ隠さず話した。マスメディア云々、女との関係云々。
 うまく言葉にできた気はしないが、ぽつぽつと、まるで降り出した雨のように不定期な間隔で紡ぎ、できる限り素直に、嘘偽りなく伝えようと試みた。
 その間水希は何か茶々をいれるわけでも、顔を顰めるわけでもなく、ただ黙って俺の話に耳を傾けていた。
 ときたま、特に女を抱いた話になると、水希は目を閉じることもあったがそれ以外は薄緑を揺らすことなく無表情でいた。
「つまりおまえはさ、その不安を解消するために、他のやつを抱いたんだよな」
 粗方話終え、口を噤んだ所、水希は俺の発言をある程度かいつまんだ。
 あまりに簡潔すぎないかとも思ったが、間違いはない。だから頷くと、水希は疲れにも似た息をついて、今度は時間をかけて上体を起こし、
 パン
 乾いた音がこの静寂を切り裂いた。
 水希が振り上げた手のひらはこちらに甲を向ける形で宙にとどまっており、それを唖然と眺めている間も無く、コンマ秒ほど遅れて痛みを受け取った頬がじくりじくりと痛み始めた。
「傑作だな。最高だよ、おまえ」
 ひりひり、じくじく。水希にぶたれた頬がどんどんと熱を孕んでいく。
 驚きで涙なんか引っ込んでいた。
「前提が間違ってるんだよ。いつから俺はおまえに常時守られる、か弱いお姫様になったんだ? 見当違いも甚だしい。俺はすぐに折れてやるほどヤワじゃない」
「…………」
「今までどんだけ俺が暴言吐いたと思ってんの? どれだけケンカしてきたと思ってる? 周りに批判されておまえを嫌いになるような、おまえとの関係を後ろめたくなるような、傷ついて泣くようなやつだと、おまえは俺をそんなやつだと、思ってくれたわけかよ」
 じんわり、痛みは、熱は、広がり始める。
「返せよ。俺がおまえに嫌われたんじゃないかって不安になってた分の、ムダな時間。返せよ」
 返せよ、もう一度繰り返したあと水希はパタリと黙った。
 何を言えばいいのか、何も言えずに水希の目を見つめた時間がどれほどあったのかわからない。
 何の足しにもならないのに「ごめん」と、口から謝罪がこぼれそうになったその途端、「あー」と呻き声をあげながら、水希が再びシーツに沈んだ。
「――なんてな」
 天井をぼうっと見つめていた水希は徐々に手で目を覆い、薄い唇を一度噛み、意を決したように震わせた。
「遙が全部教えてくれたのに、俺が黙ってるのはフェアじゃないよな」
「? ……」
「なあ、あれ。先輩の介抱してて遅くなったっていうの。ウソだ」
「え」
「うっかりおまえと知らない女がキスしてるのみて、わけわかんなくて、その辺ブラブラしてた。あと、携帯電話も、落ちたんじゃなくて、俺が捨てた」
「?!」
 思わぬ告白に目を瞠る。あのとき、水希がウソをついているなんてわからなかった。
 いつもなら。
 そう、いつもなら、きっとわかったであろうウソに、気づけなかった。
「俺は何よりもさ、おまえが……遙がなにも言わずに離れていくことが、一番怖いよ」
「……」
「誰かに軽蔑されるとか、おまえが声を張って俺との関係を否定するとか。そんなものはなんだっていいんだよ。だって、それでもおまえと一緒なんだろ。なら、いいじゃん、それで、いいじゃん」
 ぐす、と鼻を鳴らす音がした。はっとしたときには水希の唇はきゅっと真一文字に結ばれており、目を覆う手の少し下では、先ほどは見られなかった水滴が窓から差し込むネオンに反射した。
 部屋は薄暗い。しかし目を凝らすほどでもない。
「一番怖いよ。おまえが、なにも言わずにいなくなるのが、一番」
「……」
「……頬、ごめんな」
 結構本気ではたいた。ぽつりとつぶやく水希。
 俺はそれに、ああ、なんて曖昧な返事しかできなかった。
「……水希」
「……うん」
「俺はお前が好きだ」
「…………うん」
「……お前は」
「好きだよ」
 すん。鼻を鳴らす。
「遙が好き」
 手を退かしたおかげで見えた薄緑は涙でうるうると揺れていた。それを細めて、水希がヘタクソな笑みをつくる。
 それが、たまらなく愛しく思えた。きゅうと胸が締め付けられ、苦しくなった。
「もう、ほんっと、バカみたいだ。……最初からちゃんと話しとけばよかった。おまえが悩んでるのも、話してくれればさ……」
「……そうだな」
「おまえのことぶん殴ってやるつもりだったのに、なんかもうどうでもいいや」
「……殴っただろ」
「あれは平手打ちだし、ノーカン」
 どういう基準なんだ、あれはビンタといえど、本気で殴ってきただろ。ジト目で水希を睨みつける。
 水希も負けじとこちらを睨み――どちらともなく、ぷっとふき出し、笑い出した。
「……おまえさ、ちゃんと切るよな」
「当たり前だろ」
「はは、で、どうだった。女とのヤるの」
「最悪」
「男としてどうなんだよ」
「しょうがないだろ。俺は水希が一番なんだから」
 らしくもなくニコリと笑いながら言ってやると、水希はきょとんとしたが、すぐに羞恥しているのを隠すように首を横に倒した。
 口がへの字に曲がってるのなんか、バレバレだっていうのに。
「お前はどうだったんだ? 腹上死」
「死んでない」
「ああ。それで?」
 話を逸らそうとしたが失敗したせいか、水希はしばらく黙った。
 その沈黙の意味するものがなんなのか手に取るようにわかってしまい、真っ先に思うのは、そこはウソでも、だ。
 そして苛立ちと不安が、半々ずつ。
「よかったのか」
「…………元はと言えば、遙のせいだろ」
「は?」
「俺をこんなんにしたの、おまえなんだからな」
「……?」
「そりゃ、よ、よかった、けど……っ」
「おい」
 ギロリと水希を睨み、ベッドに乗り上げ彼に跨る。
「待て待て! 最後まで聞け!」と水希は相当焦った様子で俺の額を押し、それ以上の接近を防ごうとしてくる。
「聞くことなんかない」
「はあ?! 俺はおまえの話を最後まで聞いてやったじゃん!」
「それはそれ、これはこれ、だ」
「ちょっ、おい、遙っ、……ああもう!」
 しつこく抵抗する腕を掴んで捻りあげる。
 痛みから水希が小さく悲鳴を上げた。しかしすぐさまキッと俺をねめる。
「遙のが一番気持ちいい!!」
「?!」
「遙とすんのが、一番……っ!」
 手をひねり上げていた力は徐々に抜けていった。
「……言わせんなよ、ばか……」
 俺が離したおかげで自由になった手で水希は再び顔を覆い、弱々しく言った。
 彼の言葉を反芻して、反芻して。
 そんな言葉じゃ許せないぐらい腸が煮えくりかえっていたはずなのに、ついにやけてしまうこの口元を隠すのが精一杯で。
「悪い」と口からすんなり謝罪はでたが、どこか震えがちで、笑いを含んでるのはバレバレだった。
「思ってないくせに」と、鋭く指摘される。
「悪かった」
 覆いかぶさった体勢のまま、ぎゅと水希を抱きしめて、肩に顔をうずめる。すんと鼻をくすぐる甘い匂いはひどく久しぶりに感じられた。
 そう待たないうちに、はあ、とため息をついたのは、水希の方だ。
「……凛に、飯でも奢らないとな」
 戸惑いがちに背中に手を回される。
 確かに一番迷惑を被ったのも、手助けしてくれたのも、凛だ。
「水希が作ってやればいいんじゃないか」
「俺? 遙ほどうまくないのに?」
「謙遜するな」
「……そう言うんなら、作ってみようかな」
「……そこは『俺の手料理は遙にしか振る舞わない』とか言え」
「どっちだよ。めんどくさいな」
 くつくつと喉を鳴らして水希が笑う。
 そのたびに上下する胸では、優しい心音が響いている。
 おもむろに体を起こして水希の顔を見つめると、彼は最初こそ笑みを引っ込め不思議そうにしたが、やんわり目を細め、瞼を下ろした。
 水希の唇に触れるまで、部屋の扉が開くまで、あと、ちょっと。


「ハル、お前、リードはしっかりと繋いどいたほうがいいぜ」
 凛もオーストラリアからこちらにきたばかりであちこち回る体力はもうないとのことなので、結局どこかに食べに行くことはなく、将来パティシエ志望の同居人が夕飯をつくることで落ち着いた。
 体力が削られたのがはたして帰国だけのせいなのかといえば違うのだろうが、俺はあえて知らぬふりをした。
 水希に手伝おうかと聞いたけれど、首を2度3度横に振られた。
 曰く、「遙にも迷惑かけたから、そのお詫びにも俺だけで作りたい」だとか。
 俺は迷惑を被った覚えなんかないのだけれど、言っても聞かない様子だったし、水希の手料理をゆっくり味わうのは、ここ最近切羽詰まっていたためできていなかったので、まあそれならと、俺は大人しく頷いた。
 そんな最中だ。凛が冒頭のセリフを言ったのは。
 エプロン姿で出汁の味見やらをする水希をぼんやり眺めているときに言われたので、「はあ?」と間抜けな声が出てしまったが、なにも、聞いていなかったわけではない。
「リードって、何のだ?」
 うちは犬も猫も飼ってないぞ。
 そう付け加えると、凛はぽかんと目を丸くし、一層疲れたような顔になって、深い深いため息をついた。
「んなのわかってる」
「じゃあ、何のリードだ?」
「あいつだ」
 ちょいちょい、とプリン(水希が買っていたものだ。出来上がるまで少しかかるから、と凛に渡していた)を食べるために使っていたスプーンで、凛は台所に立つ男を指す。
 とんとん、とんとん。まな板に包丁の当たる音は心地よく響く。
「……水希? 水希がどうしたんだ?」
「……お前、そんなに鈍かったかよ……?」
 呆れで目を細められ、ムッとする。
 彼に自分が蔑まれているのはよくわかった。なぜだか知らない。とにかくバカにされている。
 口を曲げて彼をみていたのだが、そんな俺を気にも留めずに凛は続ける。
「しっかり繋いでおかねえと、変なのに引っかかったら即アウトだぜ」
 凛はつんつんとスプーンで数回プリンの表面をつつき、そのきつね色に鉛色を滑り込ませた。
 とんとん、とんとん。たまに水を流す音が挟まれて、また、まな板を叩く音。
「もともと俺が電話しなきゃ、その辺のやつにお世話になって、腹上死するつもりだったとか言ってたしな」
「……は?」
「まあ、本題はそこじゃねえんだけど」
 凛はしれっとしているが、とんだ爆弾発言だ。
 何気無い顔で料理をしているかの同居人には、原因は俺が作ったといえど、まだまだ話してやらないといけないことがあるらしい。
「日ごろすっげえ性格悪いのに、最中だけは甘えたになるのは、質悪ィと俺は思うぜ」
「…………」
「大学でどういう友好関係を築いてんのか知らねえし、そんなやつがそういるとも思えねえけど、気をつけるのに越したことはねえだろ」
 それだけいうと、凛は残りのプリンを一口で食べてしまった。
 つまり、虫除けとやらは、きちんとしておけと。
 今に至るまで、水希の色恋沙汰を耳にしたことはない。
 それは単に俺があまり友好関係を積極的に築いていかなかったからかもしれないが、何より水希は普段から人を寄せ付けないような雰囲気を醸し出していたので、“そういう心配”をわざわざする必要はなかったのだ。
 しかし水希ももう二十歳近い。
 性格が幾分丸くなっていて、まあ未だツンツンしているが、前よりかはマシになっているような気はする。
 ……改めて人に言われると、確かに少し、不安になる。
 凛の喉がごくりと動くのまでを見送って、「そういえば」と話を切り出す。
「お前、水希が案外可愛く鳴くとか、腰が細いとか、縋る顔が云々言ってたな」
「全部覚えてんのかよ……怖ぇなお前」
「あれ、全部忘れろ」
「あ?」
「忘れろ」
 本当なら凛が水希を抱いたことに関して、全てに納得したわけじゃないので殴ってやりたいところなのだが、迂闊に手を出すと水希が怒るし、それにやはり、今回凛に非はない……あまり、ない。
 だから、せめてもだ。妥協に妥協を重ねた上での発言だ。
 凛は怪訝な顔つきでいたが、すぐに「ああ」と笑い、けれど俺に返事はせず、含みのある目の細め方をした。
「ごめん。遅くなった」
 不穏な空気が流れ始めたが、それを打ち切るように、両手に料理をのせたお盆を持って水希がやってくる。
 食欲をそそる見た目と匂いには思わず喉がなった。
 水希の手料理を見るのが初めてである凛は、予想以上の出来のよさからか、感心してため息をついた。
 それには思わず俺が得意げになる。
 驚いたか。水希のヤツ、俺よりヘタだって卑下してるけど、すごくうまいんだぞ。口にはしないけど。
 が、水希には「なんでおまえが得意そうになってんの」と小突かれた。
 なんでわかったんだ。
「悪ィな。水希」
「いや、べつに」
「飯もそうだけどよ。目的、果たせてねぇだろ」
 ことん。テーブルに当たった陶器の音がやけに響いた。「え?」水希が首を傾げる。
 それにはもう一つのお盆を受け取って料理を並べるのを手伝っていた俺も、視線を上げた。
「今度はさせてやるよ。腹上死」
 ゴン、と鈍い音を立てて、ついさっき置いたばかりのコップが倒れ、中の飲み物がテーブルに広がった。
 それを倒したのは凛でもなければ、俺でもない。
 ぽたぽたと、テーブルの端までたどり着いた水が床にこぼれる。
 その音で水希は我に返ったようだった。
「あ。わ、るい……台拭き取ってくる」
 動揺し切った水希が逃げるように背中を向け、台所へと駆け出す。
 凛は水希の一瞬だけ見えた赤い耳を見逃さなかったのか、クツクツ喉を鳴らした。
「……おい、凛」
「くく……悪ィ悪ィ」
 強く睨みつけても、素知らぬ顔。肩を揺らし、彼は笑う。
「おもしれぇんだよ。お前らからかうの」
「……馬に蹴られて死ね」
「辛辣だな」
 残念そうに肩を竦め、凛は言う。
 俺は疲れからいっぺんに息を吐き出し、きっと今頃は台所の物陰で顔を真っ赤にして蹲っているであろう水希を呼びに行くために席を立った。
 どうせ呼びに行かなきゃ戻ってこないに決まっている。
 せっかく一つ解決したかと思ったら思わぬところで面倒なものをひっかけてしまった。
 やはりこいつは一発殴っておくべきだったのかもしれない。いや、殴っておくべきだった。
「ま、そういうことだ。ちゃんとリードは繋いでおけよ」
 余計なお世話だと、振り返って言ってやるつもりだった。
 しかしなぜか、凛がこちらをみて、好戦的に笑っているのを見ると、既視感を覚えてなにも言えずじまいになってしまった。
 こんな感じで彼の赤い目が、挑発してきているのを、競泳以外のところでいつかみた気がするのだけれど、一体、いつだったのだろう。